本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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2年半ぶりに職場の友人とともに再訪。
当初は「吉野砦」(小川町)の複数の比定地を虱潰しに探索する予定。
然しそれでは藪潜りの連続技となることは必定。
整備が進んでいるとの「杉山城」(嵐山町)を皮切りに、「中城」(小川町)、「八幡台遺跡」(同)、「吉野砦」(同)を予定。
ところが以前と比べて杉山城の遺構状態が余りにも明確に変貌。
このため予想以上に滞在時間が長引き吉野砦は後日に順延することとした次第。
それでもおよその地形配置だけは「鬼うどん」で昼食をしたついでに確認完了。
凸杉山城 (比企郡嵐山町) 午前9時20分から午後0時30分まで
国の史跡指定申請前祝と同行者の希望を兼ねて正式には2度目の訪城。
尤も前回は2004年の9月15日なので約2年半ぶりかと。
杉山城大手口付近
2007/03/04 撮影
以前との大きな違いは、
①各郭ごとに手作り風の解説板が設置されたので、現在自分がどの個所に居るのが非常に分かりやすくなった。
②季節の違いと合わせて、竹林などの伐採がすすみ城郭としての地形の特徴が手に取るように把握できる。
③以前は東側の郭は雑草のためその地形的な特徴が全く分からず仕舞い。しかし今回は草が蔓延っていないので東郭の地形が明確に確認できた。
④北側の2ヶ所の郭および搦め手方面の見通しが大きく改善された。
など遺構としての保存状態の良さが改めて浮かび上がることに。
「杉山城」の外郭北端部から
の南郭と屏風折状の空堀
いずれにせよ、まさに「杉山城保存会」「嵐山町教育委員会」の方々の努力の賜物。
通称大手口の備え・仕掛けの固さも実に分かりやすく同行者と共に感動。
余りに嬉しかったので当初の予定をオーバーして3時間近くも滞在し、堀底道や郭配置の複雑な構造を堪能。
発掘調査の結果、戦国時代の初めの一時期しか利用されなかったとの考古学的考察が公表。
しかし遺構の保存状態から想定すると、16世紀末あたりまで松山城の支城として活用されていても良さそうにも思える次第。
南郭と空堀
2007/03/04 撮影
さて今後は見通しのよくなった分、郭・土塁の崩落や空堀・堀切の埋没などの対策などの適切な管理が課題となっていくのでありましょう。
なお、帰りがけに「お城ML」のメンバーに遭遇。
また日曜日ということもあり、そのほかの見学者の方もちらほら。
やや汗ばむくらいのポカポカ陽気でしたが、風もなく絶好の訪城日和なのでありました。
「杉山城」本郭の土塁上
から眺めた「東の郭」
2007/03/04 撮影
凸中城(比企郡小川町) 午後1時50分から午後3時30分
こちらも2004年9月23日以来の再訪。
日曜日なので迷惑とは思いつつも路上駐車できるような場所もないので、町立図書館に車を止めて東側の民家の間から崖を昇る正規のルートよりアプローチ。
郭内から見た西側土塁
2007/03/04 撮影
改めて堀底から見上げる土塁の高さが最大4m以上を有することを確認し、当地が市街地の中であることを忘れてしまうのであります。
前回はパスした堀底道部分も今回は全て確認。
折から郭内のテニスコートでは軟式テニスの練習中。
やはり相変わらずテニスコートと中世城館遺構は相容れないという印象も。
「中城」の西側土塁
2007/03/04 撮影
凸八幡台遺跡 (比企郡小川町) 午後3時40分から午後4時00分まで
宅地開発に伴う発掘により、幅5メートルほどのL型の空堀跡などの所在が確認され「中城」と遺構と関連があると考えられている地点。
これらの遺構が本来一体のものであるとすれば「中城」の規模は南北方向に200mを超える現在の2倍以上の規模となることが推定されます。
