本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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本日は予定通り訪城へ。
ところが久しぶりの出張り故、携行品の確認などでもたもたしているうちに早くも時刻は午前10時半。
出だしからこんなことでは、果たして白岡町まで辿り着けるのかどうかとの懸念が。
凸中山陣屋南東側の堀跡(川島町)11時35分~11時45分
手始めは9月はじめに訪れた川島町の中山陣屋東側の屋敷林沿いの用水路状の溝から。
近世以降の「構堀跡」か「畔堀」とも想定。
時代背景は不詳であるものの、気になる堀跡風の地形なので再訪した次第。
幅は広いところでは約2間、深さ1mくらい。
東側部分の延長距離は目測でおよそ80mほどかと判断。
部分的に湾曲しながら北側の用水路に接続し堀跡そのものは工場などを含む宅地を取り囲むように西方へと続いて消滅している模様。
「中山陣屋」「比企氏館」などに関連するものか、当地の屋敷の構堀なのかは何とも判断が付かず。
天気予報では朝から晴天のはずが、このときは分厚い雲に覆われて時々雨が落ちてくるという不安定な空模様。
近くの畑で保育園の子どもたちが、にぎやかな歓声を上げながらやや時期遅れの芋ほりの真っ最中。
自分との年齢差を考えると、明らかに孫の世代に相当...改めて己の加齢を痛感。
中山陣屋南東側の堀跡
2006/11/07 撮影
凸比企氏館(川島町)11時50分~12時05分
「左馬助殿」のサイトを拝見していたところ、北側の堀跡状の溝が未確認であったことに気づき再訪。
中央付近でやや屈曲しも規模は幅約1間、深さ0.8mから1.2mで総延長は70mほど。
比企氏の墓域を取り巻く様子にも見え、その時代背景がとても気にかかる次第。
改めて館跡の範囲を想定してみると、北側に所在する住宅地を含む不整形の多角形のようにも思えなくもないような。
金剛寺南側の細く湾曲した公道が堀跡だと仮定すると正泉寺の南側を抜けて上記の中山陣屋南東側の堀跡状の地形に接続していることとなり..と何時もの如く妄想は果てしなく広がっていくのでありました。
比企氏館
2006/11/07 撮影
このあと40分ほど蓮田市の郷土資料館にて、発掘調査報告書を購入するなどの情報収集。
蓮田市立郷土資料館との名称がありながらも、臨時職員の方を中心に熱心に運営努力されている模様。
正規職員での運営をするということの役割と意味を改めて再考。
凸閏戸吹上遺跡(蓮田市)13時50分から14時10分
以前の訪城にて、明らかに所在地を勘違いしていたことに気づき再訪。
東北新幹線の高架橋の西側が正解で以前のときは東側と勝手に目星をつけていたことが原因。
電話にて所在地を確認していたことと、「吹上橋」などという名称も所在し、老人介護施設も所在していたので..などと往生際の悪い言い訳を。
正しい所在地には、老人介護施設と風格のある門構えの旧家が所在。
しかし、発掘により中世の館跡と見られる堀跡が検出されている程度で地表上から判断できるような遺構は殆んど存在していない模様。
見沼代用水の土木事業や耕地の整理により、当時の地形は大きく改変されていることは疑いようの無い事実。
付近の沼地では平日にもかかわらず、のんびりと釣り糸をたれている人々が十数人ほど。
もっとも、当方も平日にもかかわらず、殆んど遺構のなさそうな無名の中世城館跡をうろついている暇人ではありますが。
閏戸吹上遺跡
2006/11/07 撮影
凸新屋敷(白岡町)14時25分から14時35分
「埼玉の中世城館跡」など白岡八幡神社の南西の公道沿いに所在する「八幡公園」が、該当地の模様なれども委細不明。
台地の先端部分に所在し南側の低地との比高差は最大3mから4mほど。東側に所在する「陣屋」(「白岡氏館」とも地理的に重複している可能性が)との関わりも不明。
時代背景や人物との繋がりも不明で、地元に残る伝承地名の一つと推定される程度で他のことは全く..(汗)
