本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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振替え休日の本日の行動予定としては、
①老母の入所している特養に赴く。
②次に「伝大串次郎館」と国史跡申請前祝ということで「武州松山城を目指す、
という予定にて。
しかし前記の所用のため、改めて自宅を出発したのは既に10時30分過ぎといういつもの遅めのパターンに。
凸伝大串次郎館(吉見町) 午前11時45分~午後13時00分
「台山」という小字地名の残る「伝大串次郎館」と推定される個所は、改修が行われた市野川の堤防が所在する河川敷の竹林付近で堤防上からもよく見えるような場所。
徒歩橋から東へ約200メートルとの情報を頼りに探すまでもなく、すぐにそれらしき竹林が所在しているのが目に入ります。
このしっかりと根の張った規模の大きな竹林の存在が、時として市野川の洪水を防ぐ重要な役割を担っていたものとも思料。
目印は「荒子下公民館」と堤防北側に広がる「善長寺」という名称の1間半四方ほどの小堂宇と墓地の堤防を挟んだ南側付近にて。
北側からはとても入り込めるような状態ではないため、河川敷の通路を下りて川沿いの南側からまわりこんで接近。
河川改修による堤防の築造以前は2、3件の民家の宅地となっていた模様で、現在も常緑低木の生垣なども残され一見何の変哲もない河川敷に残された民家跡地の風景。
付近には耕作の用に供されていると見られる畑やビニールハウスなどの資材も散見。
しかし、竹林ないし竹藪越しに奥のほうを拝見すると、若干視力不足の自分にも分かるくほどに明確な地面の盛り上りのようなものが見え隠れ...
こうなると、他所様の元宅地(現在は河川敷のため、おそらくは国土交通省の所管かと推定)ではありますが、低頭しつつ生垣の切れ目の定口から失礼を仕候。
近くでよく拝見すると、高さ1mほどの「土塁」というよりは寧ろ「塚」のような盛り上りを形成。
念のため塚の規模を調べようと天辺付近に進むと北側には大きく切れ落ちた急斜面が...この地形はどう見ても「堀跡」と呼ぶに相応しい形状に相違なく。
「堀跡」状の地形は北側の堤防に沿う形で東西方向に約60m以上の長さが。
南側の部分での深さは最大4m前後はあろうかというものですが、北側は河川改修の影響かどうかは不明ですが2mほどの規模。
最大幅は上面で約8mほどですが東西の両端では幾分縮小されて6mほどかと。
中央部分では南側の宅地(郭に当たる個所?)部分が、幾分南側に凹んでいるという印象も。
なお西側部分には産廃らしきものが埋め立てられているために堀跡状地形は行き止まりに。
埋め立てられた部分の規模から推定すると本来は東西方向に100mほどの長さを有していたのかも知れず。
なお、この竹林と篠竹の藪の中で何とかその形状の特徴を表す画像を撮影しようともがき苦しんでいる内に無情にも刻々と時間は過ぎ去っていったのでありました。
かつての台山付近は土砂の採掘によりほとんど消滅していますが、現在でも明確にそれと分かる1mほどの微高地を形成していました。
これらの「堀跡状地形」の存在が用水路などではないことは先ず間違いのないところですが、その具体的な時代背景などについては何ともいえないところでした。
伝大串次郎館 北西から
北東から
北側の空堀状の地形
2007/01/10 撮影
凸金蔵院毘沙門堂(吉見町) 午後13時05分~午後13時35分
大串次郎重親の墓石と伝わる宝篋院塔の見学が目的。
宝篋院塔は境内の南側と西側の畑の中の2ヶ所に所在。
そのうち大串次郎重頼のものと推定されているものは西側の永和2年(1376)との紀年銘のあるものであるとのこと。
戦前の昭和5年の発掘調査により白磁の蔵骨器と人骨等が確認されているます
これらの推定年代から大串次郎重親の晩年の年代が概ね符合することから、その伝承の裏づける有力な証拠のひとつと考えられているようです。
伝大串次郎重親宝篋院塔
2007/01/10 撮影
凸大串山観音寺(吉見町) 午後13時40分~午後13時50分
毘沙門堂の西800mほどの距離に所在する真言宗の寺院。
大串氏との関連は、「大串山宝珠院観音寺」という山号であることくらいですが、貞永2年(1233)から文明元年(1542)までの町指定の10体以上の板碑群が良好な環境で整備保管されています。
「大串山宝珠院観音寺」の板碑群
2007/01/10 撮影
