本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
カテゴリー
最新CM
中城の歴史の引用について(返信済)
(07/01)
おつかれさまでした(返信済)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
お疲れ様でした(返信済)
(10/13)
お疲れ様でした(返信済)
(03/22)
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
アクセス解析
フリーエリア
滑川町の丘陵地帯にて見かけた民家脇の「土塁」状の地形。
とりあえず城館に関連する可能性はまずなさそうな、近世以降の風避けのためのもののようなものと推定。
高さ約1m、幅約2m、長さおよそ15mほどの規模にて。
緩やかな南側斜面の北西から南東方向にかけてに所在し、北風を防ぐために大きな常緑樹が根を張っていました。
やや困ったことに東側の道が恰も堀跡状の地形を呈している様に見えるものの、冷静に観察すればこちらの通路兼畑の根切りのようなものかと思われる次第にて..すべては「遺構の病」を原因とした気の迷いということにして次の目的地へ移動せり。
「土塁もどき」のある風景
2006/12/01
滑川町中尾内野地区にて撮影
とりあえず城館に関連する可能性はまずなさそうな、近世以降の風避けのためのもののようなものと推定。
高さ約1m、幅約2m、長さおよそ15mほどの規模にて。
緩やかな南側斜面の北西から南東方向にかけてに所在し、北風を防ぐために大きな常緑樹が根を張っていました。
やや困ったことに東側の道が恰も堀跡状の地形を呈している様に見えるものの、冷静に観察すればこちらの通路兼畑の根切りのようなものかと思われる次第にて..すべては「遺構の病」を原因とした気の迷いということにして次の目的地へ移動せり。
「土塁もどき」のある風景
2006/12/01
滑川町中尾内野地区にて撮影
城跡めぐりをしていると、しばしば出会う石造物。
元来は道教の教義により平安の貴族たちによって行われていた干支でいう正月庚申の日の行事。
「庚申の日の夜になると日頃人の腹の中にいる三戸(さんし)が、天帝にその悪事を告げに行く。このためにその人が早死にをするので、長生きをしたいならば徹宵せよ。」との教えだそうで。
その後、日待ち、月待ちの習俗と結びつき、近世には「庚申講」として全国的に流行したとされています。
密教の流れを汲む複数の腕をもつ鬼神青面金剛(しょうめん-こんごう)が本尊とされ、足元の3匹のサルや頭上の月と日輪などがその特徴。
この元禄期の年号が刻まれた庚申塔は、鬼神とは思えぬ穏やかな表情と共に何処かぎこちない観のある3匹のサルの仕草がとても印象的でした。
庚申塔
2006/12/01 滑川町水房地区にて撮影
元来は道教の教義により平安の貴族たちによって行われていた干支でいう正月庚申の日の行事。
「庚申の日の夜になると日頃人の腹の中にいる三戸(さんし)が、天帝にその悪事を告げに行く。このためにその人が早死にをするので、長生きをしたいならば徹宵せよ。」との教えだそうで。
その後、日待ち、月待ちの習俗と結びつき、近世には「庚申講」として全国的に流行したとされています。
密教の流れを汲む複数の腕をもつ鬼神青面金剛(しょうめん-こんごう)が本尊とされ、足元の3匹のサルや頭上の月と日輪などがその特徴。
この元禄期の年号が刻まれた庚申塔は、鬼神とは思えぬ穏やかな表情と共に何処かぎこちない観のある3匹のサルの仕草がとても印象的でした。
庚申塔
2006/12/01 滑川町水房地区にて撮影
滑川町には現在でも200ヶ所近くの大小の沼地が所在しています。
元来は田畑に水を引く農業用のため池ですが、その歴史は中世以前に遡るものも多いとのこと。
従って沼沢地を濠代わりとしたと推定される中世城館跡も少なからず所在していたものと思われる次第。
このため丘陵地帯とその付近に所在する主だった沼沢地を訪れることにより、何がしかの「遺構もどき」に遭遇する可能性もあるのではと考えた由にて。
しかし、そうそう「新発見」などがあろうはずもなく、「遺構紛い」「遺構もどき」「不詳の遺構」などの思い込みや憶測によるものにたまに出会うのみというのが現実。
規模の大きな沼沢地の水質は現在でも比較的きれいで、フナ・コイなどの淡水魚も棲息している所も多いようです。
羽尾中沼の紅葉
206/12/01 滑川町羽尾にて撮影
元来は田畑に水を引く農業用のため池ですが、その歴史は中世以前に遡るものも多いとのこと。
従って沼沢地を濠代わりとしたと推定される中世城館跡も少なからず所在していたものと思われる次第。
このため丘陵地帯とその付近に所在する主だった沼沢地を訪れることにより、何がしかの「遺構もどき」に遭遇する可能性もあるのではと考えた由にて。
しかし、そうそう「新発見」などがあろうはずもなく、「遺構紛い」「遺構もどき」「不詳の遺構」などの思い込みや憶測によるものにたまに出会うのみというのが現実。
規模の大きな沼沢地の水質は現在でも比較的きれいで、フナ・コイなどの淡水魚も棲息している所も多いようです。
羽尾中沼の紅葉
206/12/01 滑川町羽尾にて撮影
元来が執念深い性質なので、またしても滑川町の沼池の水源でもある市野川北岸に所在する無名の丘陵地帯の探索に出動。
今回は前2回よりも更に遺構の存在する可能性が少なそうな場所ばかりにて..