新屋敷
2006/11/07 撮影
凸陣屋(白岡町)14時55分~15時20分
「ふるさと白岡」(1984/白岡町)では鬼久保氏の系統である「白岡氏館」を継承して近世陣屋として普請し直したとの説を掲載。
所在地自体が重複していることと「陣屋」と呼ばれている場所が、丘陵地帯のほぼ中央部分に位置していることなどから、現在の地形から考慮してもその説に従うのが妥当なような印象も少なからず。
丘陵地帯は特に水路が所在する南側との比高差が最も大きく、目測では最大で約5mほど。
南側以外の三方は比較的緩やかな下り坂を形成している程度で多少注意しなければ、微高地であるということが判別しにくい地形。
陣屋址とされる一帯のやや西側に所在する旧家の一本の大欅が目印で周辺のどこからでも目立つ存在。
また白岡八幡宮の参道南側の平地林の地形の一部も気になるところ。
しかし、日没までの時間も無いので次なる目標へ移動。
陣屋(白岡氏館か)
2006/11/07 撮影
凸南鬼窪氏館(白岡町)15時30分~15時45分
鬼窪八幡の祠を南限とした市街地一帯で現在は病院やマンションが立ち並ぶ殺風景な景色。
古い鬼窪八幡の写真が掲載されている「白岡町史」からは屋敷林などの光景が広がっていることを期待していたものの、その西側は宅地開発の分譲中、東側はアスファルトの駐車場に変貌。
わずかに残されたご神木と思われる1本の銀杏の木と小祠だけが当時の様子を伝えているという侘しさ。
南鬼窪氏館
2006/11/07 撮影
こうしているうちに次第に日没も迫り帰路に着き愛車に戻ると、何やら懐かしい奇妙な異臭が社中に充満..
事の真相は白岡八幡神社のギンナンが、折からの強風にあおられてパラパラと落下。
ギンナンを踏みしめつつ、その参道を4往復もうろついていたので至極当たり前の話(笑)
なお、桶川方面に戻る途中にて、途中蓮田市の以前からとても気になっていた高虫地区の氷川神社付近の平地林脇に所在する「委細不明の堀跡状地形」を吹きすさぶ北風にめげず探索開始。(16時50分~17時00分)
夕方5時前という日没寸前の時刻のため、概ね地形の確認自体はできたもののデジカメの方は全く訳の分からない仕儀と相成候似而、以他日可再訪致所存御座候(都合が悪くなると、こうした表現で誤魔化すのであります)
高虫の堀跡
2006/11/07 撮影
さらにその後、荒川の堤防上から夕闇迫る富士山のシルエットを撮影するも、余りの強風のため体90キロ近い体もふらつく始末
このため、町の灯りがナメクジのようにのたうつ「心霊写真」のような画像が完成(笑)
富士山のシルエット
2006/11/07 撮影
ところが久しぶりの出張り故、携行品の確認などでもたもたしているうちに早くも時刻は午前10時半。
出だしからこんなことでは、果たして白岡町まで辿り着けるのかどうかとの懸念が。
凸中山陣屋南東側の堀跡(川島町)11時35分~11時45分
手始めは9月はじめに訪れた川島町の中山陣屋東側の屋敷林沿いの用水路状の溝から。
近世以降の「構堀跡」か「畔堀」とも想定。
時代背景は不詳であるものの、気になる堀跡風の地形なので再訪した次第。
幅は広いところでは約2間、深さ1mくらい。
東側部分の延長距離は目測でおよそ80mほどかと判断。
部分的に湾曲しながら北側の用水路に接続し堀跡そのものは工場などを含む宅地を取り囲むように西方へと続いて消滅している模様。
「中山陣屋」「比企氏館」などに関連するものか、当地の屋敷の構堀なのかは何とも判断が付かず。
天気予報では朝から晴天のはずが、このときは分厚い雲に覆われて時々雨が落ちてくるという不安定な空模様。
近くの畑で保育園の子どもたちが、にぎやかな歓声を上げながらやや時期遅れの芋ほりの真っ最中。
自分との年齢差を考えると、明らかに孫の世代に相当...改めて己の加齢を痛感。
中山陣屋南東側の堀跡
2006/11/07 撮影
凸比企氏館(川島町)11時50分~12時05分
「左馬助殿」のサイトを拝見していたところ、北側の堀跡状の溝が未確認であったことに気づき再訪。