したがって、現在のテニスコートを中心とした遺構は郭群のひとつを構成していたとも考えることができるような。
またさらに憶測を働かせると西側部分も西側約200mの白山神社、あるいは更に200m以上西側の南東側に開いた谷の所在する増尾地区の境辺りまでの丘陵を占有していた可能性もあるやも知れず。
「八幡台遺跡」
2007/03/04 撮影
凸八幡神社の土塁ほか (比企郡小川町) 午後4時05分から午後4時20分まで
近世の流鏑馬の儀式のための土塁跡で八幡神社の南側の町道沿いに高さ約1.2m、長さ150mにわたって所在しています。
さて、南北を兜川と槻川に挟まれた広大な八幡台の中心部に所在する八幡神社もなにやらいわくありげに。
東西南北共に100mを超える位置する広大な境内で、強いていえば東側の民家の前には長さ15m、高さ0.8mほどの小さな土塁も所在。
歴史の謎に包まれた一帯と形容しても良さそうな佇まいを見せておりました。
「流鏑馬の土塁」
2007/03/04 撮影
このあと南側の穴八幡古墳に立ち寄り、春霞と夕方の逆光のために霞んで見える腰越城の本郭を眺めて帰還。
同行者共々そう若くはないので些か足に疲労が蓄積。
このためやや重たい足取りでトボトボと町立図書館の駐車場を目指したのでありました。
穴八幡古墳
2007/03/04 撮影
当初は「吉野砦」(小川町)の複数の比定地を虱潰しに探索する予定。
然しそれでは藪潜りの連続技となることは必定。
整備が進んでいるとの「杉山城」(嵐山町)を皮切りに、「中城」(小川町)、「八幡台遺跡」(同)、「吉野砦」(同)を予定。
ところが以前と比べて杉山城の遺構状態が余りにも明確に変貌。
このため予想以上に滞在時間が長引き吉野砦は後日に順延することとした次第。
それでもおよその地形配置だけは「鬼うどん」で昼食をしたついでに確認完了。
凸杉山城 (比企郡嵐山町) 午前9時20分から午後0時30分まで
国の史跡指定申請前祝と同行者の希望を兼ねて正式には2度目の訪城。
尤も前回は2004年の9月15日なので約2年半ぶりかと。
杉山城大手口付近
2007/03/04 撮影
以前との大きな違いは、
①各郭ごとに手作り風の解説板が設置されたので、現在自分がどの個所に居るのが非常に分かりやすくなった。
②季節の違いと合わせて、竹林などの伐採がすすみ城郭としての地形の特徴が手に取るように把握できる。
③以前は東側の郭は雑草のためその地形的な特徴が全く分からず仕舞い。しかし今回は草が蔓延っていないので東郭の地形が明確に確認できた。
④北側の2ヶ所の郭および搦め手方面の見通しが大きく改善された。
など遺構としての保存状態の良さが改めて浮かび上がることに。
「杉山城」の外郭北端部から
の南郭と屏風折状の空堀
いずれにせよ、まさに「杉山城保存会」「嵐山町教育委員会」の方々の努力の賜物。
通称大手口の備え・仕掛けの固さも実に分かりやすく同行者と共に感動。
余りに嬉しかったので当初の予定をオーバーして3時間近くも滞在し、堀底道や郭配置の複雑な構造を堪能。
発掘調査の結果、戦国時代の初めの一時期しか利用されなかったとの考古学的考察が公表。
しかし遺構の保存状態から想定すると、16世紀末あたりまで松山城の支城として活用されていても良さそうにも思える次第。
南郭と空堀
2007/03/04 撮影
さて今後は見通しのよくなった分、郭・土塁の崩落や空堀・堀切の埋没などの対策などの適切な管理が課題となっていくのでありましょう。
なお、帰りがけに「お城ML」のメンバーに遭遇。
また日曜日ということもあり、そのほかの見学者の方もちらほら。
やや汗ばむくらいのポカポカ陽気でしたが、風もなく絶好の訪城日和なのでありました。
「杉山城」本郭の土塁上
から眺めた「東の郭」
2007/03/04 撮影
凸中城(比企郡小川町) 午後1時50分から午後3時30分