確かに「杉山城」を始めとして幾多の「中世城館跡」が所在し、近年においても新たな遺構の発見がなされた地域には相違ない地域ではありますが。
しかし現実問題として、自分のような全くの素人が、十分な資料収集もせずひたすら地形などを頼りに虱潰しに彷徨しているだけの作業で、「新発見」などあろう筈も無く..
とはいえ、何故にそれほど比企丘陵東部に位置する滑川町付近の丘陵地帯に拘泥するのか、本人もよく分からず..強いて申さば、半ば病的な「遺構もどき」との感動の出会いを求めて..などと(笑)
凸 「西ノ谷沼南東側の丘陵」 (滑川町)
午前11時10分~11時30分
先日以来拘泥している丘陵のひとつ。
とりわけどうも東側の緩斜面に疑問が。
どうせ近くを通過することと時間に余裕もあるので、この際東側を重点的に探索することに。
南側の町道から眺めると、小さな谷津が所在することは以前より承知。
然し何処からアプローチすべきかが判然とせず保留されていた案件。
さて南側から集落の間の坂道を登り、先日訪れた東側からの里道から篠竹の藪を潜り抜けると、一段下方に畑のような平坦地が出現。
その平坦地の東側には小さいながらも水の流れる谷川を確認。
谷津は県道47号線の北東側にもほぼ同規模のものが所在。
このことから東側の緩斜面は、元々はこれらの谷津により地形的に分離されていたことが判明。
はるか後世に建設された県道の存在に、危うく本来の地形上の特徴を見失う所にて。
かくして、独立した丘陵としての認識を新たにし、「謎の溝跡」を始めとする一連の人工的な地形の存在は愈々もって「悩ましい存在」となっていくのでありました。
西ノ谷沼南東側の丘陵の東側の谷津
2006/12/01 滑川町羽尾表地区にて撮影
凸 「羽尾平地区の中沼周辺の丘陵」(滑川町)
午前11時40分~午後13時00分
そもそも何故1時間以上もこの丘陵地帯を彷徨していたのかと申しますと、地図上では5か所ほど気になる地形が存在していたまでのことにて御座候。
一応その全てについて篠竹の藪を掻き分け可能な限り地形の確認を実施。
まずは手始めに愛宕山の東、上沼と中沼の谷津に東西を挟まれた観のある比高差30mほどの丘陵を目指すことに。
登り道が確認できないのであまり無理をせずに、上沼の東側の道を北上し傾斜の比較的緩やかな北西斜面から直登を開始。
とはいうものの僅か比高差30mにも拘わらず、道が無いので登りにくいことこの上なし。
加えて篠竹と常緑低木の藪を避けつつ迂回行動の連続。
このため思いのほか時間・体力・気力を消費。
それでも何とか稜線付近に到達し、叢生する樹木の間から周辺の地形の観察を開始。
すると山頂に相当する部分の南側に何やら違和感が..