中央付近でやや屈曲しも規模は幅約1間、深さ0.8mから1.2mで総延長は70mほど。
比企氏の墓域を取り巻く様子にも見え、その時代背景がとても気にかかる次第。
改めて館跡の範囲を想定してみると、北側に所在する住宅地を含む不整形の多角形のようにも思えなくもないような。
金剛寺南側の細く湾曲した公道が堀跡だと仮定すると正泉寺の南側を抜けて上記の中山陣屋南東側の堀跡状の地形に接続していることとなり..と何時もの如く妄想は果てしなく広がっていくのでありました。
比企氏館
2006/11/07 撮影
このあと40分ほど蓮田市の郷土資料館にて、発掘調査報告書を購入するなどの情報収集。
蓮田市立郷土資料館との名称がありながらも、臨時職員の方を中心に熱心に運営努力されている模様。
正規職員での運営をするということの役割と意味を改めて再考。
凸閏戸吹上遺跡(蓮田市)13時50分から14時10分
以前の訪城にて、明らかに所在地を勘違いしていたことに気づき再訪。
東北新幹線の高架橋の西側が正解で以前のときは東側と勝手に目星をつけていたことが原因。
電話にて所在地を確認していたことと、「吹上橋」などという名称も所在し、老人介護施設も所在していたので..などと往生際の悪い言い訳を。
正しい所在地には、老人介護施設と風格のある門構えの旧家が所在。
しかし、発掘により中世の館跡と見られる堀跡が検出されている程度で地表上から判断できるような遺構は殆んど存在していない模様。
見沼代用水の土木事業や耕地の整理により、当時の地形は大きく改変されていることは疑いようの無い事実。
付近の沼地では平日にもかかわらず、のんびりと釣り糸をたれている人々が十数人ほど。
もっとも、当方も平日にもかかわらず、殆んど遺構のなさそうな無名の中世城館跡をうろついている暇人ではありますが。
閏戸吹上遺跡
2006/11/07 撮影
凸新屋敷(白岡町)14時25分から14時35分
「埼玉の中世城館跡」など白岡八幡神社の南西の公道沿いに所在する「八幡公園」が、該当地の模様なれども委細不明。
台地の先端部分に所在し南側の低地との比高差は最大3mから4mほど。東側に所在する「陣屋」(「白岡氏館」とも地理的に重複している可能性が)との関わりも不明。
時代背景や人物との繋がりも不明で、地元に残る伝承地名の一つと推定される程度で他のことは全く..(汗)
新屋敷
2006/11/07 撮影
凸陣屋(白岡町)14時55分~15時20分
「ふるさと白岡」(1984/白岡町)では鬼久保氏の系統である「白岡氏館」を継承して近世陣屋として普請し直したとの説を掲載。
所在地自体が重複していることと「陣屋」と呼ばれている場所が、丘陵地帯のほぼ中央部分に位置していることなどから、現在の地形から考慮してもその説に従うのが妥当なような印象も少なからず。
丘陵地帯は特に水路が所在する南側との比高差が最も大きく、目測では最大で約5mほど。
南側以外の三方は比較的緩やかな下り坂を形成している程度で多少注意しなければ、微高地であるということが判別しにくい地形。
陣屋址とされる一帯のやや西側に所在する旧家の一本の大欅が目印で周辺のどこからでも目立つ存在。
また白岡八幡宮の参道南側の平地林の地形の一部も気になるところ。
しかし、日没までの時間も無いので次なる目標へ移動。
陣屋(白岡氏館か)
2006/11/07 撮影
凸南鬼窪氏館(白岡町)15時30分~15時45分
鬼窪八幡の祠を南限とした市街地一帯で現在は病院やマンションが立ち並ぶ殺風景な景色。
古い鬼窪八幡の写真が掲載されている「白岡町史」からは屋敷林などの光景が広がっていることを期待していたものの、その西側は宅地開発の分譲中、東側はアスファルトの駐車場に変貌。
わずかに残されたご神木と思われる1本の銀杏の木と小祠だけが当時の様子を伝えているという侘しさ。
南鬼窪氏館
2006/11/07 撮影
こうしているうちに次第に日没も迫り帰路に着き愛車に戻ると、何やら懐かしい奇妙な異臭が社中に充満..