こちらも2004年9月23日以来の再訪。
日曜日なので迷惑とは思いつつも路上駐車できるような場所もないので、町立図書館に車を止めて東側の民家の間から崖を昇る正規のルートよりアプローチ。
郭内から見た西側土塁
2007/03/04 撮影
改めて堀底から見上げる土塁の高さが最大4m以上を有することを確認し、当地が市街地の中であることを忘れてしまうのであります。
前回はパスした堀底道部分も今回は全て確認。
折から郭内のテニスコートでは軟式テニスの練習中。
やはり相変わらずテニスコートと中世城館遺構は相容れないという印象も。
「中城」の西側土塁
2007/03/04 撮影
凸八幡台遺跡 (比企郡小川町) 午後3時40分から午後4時00分まで
宅地開発に伴う発掘により、幅5メートルほどのL型の空堀跡などの所在が確認され「中城」と遺構と関連があると考えられている地点。
これらの遺構が本来一体のものであるとすれば「中城」の規模は南北方向に200mを超える現在の2倍以上の規模となることが推定されます。
したがって、現在のテニスコートを中心とした遺構は郭群のひとつを構成していたとも考えることができるような。
またさらに憶測を働かせると西側部分も西側約200mの白山神社、あるいは更に200m以上西側の南東側に開いた谷の所在する増尾地区の境辺りまでの丘陵を占有していた可能性もあるやも知れず。
「八幡台遺跡」
2007/03/04 撮影
凸八幡神社の土塁ほか (比企郡小川町) 午後4時05分から午後4時20分まで
近世の流鏑馬の儀式のための土塁跡で八幡神社の南側の町道沿いに高さ約1.2m、長さ150mにわたって所在しています。
さて、南北を兜川と槻川に挟まれた広大な八幡台の中心部に所在する八幡神社もなにやらいわくありげに。
東西南北共に100mを超える位置する広大な境内で、強いていえば東側の民家の前には長さ15m、高さ0.8mほどの小さな土塁も所在。
歴史の謎に包まれた一帯と形容しても良さそうな佇まいを見せておりました。
「流鏑馬の土塁」
2007/03/04 撮影
このあと南側の穴八幡古墳に立ち寄り、春霞と夕方の逆光のために霞んで見える腰越城の本郭を眺めて帰還。
同行者共々そう若くはないので些か足に疲労が蓄積。
このためやや重たい足取りでトボトボと町立図書館の駐車場を目指したのでありました。
穴八幡古墳
2007/03/04 撮影
今週の19日(月)の帰途は来月3月中旬以降に探訪を予定している越生町を経由。
時々見通しの良い個所で車を停めて周囲の地形を観察。
然し何故今まで「高取山城」に出かけていなかったのか自分でもよく分からず。
平地の城館跡からスタートしていたこともあり、一昨年の秋ぐらいまでは攻略に時間と体力を要する山城を敬遠していたことも偽らざる事実にて。
なまじ昔少しばかり山歩きをしていたことが災いして、「山=道に迷う=遭難」という三段論法の図式が頭に浮かび必要以上にナーバスとなっていた感も無きにしも非ず(苦笑)
ところで遺構としての残存状況は断然山城の方が良いというのが一般的常識。
このことさえも実を申せば試行錯誤の累積により牛の歩みの如くに理解し始めたのはごく最近のこと(冷汗)
自ずから限られた体力、気力、記憶力を可能な限り効率的に配分することを心がけ、今後どれくらいの城館跡を訪れることができるかどうかについては取りあえず未知数としておきたい昨今なのでありました。
無名戦士の墓へ向かう遊歩道より
高取山城を望む
2007/02/19 撮影
日没直前のためASA400を選択
時々見通しの良い個所で車を停めて周囲の地形を観察。
然し何故今まで「高取山城」に出かけていなかったのか自分でもよく分からず。
平地の城館跡からスタートしていたこともあり、一昨年の秋ぐらいまでは攻略に時間と体力を要する山城を敬遠していたことも偽らざる事実にて。
