本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
01 2025/02 03
S M T W T F S
1
3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28
最新CM
(07/01)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
(10/13)
(03/22)
最新記事
最新TB
プロフィール
HN:
武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
性別:
男性
職業:
定年を過ぎました~
趣味:
「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
アクセス解析
フリーエリア
[50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60]
横瀬町の資料館によると、近年の設置と思われた「古御嶽城」の文化財の標柱は実は10年以上前のものとのこと、かつ設置は高齢者事業団に委託したとの情報。
改めて二重の驚きを。
この地域の高齢者の方の足腰とその体力は計り知れない強靭さ!

また、祭祀時には地元の方は北側の谷沿いから登るとの情報も。
ヤセ尾根上部のあの急斜面を一体どのようにして...


古御嶽城北側の崖
古御嶽城北側の崖
2007/03/26 撮影



拍手[0回]

何処かの文化財的な文化財の標柱が所在していた町などと比べては誠に失礼なその町の行政姿勢が伝わってくる風景にて。

けっして自治体経営にゆとりがあるとは思えない昨今の状況。
取分け文化財行政は経営資源の枯渇した苦境の渦中に。
かような山中の訪れる人もけっして多いとはいえぬ城跡でこうした標柱を目にできるとは望外の幸せ。


古御嶽城の標柱
古御嶽城の標柱
2007/03/26 撮影


標柱設置にあたって標柱・設置のための用具一式を背負いあの完璧な岩壁を登攀した関係者の方の様子を思い浮かべると誠に頭が下がる思いなのであります。
周囲の険しい地形と対比する中で、そんな光景を想像すると感激の余り思わず落涙..
比較的最近に設置されたものと拝見いたしましたが、山岳信仰関係の石碑群とともにありがたく丁重に手を合わせてまいりました次第。


古御嶽城の標柱
古御嶽城の標柱(裏側)
2007/03/26 撮影

拍手[0回]

何度考えても分からない「古御嶽城」の北西側の腰郭。
一段目は「西の郭」から3mほど下段に。
二段目はそこからさらに5mほど下段に普請されています。
特に二段目の腰郭は、稜線部分の郭の規模と比べても半分以上の規模を有しているように見えます。
下記の画像は一段目の腰郭から二段目の腰郭を撮影したものです。


北西部の腰郭
「古御嶽城」の北西部の腰郭
2007/03/26 撮影


斜面の勾配などから推定しても腰郭を普請するような積極的意義がつかめません。
そうなると考えられることとして、この先に「根古屋城」方面へのルートが存在していたのではないかなどと自分勝手に想像してしまうのでありました。

拍手[0回]

今月は未更新の不良在庫整理などの諸事情のため暫く訪城できず切歯扼腕。
かくて本日、体調は万全ではないものの漸く横瀬町方面へ出陣を敢行。

然しいきなりメインルートの国道299号線にて、道路工事による片側交通規制に遭遇。
更に正丸トンネルもメンテナンスのため何故か本日に限り片側交通規制というダブルパンチを浴びることに。
このため漸く横瀬町に到着したのは既に午前11時過ぎという次第に。



根古屋城(横瀬町)午前11時00分から午後2時30分まで

縄張図から想定される現地のイメージがどことなく掴みづらいことなどもあり、今まで訪城を見送っていた経緯が。
事前に横瀬町の資料館にて予め登口を確認しておいたことが役立ち、迷うことなく建設会社の資材置き場近くの住宅の脇から城跡へ。


西側の桑畑跡からの遠望
西側の桑畑跡付近から
「東の郭」方面を遠望

2007/03/26 撮影


城跡遺構が大きく分けて3ヶ所に分散しているため予め相当時間を要することを想定。
またデジカメ用のメモも予め3ヶ所分用意。

始めに「西郭(御殿跡)」から探索開始。
稲荷神社の上段に所在する方形の腰郭から東側へと続く一部出枡を伴う長大な構堀と土塁はなかなかの見ごたえが。
遺構の状態としてはこの部分が最も城跡としての印象が濃厚。
上段の郭との比高差は平均で8m前後を有し、かつ切落としを伴う地形のため直接這い上がることは至難にて。