事の真相は白岡八幡神社のギンナンが、折からの強風にあおられてパラパラと落下。
ギンナンを踏みしめつつ、その参道を4往復もうろついていたので至極当たり前の話(笑)
なお、桶川方面に戻る途中にて、途中蓮田市の以前からとても気になっていた高虫地区の氷川神社付近の平地林脇に所在する「委細不明の堀跡状地形」を吹きすさぶ北風にめげず探索開始。(16時50分~17時00分)
夕方5時前という日没寸前の時刻のため、概ね地形の確認自体はできたもののデジカメの方は全く訳の分からない仕儀と相成候似而、以他日可再訪致所存御座候(都合が悪くなると、こうした表現で誤魔化すのであります)
高虫の堀跡
2006/11/07 撮影
さらにその後、荒川の堤防上から夕闇迫る富士山のシルエットを撮影するも、余りの強風のため体90キロ近い体もふらつく始末
このため、町の灯りがナメクジのようにのたうつ「心霊写真」のような画像が完成(笑)
富士山のシルエット
2006/11/07 撮影
最近はツキノワグマの出没ニュースが全国各地で顕著に。
埼玉県内では飯能市や秩父市でも小学校の裏山など人家に近い場所でも目撃されているため警戒を呼びかけている。
しかし、今度はなんと寄居町藤田の宗像神社で体調40cmほどの小熊が発見されたとのニュースが。
動物園ならばいざ知らず、ペットで熊を飼っているというようなこともあるはずもなく。
あまりに幼いので射殺せずに捕獲の上、山へ返すとの方針の模様。
ニュースの画像を見る限り円らな瞳が愛くるしい印象。
しかし、山へ返すといっても何処の山へかえすのか、加えて母熊から離れて果たして一匹で自活できるものなのかなどと幾つかの疑問が。
場所は寄居町の荒川北岸の河岸段丘上とはいうものの、北東120mには寄居小学校のある完全な市街地の中。
荒川を越えてきたとすれば熊倉山方面から正丸峠越えでやってきたとも...
荒川左岸の山伝いからだとすれば、城峰山方面から円良田城、花園城経由でやってきたのかも...
小熊には必ず母親が付いているはずなので、母熊の姿が見えないところが余計に不気味。
どちらにしても、「秩父地方の山城縦断コース」に相当するので今年は余程の注意が必要と肝に銘じることに。
埼玉県内では飯能市や秩父市でも小学校の裏山など人家に近い場所でも目撃されているため警戒を呼びかけている。
しかし、今度はなんと寄居町藤田の宗像神社で体調40cmほどの小熊が発見されたとのニュースが。
動物園ならばいざ知らず、ペットで熊を飼っているというようなこともあるはずもなく。
あまりに幼いので射殺せずに捕獲の上、山へ返すとの方針の模様。
ニュースの画像を見る限り円らな瞳が愛くるしい印象。
しかし、山へ返すといっても何処の山へかえすのか、加えて母熊から離れて果たして一匹で自活できるものなのかなどと幾つかの疑問が。
場所は寄居町の荒川北岸の河岸段丘上とはいうものの、北東120mには寄居小学校のある完全な市街地の中。
荒川を越えてきたとすれば熊倉山方面から正丸峠越えでやってきたとも...
荒川左岸の山伝いからだとすれば、城峰山方面から円良田城、花園城経由でやってきたのかも...
小熊には必ず母親が付いているはずなので、母熊の姿が見えないところが余計に不気味。
どちらにしても、「秩父地方の山城縦断コース」に相当するので今年は余程の注意が必要と肝に銘じることに。
先月14日以来、久しぶりの訪城。
天気は、暑くも無く寒くも無く中世城館跡の散策には絶好の日和。
体調については顔面と左半身の痺れが強く、相変わらずの過呼吸症状。
然し概ね歩行自体そのものには支障が無さそうなので、川島町の再訪を手始めに白岡町へと彷徨。
凸上伊草堀ノ内(川島町)午前10時25分~11時10分
前回は事前調査不足のため、その推定所在地について本来の堀ノ内から南側約150m地点付近あたりだと完全に誤解。
その後、川島町関係の資料からその明らかな誤りに気づき再訪。
確かに旧家の趣を伝える長方形の屋敷の地形がそのまま残された1画が
現存。
現在国道254バイパス沿いに建設途上の大型ショッピングセンターの丁度後ろ側となる場所。
東西方向で約200m、南北方向で約100mから150mほどの規模。
東側の幅2間、深さ1mの用水路はその位置から堀跡の様相。
