本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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「謎の溝跡」の刻まれた丘陵地帯南側の町道からの遠景。
比高差は最大で20mほどかと推定。
杉の植林部分の地形がなにやら意味ありげにも見えなくもなさそうな。

この手を使えば暫くはブログのネタにはなりそうで..(笑)

「謎の溝跡」の所在する丘陵地帯

「謎の溝跡」の所在する丘陵地帯
2006/11/25 滑川町羽尾にて撮影

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昨日と同様の丘陵上の溝跡。
とはいっても、こちらの西側の地形の場合には溝跡というよりも、寧ろ緩斜面の下方に向う「切り落とし?」に近いような印象が。

ただし比高差は現状で80cmから1mほどの規模にて。
南北方向の長さはおよそ50mで北辺と南辺の溝跡状の地形に直角に繋がっていました。

「斜面の切り落とし?」のような地形
「溝跡というよりも切り落とし?」
2006/11/25 滑川町の羽尾地区にて撮影

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11月25日の土曜日に訪れた滑川町羽尾地区の「西ノ谷沼南東側の丘陵」の話題似而御座候。

市野川北岸に所在する丘陵の東端部に位置し、ちょっとしたピークも所在するしているので訪れてみたという場所。
勿論遺構などの存在を期待してというよりは、丘陵地帯を虱潰しに確認する作業のようなものにて。

然し、当初の予想に反して東側を除いて南北50m、東西100mに及ぶ丘陵の平坦地を囲むようにして「謎の溝跡」が現存。
西側は溝跡というよりは比高差80cmから1mほどの切り落としのような地形かと推測。
北側は篠竹の藪に阻まれて確認しづらいものの、幅1間、深さ80cm、延長50mほどの溝状地形に。
南側は里道との区別が付きにくいものの北側とほぼ同様の地形という印象が。

なお、この南側の溝状の地形は「千躰地蔵堂」北側の尾根筋に到達する手前に所在する「小口状」の地形にほぼ隣接。
こうしたことから、単なる「土地の境堀」「里道」「排水路」とも思えず、まして明確に人為的な区画であることが認められることから「自然の雨水の流路」でないことは確実。
勿論平坦地には複数の墓石が所在しているものの墓所の区画を示す溝にしては巨大すぎる次第にて。
時代背景や歴史的経緯が全く不明なので取敢えず「謎の溝跡」ということに(笑)

謎の溝跡
「謎の溝跡」
2006/11/25 滑川町羽尾地区にて撮影

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昨晩の時点では、珍しく最大7ヶ所程度の探索を目標に資料などを整理。
しかし本日の朝食のあとで、不在の娘に代わってネコ部屋の大掃除などを敢行。
このため何時ものこととて、自宅を出発したのは午前11時過ぎと先週よりも更に遅く..加えて帰りがけに2つほどの所用も発生。
このため、出かけた時点で3ヶ所ないし4ヶ所に探索目標値を縮小した次第にて(汗)

おまけに出掛けに車庫の前で「いちご」(1歳7ヶ月のオス猫)と目が合ったところ、脱兎の如く逃亡されるという憂き目に。
一方母ネコの「ポミ」の方は車庫の屋根でのんびりと日向ぼっこ中。
声をかけると屋根から身を乗り出して「にゃー」との応答。
かくして、いくぶん気を取り直して「沼池めぐり」へと出発。

比企郡嵐山町・滑川町の市野川北岸沿いの丘陵地帯には「杉山城」「越畑城」「水房館」「羽尾堀の内」「羽尾城」などの中世城館遺構が所在。
また近年は、「谷ツ遺跡」などの小規模な砦(「村の城」とも)なども発見されている地帯。
先週は思いがけなく「遺構」らしきものに遭遇したので、「2匹目のどじょう」を探しに、先ずは羽尾地域に的を絞って踏査することに。


西ノ谷沼南東側の丘陵(比企郡滑川町羽尾地区 以下同様)
午後12時25分~12時50分

手始めは、付近に「山屋敷」との小字名の所在する「西ノ谷沼」の南東側の丘陵を目指すことに。
とはいうものの、今回訪れる予定の個所は前回と比べて明らかに地形上の優位性が劣るような比高差の少ない、かつ斜面の傾斜の緩い場所ばかりにて。

このため予め念のための確認作業のようなもの..と気楽な調子で丘陵の緩斜面を進んでいくと、さにあらず。
平坦な丘陵の北側にいきなり幅1間、深さ80cmほどの謎の「溝状の地形」が出現してしまった..(汗)
よくよく調べてみると、西側と南側にも概ね同様の地形が所在。
尤も南側の部分は現在は里道のような印象も。