西郭南端の構堀と土塁
西郭南端の構堀と土塁
2007/03/26 撮影


ただし南側の根古屋地区との比高差は下段の腰郭部分では20mから30mを測る程度。
また斜面全体の勾配が緩く前面の土塁部分まで容易に到達できることから、郭部分の比高差を考慮しても総体的に防御機能が不足気味であることは否めないという印象が。
加えて西武新宿線が城跡の直下をトンネルにより貫通。
このため時折のどかなウグイスの鳴声とともに、城跡には不似合いな電車の警笛と走行音が間近に響きわたるのであります。

根古屋地区からの遠望
南側の根古屋地区からの遠望
2007/03/26 撮影


西郭の西端の竪堀
西郭の西端の大規模な竪堀
2007/03/26 撮影


西郭西端部の小口
西郭西端部の小口
2007/03/26 撮影


西郭西端付近の現地説明板
西郭西端付近の現地説明板
2007/03/26 撮影


「西の郭」から「山頂の郭」へは資料によれば比高差にして70mほど。
然し現実に歩いてみるとそれほどの比高差があるという印象は無し。
途中小規模な2か所の堀切を確認しつつ、段築状の3段の腰郭や自然石を利用した小口状地形を確認。

ことによると石材の採掘のため南側(右側)が大きく削り取られ、てっきり稜線近くまで掘削されているものと思っていた由にて、テラス状に安全地帯が確保されていることにやや安堵を。

「山頂の郭」南端部の採掘跡
山頂の郭南端部の採掘跡
2007/03/26 撮影


上記画像の正面に見える尾根筋が南側の「三角山」の尾根と繋がり間接的に「古御嶽城」方面へも続いています。

スミレ
日当たりの良い堀切周辺に
自生しているスミレ

2007/03/26 撮影


山頂(主郭か)北側の小口郭とさらに北西側に所在する大規模な郭を竪堀により防御された土橋で繋ぐ構造が明確に見て取れるものの、土塁などの存在は現状からは確認できず主に切岸、腰郭、竪堀により防御されていたのかも知れず。
またこの大規模な郭には間伐された杉材や枝打ちされた杉の枝が一面に所在し足元が不安定なため幾度となく転倒しかけることに。

土橋と竪堀
土橋と竪堀
2007/03/26 撮影


「東の郭」方面へはそのまま比高にして差50mほど尾根筋を下ると忽ち東端の腰郭部分に到達。
途中尾根筋東側の直下を国道299号線が通過していることを目視。
このため車の走行音が断続的に谷間から響くことに。
東の郭には水の手に相応しい沢筋があり、現在も直ぐ近くに水道施設の取水場も所在。
些か尾根筋との区分が困難な「東郭」と直下に所在する円弧上の規模の大きな腰郭を確認してそのまま谷筋を下山。

東の郭直下の腰郭
「東の郭」直下の腰郭
2007/03/26 撮影


植林された杉や竹林のために全体の配置が分かりづらいものがありますが、現状では標高374mの山頂から北西に派生した2本の尾根筋上に遺構が散在するという縄張り。
山頂部分でも比高差が100m程度であることに加えて北西方向に開いた谷筋周辺の傾斜も緩慢。
「山頂の郭」周辺以外の防御の不十分さを感じるものの秩父への往還を監視する役割としては格好の立地条件であることを確認。
また、「古御嶽城」とは焼山方面から派生した同じ三角山(標高623m)で尾根続きとなっていることから、かつては三角山の北側に巻き道が所在し相互の連絡を取ることができたのかも知れず。


古御嶽城(横瀬町)午後2時40分から午後4時10分まで

「登り口に関する情報不足」と「西側の郭直下の巨大な岩場の難路」との情報から訪城を躊躇していた経緯が。
然し、最早それほど若くもなくかつ心肺機能を始めとする体力確実に低下の一途を辿っているのは確実にて。
先日幸いにして登り口の情報については「赤服の紳士」管理人殿よりご提供いただき問題解消。

とはいえ「根古屋城」にて大分探訪時間を消費。
このため時刻は不案内な岩場の存在する難路を行くには些か微妙な時間帯に突入。
けれどもここで行かねば何時行けると、頭上の武甲山稜線に沈むであろう太陽の現在位置などの諸事情を勘案し決然と探訪を敢行。
ご教示どおりにセメント工場脇に所在する送電線の保守管理のために設置されている山道から入山。