凸御所堀(吉見町) 午後14時10分~午後15時00分
「伝源範頼館」のひとつとされる吉見丘陵北部の「御所堀」を目指して、西に吉見丘陵を眺めながら東側の大里比企広域農道を北上。
「農道」という名称とは裏腹に東松山と熊谷を結ぶ幹線のひとつとなっているため、大型車の通行が激しく、些か左折すべき個所を生きすぎる仕儀と相成りました。
大体の方角は分かっているので適当なところから左折して多少南へ戻り道幅の広そうな坂道を西上すると、「ポンポン山無料駐車場」に到達。
此処で改めて方向、現在位置を確認し「御所堀」との地名が残る一帯へと徒歩にて訪問。
現地は大きなビニールハウスが立ち並ぶ農業関係の研究施設が所在。
源範頼の馬場跡とされる地元の伝承と、地元の郷土史家の編纂した史料のひとつにかつては土塁・堀跡などが所在したとの記述があるとはいうものの、現在はそうした面影は全く認められず。
念のため付近を歩き回り西側に向かう浅い開析谷の辺りを記念撮影して無事作業完了。
御所堀
2007/01/10 撮影
凸ポンポン山-高負彦根神社(吉見町) 午後15時10分~午後15時40分
駐車場まで戻るついでに、「切り立った断崖で有名な高負彦根神社の所在するポンポン山」へも立ち寄ることに。
社殿裏の右手の坂道の途中では確かに「ポンポン」とまではいかないにせよ、「乾いた感じの幾分弾んだ音」がすることは確かにて。
奇岩の景観と絶景で有名な岩場から眺める景色は遮るものがないのでとても見事の一言ですが、危険であることを示した注意書き以外にはこれといった安全設備もなく「事故責任は自己責任」ということのようです。
絶壁の辺縁部からまともに落ちれば、よくて全身打撲と複雑骨折間違いなしという感じです。
然し、下から見上げた限りでは比高差は12メートルから15メートルほどと意外に少なく、秩父の諏訪城の舳先状の断崖に比べればまだしも一命をとりとめる可能性がありそうです。
神社境内の西側部分を堀切れば格好の砦・物見台となるかもしれませんが、何分その方面には広大かつ平坦な畑が一面に広がっておりました(笑)
ポンポン山-高負彦根神社
2007/01/10 撮影
凸武州松山城(吉見町) 午後16時00分~午後16時40分
本来は改めて後日再訪する所存でしたが、西側の雲が殆どなく日没までの時間的なゆとりも幾分あるのではと考え、再度予定変更して「武州松山城」の夕方の遠景撮影に赴くことに。
しかし最終的には結局自然に足が石段を登り始めて、気がつけば本郭の石碑の前にて日没と相成りました(笑)
近くまで赴くことは今までにいく度も。
しかし、実際に麓部分まで訪れたのは実に四十数年ぶりのことにて。
「百穴」と「城跡」はもう少し離れていたような記憶があったのですが。
子どものときの記憶は余り当てにはならないものです。
南側から撮影すると、外郭跡であった短大の建物が些か目障りにて。
結果的には市野側の右岸の堤防から撮影したものがよかったようですが、如何せん日没間際のため黄昏の侘しさが漂うのでありました。
武州松山城 西方より
2007/01/10 撮影
①老母の入所している特養に赴く。
②次に「伝大串次郎館」と国史跡申請前祝ということで「武州松山城を目指す、
という予定にて。
しかし前記の所用のため、改めて自宅を出発したのは既に10時30分過ぎといういつもの遅めのパターンに。
凸伝大串次郎館(吉見町) 午前11時45分~午後13時00分
「台山」という小字地名の残る「伝大串次郎館」と推定される個所は、改修が行われた市野川の堤防が所在する河川敷の竹林付近で堤防上からもよく見えるような場所。
徒歩橋から東へ約200メートルとの情報を頼りに探すまでもなく、すぐにそれらしき竹林が所在しているのが目に入ります。
このしっかりと根の張った規模の大きな竹林の存在が、時として市野川の洪水を防ぐ重要な役割を担っていたものとも思料。
目印は「荒子下公民館」と堤防北側に広がる「善長寺」という名称の1間半四方ほどの小堂宇と墓地の堤防を挟んだ南側付近にて。
北側からはとても入り込めるような状態ではないため、河川敷の通路を下りて川沿いの南側からまわりこんで接近。
河川改修による堤防の築造以前は2、3件の民家の宅地となっていた模様で、現在も常緑低木の生垣なども残され一見何の変哲もない河川敷に残された民家跡地の風景。
付近には耕作の用に供されていると見られる畑やビニールハウスなどの資材も散見。
しかし、竹林ないし竹藪越しに奥のほうを拝見すると、若干視力不足の自分にも分かるくほどに明確な地面の盛り上りのようなものが見え隠れ...