なまじ昔少しばかり山歩きをしていたことが災いして、「山=道に迷う=遭難」という三段論法の図式が頭に浮かび必要以上にナーバスとなっていた感も無きにしも非ず(苦笑)
ところで遺構としての残存状況は断然山城の方が良いというのが一般的常識。
このことさえも実を申せば試行錯誤の累積により牛の歩みの如くに理解し始めたのはごく最近のこと(冷汗)
自ずから限られた体力、気力、記憶力を可能な限り効率的に配分することを心がけ、今後どれくらいの城館跡を訪れることができるかどうかについては取りあえず未知数としておきたい昨今なのでありました。
無名戦士の墓へ向かう遊歩道より
高取山城を望む
2007/02/19 撮影
日没直前のためASA400を選択
昨日は越生方面に向かうべく、小川町の「青山城」の近くの県道を通過したので麓から記念撮影。
付近に車を停めるような適当な場所がないため、どうしても「青山簡易郵便局」の建物の見える同じ位置からの撮影となってしまいました。
足が元気なうちに、一度は仙元山から「青山城」「物見山」「小倉城」と縦走を試みたいのはやまやまにて。
正味にして3時間30分、探索時間を含めても6時間もあれば十分かと。
然し、現状では途中で膝に来ることは間違いがなく..飯能の日和田山から越生の無名戦士の墓まで地図と方位磁石を頼りに約6時間で歩き通せた35年前の自分がとても懐かしいのでありました。
「青山城」(比企郡小川町)
2007/02/19 撮影
付近に車を停めるような適当な場所がないため、どうしても「青山簡易郵便局」の建物の見える同じ位置からの撮影となってしまいました。
足が元気なうちに、一度は仙元山から「青山城」「物見山」「小倉城」と縦走を試みたいのはやまやまにて。
正味にして3時間30分、探索時間を含めても6時間もあれば十分かと。
然し、現状では途中で膝に来ることは間違いがなく..飯能の日和田山から越生の無名戦士の墓まで地図と方位磁石を頼りに約6時間で歩き通せた35年前の自分がとても懐かしいのでありました。
「青山城」(比企郡小川町)
2007/02/19 撮影
本日はお日柄もよく且つ振替休みのため、予定通り小川町方面へ出動と相成りました。
何時ものこととて自宅を出たのは午前10時前にて。
凸(仮称)鷹巣山(小川町) 午前11時30分~午後12時45分 比高差約70m(道なし)
小川町北東の鷹巣地区所在する関越道や町道などにより囲まれた一角で標高139.6mの独立丘陵。
正式な名称が不明なため、便宜上「鷹巣山」と呼称することに。
関越自動車道の嵐山パーキングエリア下り線から眺めると、その北側にひときわ大きく聳えつつもなだらかな裾野を広げたような山容であるため以前より気になっていた場所。
南側から眺めた鷹巣山
2007/02/19 撮影
市野川とその北側を流れる支流に挟まれた「杉山城」「越畑城」「谷津城」などが所在する標高100m前後を測る丘陵の北西の端に所在。
東西約400m、南北約300mほどの領域を有し、おそらくは丘陵の中での最高地点を形成しているものと推定。
また随所に深い侵食谷を伴うため意外に山懐が深いものの、されとて方向を見失うほどの地形の複雑さはなさそうかと判断。
地図上からではすぐに所在地が分かるものと安易に考えていたものの、東側からの道路が通行止めのため北側から大きく迂回することとなり、関越道の47号地下道付近の道路脇に駐車。
一日当りの通行車両は間違いなく20台未満と思われる人里はなれた地域で、このため山の呼称くらいは何とか情報収集しようと試みたものの以前からの人家は皆無のためあえなくく断念した次第。
倒木や木の枝が散乱しているため車の通行は困難かつ危険につき、全く人気のない関越の側道をすぐ脇を高速で通過する車両に追い抜かれながら南東に300mほど徒歩にて移動。
46号地下道の個所から沼地沿いの山道を北東方向に進むことに。