地形図からの情報としては比高差は約220メートルほど。
己の貧弱な体力その他の条件から城跡の所在する山頂までの所要時間は休憩含めてやよそ50分程度と推定。

然しいきなりの急登の連続に忽ち呼吸が追いつかず、加えて根古屋城めぐりで既になかば無力化した状態の両膝。
このため3歩進んでは小休止(流石に2歩は下がらず)の繰り返し。
果たして山頂まで行き着けるものであろうかと我ながら不安に。
それでも登り始めて30分ほどで漸く西側からの尾根筋と合流。
ここで念のため下り道の目印をマーキング。

ふと目の前に広がる尾根筋の急坂を見上げると、右手前方の疎林に何やら切り立った巨大な岩塊が見え隠れ。
山道から右手方向に幾分ずれていることから、ごく普通の岩尾根が続く程度と思いきや、無情にも山道は正にその岩塊に阻まれ結局は比高差約15mの岸壁を登りつめる仕儀と相成候。

完璧な岩壁
行く手を塞ぐ完璧な岩壁
2007/03/26 撮影


高所恐怖症気味の場合は些か無謀かと思われる地形。
若い時分の僅かな軽登山の経験が生かせるかどうか微妙な状況かと。
とりあえずは荷物をザックに一纏めにして身軽に。
また岩を掴むような登攀のため作業用の手袋を取り出し装着。
昨日の降雨の影響による落石などを考慮してより慎重な行動に切り替え。

然し肝心のこういう時に、常用の標準小売希望価格1万6800円也のトレッキングシューズを自宅に置き忘れてくるという不始末。
従って本日は遥かに摩擦係数が劣る安物の予備の方にて。
途中で落下すれば生命の危機は別としても、間違いなく行動不能状態に陥る危険が濃厚な環境。

両膝が完調なれば問題なく這い上がれる自信があるものの、今や三重・四重サポーター装着の身なれば片足で全体重を支えることも儘ならず、80cmほどの段差を這い上がることさえ大儀似而候也。
そうしたなか登攀すべきルートを取違え岸壁の中腹で一時フリーズ状態(汗)
何とか横から回り込んで危機を脱出して山岳信仰の石碑が点在する斜面を経由したのち漸く西側の郭に到着。
幾分不測の事態が発生したものの、ここまでの所要時間は予想通りの約50分少々。

さて標高480mほどの西側の郭は思ったよりも平坦に普請され?(元来の自然地形かも)印象で幅5m弱、長さ40mほどの細長い地形。
しかし小屋を建てるには余りにも幅が狭く不便であるという印象が。
北西側に2段の半円形の規模の大きな腰郭が所在するものの、元来が急傾斜の尾根筋のためその存在意義に大きな疑問が。
いずれにせよ登攀ルートは東西方向の尾根筋のみで、南北方向からのアプローチは絶対に不可能な傾斜角度50度以上の急勾配の斜面にて。
加えてその西側の直下には高さ15mほどの岸壁が屹立し、その存在だけで防備はほぼ完璧かと推察する次第。

尾根筋も険しく
山頂に至る尾根筋も険しく
2007/03/26 撮影


小さな堀切を挟んでヤセ尾根上には概ね同様の規模で多少幅の広い東側の郭が所在。
小屋がけの利便性のみで考えれば、この東側の郭が主郭に相当するのかもしれません。
さらにその東側には幾分大きめの堀切が普請。

西と東の郭の中間の堀切
西と東の郭の中間の堀切
2007/03/26 撮影


些か驚いたことには、東側の郭に「町指定の文化財」の標柱が所在。
まさかこのような山頂にて文化財の標柱に出会えるとは感激の至りにて。
この標柱など設営道具一式を背負って、あの完璧な岩壁を登攀された方にただただ敬服を。

東側の郭
東側の郭
2007/03/26 撮影


東端部分の堀切
東端部分の堀切
2007/03/26 撮影


遺構と呼べるものは以上のみ。
堀切などに伴う「竪堀」は確認できないというよりも、寧ろ斜面が急勾配のためそのような必要が全く無いという状況かと推察。
さてそうした中「水の手」はというと、稜線付近には湧水の可能性は考えられず、恐らくは急斜面の中腹や谷川の源頭部などと推定を。