南側の用水路はコンクリートの蓋で暗渠となっているものの、こちらも同様に堀跡の可能性が。
北側と西側には堀跡の形跡を辿ることのできるような要素があまり見られず、わずかに西側の南端部分の低地にその名残が。
また、北側の道路から50mほど南側に幅1mほどのコンクリート製の用水路が現存するも堀跡との関係は不明。
上伊草堀ノ内の西側付近2006/10/13 撮影
前回訪れたときに水流のきれいな個所に鯉が放流され元気に回遊。
しかし館跡の東側の堀跡はさほどきれいな状態ではなく、透明度50センチほどの水質であるにも拘わらず、体調40センチから50センチの鯉が悠々と遊泳中。
そういえば牛舎からの排水の臭気が気になる深谷市の城館跡の澱んだ水路でも大層元気に跳ね回っていたことが脳裏に浮上。
凸道祖土氏館(川島町)午前11時20分~11時55分
白岡町方面に向かうにあたり目の前を通過することと、前回の訪城時に北側の堀跡の状況を十分に把握していないことなどもあり再訪。
先日まで長雨や大雨のあった関係で東側の堀跡の水量は特に豊富で、構堀としての規模の大きさを改めて実感。
北側の堀跡(用水路)はだいぶ狭く埋まりかけている印象ですが、少なくとも50m以上は続いていることを確認。
しかし、そこから先は雑草が蔓延り足元に不安等もあり自粛を。
なお、幅1.5m弱の用水路を渡る時に何とか飛び越えることに成功。
膝その他の足回りに弱点の多い小生としては、人気の全く無い雑草の生茂る水田跡で思わずガッツポーズ。
道祖土氏館東側の水堀
2006/10/13 撮影
凸南条氏陣屋(白岡町)午後13時~13時10分
大崎村から慶長12年(1611)に分村した新田で、大番を勤めた旗本南条氏の近世初期の陣屋址と推定されている個所。
現在は南彩農協の大山支店の倉庫・事務所などが所在しその面影は全く無し。
加えて農協の支店も閉鎖されている様子で侘びしさがつのる光景。
隣の商店の自動販売機に挟まれて全く目立たず、空き缶置き場としか見えない郵便ポストの風景も郵政事業の将来を暗示するような印象。
町立大山小学校の校門前の橋の名称に「陣屋前橋」と記されていたので取り敢えず記念撮影。
小学校の敷地内に併設されている町立民俗資料館は休館日のため入館できず。
南条氏陣屋
2006/10/13 撮影
凸北鬼窪氏館(白岡町)午後13時20分から13時50分
「白岡町史」などによれば、篠津の久伊豆神社(浅間神社)が北鬼窪氏の館跡の候補地の一つと想定されているとのこと。
本殿の向かって左側には高さ3mほどの浅間塚が築かれ浅間神社が鎮座。
明治末期の合祀を反映してか諏訪神社などの摂社、末社が10社ほど所在。
以降らしきものは、強いていえば本殿の右奥に土塁にも見えなくも無いような高さ約1mから1.2m、長さにして20mほどの盛り土が所在。
杉木の根の状態から見る限り、ある程度古そうなもののようにも思えるものの、どう見ても鎌倉初期まで遡及できるような古さを感じさせません。
どう古くても戦国期のものか、近世以降のものであるような印象が。
北鬼窪氏館
2006/10/13 撮影
凸諏訪山館(白岡町)午後14時15分~14時30分
目指す方向は東武どうぶつ公園の北西の端。
フェンスに遮られて立ち入りができないかと懸念していたものの、諏訪神社の境内地なので集落からの道を辿り無事到着。
東側には乗馬クラブが、西側に関係の駐車場に挟まれた細長い境内で人気は全くなし。
小高い丘陵を想定していたものの、南側に向かって緩く傾斜のかかる地形。
東武どうぶつ公園の建設に伴い周辺の環境が大きく改変されているものと考えられ、当然遺構のような存在は確認できず。
2本の大杉の存在が、この地の歴史の古さを伝えているのみ。
しいていえば神社に向かって右側に僅かばかりの地面の盛り上がりと、左奥に雨水の流路のような浅い溝が遺されているものの、中世城館の遺構に結びつけるのにはやや強引な印象。
諏訪山館
2006/10/13 撮影
凸丸山城(白岡町)午後14時40分~14時55分
「埼玉の中世城館跡」などでは、漠然と鎌倉期の遺構とされているもののその詳細は不詳。
折りよく梨園の農作業をされていた地元の方に、「丸山」の地名の範囲を伺えたのが最大の収穫かと。
