本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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先月の中旬に訪れて以来。
暫し体調を崩していたこともあり城館探訪も3週間ぶりとなったような次第。
行先は前回に引き続き児玉郡美里町。
もちろん遺構などとは縁のなさそうな名も無き平地の城館跡ばかりにて。
凸広木大仏城(埼玉県美里町 以下同様)10時45分~11時45分
一色氏の時代のものと戦国時代末期のものとがあるとの情報で、大興寺の北側付近の台地を含む一帯が城館跡とされている由。
周辺の地形を確認するため南側の円良田湖方面より接近。
円良田城、猪股城の山城を南に配し、殆んど消滅した印象の白石城も指呼の間。
南北に伸びる細長い台地の先端部分は比高差20mを有する要害を形成。その西側は畑や用水路などが複雑に入り組んでいるため当時の地形を確かめることは難しい状況。
それでも、一目見て地形的に特徴のある台地と用水路に当時の面影が伝わってくるのは気のせいなのでありましょうか。
なお、台地上の民家脇に総延長で40mほどの鍵の手状の溝が所在。
無論遺構というよりもかつての排水路、畦堀のようなものかも知れず。
ただ排水のための溝にしては民家の宅地よりも高い位置に所在すること。
鍵の手状であることなどに些かの違和感が。
また同様に台地上の人工的削平を思わせる平坦地に加えて、切岸状の斜面も所在するなど興味深い城館跡ではあります。
然し何分元々篠竹の藪が密生している個所が多いことと合わせて、この季節では如何ともしがたいのでありました。
トータルな印象としては、あくまでも推定地とはいえ武田・北条の両軍合わせて2千からの兵力による攻防戦が繰り広げられたとは俄かに信じがたい実にのどかな県北の田園風景が広がっておりました。
凸御所内館 11時55分~12時40分
中世の城館跡というよりは古代の防人を務めたとされる支配階層の住居跡で、遺構とされる区域は幅1間、深さ数十センチに満たない堀跡に囲まれた微高地を形成(下記の画像の奥の部分が遺構とされています)。
なお当然のことながら、時代が下って戦国期には在地領主階層の居館となっていた可能性もあり、当時の遺構がそのまま存続しているはずも無く。
周囲の草叢の中には小さな水路も所在するのでこの時期には要注意。
凸新堀屋敷 12時50分~13時00分
八高線と牛舎を経営されていた農家などが所在するのみ。
予めこの場所が城館跡であるという情報が無ければ通り過ぎてしまうような水田の中の平坦地。
圃場整備により往時の地形は消失しているとのこと。
そうしたなか、西寄りの個所に所在する用水路が気になるといえば気になる程度。
また、「美里町史」と「埼玉の中世城館跡」とでは所在地に微妙な相違があり、「美里町史」のほうがやや八高線の南側に比重を置いているのであります。
然し何れにせよ現状の地表上の地形からでは何とも判断のし様がないのでありました。
凸新倉館 13時20分~13時45分
下記の画像は東側の民家寄りの北東の角から撮影したもので、圃場整備に伴う発掘調査により二重堀の館跡が確認されているとのことであります。
なお、たまたま農作業中の地元の方がおいでになり、十数年前までは明確な堀跡が現存していた旨、およびこの場所が新倉と呼ばれていることなどを確認することができました。
然し現状の地形からは微高地を形成しているという事実と、猪股城方面からお互いに眺望が優れるという以外には得るべきものがありませんでした。
凸桜沢氏館 13時50分~14時15分
堀跡、土塁跡などの遺構が遺されているかも知れないという僅かばかりの可能性を求めて該当地域を一周半。
確かに東側と北側の水路は堀跡の名残のような印象が濃厚。
小山川の堰堤近くの水路には錦鯉が棲息し一瞥した限りでは趣のある佇まいを見せておりましたが、よく観察するとコンクリートの擁壁に囲まれた水路なのでありました。
また土塁跡については宅地化の進行により判別が難しく、西のはずれに所在する稲荷神社周辺に人工的な盛り土を確認できる程度なのでありました。
なお、城館跡名と同一姓のお宅も周囲に所在している模様でありました。