接近してみると2mほどの段差のある「平場」が所在。
東西20m、南北10mほどの規模で、人為的に南側に開削されたものであることは間違いなさそうな印象。
かつての「人家跡」にしては、道も無く余りに不便な立地条件かと。
一番納得できそうなのが、明治期末から大正期に合祀されて廃された「神社跡」
さもなければ..と、また性質の悪い妄想・憶測が(笑)
このあと稜線を北へと進み、4か所ほどの地形を確認するも篠竹の藪に遮られて殆ど観察不可能。
途中、明らかに「雨水の流路兼里道」と思われる孟宗竹の林の中に刻まれた溝と、不詳の「塚状の地形」を確認したものの、さしたる成果も無く歩行距離にして約2kmほどの探索を終了。
なお、この時期「中沼」「金沼」付近は、紅葉が湖面に映りなかなかの景色で、まさに「沼池めぐり」に相応しいハイキングとなった次第にて。
「不詳の平場」
2006/12/01 滑川町羽尾平地区にて撮影
凸 「中尾内野の丘陵」 (滑川町)午後13時05分~13時35分
よくよく冷静に考えてみると、この丘陵地帯は市野川の北岸に位置するものの、寧ろ「滑川」との中間地点にあたり、なおかつ以前から民家が建ち並ぶ町道が縦断。
このため、とても「遺構もどき」さえも縁のなさそうな立地条件。
妄想が高じて、正しく闇雲に勢いで資料収集してしまったとしか言いようのない場所にて(汗)
しかし、思いがけなく「大きな段差を有する畑」「どう見ても新しい石積み」「民家脇の小さな土塁状の地形」など、今後の「遺構もどき」を捜索するにあたり「学習教材」となりそうな幾つかの光景に遭遇。
してみると、これはこれでそれなりに所謂ひとつの成果ではないかとも思う次第なのでありました。
段差の目立つ畑
2006/12/01 滑川町中尾内野地区にて撮影
凸 「放光寺西側および北側の丘陵」 (滑川町および嵐山町)
午後13時45分~14時20分
滑川町と嵐山町の境界に位置し、直ぐ東側には「水房館」が所在。
「越畑城」と同様に丘陵地帯のど真ん中を関越自動車道が貫通し、結果として丘陵としての地形が南北に分断。
周囲を谷津に囲まれた典型的な舌状台地ではありますが、歴史を感じさせるものは登口の脇にひっそりと佇んでいた優しい表情の元禄期の庚申塔(推定)の石像のみ。
また、放光寺の西側に所在する比高差40m近い独立丘陵も実に魅力的な地形。
登り道のようなものは全くないものの、杉木立の斜面を枝打ちなどが行われているため比較的見通しもよいことから、駐車個所からそのまま直登し山頂へ。
北西側はまたしてもこの地域特有の篠竹の藪に侵入を阻まれて、地形の確認には至らず仕舞いに。
それにしても市野川の河川敷から見上げる「格好の地形」にはなかなか目を見張るものがありました。
放光寺西側の丘陵
2006/12/01 嵐山町太郎丸地区にて撮影
本日の探索の結果としては、「謎の平場」(恐らく神社跡か)「土塁もどき」(99%願望にて)「郭もどき」(完璧なこじつけの由にて、おそらくは開墾された畑)各一ヶ所ずつにて。
さて次回予定している個所には、なんと偶然の悪戯か「埼玉の中世城館跡」に収録されている個所が唯一含まれているのであります。
尤も、関越道の建設により恐らく消滅しているかと推察されますが(笑)
この分では今月は殆どこの地域の名もなき丘陵を彷徨い続けることになることは必定の由にて...
今回は前2回よりも更に遺構の存在する可能性が少なそうな場所ばかりにて..
確かに「杉山城」を始めとして幾多の「中世城館跡」が所在し、近年においても新たな遺構の発見がなされた地域には相違ない地域ではありますが。
しかし現実問題として、自分のような全くの素人が、十分な資料収集もせずひたすら地形などを頼りに虱潰しに彷徨しているだけの作業で、「新発見」などあろう筈も無く..
とはいえ、何故にそれほど比企丘陵東部に位置する滑川町付近の丘陵地帯に拘泥するのか、本人もよく分からず..強いて申さば、半ば病的な「遺構もどき」との感動の出会いを求めて..などと(笑)
凸 「西ノ谷沼南東側の丘陵」 (滑川町)
午前11時10分~11時30分
先日以来拘泥している丘陵のひとつ。
とりわけどうも東側の緩斜面に疑問が。
どうせ近くを通過することと時間に余裕もあるので、この際東側を重点的に探索することに。
南側の町道から眺めると、小さな谷津が所在することは以前より承知。
然し何処からアプローチすべきかが判然とせず保留されていた案件。
さて南側から集落の間の坂道を登り、先日訪れた東側からの里道から篠竹の藪を潜り抜けると、一段下方に畑のような平坦地が出現。
その平坦地の東側には小さいながらも水の流れる谷川を確認。
谷津は県道47号線の北東側にもほぼ同規模のものが所在。
このことから東側の緩斜面は、元々はこれらの谷津により地形的に分離されていたことが判明。
はるか後世に建設された県道の存在に、危うく本来の地形上の特徴を見失う所にて。
かくして、独立した丘陵としての認識を新たにし、「謎の溝跡」を始めとする一連の人工的な地形の存在は愈々もって「悩ましい存在」となっていくのでありました。
西ノ谷沼南東側の丘陵の東側の谷津
2006/12/01 滑川町羽尾表地区にて撮影
凸 「羽尾平地区の中沼周辺の丘陵」(滑川町)
午前11時40分~午後13時00分
そもそも何故1時間以上もこの丘陵地帯を彷徨していたのかと申しますと、地図上では5か所ほど気になる地形が存在していたまでのことにて御座候。
一応その全てについて篠竹の藪を掻き分け可能な限り地形の確認を実施。
まずは手始めに愛宕山の東、上沼と中沼の谷津に東西を挟まれた観のある比高差30mほどの丘陵を目指すことに。
登り道が確認できないのであまり無理をせずに、上沼の東側の道を北上し傾斜の比較的緩やかな北西斜面から直登を開始。
とはいうものの僅か比高差30mにも拘わらず、道が無いので登りにくいことこの上なし。
加えて篠竹と常緑低木の藪を避けつつ迂回行動の連続。
このため思いのほか時間・体力・気力を消費。
それでも何とか稜線付近に到達し、叢生する樹木の間から周辺の地形の観察を開始。
すると山頂に相当する部分の南側に何やら違和感が..