遺構らしき存在は耕地整理のために現存せず、ためしに西側の比高差5メートルほどの台地の麓から高台となっている風景を展望したところ、紅白に塗装された送電線が屹立。
このため送電線の存在が目立たない個所まで接近して台地を撮影。
また、丸山と呼ばれている地域は北側方向にも緩やかな傾斜を確認、台地の中でも全体として微高地を形成している様子。
丸山城2006/10/13 撮影
凸太田陣屋(白岡町)午後15時00分から16時00分
まずは目印となる大田神社へ。
しかし、遺構の所在していたのはこの場所ではなく北側の住宅地の間の平地林部分。
事前の予想通り延長100m弱の堀跡は立木付き、一部砂利敷きの駐車場に変わり完全に消滅しているという印象...と書いていると、意図も簡単に「堀跡の跡」の所在地を確認したように聞こえるが、実はその間30分近くは該当地を求めて方向していたのが実情。
太田神社の周囲にも何やら地面の盛り上がりが確認できるものの委細不明。
太田陣屋
2006/10/13 撮影
本日は気力・体力欠乏症の小生としては、珍しくも都合7ヶ所を回遊。
白岡方面は全く初めてなのでほぼ土地勘ゼロ。
加えて元来の方向音痴。
それでも道路地図などを手がかりに、何とか目的地周辺に辿り着けるようになったのは、試行錯誤の連続そのものである経験の積み重ねに相違ないものと自負。
事前の予想では低地部分が多いものと思っていたものの、名称のとおり白岡台地と呼ばれる低位台地が点在し、微高地に広がる低地林も目立つ予想外の地形。
確たる成果はあるような、ないような。
それでも一応は推定所在地を確認し、心地良い疲れと充実感を味わえたことだけでも意義のあることかと思う次第なのでありました。
天気は、暑くも無く寒くも無く中世城館跡の散策には絶好の日和。
体調については顔面と左半身の痺れが強く、相変わらずの過呼吸症状。
然し概ね歩行自体そのものには支障が無さそうなので、川島町の再訪を手始めに白岡町へと彷徨。
凸上伊草堀ノ内(川島町)午前10時25分~11時10分
前回は事前調査不足のため、その推定所在地について本来の堀ノ内から南側約150m地点付近あたりだと完全に誤解。
その後、川島町関係の資料からその明らかな誤りに気づき再訪。
確かに旧家の趣を伝える長方形の屋敷の地形がそのまま残された1画が
現存。
現在国道254バイパス沿いに建設途上の大型ショッピングセンターの丁度後ろ側となる場所。
東西方向で約200m、南北方向で約100mから150mほどの規模。
東側の幅2間、深さ1mの用水路はその位置から堀跡の様相。
南側の用水路はコンクリートの蓋で暗渠となっているものの、こちらも同様に堀跡の可能性が。
北側と西側には堀跡の形跡を辿ることのできるような要素があまり見られず、わずかに西側の南端部分の低地にその名残が。
また、北側の道路から50mほど南側に幅1mほどのコンクリート製の用水路が現存するも堀跡との関係は不明。
前回訪れたときに水流のきれいな個所に鯉が放流され元気に回遊。
しかし館跡の東側の堀跡はさほどきれいな状態ではなく、透明度50センチほどの水質であるにも拘わらず、体調40センチから50センチの鯉が悠々と遊泳中。
そういえば牛舎からの排水の臭気が気になる深谷市の城館跡の澱んだ水路でも大層元気に跳ね回っていたことが脳裏に浮上。
凸道祖土氏館(川島町)午前11時20分~11時55分
白岡町方面に向かうにあたり目の前を通過することと、前回の訪城時に北側の堀跡の状況を十分に把握していないことなどもあり再訪。
先日まで長雨や大雨のあった関係で東側の堀跡の水量は特に豊富で、構堀としての規模の大きさを改めて実感。
北側の堀跡(用水路)はだいぶ狭く埋まりかけている印象ですが、少なくとも50m以上は続いていることを確認。
しかし、そこから先は雑草が蔓延り足元に不安等もあり自粛を。
なお、幅1.5m弱の用水路を渡る時に何とか飛び越えることに成功。
膝その他の足回りに弱点の多い小生としては、人気の全く無い雑草の生茂る水田跡で思わずガッツポーズ。
道祖土氏館東側の水堀
2006/10/13 撮影
凸南条氏陣屋(白岡町)午後13時~13時10分