北側の「根古屋城」とは焼山方面から派生した三角山(標高623m)で尾根続きとなっていることから、かつては三角山の北側に巻き道が所在し相互の連絡を取ることができた可能性を勝手に想定。
しかし例の岩場を体験したばかりなので、勾配のきつい深い谷に加えかなりの岩尾根続きの難路であることも予想され、下手に迷い込んだら低山といえども命の危険が充満しているのかも知れず実況検分などはとても..(汗)

古御嶽城遠景
西側から眺めた古御嶽城
2007/03/26 撮影


さて、帰路は岩場のルートを間違えることも無く所要時間35分ほどであっという間に下山を完了。
途中左膝に激痛が走るも装着しているサポーターのお蔭で何とか無事に車まで帰還。
膝の限界を痛切に思い知った探訪と相成共、久方ぶりに達成感に溢れた訪城似而御座候。

拍手[0回]

本日は愛車の車検のため振替休み。
このため購入12年目の家内の車(元自分の車)にて出動。
しかし車が確保できたのが午前10時前のため、すでにこの時点で探訪計画に大きな齟齬が発生。
とはいえ、毎度のことなので課題は先送りすることに。


日向遺跡(比企郡小川町大字中爪字台522付近)
午前11時05分から11時30分

台地の東部の北端に所在し、現在は嵐山小川バイパスの開通に伴う国道254バイパスとの連絡道路がすぐ北側を通過。
このため元来の地形が掴みにくくなっているものの、以前は比高差約5mほどの台地が所在していたと思われます。
宅地開発に伴う発掘調査により、縄文・弥生・古墳時代の遺物とともに中世末期から近世初期と推定されるL型の溝に区画された掘立柱跡、井戸跡、志野焼の焼物類が確認されているとのこと。
またこの地域には「屋敷跡」としての伝承が残されるとのことからも、村落の有力者階層の居館・屋敷の存在を想定できるのではと考えられます。


日向遺跡
「日向遺跡」
向こう側の稜線は「越畑城」
2007/03/07 撮影


龍谷薬師(比企郡小川町小川)正午から午後0時30分

仙元山の北麓に所在する眼病平癒にご利益があるとして信仰の篤かった堂宇ですが、現在は訪れる人も余り居ない侘しさそこはかとなく漂っておりました。
もはや堂宇・祠に参詣するときの習慣となっていることもあり、世界平和と家内安全を祈願したものの全く見当違いもいい所でありました。
もっとも、老眼のために低下する一方の視力なので全く縁がないという訳でもなく。

さて、何故この地を訪れたかといえば、別に時節柄仙元山の麓のカタクリの花を見に来たというわけではありませぬ。
「龍谷」との名称が気になり訪れたまでのことにて(笑)
名称の「読み」は「タテヤ」または「タツヤ」と読むようで、正式には「龍谷山薬師如来」あるいは「龍谷山薬師堂」と呼ぶようであります。
近くの里道では小川にかかる小橋の「かわいらしい石積みもどき」、堂宇の南側の山中ではシイタケ栽培のために普請されたと思われる新しそうな「平場」を発見(爆笑)


龍谷薬師
「龍谷薬師」
右側斜面の帯郭状の地形は墓地の予定地かと
2007/03/07 撮影


吉野砦比定地②(比企郡小川町)午後0時30分から午後1時30分

木呂子の集会所が所在し、「下政所」との地名が比定地の北麓に残ります。
東側の杉木立の標高164m(比高差約30mほど)の小山の東側斜面には古い五輪塔を祀る塚とともに切岸状の地形が3ヶ所以上確認されます。
更によく観察すると雛壇状となって南側の水田まで続いている部分もあり、規模の大きなものでは比高差3m、延長100mに及ぶものも存在。
となればもしかするとということで、欣喜雀躍状態が期待されたのであります。
何気なく切岸部分を下りようとした時には、ものの見事に3mほど滑り落ちることに(汗)
然し残念ながら国土地理院の地形図を参照すると桑畑の記号が記されていることから、どんなに古くとも幕末以降おそらくは近代に開墾されたの桑畑に伴うものと推定され儚い期待は露と消え..(笑)