首筋から背中の痛みだけはある程度薄らいできたものの、左半身を中心とする痺れ感は一進一退の状況。
このような次第で身動きが儘ならなずもたもたとしているうちに、季節はあっという間に初夏へと変貌。既にやや季節はずれの感がなくもない鶯、そして今が盛りの雲雀の囀りがのどかに響き渡る県北の田園風景を舞台に漸く城館めぐりの再開にこぎつけたのでありました。
さて、時刻は未だ午後2時を過ぎたばかりで、無理すればあと数ヶ所の探訪は可能。
然し、呼吸器系統は未だ完全復活には程遠い状況。
ここ数年の間に極度に暑さに弱い体質に変質したため、水分補給に留意しながらの行動。
いずれにせよ先々のことを考慮して潔くこれにて撤収。
暫し体調を崩していたこともあり城館探訪も3週間ぶりとなったような次第。
行先は前回に引き続き児玉郡美里町。
もちろん遺構などとは縁のなさそうな名も無き平地の城館跡ばかりにて。
凸広木大仏城(埼玉県美里町 以下同様)10時45分~11時45分
一色氏の時代のものと戦国時代末期のものとがあるとの情報で、大興寺の北側付近の台地を含む一帯が城館跡とされている由。
周辺の地形を確認するため南側の円良田湖方面より接近。
円良田城、猪股城の山城を南に配し、殆んど消滅した印象の白石城も指呼の間。
南北に伸びる細長い台地の先端部分は比高差20mを有する要害を形成。その西側は畑や用水路などが複雑に入り組んでいるため当時の地形を確かめることは難しい状況。
それでも、一目見て地形的に特徴のある台地と用水路に当時の面影が伝わってくるのは気のせいなのでありましょうか。
なお、台地上の民家脇に総延長で40mほどの鍵の手状の溝が所在。
無論遺構というよりもかつての排水路、畦堀のようなものかも知れず。
ただ排水のための溝にしては民家の宅地よりも高い位置に所在すること。
鍵の手状であることなどに些かの違和感が。
また同様に台地上の人工的削平を思わせる平坦地に加えて、切岸状の斜面も所在するなど興味深い城館跡ではあります。
然し何分元々篠竹の藪が密生している個所が多いことと合わせて、この季節では如何ともしがたいのでありました。
トータルな印象としては、あくまでも推定地とはいえ武田・北条の両軍合わせて2千からの兵力による攻防戦が繰り広げられたとは俄かに信じがたい実にのどかな県北の田園風景が広がっておりました。
凸御所内館 11時55分~12時40分
中世の城館跡というよりは古代の防人を務めたとされる支配階層の住居跡で、遺構とされる区域は幅1間、深さ数十センチに満たない堀跡に囲まれた微高地を形成(下記の画像の奥の部分が遺構とされています)。
なお当然のことながら、時代が下って戦国期には在地領主階層の居館となっていた可能性もあり、当時の遺構がそのまま存続しているはずも無く。
周囲の草叢の中には小さな水路も所在するのでこの時期には要注意。
凸新堀屋敷 12時50分~13時00分
八高線と牛舎を経営されていた農家などが所在するのみ。
予めこの場所が城館跡であるという情報が無ければ通り過ぎてしまうような水田の中の平坦地。
圃場整備により往時の地形は消失しているとのこと。
そうしたなか、西寄りの個所に所在する用水路が気になるといえば気になる程度。
また、「美里町史」と「埼玉の中世城館跡」とでは所在地に微妙な相違があり、「美里町史」のほうがやや八高線の南側に比重を置いているのであります。
然し何れにせよ現状の地表上の地形からでは何とも判断のし様がないのでありました。
凸新倉館 13時20分~13時45分
下記の画像は東側の民家寄りの北東の角から撮影したもので、圃場整備に伴う発掘調査により二重堀の館跡が確認されているとのことであります。
なお、たまたま農作業中の地元の方がおいでになり、十数年前までは明確な堀跡が現存していた旨、およびこの場所が新倉と呼ばれていることなどを確認することができました。
然し現状の地形からは微高地を形成しているという事実と、猪股城方面からお互いに眺望が優れるという以外には得るべきものがありませんでした。
凸桜沢氏館 13時50分~14時15分
堀跡、土塁跡などの遺構が遺されているかも知れないという僅かばかりの可能性を求めて該当地域を一周半。