こうなると、他所様の元宅地(現在は河川敷のため、おそらくは国土交通省の所管かと推定)ではありますが、低頭しつつ生垣の切れ目の定口から失礼を仕候。
近くでよく拝見すると、高さ1mほどの「土塁」というよりは寧ろ「塚」のような盛り上りを形成。
念のため塚の規模を調べようと天辺付近に進むと北側には大きく切れ落ちた急斜面が...この地形はどう見ても「堀跡」と呼ぶに相応しい形状に相違なく。
「堀跡」状の地形は北側の堤防に沿う形で東西方向に約60m以上の長さが。
南側の部分での深さは最大4m前後はあろうかというものですが、北側は河川改修の影響かどうかは不明ですが2mほどの規模。
最大幅は上面で約8mほどですが東西の両端では幾分縮小されて6mほどかと。
中央部分では南側の宅地(郭に当たる個所?)部分が、幾分南側に凹んでいるという印象も。
なお西側部分には産廃らしきものが埋め立てられているために堀跡状地形は行き止まりに。
埋め立てられた部分の規模から推定すると本来は東西方向に100mほどの長さを有していたのかも知れず。
なお、この竹林と篠竹の藪の中で何とかその形状の特徴を表す画像を撮影しようともがき苦しんでいる内に無情にも刻々と時間は過ぎ去っていったのでありました。
かつての台山付近は土砂の採掘によりほとんど消滅していますが、現在でも明確にそれと分かる1mほどの微高地を形成していました。
これらの「堀跡状地形」の存在が用水路などではないことは先ず間違いのないところですが、その具体的な時代背景などについては何ともいえないところでした。
伝大串次郎館 北西から
北東から
北側の空堀状の地形
2007/01/10 撮影
凸金蔵院毘沙門堂(吉見町) 午後13時05分~午後13時35分
大串次郎重親の墓石と伝わる宝篋院塔の見学が目的。
宝篋院塔は境内の南側と西側の畑の中の2ヶ所に所在。
そのうち大串次郎重頼のものと推定されているものは西側の永和2年(1376)との紀年銘のあるものであるとのこと。
戦前の昭和5年の発掘調査により白磁の蔵骨器と人骨等が確認されているます
これらの推定年代から大串次郎重親の晩年の年代が概ね符合することから、その伝承の裏づける有力な証拠のひとつと考えられているようです。
伝大串次郎重親宝篋院塔
2007/01/10 撮影
凸大串山観音寺(吉見町) 午後13時40分~午後13時50分
毘沙門堂の西800mほどの距離に所在する真言宗の寺院。
大串氏との関連は、「大串山宝珠院観音寺」という山号であることくらいですが、貞永2年(1233)から文明元年(1542)までの町指定の10体以上の板碑群が良好な環境で整備保管されています。
「大串山宝珠院観音寺」の板碑群
2007/01/10 撮影
凸御所堀(吉見町) 午後14時10分~午後15時00分
「伝源範頼館」のひとつとされる吉見丘陵北部の「御所堀」を目指して、西に吉見丘陵を眺めながら東側の大里比企広域農道を北上。
「農道」という名称とは裏腹に東松山と熊谷を結ぶ幹線のひとつとなっているため、大型車の通行が激しく、些か左折すべき個所を生きすぎる仕儀と相成りました。
大体の方角は分かっているので適当なところから左折して多少南へ戻り道幅の広そうな坂道を西上すると、「ポンポン山無料駐車場」に到達。
此処で改めて方向、現在位置を確認し「御所堀」との地名が残る一帯へと徒歩にて訪問。
現地は大きなビニールハウスが立ち並ぶ農業関係の研究施設が所在。
源範頼の馬場跡とされる地元の伝承と、地元の郷土史家の編纂した史料のひとつにかつては土塁・堀跡などが所在したとの記述があるとはいうものの、現在はそうした面影は全く認められず。
念のため付近を歩き回り西側に向かう浅い開析谷の辺りを記念撮影して無事作業完了。
御所堀
2007/01/10 撮影
凸ポンポン山-高負彦根神社(吉見町) 午後15時10分~午後15時40分
駐車場まで戻るついでに、「切り立った断崖で有名な高負彦根神社の所在するポンポン山」へも立ち寄ることに。
社殿裏の右手の坂道の途中では確かに「ポンポン」とまではいかないにせよ、「乾いた感じの幾分弾んだ音」がすることは確かにて。
奇岩の景観と絶景で有名な岩場から眺める景色は遮るものがないのでとても見事の一言ですが、危険であることを示した注意書き以外にはこれといった安全設備もなく「事故責任は自己責任」ということのようです。
絶壁の辺縁部からまともに落ちれば、よくて全身打撲と複雑骨折間違いなしという感じです。
然し、下から見上げた限りでは比高差は12メートルから15メートルほどと意外に少なく、秩父の諏訪城の舳先状の断崖に比べればまだしも一命をとりとめる可能性がありそうです。
神社境内の西側部分を堀切れば格好の砦・物見台となるかもしれませんが、何分その方面には広大かつ平坦な畑が一面に広がっておりました(笑)
ポンポン山-高負彦根神社
2007/01/10 撮影
凸武州松山城(吉見町) 午後16時00分~午後16時40分
本来は改めて後日再訪する所存でしたが、西側の雲が殆どなく日没までの時間的なゆとりも幾分あるのではと考え、再度予定変更して「武州松山城」の夕方の遠景撮影に赴くことに。