名称不詳の沼地の堰堤からはちょうど笠山・堂平山を真正面に見るというなかなかの眺望。
さて、当初の予想通り山道は沼地の先端部分で次第に消滅の様相...しかし、尾根筋に登る踏跡を見つけてやがて細長い稜線へ。
南東側の沼地
(西側から)
2007/02/19 撮影
南東側の沼地
(南側の堰堤から)
2007/02/19 撮影
篠竹の密生する稜線を時々現れる踏跡を確認しつつ、篠竹を避けるべく幾分東へと迂回して漸く谷筋が三方より迫る峠状の地形部分へと到達。
横矢がかりの稜線への道(笑)
207/02/19 撮影
この部分から眺めた北側一帯(鷹巣山東側の稜線)は明らかに尾根筋の大半が土砂の採掘などにより地形が改変されている様子がありありと。
山頂方面と土砂の採掘跡
2007/02/19 撮影
南東側からのアプローチなので篠竹は少ないと思ったのが大きな誤りにて。
また、山頂の南東側の稜線にはやや人工的な印象の地形も所在。
然し、おそらくは土砂の採掘に関連するものと推定。
やや人工的な地形
2007/02/19 撮影
ここからは比高差約30m、直線距離にして120mの背丈を越える篠竹が密生する個所を黙々と前進することに。
およその方向と現在位置は把握できるものの前後左右の見通しが利かず、とにかく斜面の傾斜を唯一の頼りに一路山頂へ。
所々かつて篠竹を伐採した個所があるものの、結果的にこれが地面から突き出た無数の竹槍のような按配に。
足元と目の負傷に入念な注意を払いつつも、一度だけ根性の曲がった篠竹に足を取られて転倒。
悪運が強いもので篠竹の竹槍攻撃を避け、右手の薬指の爪が割れた程度の被害のみ。
せっかく救急用品セット(包帯、捻挫用のテープ、傷薬、消毒薬、ガーゼ、ピンセット、鋏、刺抜き、バンドエイド各種)を持参しているので簡単な応急手当を実施。
人気の全くない山中で色々な意味で暫し満足感に浸ることに(苦笑)
悪戦苦闘の末、漸く到達した山頂にはこれといった地形状の特徴もなくひたすらなだらかな地形が展開している様子にて。
「平場」というよりも自然地形の平坦地で南側の一部を除けば概ねなだらかな斜面であることが窺えるような状態。
とりもなおさず山頂部分も篠竹の叢生により眺望は無きに等しく、唯一大正時代の山岳信仰と密教の融合?とも推定される大日如来の文字が刻まれた石碑が所在していたのがせめてもの慰めかと。
近代のものとはいえ、少なくとも信仰の対象物を祀るような山であったことは確かということで。
山頂の大日如来の石碑
帰路は同じルートを戻るよりも北側の谷沿いに下るほうが篠竹が少ないことが明らかなので、谷川に落ちないように注意を払いながら北側の山麓へ。
また山頂周辺はこの地域特有の篠竹の藪が密生しているため眺望は殆んどなく、かつその植生から考慮して南側から登ったにも拘わらず行動の自由さえ規制されることとなった次第。
結果的にはこの谷を遡及して途中から直登した方が篠竹も少なく歩きやすいことが判明。
滑川の丘陵地帯にひき続いて、またしても「無名低山紀行」のような様相を呈し始めたのでありました。
凸富士山(小川町角山) 午前11時30分~午後12時45分 標高182.1m 比高差約80m(道あり)
小川町に所在するその名も富士山。
兜川を挟んだ南麓に所在する小川町駅の中心部から眺めると確かに富士山のように見えなくもない小山。
南東側の参道から登るのが正しいアプローチの模様。
しかし、時間の節約のためみどりヶ丘1丁目の閑散とした分譲地側から接近。
山頂の手前には町営水道の大きな給水タンク。
狭い山頂にはテレビ埼玉の電波塔が所在し山岳信仰の石碑はその傍らにひっそりと鎮座。
確かに山頂からの南西方向の眺望は悪くはないものの南東部、東部、北部といくつもの尾根が派生しているために当初思っていたよりも絶景には非ず。
角山の「富士山」
北西側の「みどりヶ丘の歩道橋」より
2007/02/19