接近してみると2mほどの段差のある「平場」が所在。
東西20m、南北10mほどの規模で、人為的に南側に開削されたものであることは間違いなさそうな印象。
かつての「人家跡」にしては、道も無く余りに不便な立地条件かと。
一番納得できそうなのが、明治期末から大正期に合祀されて廃された「神社跡」
さもなければ..と、また性質の悪い妄想・憶測が(笑)
このあと稜線を北へと進み、4か所ほどの地形を確認するも篠竹の藪に遮られて殆ど観察不可能。
途中、明らかに「雨水の流路兼里道」と思われる孟宗竹の林の中に刻まれた溝と、不詳の「塚状の地形」を確認したものの、さしたる成果も無く歩行距離にして約2kmほどの探索を終了。
なお、この時期「中沼」「金沼」付近は、紅葉が湖面に映りなかなかの景色で、まさに「沼池めぐり」に相応しいハイキングとなった次第にて。
「不詳の平場」
2006/12/01 滑川町羽尾平地区にて撮影
凸 「中尾内野の丘陵」 (滑川町)午後13時05分~13時35分
よくよく冷静に考えてみると、この丘陵地帯は市野川の北岸に位置するものの、寧ろ「滑川」との中間地点にあたり、なおかつ以前から民家が建ち並ぶ町道が縦断。
このため、とても「遺構もどき」さえも縁のなさそうな立地条件。
妄想が高じて、正しく闇雲に勢いで資料収集してしまったとしか言いようのない場所にて(汗)
しかし、思いがけなく「大きな段差を有する畑」「どう見ても新しい石積み」「民家脇の小さな土塁状の地形」など、今後の「遺構もどき」を捜索するにあたり「学習教材」となりそうな幾つかの光景に遭遇。
してみると、これはこれでそれなりに所謂ひとつの成果ではないかとも思う次第なのでありました。
段差の目立つ畑
2006/12/01 滑川町中尾内野地区にて撮影
凸 「放光寺西側および北側の丘陵」 (滑川町および嵐山町)
午後13時45分~14時20分
滑川町と嵐山町の境界に位置し、直ぐ東側には「水房館」が所在。
「越畑城」と同様に丘陵地帯のど真ん中を関越自動車道が貫通し、結果として丘陵としての地形が南北に分断。
周囲を谷津に囲まれた典型的な舌状台地ではありますが、歴史を感じさせるものは登口の脇にひっそりと佇んでいた優しい表情の元禄期の庚申塔(推定)の石像のみ。
また、放光寺の西側に所在する比高差40m近い独立丘陵も実に魅力的な地形。
登り道のようなものは全くないものの、杉木立の斜面を枝打ちなどが行われているため比較的見通しもよいことから、駐車個所からそのまま直登し山頂へ。
北西側はまたしてもこの地域特有の篠竹の藪に侵入を阻まれて、地形の確認には至らず仕舞いに。
それにしても市野川の河川敷から見上げる「格好の地形」にはなかなか目を見張るものがありました。
放光寺西側の丘陵
2006/12/01 嵐山町太郎丸地区にて撮影
本日の探索の結果としては、「謎の平場」(恐らく神社跡か)「土塁もどき」(99%願望にて)「郭もどき」(完璧なこじつけの由にて、おそらくは開墾された畑)各一ヶ所ずつにて。
さて次回予定している個所には、なんと偶然の悪戯か「埼玉の中世城館跡」に収録されている個所が唯一含まれているのであります。
尤も、関越道の建設により恐らく消滅しているかと推察されますが(笑)
この分では今月は殆どこの地域の名もなき丘陵を彷徨い続けることになることは必定の由にて...