しかし最終的には結局自然に足が石段を登り始めて、気がつけば本郭の石碑の前にて日没と相成りました(笑)
近くまで赴くことは今までにいく度も。
しかし、実際に麓部分まで訪れたのは実に四十数年ぶりのことにて。
「百穴」と「城跡」はもう少し離れていたような記憶があったのですが。
子どものときの記憶は余り当てにはならないものです。
南側から撮影すると、外郭跡であった短大の建物が些か目障りにて。
結果的には市野側の右岸の堤防から撮影したものがよかったようですが、如何せん日没間際のため黄昏の侘しさが漂うのでありました。
武州松山城 西方より
2007/01/10 撮影
今年は少しだけ心を入替えて、珍しく予定した時刻に自宅を出発。
しかし途中で急遽目的地を微調整して、改めて羽尾堀の内(羽尾館)を訪れることに。
-暫定版のため打ち間違え多し-
凸羽尾堀の内(羽尾館) 午前10時15分~午前10時30分
この場所を訪れたのは、もう2年以上前のこと。
羽尾神社本殿の西側に堀跡状の遺構らしきものを目にして無邪気に喜んでいた当時が懐かしく脳裏に浮かぶ次第にて。
当時はさしたる中世城館遺構であるとの確証のないままに、関係図書などの記述を唯一の拠り所としていたのが実情なのでありました。
中世城館跡としての根拠は、地名として「堀の内」との小字名が残されていること、空堀と推定される「溝状地形」が遺されていること、および羽尾神社の所在する低位丘陵が在地支配の拠点として地形的に相応しい印象のあることなどによるものと考えられます。
その後何とか300ヶ所程度の県内の様々な中世城館跡を彷徨してきた体験から改めて観察すると、空堀遺構とはいっても「神社としての普請によるものか否か」という点については多少の疑問も介在。
人工地形であることは間違いのないものの、その時代背景を含めて近世地誌にも記される金光寺の羽尾城などの明確な二重土塁遺構などの存在に対比する限りでは甚だ心許ない印象が漂います。
また、以前は西側の空堀状の地形と接続していることから、単純に堀跡遺構に関連するとものと憶測していた経緯のある丘陵北側の水田との境界部分に所在する水路についても、果たして用水路なのか堀跡遺構なのか益々分からなくなってきたという誠に情けない次第。
その一方で、この個所よりも遥かに中世城館跡に相応しいような無名の個所をその周囲に確認していく中で、この「堀の内」の存在を捉えなおしてみると、やはり「羽尾七騎」と称された在地小領主階層との関連が改めて浮上してくるのでありました。
さて、この間に神社の由来を記した解説版もまた一段と風化して文字が読みづらく変貌。
羽尾神社の所在する丘陵先端部は熊谷、江南方面へ抜ける現在の熊谷松山有料道路、県道47号線の往還を見通すことのできる地理的条件を有するのどかな田園地帯でありました。
然しその田園風景も昨年(平成18年)のカインズホーム、ベイシアなどの大型ショッピンクセンターが北東400m地点に開店したことに伴い大きく変貌していました。
羽尾堀の内(羽尾館)
2007/01/08 撮影
凸ザルガヤト沼 午前10時35分~午前10時55分
前回は南側の稜線から探訪し、篠竹の余りに頑強な総構の前にすごすごと撤退した経緯が。
肝心のU字型の凹み部分には特別養護老人ホーム「森林園」が大規模な造成工事を伴い所在。
このため従前の地形の様子については最早推定することさえ困難な状態に。
東側の稜線を探索してみようとも思ったものの、またしてもあらゆる者の侵入を阻む例の篠竹が目に付いたので早々に断念を。
さて、滑川町の「沼地」自体を探訪することも目的の一つなので「沼、沼、沼」とブツブツと呟きながら「ザルガヤト沼」を捜索。
10分ほどを要して、職員の方々の駐車場の奥にやっと発見。
かくて羽尾地域で中世城館跡の可能性のありそうな個所はについてはほぼ確認完了。
老人ホームが所在する場所は北側を除く三方を丘陵に囲まれた地理的条件。
これが南側に面していれば中世城館の所在地としては格好の条件。
しかし、生憎と北側に開口した地形のためそうした可能性は僅少であると結論付けた次第であります。
ザルガヤト沼
2007/01/08 撮影
凸伊古大沼 午前11時15分~午後12時35分
冒頭から沼地へと進む細道を誤り、東側に所在する台沼と弁天沼を勘違いしたのが間違いの始まり。
小生とほぼ同年代と思われる農作業中の年配の女性に伺ったところ、さらに見当識を喪失するようなお話が。
「二ノ宮山」との位置関係はぴったり適合しているので、本来目指している「丘陵」そのものについては絶対に間違いのないところ。
さすれば此処は如何に...尤もよくよく考えれば、このあたりは嵐山町大字勝田(かちだ=中世文書の所領宛行状にも記される)と滑川町大字伊古の境界部分。
事の真相は勝田側の方面で伺ったことの失敗によるものと一人静かに反省を。
数百メートルと離れていない大きな灌漑沼の存在も、わずか小さな山ひとつ越えただけでその存在があやふやになるというご時勢であることを痛感致候。