撮影
遺構の存在などの具体的な確証があってのことではなく、その名称と展望の様子に関心があっただけのことにて。
帰路は北側の比較的明瞭な道が続く東西が切り立った深い谷を伴う細長いヤセ尾根を下山。
この尾根筋には人工地形か自然地形かの区別に迷う平坦な部分が何ヶ所か所在しているものの、備えがあるとすれば南側の方と決め付けて余り気にせずに通過(汗)
凸蟹沢遺跡(小川町大塚蟹沢) 午後14時05分~午後14時10分
兜川右岸の民家の西側に所在する土塁。
高さ最大1.5m、延長約30mの規模。
館跡が存在したという伝承・記録の類は存在せず、堀跡の痕跡も確認できない歴史的経緯不明な構築物とのこと。
蟹沢遺跡
2007/02/19
撮影
「小川町史・考古資料編」で指摘しているように兜川上流にあたる西側に位置していることから、河川の氾濫のための堤防のような防備対策によるものという推測が有力なのかもしれません。
然し氾濫する河川の堤防代わりとしての構築物にしては些か中途半端な規模であり、また一方中世の館跡であるならば立地条件としてはより安全な台地(「中城」)や山腹(「伝竹沢次郎館」)のような個所を選定するものと推定されます。
凸伝竹沢二郎館(小川町靱負上ノ山345番地ほか) 午後14時30分~午後15時10分
兜川左岸の上ノ山の標高117mから140m付近の谷津状の山腹に所在。
雲竜寺とその奥の熊野神社を含む谷間が竹沢氏の館跡と推定されているとのことであります。
尾根の間の谷筋に概ね一列に並んだ5段ほどの平場から構成された館跡ということなので、訪れる前には森閑とした場所が脳裏に浮かんでおりました。
伝竹沢二郎館
2007/02/19 撮影
然し元来が南側斜面であることに加えて、下方から向かって左側の尾根筋の樹木が見事に伐採されているという事情も重なり、燦々と太陽の光を浴びた矢鱈に明るい光景が目前に展開し些か面食らうことに。
また、墓地脇に所在する老朽化した合板製の説明板は最早崩壊寸前の危機なのでありました。
長年の風雪に耐えてきた現地解説板
2007/02/19 撮影
さて、地元出身の家内にこの館跡のことを尋ねたところ、木で鼻をくくるが如くまるで知らないとのご回答。
実家から見える「腰越城」でさえもよく分からない者が知る由もないのでありますが、そういえば「竹沢君」という同級生がいたとのこと。
閑話休題。
探訪中に尾根筋の向こう側から飼い犬と見られる鳴声が寸断なく聞こえてくるので、この山の中で犬の散歩でもさせている酔狂な御仁がおいでになるのかとも。
さて如何なる事情によるものかと地図をよくよく眺めてみると、尾根筋の北側にはかねてより見知っていた長らくローソンのコンビニしか所在していなかった閑散とした宅地分譲地の一帯が展開しておりました。
最近になって某有力企業の進出決定により漸くにして数軒の住宅が建ち始めた由。
かくして犬の鳴声の発生源が解明。
この後3月中旬以降に訪城予定の越生方面の下見に。
途中「青山城」「高取山城」の遠景などを撮影して鶴ヶ島経由で帰宅。
何時ものこととて自宅を出たのは午前10時前にて。
凸(仮称)鷹巣山(小川町) 午前11時30分~午後12時45分 比高差約70m(道なし)
小川町北東の鷹巣地区所在する関越道や町道などにより囲まれた一角で標高139.6mの独立丘陵。
正式な名称が不明なため、便宜上「鷹巣山」と呼称することに。
関越自動車道の嵐山パーキングエリア下り線から眺めると、その北側にひときわ大きく聳えつつもなだらかな裾野を広げたような山容であるため以前より気になっていた場所。
南側から眺めた鷹巣山
2007/02/19 撮影
市野川とその北側を流れる支流に挟まれた「杉山城」「越畑城」「谷津城」などが所在する標高100m前後を測る丘陵の北西の端に所在。
東西約400m、南北約300mほどの領域を有し、おそらくは丘陵の中での最高地点を形成しているものと推定。