確かに東側と北側の水路は堀跡の名残のような印象が濃厚。
小山川の堰堤近くの水路には錦鯉が棲息し一瞥した限りでは趣のある佇まいを見せておりましたが、よく観察するとコンクリートの擁壁に囲まれた水路なのでありました。
また土塁跡については宅地化の進行により判別が難しく、西のはずれに所在する稲荷神社周辺に人工的な盛り土を確認できる程度なのでありました。
なお、城館跡名と同一姓のお宅も周囲に所在している模様でありました。
首筋から背中の痛みだけはある程度薄らいできたものの、左半身を中心とする痺れ感は一進一退の状況。
このような次第で身動きが儘ならなずもたもたとしているうちに、季節はあっという間に初夏へと変貌。既にやや季節はずれの感がなくもない鶯、そして今が盛りの雲雀の囀りがのどかに響き渡る県北の田園風景を舞台に漸く城館めぐりの再開にこぎつけたのでありました。
さて、時刻は未だ午後2時を過ぎたばかりで、無理すればあと数ヶ所の探訪は可能。
然し、呼吸器系統は未だ完全復活には程遠い状況。
ここ数年の間に極度に暑さに弱い体質に変質したため、水分補給に留意しながらの行動。
いずれにせよ先々のことを考慮して潔くこれにて撤収。
何時ものこととて朝から体がやや重たいという感触。
然し毎度そのようなことを理由にしていては物事は先へと進まぬ道理にて。
前日からの訪城準備だけは用意万端怠りないこともあり午前9時半には自宅を出発。
往路は思いのほか車の流れがスムーズのため現地の児玉郡美里町まで僅か90分にて到着。
車内から眺める風景には明らかに初夏への季節の移ろいを感じさせるものが。
凸猪俣氏館 午前11時00分から午後1時15分まで
手始めに猪俣小兵六範綱の霊を弔うと伝わる「猪俣の百八燈」の民俗行事が執り行われる丘陵へ赴くことに。
高地から猪俣氏館と猪俣城相互の位置関係を確認しようと目論んだもののこの時点では肝心の猪俣城の所在地があやふやという情けなさ。
続いて高台院およびその近くに所在する猪俣氏関係の古い墓所へ。
高台院の丘陵の影に隠れていることもあり即座にはその所在地が分からず。
またことのついでながら、かつてはゴルフ場が建設されるまで高台院の裏手から猪俣城へと登るルートが所在していたことも確認。
次に猪俣氏縁の正円寺と二柱神社へ赴き参拝。
ここでやっと館跡の内堀ともされている「正円寺川」の上流方向に所在する稜線が探していた「猪俣城」であることを確認。
なお、猪俣城は甘粕城や場所により木部氏館の近くからさえ望むことができることも判明。
したがって上州への往還を監視する役割を担っていたであろうことも再確認。
このあと、「愛馬の碑」(戦前の昭和期のもの)、「館跡の碑」(大正期のもの)、「馬方石」(年代不詳の力石)、外堀の役目を果たしたとされる「猪俣川」、内堀(正円寺川)などを徒歩にて散策しあらためて遺構の面影を辿ることの難しさをしみじみと味わうことに。
帰りがけに切通し状の地形の近くに「塚」を確認。
またその南側の民家の宅地際に高さ2m前後、長さ30mほどの土塁も確認。
近世以降の風除けのためのものかと推察。
けれども「塚」の所在地点と直線上につながっているようにも思える不思議な位置関係なのでありました。
凸甘粕城 午後1時30分から午後2時00分まで
「埼玉の中世城館跡」によるとJR八高線の松久駅を中心とした辺りがマーキングされていますが、「美里町史」では天神川に東側の辺りに所在する「堀の内」と呼ばれる地域を比定地としているようであります。
また、この地点から見て南側方向に「猪俣城」の山陵がはっきりと見て取ることを確認。
現地では道路の形状と河川改修などのため町史に記された水田のなかの三日月型の堀跡らしき地形を探すのに幾分手間取ることに。
ほどなく用水路脇に残された低地を確認し堀跡の痕跡であると念じて次なる目的地へと移動。
なお東側に所在する比高差30mほどの独立丘陵の存在がとても気にかかるのであります。
然し4月の半ばを過ぎたこの時点では最早地表を観察するには相応しくなく、加えて竹林でもあればそれこそ筍泥棒と間違われても困るのであります。
凸木部氏館 午後2時15分から午後2時45分まで
美里町の遺された城館跡のなかでは僅かに遺構の存在を期待できる個所。