先ほどの型のご了解を得て道路わきのスペースに1時間ほど車を停めさせていただき、徒歩にて目指すは比高差50m近い二ノ宮山北西の独立丘陵。
四駆なので無理すれば上がれるとは思ったものの、作業用の私道と思しき道路を痛めては社会的信義に反すること疑いなし。
よって、明確な軽トラックの轍の残る幅員2メートルほどの山道を徒歩にて登攀。
思ったとおり北側の斜面の傾斜がきつく山道はその斜面を掘り込んで斜めに登るという構造。
10分と上らないうちに稜線の平坦地部分にあっけなく到着。
木の枝に摑まりつつ登攀するような典型的藪こぎを想定していたこともあり、意外な展開に些か拍子抜けの感も。
平坦地は平場といえばそう見えなくもない南西の山頂から派生した2千平方メートルほどの北東に向けて緩い傾斜を示す広大な地形を形成。
事前の予想通りの結果として、西へと進めば小川町から江南町へ抜ける県道に突き当たるこの往還を眼下に見下ろすとともに、かつ江南町方面の中世城館群への往還さえも見通すことのできる「物見」としては格好の地形と立地条件。
「小屋」なども建て放題の広さで常時数十名くらいは起居可能な規模と推定。
無論二ノ宮山の方が遥かに標高が高いものの、この無名の小山の存在が障壁となり眼下の往還を見通すことは不可。
「堀切、堀切、堀切...」とまたもやブツブツと一人呟きながら踏み跡のない稜線に沿って山頂へ。
付近に誰もいるはずはないので、怪しまれる心配も皆無にて。
と、その時近くの茂みから生体反応と推定される「ガサガサ」というような大きな異音が...「猪年」とはいえ本物には余り出会いたくはないので、斯様な場合を想定し携行した鉈を取り出しつつ慎重に様子を窺いつつ枝を掻き分け前進。
おそらくは、カラスなどの大型の鳥の模様にて候。
嵐山町の境界杭が穿たれたあたりから尾根筋の山道は明瞭に。
しかし、当然のことながら地形的な弱点と解される西側の緩やかな尾根筋には「堀切」などの人工的地形改変の要素は全く見当たらず、山頂から比高差で15mほど下った個所にて探索を断念。
山頂付近の尾根筋自体も急傾斜が目立ち南北からの谷津も思ったよりも深く入り込み、そのあとで訪れた伊古大沼(勝田大沼)側の南側の急斜面では杉木立の中で時折凝灰岩質の露岩が顔をのぞかせる荒々しい景観を呈していたのでありました。
伊古大沼もその名のとおり大きな湖面に満々たる水を湛えてこの小山の何面をがっちりと防御しておりました。
伊古大沼(勝田大沼)
2007/01/08
撮影
凸和泉山崎 午後12時45分から13時10分
埼玉森林病院が所在する丘陵の東端部分に些かの関心が。
比高差はせいぜい20m弱という程度の規模にて。
しかし、北側の江南町へと抜ける往還とともに小川から熊谷方面に抜ける古道につながる往還も見下ろすことのできるという立地条件は「物見」の条件としてはなかなかのものと思われます。
古河公方と管領上杉氏との抗争、長尾景春の乱、長享年中の両上杉氏による抗争、後北条氏の武蔵中北部進出による越後上杉氏などとの抗争など何れの時代にかかわりを持ったのかについてはは史料・伝承の類もなく全く知る由もありません。
その中で、後世の記録ではありますが、唯一「豆相記」や「甲陽軍鑑」に山内(鉢形城を本拠)・扇谷(川越城を本拠)の両上杉氏の内乱である「長享年中の大乱」のころ、東方に隣接する滑川町福田郷にて両氏による合戦が行われたとの記述が存在。
この記述を信頼するとすれば、早ければ15世紀末の一時的な陣城との関わり、或いは後北条氏の支配が浸透していく16世紀中頃に「物見の砦」として利用された可能性も無きにしも非ずといったところです。
しかし何れにしてもそうした城館として利用されていた事実や時期を推定する史料を全く欠いています。
丘陵の先端部には地元の方の墓所を始めとして直径8メートル高さ1m弱の古墳上の地形なども所在。
南北方向の斜面は思いのほか急な個所も所在し地形状の特性は十分に評価できるものの、如何せん堀切などが所在すべき周辺には病院関係の建物が多数所在していて最早確認のしようがありません。
和泉山崎
2007/01/08 撮影
凸陣馬沼 午後13時20分から14時10分
さて、先ずは恒例どおりに入り口が分からず行き過ぎることに。
道路沿いから沼地の堰堤を見通せるような開けた地形を想像していたことが原因。
しかし実際には、決して幅の広いとは言いがたい水田の小さな谷津のおくが沼地の所在地。
向かって右側の畦道とも呼べないような個所から「陣馬沼」へ。
滑川町には数多の灌漑用水としての沼地が所在していますが、この場所は今までの中でもかなり分かりにくい立地条件。
この1月という季節にもかかわらず、堰堤の手前は鬱蒼とした杉木立などで覆われて奥の様子が皆目分からず。
加えて堰堤自体が経年変化により劣化しているようで満水の沼地の水を支えきれるのかという心配さえ。
どのあたりまでが沼地の岸辺か判然としない部分もあるので、まさに自己責任の世界。
最も安全と目されるやや見通しのよい高台の個所から沼地の様子を観察。
さて、沼地の東側には人工地形と思われるV字形の堀底状の道が所在し丘陵上の竹林へと続いていますが、城館地形の一部と考えるには明らかに中途半端な観が。