大崎村から慶長12年(1611)に分村した新田で、大番を勤めた旗本南条氏の近世初期の陣屋址と推定されている個所。
現在は南彩農協の大山支店の倉庫・事務所などが所在しその面影は全く無し。
加えて農協の支店も閉鎖されている様子で侘びしさがつのる光景。
隣の商店の自動販売機に挟まれて全く目立たず、空き缶置き場としか見えない郵便ポストの風景も郵政事業の将来を暗示するような印象。
町立大山小学校の校門前の橋の名称に「陣屋前橋」と記されていたので取り敢えず記念撮影。
小学校の敷地内に併設されている町立民俗資料館は休館日のため入館できず。
南条氏陣屋
2006/10/13 撮影
凸北鬼窪氏館(白岡町)午後13時20分から13時50分
「白岡町史」などによれば、篠津の久伊豆神社(浅間神社)が北鬼窪氏の館跡の候補地の一つと想定されているとのこと。
本殿の向かって左側には高さ3mほどの浅間塚が築かれ浅間神社が鎮座。
明治末期の合祀を反映してか諏訪神社などの摂社、末社が10社ほど所在。
以降らしきものは、強いていえば本殿の右奥に土塁にも見えなくも無いような高さ約1mから1.2m、長さにして20mほどの盛り土が所在。
杉木の根の状態から見る限り、ある程度古そうなもののようにも思えるものの、どう見ても鎌倉初期まで遡及できるような古さを感じさせません。
どう古くても戦国期のものか、近世以降のものであるような印象が。
北鬼窪氏館
2006/10/13 撮影
凸諏訪山館(白岡町)午後14時15分~14時30分
目指す方向は東武どうぶつ公園の北西の端。
フェンスに遮られて立ち入りができないかと懸念していたものの、諏訪神社の境内地なので集落からの道を辿り無事到着。
東側には乗馬クラブが、西側に関係の駐車場に挟まれた細長い境内で人気は全くなし。
小高い丘陵を想定していたものの、南側に向かって緩く傾斜のかかる地形。
東武どうぶつ公園の建設に伴い周辺の環境が大きく改変されているものと考えられ、当然遺構のような存在は確認できず。
2本の大杉の存在が、この地の歴史の古さを伝えているのみ。
しいていえば神社に向かって右側に僅かばかりの地面の盛り上がりと、左奥に雨水の流路のような浅い溝が遺されているものの、中世城館の遺構に結びつけるのにはやや強引な印象。
諏訪山館
2006/10/13 撮影
凸丸山城(白岡町)午後14時40分~14時55分
「埼玉の中世城館跡」などでは、漠然と鎌倉期の遺構とされているもののその詳細は不詳。
折りよく梨園の農作業をされていた地元の方に、「丸山」の地名の範囲を伺えたのが最大の収穫かと。
遺構らしき存在は耕地整理のために現存せず、ためしに西側の比高差5メートルほどの台地の麓から高台となっている風景を展望したところ、紅白に塗装された送電線が屹立。
このため送電線の存在が目立たない個所まで接近して台地を撮影。
また、丸山と呼ばれている地域は北側方向にも緩やかな傾斜を確認、台地の中でも全体として微高地を形成している様子。
凸太田陣屋(白岡町)午後15時00分から16時00分
まずは目印となる大田神社へ。
しかし、遺構の所在していたのはこの場所ではなく北側の住宅地の間の平地林部分。
事前の予想通り延長100m弱の堀跡は立木付き、一部砂利敷きの駐車場に変わり完全に消滅しているという印象...と書いていると、意図も簡単に「堀跡の跡」の所在地を確認したように聞こえるが、実はその間30分近くは該当地を求めて方向していたのが実情。
太田神社の周囲にも何やら地面の盛り上がりが確認できるものの委細不明。
太田陣屋
2006/10/13 撮影
本日は気力・体力欠乏症の小生としては、珍しくも都合7ヶ所を回遊。
白岡方面は全く初めてなのでほぼ土地勘ゼロ。
加えて元来の方向音痴。
それでも道路地図などを手がかりに、何とか目的地周辺に辿り着けるようになったのは、試行錯誤の連続そのものである経験の積み重ねに相違ないものと自負。
事前の予想では低地部分が多いものと思っていたものの、名称のとおり白岡台地と呼ばれる低位台地が点在し、微高地に広がる低地林も目立つ予想外の地形。
確たる成果はあるような、ないような。
それでも一応は推定所在地を確認し、心地良い疲れと充実感を味わえたことだけでも意義のあることかと思う次第なのでありました。