昭和61年に刊行された「美里町史」によれば、明確な土塁と堀跡の存在が記されているのであります。
然しすでに20年前の刊行物で、編纂作業の年数を考慮すれば四半世紀以前の情報に過ぎないことも明白。
JR八高線の小さな松久駅の駅前を右手に見て西側へと車を走らせると水田地帯の中に目的の住宅地が出現。
すると道路の左側になにやら文化財の説明版が所在。
残念ながら城館跡に関するものではなく地元に縁のある和算学者の顕彰碑なのでありました。
さて肝心の遺構については「美里町史」の記述どおりに東側の堀跡と西側の土塁の一部を確認。
館跡の規模は丁度一町四方余りの方形館の大きさで、近世の有力農民階層の屋敷跡のような印象も。
けれども南側と西側の堀跡は埋め立てにより、かつての存在を確認することは叶わず。
なお夕方からの所要のため、この時点で本日の城館探訪を終了。
帰路は往路と全く同じルートであるにも予想通り幾分渋滞を伴い所要時間は凡そ120分。
後半には体調の不良が現れるとともに遺構の存在は元々期待できないような平地の城館跡3ヶ所のみという体たらく。
かくして再びどうにかこうにか楽しい訪城の日々が復活いたしました。
然し毎度そのようなことを理由にしていては物事は先へと進まぬ道理にて。
前日からの訪城準備だけは用意万端怠りないこともあり午前9時半には自宅を出発。
往路は思いのほか車の流れがスムーズのため現地の児玉郡美里町まで僅か90分にて到着。
車内から眺める風景には明らかに初夏への季節の移ろいを感じさせるものが。
凸猪俣氏館 午前11時00分から午後1時15分まで
手始めに猪俣小兵六範綱の霊を弔うと伝わる「猪俣の百八燈」の民俗行事が執り行われる丘陵へ赴くことに。
高地から猪俣氏館と猪俣城相互の位置関係を確認しようと目論んだもののこの時点では肝心の猪俣城の所在地があやふやという情けなさ。
続いて高台院およびその近くに所在する猪俣氏関係の古い墓所へ。
高台院の丘陵の影に隠れていることもあり即座にはその所在地が分からず。
またことのついでながら、かつてはゴルフ場が建設されるまで高台院の裏手から猪俣城へと登るルートが所在していたことも確認。
次に猪俣氏縁の正円寺と二柱神社へ赴き参拝。
ここでやっと館跡の内堀ともされている「正円寺川」の上流方向に所在する稜線が探していた「猪俣城」であることを確認。
なお、猪俣城は甘粕城や場所により木部氏館の近くからさえ望むことができることも判明。
したがって上州への往還を監視する役割を担っていたであろうことも再確認。
このあと、「愛馬の碑」(戦前の昭和期のもの)、「館跡の碑」(大正期のもの)、「馬方石」(年代不詳の力石)、外堀の役目を果たしたとされる「猪俣川」、内堀(正円寺川)などを徒歩にて散策しあらためて遺構の面影を辿ることの難しさをしみじみと味わうことに。
帰りがけに切通し状の地形の近くに「塚」を確認。
またその南側の民家の宅地際に高さ2m前後、長さ30mほどの土塁も確認。
近世以降の風除けのためのものかと推察。
けれども「塚」の所在地点と直線上につながっているようにも思える不思議な位置関係なのでありました。
凸甘粕城 午後1時30分から午後2時00分まで
「埼玉の中世城館跡」によるとJR八高線の松久駅を中心とした辺りがマーキングされていますが、「美里町史」では天神川に東側の辺りに所在する「堀の内」と呼ばれる地域を比定地としているようであります。
また、この地点から見て南側方向に「猪俣城」の山陵がはっきりと見て取ることを確認。
現地では道路の形状と河川改修などのため町史に記された水田のなかの三日月型の堀跡らしき地形を探すのに幾分手間取ることに。
ほどなく用水路脇に残された低地を確認し堀跡の痕跡であると念じて次なる目的地へと移動。
なお東側に所在する比高差30mほどの独立丘陵の存在がとても気にかかるのであります。
然し4月の半ばを過ぎたこの時点では最早地表を観察するには相応しくなく、加えて竹林でもあればそれこそ筍泥棒と間違われても困るのであります。
凸木部氏館 午後2時15分から午後2時45分まで
美里町の遺された城館跡のなかでは僅かに遺構の存在を期待できる個所。
昭和61年に刊行された「美里町史」によれば、明確な土塁と堀跡の存在が記されているのであります。