同様の地形は馬場跡と伝わる沼地西側の部分にも所在し、何れも沼地へと下るための掘下げた里道のようなものと解されます。
なお、この西側部分にも地元の方の墓所や小祠とともにかつての桑畑と思われる段差を有する畑が所在。
あらためて、畑の農地改良による造成地形であることを実感。
念のため北側の真竹・篠竹に覆われた竹藪を拝見、しかし当然具体的成果などあるはずなども無く。
但しこの場所は西側の谷津を挟んで向かい側に所在している三門館に近く、その堀跡の一部とも考えられなくも無い地形の所在するという丘陵地帯の南側に当たることも事実。
憶測を呼ぶ「陣馬沼」の地名の由来そのものも、何やら意味ありげな印象ではありました。
陣馬沼
2007/01/08 撮影
凸三門館(和泉陣城とも) 午後14時15分から14時30分
「陣馬沼」の西側の丘陵地帯に所在し、この場所も約2年ほど前に訪れた個所。
両足の膝がそろそろ限界に近づきつつあることから、東側のV字状の「竪堀」のみを再訪。
間近に眺めるのは2度目ですが、南北と東西方向に刻まれた堀跡が具体的にどのような戦術的意図を有していたのかは、不勉強のために今以て分からず仕舞い。
仮に神社への堀下げた参道の一部というにしては、大かがりな普請であることは恐らく間違いの無いところにて。
なお、地理的な配置関係から総合的に考えれば南側の「泉福寺の遺構」「陣馬沼付近」「和泉山崎」などと本来は一体的に利用されていた可能性も否定できないものと考えられますが、勿論あくまで地理的な要素のみの妄想に過ぎず、具体的な根拠に乏しい憶測なのであります。
憶測・妄想で頭の中が混乱の一途を辿る中、帰路の交通渋滞を考えて東側からの堀跡がはっきりと分かるような画像をデジカメに納めたのち早々に撤収を開始。
三門館(和泉陣城)
207/01/08 撮影
しかし途中で急遽目的地を微調整して、改めて羽尾堀の内(羽尾館)を訪れることに。
-暫定版のため打ち間違え多し-
凸羽尾堀の内(羽尾館) 午前10時15分~午前10時30分
この場所を訪れたのは、もう2年以上前のこと。
羽尾神社本殿の西側に堀跡状の遺構らしきものを目にして無邪気に喜んでいた当時が懐かしく脳裏に浮かぶ次第にて。
当時はさしたる中世城館遺構であるとの確証のないままに、関係図書などの記述を唯一の拠り所としていたのが実情なのでありました。
中世城館跡としての根拠は、地名として「堀の内」との小字名が残されていること、空堀と推定される「溝状地形」が遺されていること、および羽尾神社の所在する低位丘陵が在地支配の拠点として地形的に相応しい印象のあることなどによるものと考えられます。
その後何とか300ヶ所程度の県内の様々な中世城館跡を彷徨してきた体験から改めて観察すると、空堀遺構とはいっても「神社としての普請によるものか否か」という点については多少の疑問も介在。
人工地形であることは間違いのないものの、その時代背景を含めて近世地誌にも記される金光寺の羽尾城などの明確な二重土塁遺構などの存在に対比する限りでは甚だ心許ない印象が漂います。
また、以前は西側の空堀状の地形と接続していることから、単純に堀跡遺構に関連するとものと憶測していた経緯のある丘陵北側の水田との境界部分に所在する水路についても、果たして用水路なのか堀跡遺構なのか益々分からなくなってきたという誠に情けない次第。
その一方で、この個所よりも遥かに中世城館跡に相応しいような無名の個所をその周囲に確認していく中で、この「堀の内」の存在を捉えなおしてみると、やはり「羽尾七騎」と称された在地小領主階層との関連が改めて浮上してくるのでありました。
さて、この間に神社の由来を記した解説版もまた一段と風化して文字が読みづらく変貌。
羽尾神社の所在する丘陵先端部は熊谷、江南方面へ抜ける現在の熊谷松山有料道路、県道47号線の往還を見通すことのできる地理的条件を有するのどかな田園地帯でありました。
然しその田園風景も昨年(平成18年)のカインズホーム、ベイシアなどの大型ショッピンクセンターが北東400m地点に開店したことに伴い大きく変貌していました。
羽尾堀の内(羽尾館)
2007/01/08 撮影
凸ザルガヤト沼 午前10時35分~午前10時55分
前回は南側の稜線から探訪し、篠竹の余りに頑強な総構の前にすごすごと撤退した経緯が。
肝心のU字型の凹み部分には特別養護老人ホーム「森林園」が大規模な造成工事を伴い所在。
このため従前の地形の様子については最早推定することさえ困難な状態に。
東側の稜線を探索してみようとも思ったものの、またしてもあらゆる者の侵入を阻む例の篠竹が目に付いたので早々に断念を。
さて、滑川町の「沼地」自体を探訪することも目的の一つなので「沼、沼、沼」とブツブツと呟きながら「ザルガヤト沼」を捜索。
10分ほどを要して、職員の方々の駐車場の奥にやっと発見。
かくて羽尾地域で中世城館跡の可能性のありそうな個所はについてはほぼ確認完了。
老人ホームが所在する場所は北側を除く三方を丘陵に囲まれた地理的条件。
これが南側に面していれば中世城館の所在地としては格好の条件。