また随所に深い侵食谷を伴うため意外に山懐が深いものの、されとて方向を見失うほどの地形の複雑さはなさそうかと判断。
地図上からではすぐに所在地が分かるものと安易に考えていたものの、東側からの道路が通行止めのため北側から大きく迂回することとなり、関越道の47号地下道付近の道路脇に駐車。
一日当りの通行車両は間違いなく20台未満と思われる人里はなれた地域で、このため山の呼称くらいは何とか情報収集しようと試みたものの以前からの人家は皆無のためあえなくく断念した次第。
倒木や木の枝が散乱しているため車の通行は困難かつ危険につき、全く人気のない関越の側道をすぐ脇を高速で通過する車両に追い抜かれながら南東に300mほど徒歩にて移動。
46号地下道の個所から沼地沿いの山道を北東方向に進むことに。
名称不詳の沼地の堰堤からはちょうど笠山・堂平山を真正面に見るというなかなかの眺望。
さて、当初の予想通り山道は沼地の先端部分で次第に消滅の様相...しかし、尾根筋に登る踏跡を見つけてやがて細長い稜線へ。
南東側の沼地
(西側から)
2007/02/19 撮影
南東側の沼地
(南側の堰堤から)
2007/02/19 撮影
篠竹の密生する稜線を時々現れる踏跡を確認しつつ、篠竹を避けるべく幾分東へと迂回して漸く谷筋が三方より迫る峠状の地形部分へと到達。
横矢がかりの稜線への道(笑)
207/02/19 撮影
この部分から眺めた北側一帯(鷹巣山東側の稜線)は明らかに尾根筋の大半が土砂の採掘などにより地形が改変されている様子がありありと。
山頂方面と土砂の採掘跡
2007/02/19 撮影
南東側からのアプローチなので篠竹は少ないと思ったのが大きな誤りにて。
また、山頂の南東側の稜線にはやや人工的な印象の地形も所在。
然し、おそらくは土砂の採掘に関連するものと推定。
やや人工的な地形
2007/02/19 撮影
ここからは比高差約30m、直線距離にして120mの背丈を越える篠竹が密生する個所を黙々と前進することに。
およその方向と現在位置は把握できるものの前後左右の見通しが利かず、とにかく斜面の傾斜を唯一の頼りに一路山頂へ。
所々かつて篠竹を伐採した個所があるものの、結果的にこれが地面から突き出た無数の竹槍のような按配に。
足元と目の負傷に入念な注意を払いつつも、一度だけ根性の曲がった篠竹に足を取られて転倒。
悪運が強いもので篠竹の竹槍攻撃を避け、右手の薬指の爪が割れた程度の被害のみ。
せっかく救急用品セット(包帯、捻挫用のテープ、傷薬、消毒薬、ガーゼ、ピンセット、鋏、刺抜き、バンドエイド各種)を持参しているので簡単な応急手当を実施。
人気の全くない山中で色々な意味で暫し満足感に浸ることに(苦笑)
悪戦苦闘の末、漸く到達した山頂にはこれといった地形状の特徴もなくひたすらなだらかな地形が展開している様子にて。
「平場」というよりも自然地形の平坦地で南側の一部を除けば概ねなだらかな斜面であることが窺えるような状態。
とりもなおさず山頂部分も篠竹の叢生により眺望は無きに等しく、唯一大正時代の山岳信仰と密教の融合?とも推定される大日如来の文字が刻まれた石碑が所在していたのがせめてもの慰めかと。
近代のものとはいえ、少なくとも信仰の対象物を祀るような山であったことは確かということで。
山頂の大日如来の石碑
帰路は同じルートを戻るよりも北側の谷沿いに下るほうが篠竹が少ないことが明らかなので、谷川に落ちないように注意を払いながら北側の山麓へ。
また山頂周辺はこの地域特有の篠竹の藪が密生しているため眺望は殆んどなく、かつその植生から考慮して南側から登ったにも拘わらず行動の自由さえ規制されることとなった次第。
結果的にはこの谷を遡及して途中から直登した方が篠竹も少なく歩きやすいことが判明。
滑川の丘陵地帯にひき続いて、またしても「無名低山紀行」のような様相を呈し始めたのでありました。