しかしこの三方の溝状の地形は完全に繋がっており、南北50m、東西100mほどの平坦な杉林を取巻くように配置されている由。
なお、登ってきた東側の部分にはこれといった人為的な地形の特徴は見出せず..と、いうよりも篠竹が密生していて判別できないと表現した方が正確かと。

また、西側の部分は溝というよりも切岸に近いような印象も。
南側は傾斜もきつく比高差は20m近くあるものの、東側は現状では県道47号線に接していて比高差10m未満の緩斜面。
北側の地形は密生する篠竹の藪に進入を阻まれて地形の特徴を見出せず、
西側は幾分高度を下げてザルガヤ戸沼南側の丘陵地帯にそのまま繋がっている様子。

しかし、全体としてよくよく冷静に考えれば、本来は山林の境界を示していたとも想定されるような「溝状地形」なのでありました。


西ノ谷沼南東側の丘陵
西ノ谷沼南東側の丘陵
2006/11/25 撮影


千躰地蔵堂の裏山 午後12時55分~午後13時20分

たまたま地図に掲載されていたので、ついでに立寄ってみただけのこと。
「西ノ谷沼南東側の丘陵」の西隣の丘陵で、子育てにご利益のあるとされる「千躰地蔵堂」は、この南側の麓近くに晩秋の暖かな日差しを浴びてのどかな農村風景に溶け込んでおりました。
思わず「♪♪ぼうや~良い子だ、ねんねしな~」とのメロディーが脳裏に浮かぶような光景。

この羽尾表地区に所在する現在の堂宇は、現地の石碑の碑文によると1984年に再建されたと刻まれておりました。
資料によれば、地元では「センテー様」「子育て千躰地蔵」とも呼称されている様子にて。
当人の子育ては既に終了しつつあるもので、ささやかな浄財と共に「世界中の子供たちが健やかに育ちますように」と祈願。
願いの大きさの割には、余りに浄財が乏しく..(汗)

さて、その裏山。
始めから裏山に登ろうと思っていたわけではなく、ただ登れそうな道がそこにあったので登ってみたまでのことにて。
地蔵堂の直ぐ北側には火伏せの神である愛宕様らしき石造りの小祠が所在。
この祠の所在する人工的な平坦地は地蔵堂より6mほど高位に所在し、幅20m、奥行き10mの広さがあり、祠の規模に対して些か広すぎる観が..
万が一「腰郭」だったら、どうしようなどとの憶測がぼちぼち頭をもたげ始めて。

さらに左側の登り道を比高差にして4mほど登り東側に辿っていくと、丘陵上にまたもや「小口」にも見えなくも無いような地形が目の前に出現してしまったのであります。
「多分に気のせい」だと無理やり納得して先に進んでいくと..今度は大穴に遭遇。
「小口」にしては道がなく、されとて伐根跡やゴミ穴にしては余りにも巨大な規模。
サツマ芋などの貯蔵のためのムロにしては所在地としては不便かと。
現状でも深さ2m、20㎡ほどのL字型という、危うく「枡型..]を連想しそうな地形にて(笑)
加えて、その南側の部分には土塁にも見えなくも無い高まりが..
なお、この地形は直ぐ東側に所在する「西ノ谷沼南東側の丘陵」の「謎の溝状地形」の個所と隣接しているので、余計に始末に悪いのでありました。


千躰地蔵堂北側の地形
千躰地蔵堂北側の小口にも見えてしまう地形
2006/11/25 撮影


ザルガヤ戸沼南側の丘陵 午後13時25分~13時40分

地図上では、丘陵の西側からかなり明瞭な里道がありそうな表記が。
元来が「へそ曲がり」のため、敢えて「千躰地蔵堂」の裏山伝いにアプローチすることに。
始めは見通しの良くない里道を蜘蛛の巣を払いつつトボトボと西進。
やがて「ザルガヤ戸沼」の谷津の奥に相当する部分に到達。
思いのほか開けた地形であるものの、北側に面していることから明らかに居館としての適性を欠くものと判断して一安心(笑)
南側に所在する集落に関連すると思われる墓所が数多く所在。
墓石の中で最も古そうなものでは、18世紀半ばの宝暦年間のものも確認。