しかし、生憎と北側に開口した地形のためそうした可能性は僅少であると結論付けた次第であります。
ザルガヤト沼
2007/01/08 撮影
凸伊古大沼 午前11時15分~午後12時35分
冒頭から沼地へと進む細道を誤り、東側に所在する台沼と弁天沼を勘違いしたのが間違いの始まり。
小生とほぼ同年代と思われる農作業中の年配の女性に伺ったところ、さらに見当識を喪失するようなお話が。
「二ノ宮山」との位置関係はぴったり適合しているので、本来目指している「丘陵」そのものについては絶対に間違いのないところ。
さすれば此処は如何に...尤もよくよく考えれば、このあたりは嵐山町大字勝田(かちだ=中世文書の所領宛行状にも記される)と滑川町大字伊古の境界部分。
事の真相は勝田側の方面で伺ったことの失敗によるものと一人静かに反省を。
数百メートルと離れていない大きな灌漑沼の存在も、わずか小さな山ひとつ越えただけでその存在があやふやになるというご時勢であることを痛感致候。
先ほどの型のご了解を得て道路わきのスペースに1時間ほど車を停めさせていただき、徒歩にて目指すは比高差50m近い二ノ宮山北西の独立丘陵。
四駆なので無理すれば上がれるとは思ったものの、作業用の私道と思しき道路を痛めては社会的信義に反すること疑いなし。
よって、明確な軽トラックの轍の残る幅員2メートルほどの山道を徒歩にて登攀。
思ったとおり北側の斜面の傾斜がきつく山道はその斜面を掘り込んで斜めに登るという構造。
10分と上らないうちに稜線の平坦地部分にあっけなく到着。
木の枝に摑まりつつ登攀するような典型的藪こぎを想定していたこともあり、意外な展開に些か拍子抜けの感も。
平坦地は平場といえばそう見えなくもない南西の山頂から派生した2千平方メートルほどの北東に向けて緩い傾斜を示す広大な地形を形成。
事前の予想通りの結果として、西へと進めば小川町から江南町へ抜ける県道に突き当たるこの往還を眼下に見下ろすとともに、かつ江南町方面の中世城館群への往還さえも見通すことのできる「物見」としては格好の地形と立地条件。
「小屋」なども建て放題の広さで常時数十名くらいは起居可能な規模と推定。
無論二ノ宮山の方が遥かに標高が高いものの、この無名の小山の存在が障壁となり眼下の往還を見通すことは不可。
「堀切、堀切、堀切...」とまたもやブツブツと一人呟きながら踏み跡のない稜線に沿って山頂へ。
付近に誰もいるはずはないので、怪しまれる心配も皆無にて。
と、その時近くの茂みから生体反応と推定される「ガサガサ」というような大きな異音が...「猪年」とはいえ本物には余り出会いたくはないので、斯様な場合を想定し携行した鉈を取り出しつつ慎重に様子を窺いつつ枝を掻き分け前進。
おそらくは、カラスなどの大型の鳥の模様にて候。
嵐山町の境界杭が穿たれたあたりから尾根筋の山道は明瞭に。
しかし、当然のことながら地形的な弱点と解される西側の緩やかな尾根筋には「堀切」などの人工的地形改変の要素は全く見当たらず、山頂から比高差で15mほど下った個所にて探索を断念。
山頂付近の尾根筋自体も急傾斜が目立ち南北からの谷津も思ったよりも深く入り込み、そのあとで訪れた伊古大沼(勝田大沼)側の南側の急斜面では杉木立の中で時折凝灰岩質の露岩が顔をのぞかせる荒々しい景観を呈していたのでありました。
伊古大沼もその名のとおり大きな湖面に満々たる水を湛えてこの小山の何面をがっちりと防御しておりました。
伊古大沼(勝田大沼)
2007/01/08
撮影
凸和泉山崎 午後12時45分から13時10分
埼玉森林病院が所在する丘陵の東端部分に些かの関心が。
比高差はせいぜい20m弱という程度の規模にて。
しかし、北側の江南町へと抜ける往還とともに小川から熊谷方面に抜ける古道につながる往還も見下ろすことのできるという立地条件は「物見」の条件としてはなかなかのものと思われます。
古河公方と管領上杉氏との抗争、長尾景春の乱、長享年中の両上杉氏による抗争、後北条氏の武蔵中北部進出による越後上杉氏などとの抗争など何れの時代にかかわりを持ったのかについてはは史料・伝承の類もなく全く知る由もありません。
その中で、後世の記録ではありますが、唯一「豆相記」や「甲陽軍鑑」に山内(鉢形城を本拠)・扇谷(川越城を本拠)の両上杉氏の内乱である「長享年中の大乱」のころ、東方に隣接する滑川町福田郷にて両氏による合戦が行われたとの記述が存在。
この記述を信頼するとすれば、早ければ15世紀末の一時的な陣城との関わり、或いは後北条氏の支配が浸透していく16世紀中頃に「物見の砦」として利用された可能性も無きにしも非ずといったところです。
しかし何れにしてもそうした城館として利用されていた事実や時期を推定する史料を全く欠いています。
丘陵の先端部には地元の方の墓所を始めとして直径8メートル高さ1m弱の古墳上の地形なども所在。
南北方向の斜面は思いのほか急な個所も所在し地形状の特性は十分に評価できるものの、如何せん堀切などが所在すべき周辺には病院関係の建物が多数所在していて最早確認のしようがありません。
和泉山崎
2007/01/08 撮影