凸富士山(小川町角山) 午前11時30分~午後12時45分 標高182.1m 比高差約80m(道あり)
小川町に所在するその名も富士山。
兜川を挟んだ南麓に所在する小川町駅の中心部から眺めると確かに富士山のように見えなくもない小山。
南東側の参道から登るのが正しいアプローチの模様。
しかし、時間の節約のためみどりヶ丘1丁目の閑散とした分譲地側から接近。
山頂の手前には町営水道の大きな給水タンク。
狭い山頂にはテレビ埼玉の電波塔が所在し山岳信仰の石碑はその傍らにひっそりと鎮座。
確かに山頂からの南西方向の眺望は悪くはないものの南東部、東部、北部といくつもの尾根が派生しているために当初思っていたよりも絶景には非ず。
北西側の「みどりヶ丘の歩道橋」より
2007/02/19
撮影
遺構の存在などの具体的な確証があってのことではなく、その名称と展望の様子に関心があっただけのことにて。
帰路は北側の比較的明瞭な道が続く東西が切り立った深い谷を伴う細長いヤセ尾根を下山。
この尾根筋には人工地形か自然地形かの区別に迷う平坦な部分が何ヶ所か所在しているものの、備えがあるとすれば南側の方と決め付けて余り気にせずに通過(汗)
凸蟹沢遺跡(小川町大塚蟹沢) 午後14時05分~午後14時10分
兜川右岸の民家の西側に所在する土塁。
高さ最大1.5m、延長約30mの規模。
館跡が存在したという伝承・記録の類は存在せず、堀跡の痕跡も確認できない歴史的経緯不明な構築物とのこと。
蟹沢遺跡
2007/02/19
撮影
「小川町史・考古資料編」で指摘しているように兜川上流にあたる西側に位置していることから、河川の氾濫のための堤防のような防備対策によるものという推測が有力なのかもしれません。
然し氾濫する河川の堤防代わりとしての構築物にしては些か中途半端な規模であり、また一方中世の館跡であるならば立地条件としてはより安全な台地(「中城」)や山腹(「伝竹沢次郎館」)のような個所を選定するものと推定されます。
凸伝竹沢二郎館(小川町靱負上ノ山345番地ほか) 午後14時30分~午後15時10分
兜川左岸の上ノ山の標高117mから140m付近の谷津状の山腹に所在。
雲竜寺とその奥の熊野神社を含む谷間が竹沢氏の館跡と推定されているとのことであります。
尾根の間の谷筋に概ね一列に並んだ5段ほどの平場から構成された館跡ということなので、訪れる前には森閑とした場所が脳裏に浮かんでおりました。
伝竹沢二郎館
2007/02/19 撮影
然し元来が南側斜面であることに加えて、下方から向かって左側の尾根筋の樹木が見事に伐採されているという事情も重なり、燦々と太陽の光を浴びた矢鱈に明るい光景が目前に展開し些か面食らうことに。
また、墓地脇に所在する老朽化した合板製の説明板は最早崩壊寸前の危機なのでありました。
長年の風雪に耐えてきた現地解説板
2007/02/19 撮影
さて、地元出身の家内にこの館跡のことを尋ねたところ、木で鼻をくくるが如くまるで知らないとのご回答。
実家から見える「腰越城」でさえもよく分からない者が知る由もないのでありますが、そういえば「竹沢君」という同級生がいたとのこと。
閑話休題。
探訪中に尾根筋の向こう側から飼い犬と見られる鳴声が寸断なく聞こえてくるので、この山の中で犬の散歩でもさせている酔狂な御仁がおいでになるのかとも。
さて如何なる事情によるものかと地図をよくよく眺めてみると、尾根筋の北側にはかねてより見知っていた長らくローソンのコンビニしか所在していなかった閑散とした宅地分譲地の一帯が展開しておりました。
最近になって某有力企業の進出決定により漸くにして数軒の住宅が建ち始めた由。
かくして犬の鳴声の発生源が解明。
この後3月中旬以降に訪城予定の越生方面の下見に。
途中「青山城」「高取山城」の遠景などを撮影して鶴ヶ島経由で帰宅。