吉野砦②
「吉野砦」②
桑畑の跡と思われる切岸状の地形
2007/03/07 撮影


一方尾根続きの西側の標高177m(比高差43mほど)の小山の方はもとより人為的な地形の存在は確認されず。
山頂へと向かう尾根筋には荊のような有棘植物が進路を妨げていたため、作業用の安全手袋を装着してひたすら前進。
鞍部から3分と経過しないうちにやや広い山頂部分に到着。
南東方向に延々と尾根筋がアップダウンを繰り返して「官の倉山」の稜線へ延々と続いています。
とはいえ次第に地理的な条件から考えて城館跡とは無縁になりそうなので、北側を流れる木呂子川を目指して一挙に杉の植林された斜面を降下。


吉野砦比定地①(比企郡小川町)午後1時45分から午後2時20分

比定地の南西側の麓には「政所」の地名が残されています。
標高191m(比高差約61mほど)国道254線が大きく北側の市道川沿いの谷へカーブする交通の要衝となる分岐点に所在。
直接登攀するには道もなく斜面の角度がきつい状態。

このため予定通り北側の尾根筋の比高差22mの辺りから手当たり次第木の枝や根にしがみついて斜面を直登。
然しあとでよく地形図を確認すると比高差22m、直線距離で40mというどうやら最も急傾斜の部分を這い上がってしまった模様にて。
稜線に近づくほど勾配が緩くなっているので、登り始めた部分の傾斜は間違いなく45度前後かと(汗)

南北に細長い形状の尾根筋の道自体は明確でマーキングもされ、南側の山頂まで僅か250mほどの距離で間違いようもないルート。
なお肝心の山頂部分には事前の情報どおり高圧線の支柱が所在するのみで、遺構につながるような人為的に改変されたような地形も見られず。
現状の見通しも常緑樹の生育のため、南西方向にやや開けている程度でありました。

吉野砦①
吉野砦①
2007/03/07 撮影



この地点から今度は踵を返してそのまま稜線を北進し標高201m(比高さ60mほど)の独立峰を目指すことに。
東西の斜面は平均斜度40度前後という急勾配、、南北の稜線の斜面も30度前後の傾斜を有する落ち葉の堆積した滑りやすい地形。
このため予想通り確実に5回ほどは滑りましたです。
然し山頂部分については眺望は期待通りでしたが、楕円形状の直径にして7mほどの規模しかありません。
勿論明確な切岸など人為的な地形の改変などの跡は皆無にて。
物見砦としても東西方向にしか視界が開けていないことから、城館跡との関連性は極めて少ないものと考えられたのでありました。


標高200mの山頂
標高200mの山頂
2007/03/07 撮影


吉野砦比定地③(比企郡小川町)午後2時20分から午後3時30分

上記の個所からそのまま稜線を北上。
東側に張り出した尾根筋が2ヶ所ほど気になったものの見通しなどの悪さと時間の関係でパスし、かつて物見山と呼ばれた標高190m(比高差約40mほど)に到着。
稜線の東側には情報どおり石切り場が所在したような痕跡が現在も確認されます。


吉野砦③
吉野砦③
石切場跡のような人工地形
2007/03/07 撮影


吉野砦③
同上 北半分が消滅した稜線
2007/03/07 撮影


北側部分は土砂の採掘などの関係でほぼ稜線が消失し、現在は大規模な廃棄物の処理施設が北麓のあたり一面に広がっています。
物見山の山頂部分も消失しているようですが、お蔭で寄居方面が一望できる立地条件となっておりました。


寄居方面
寄居方面
2007/03/07 撮影


このあと、近くの木部方面にも立ち寄る予定でしたが西側に山が所在していることから雲量と日没の関係で後日に順延。
帰りがけに「鬼うどん」に立ち寄りましたが「売り切れ御免」の掲示が入り口に...
またしても昼食抜きの探訪となり、かくて本日の成果は元桑畑の斜面の滑落のみかと(苦笑)


物見山南麓のため池
物見山南麓のため池
2007/03/07 撮影



拍手[0回]