凸陣馬沼 午後13時20分から14時10分
さて、先ずは恒例どおりに入り口が分からず行き過ぎることに。
道路沿いから沼地の堰堤を見通せるような開けた地形を想像していたことが原因。
しかし実際には、決して幅の広いとは言いがたい水田の小さな谷津のおくが沼地の所在地。
向かって右側の畦道とも呼べないような個所から「陣馬沼」へ。
滑川町には数多の灌漑用水としての沼地が所在していますが、この場所は今までの中でもかなり分かりにくい立地条件。
この1月という季節にもかかわらず、堰堤の手前は鬱蒼とした杉木立などで覆われて奥の様子が皆目分からず。
加えて堰堤自体が経年変化により劣化しているようで満水の沼地の水を支えきれるのかという心配さえ。
どのあたりまでが沼地の岸辺か判然としない部分もあるので、まさに自己責任の世界。
最も安全と目されるやや見通しのよい高台の個所から沼地の様子を観察。
さて、沼地の東側には人工地形と思われるV字形の堀底状の道が所在し丘陵上の竹林へと続いていますが、城館地形の一部と考えるには明らかに中途半端な観が。
同様の地形は馬場跡と伝わる沼地西側の部分にも所在し、何れも沼地へと下るための掘下げた里道のようなものと解されます。
なお、この西側部分にも地元の方の墓所や小祠とともにかつての桑畑と思われる段差を有する畑が所在。
あらためて、畑の農地改良による造成地形であることを実感。
念のため北側の真竹・篠竹に覆われた竹藪を拝見、しかし当然具体的成果などあるはずなども無く。
但しこの場所は西側の谷津を挟んで向かい側に所在している三門館に近く、その堀跡の一部とも考えられなくも無い地形の所在するという丘陵地帯の南側に当たることも事実。
憶測を呼ぶ「陣馬沼」の地名の由来そのものも、何やら意味ありげな印象ではありました。
陣馬沼
2007/01/08 撮影
凸三門館(和泉陣城とも) 午後14時15分から14時30分
「陣馬沼」の西側の丘陵地帯に所在し、この場所も約2年ほど前に訪れた個所。
両足の膝がそろそろ限界に近づきつつあることから、東側のV字状の「竪堀」のみを再訪。
間近に眺めるのは2度目ですが、南北と東西方向に刻まれた堀跡が具体的にどのような戦術的意図を有していたのかは、不勉強のために今以て分からず仕舞い。
仮に神社への堀下げた参道の一部というにしては、大かがりな普請であることは恐らく間違いの無いところにて。
なお、地理的な配置関係から総合的に考えれば南側の「泉福寺の遺構」「陣馬沼付近」「和泉山崎」などと本来は一体的に利用されていた可能性も否定できないものと考えられますが、勿論あくまで地理的な要素のみの妄想に過ぎず、具体的な根拠に乏しい憶測なのであります。
憶測・妄想で頭の中が混乱の一途を辿る中、帰路の交通渋滞を考えて東側からの堀跡がはっきりと分かるような画像をデジカメに納めたのち早々に撤収を開始。
三門館(和泉陣城)
207/01/08 撮影
先月の23日以来ろくな運動もせず、めっきりと気力・記憶力も失せ、心肺機能は落ちる一方の昨今故になおさらのことにて。
昨年同様の「秩父方面山城漬け...」とまでは行かないにしても、運動不足解消も兼ねてそろそろ明日あたりには訪城しなくては。
当面の行動予定としては、関係資料が準備できているだけでもざっと
①滑川の丘陵地帯(15ヶ所)
②飯能市の山中(6ヶ所)
③横瀬町方面(3ヶ所)
④例の贄川方面を含む秩父地域(8ヶ所)
⑤金讃御嶽を始めとした神川町、上里方面(10ヶ所)
⑥日高市方面(5ヶ所)
⑦杉戸、幸手方面(8ヶ所)
⑧坂戸市の未訪城地域(10ヶ所)
⑨最近ピックアップした小川町の槻川沿いの無名丘陵地帯など(5ヶ所)
「埼玉の中世城館跡」に掲載されている個所はこのうち6割ほど。
そうは申しても歴史的根拠、伝承なども皆無に近く、僅かに立地条件や地形状の特徴からから踏査するようなところばかりにございます。
かような次第で一応今年の4月上旬までを目安として、このうち一体どれから手をつけてよいものやら。
正月ボケに加えて本物のボケも混入してきた兆候も。
愈々以って頭が混乱する一方にて御座候。
昨年同様の「秩父方面山城漬け...」とまでは行かないにしても、運動不足解消も兼ねてそろそろ明日あたりには訪城しなくては。
当面の行動予定としては、関係資料が準備できているだけでもざっと
①滑川の丘陵地帯(15ヶ所)
②飯能市の山中(6ヶ所)
③横瀬町方面(3ヶ所)
④例の贄川方面を含む秩父地域(8ヶ所)
⑤金讃御嶽を始めとした神川町、上里方面(10ヶ所)
⑥日高市方面(5ヶ所)
⑦杉戸、幸手方面(8ヶ所)
⑧坂戸市の未訪城地域(10ヶ所)
⑨最近ピックアップした小川町の槻川沿いの無名丘陵地帯など(5ヶ所)
「埼玉の中世城館跡」に掲載されている個所はこのうち6割ほど。
そうは申しても歴史的根拠、伝承なども皆無に近く、僅かに立地条件や地形状の特徴からから踏査するようなところばかりにございます。
かような次第で一応今年の4月上旬までを目安として、このうち一体どれから手をつけてよいものやら。
正月ボケに加えて本物のボケも混入してきた兆候も。
愈々以って頭が混乱する一方にて御座候。