このほか人工地形とも自然地形とも判断できない平場が南側に所在するものの中世城館跡と関連しそうな地形らしきものは確認できず。
というよりも北側部分は篠竹が密生していて地形の確認自体がほぼ不可能な状況。
このように「やはり何にもない」という事例が至極当たり前かと。
そうそう「謎の溝状地形」や「小口らしき地形」に遭遇していたら、とても年内には滑川町の丘陵地帯から脱却できなくなる次第にて。


ザルガヤ戸沼南側の丘陵
ザルガヤ戸南側の丘陵
2006/11/25 撮影


福厳寺跡 午後14時~14時25分

永禄年間の武州松山城の争奪を巡る越後上杉氏と後北条氏、これに助勢した武田氏の戦いの余波を受けて焼失したと伝わる中世寺院跡。
本日の中では、最も期待できそうな情報を有する個所にて。

ザルガヤ戸沼南側の丘陵地帯の更に西側に所在し、かつ先週訪れた「五厘沼南の羽尾裏郷の遺構」の北東に隣接して所在する丘陵。
資料によれば「土居が所在していた」との伝承も。

高屋敷沼の近くに駐車して、東側の明瞭な道を西へ200mほど進むと、寺院跡らしき平場に到着。
この個所から道は三叉路となり、南側の道は「五厘沼南の羽尾裏郷の遺構」へと続き、北側の道は途中で篠竹の茂みで消失。
このため、元の明瞭な里道をそのまま更に西進。
下り坂の途中ではかなり以前に伐採されたと思われる樹木が里道を塞ぎ、トレッキンクシューズ装備でも歩きにくいことこの上なし。

北側の篠竹の藪の中に多少の地面の盛り上がりを確認したものの、かなりの確率で自然地形のような印象が。
北側の灯篭沼側から眺めた地形は中世寺院跡とはいえ、中世城館跡にも通じる佇まいを示しているのでありました。


灯篭沼
福厳寺跡の北側に所在する灯篭沼
2006/11/25 撮影


五厘沼南の羽尾裏郷の遺構 午後14時30分から14時35分

先週に引き続いて再訪したというよりも、市野川の流れる南側からの地形の様子を再確認するのが目的にて。
やはり南側から見た限りでは中世城館跡に相応しい地形。
特に南側の斜面の一部は凝灰岩のような岩肌が露出。
かくして、あの
「小口状の地形」 の存在は、益々困惑と憶測の度合いを更に深めていく次第にて。

南側からの地形
五厘沼南の羽尾裏郷の「遺構?」の所在する丘陵
2006/11/25 撮影


今回も先日に引き続いて、何れも地元の集落の裏山のような場所ばかり。
このため道に迷うような心配は一切無用。
とはいえ、場所によっては人の気配を全く感じない墓地ばかりが目立つ里道は陰気な雰囲気があたりに漂っている個所も。
藪くぐりは幾度か敢行したものの、相変わらず密生した篠竹の藪は結構手強いものが..
特に植生条件の関係からか北側斜面に篠竹の藪が目立っておりました。
足元さえろくに見えない状況に加えて体の前進さえ阻まれるに至っては、いくらゴーグル装備でも突破することは殆ど不可能かと(笑)

それにしても「城」「館」などの呼称も全く存在しない、正真正銘の無名の丘陵地帯を踏査している次第。
未踏査地点は残り十数か所ほどなので、少なくともあと4回くらいは訪れなくては...
あまり関心の無い人が見ると、何のブログか全く意味不明でしょうなあ..と、自分自身に呆れながら、いよいよマイナー志向が強まっていく管理人なのでありました。

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徳川家の旗本岡部氏の近世初期の陣屋跡と伝わる曹洞宗慶徳寺境内の北側の以前は桑畑であったと推定される農地は見方によっては郭跡のようにも受け取れる地形。
畑の排水の便宜を図るにしては大げさな地形の改変かと思われ、丘陵の最高地点に所在しているので、排水の問題では無いように思われます。
加えて東側には「畑の根切り」にしては、余りにも大げさな深さ2mほどの古さを感じさせない堀跡状の地形も見受けられたりして..

しかし、全体としてはどうも城館関連遺構としては何処と無く違和感のあるような印象も拭えないようにも思えます。
具体例を挙げるなら、工事現場の残土を積み上げて整地したような観もなくは無いような..
しかし、道幅などが狭いため大型車での搬入は困難な地理的条件であることも事実なので余計にその判断が難しく..

岡部氏陣屋
岡部氏陣屋
比企郡滑川町中尾地区にて
2006/11/17 撮影

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