然しすでに20年前の刊行物で、編纂作業の年数を考慮すれば四半世紀以前の情報に過ぎないことも明白。
JR八高線の小さな松久駅の駅前を右手に見て西側へと車を走らせると水田地帯の中に目的の住宅地が出現。
すると道路の左側になにやら文化財の説明版が所在。
残念ながら城館跡に関するものではなく地元に縁のある和算学者の顕彰碑なのでありました。
さて肝心の遺構については「美里町史」の記述どおりに東側の堀跡と西側の土塁の一部を確認。
館跡の規模は丁度一町四方余りの方形館の大きさで、近世の有力農民階層の屋敷跡のような印象も。
けれども南側と西側の堀跡は埋め立てにより、かつての存在を確認することは叶わず。
なお夕方からの所要のため、この時点で本日の城館探訪を終了。
帰路は往路と全く同じルートであるにも予想通り幾分渋滞を伴い所要時間は凡そ120分。
後半には体調の不良が現れるとともに遺構の存在は元々期待できないような平地の城館跡3ヶ所のみという体たらく。
かくして再びどうにかこうにか楽しい訪城の日々が復活いたしました。
昨日の飯能方面の城館探訪で分かったことが二つほど。
ひとつは「平野砦」の所在する平坦地が国道299号線から明確に望めること。
今まではこのルートを走行しても急カーブの多いこともあり精々「りゅうがい山」方面を一瞥する程度にて。
「イノシシ型の薪ストーブ」を製造直売している付近から、あれほど「平野砦」の地形が明瞭に確認できるとものとは露知らず(汗)
この地域のイメージが未だ頭の中で混沌としているということを再認識した次第。
もうひとつは確実に心肺機能が低下しているということ。
昨日は弱い冬型のため気温が低かったにも拘らず、僅かな登りで忽ち息があがるという始末。
同行していただいた史進殿には随分とご迷惑をお掛けすることとなった次第かと。
一方持病の膝の方はというと、予めサポーターを三重に巻いておいたため踏ん張りは利かないもののどうにか最後まで持ち堪えた模様にて。
然しあのくらいの登りで忽ち息があがるという己の体力が我ながら実に情けなく。
筋肉疲労自体が殆どないことだけが唯一の救いと思う次第に御座候。
ひとつは「平野砦」の所在する平坦地が国道299号線から明確に望めること。
今まではこのルートを走行しても急カーブの多いこともあり精々「りゅうがい山」方面を一瞥する程度にて。
「イノシシ型の薪ストーブ」を製造直売している付近から、あれほど「平野砦」の地形が明瞭に確認できるとものとは露知らず(汗)
この地域のイメージが未だ頭の中で混沌としているということを再認識した次第。
もうひとつは確実に心肺機能が低下しているということ。
昨日は弱い冬型のため気温が低かったにも拘らず、僅かな登りで忽ち息があがるという始末。
同行していただいた史進殿には随分とご迷惑をお掛けすることとなった次第かと。
一方持病の膝の方はというと、予めサポーターを三重に巻いておいたため踏ん張りは利かないもののどうにか最後まで持ち堪えた模様にて。
然しあのくらいの登りで忽ち息があがるという己の体力が我ながら実に情けなく。
筋肉疲労自体が殆どないことだけが唯一の救いと思う次第に御座候。
本日は「城逢人」の史進殿と共に飯能方面の山城を再訪。
些か早めに出かけてきたこともあり待ち合わせの時間まで大分余裕が。
時間潰しがてらに予め小瀬戸城の様子などの下見に。
やはりこの時期になると西側の住宅地からの堀切付近への直登ルートは労多くして..の印象が濃厚。
朝っぱらから小学校の周辺をうろつく不審人物と成り果てつつも漸くプールの東側の細道のルートを発見(笑)
尾根筋の見える個所まで上がり、以前の訪城で見覚えのあった里道らしいことを確認。
さて、このあと午前9時に飯能駅にて順調に史進殿との待ち合わせに成功。
凸小瀬戸城 午前9時20分から10時00分まで
やはり、東側からのルートは正解でありました。
比高差およそ40m前後。
明確な里道にて緩やかな斜面を5分ほど登っただけで忽ち稜線部分に到着。
逆に西側からの直登ルートは、稜線から眺めても頗る樹木の生育が宜しいようでありました。
早めにHPの登口の説明を変更せねば...(汗)
一年ぶりに懐かしの堀切と再会。
堀上土塁も健在。
ふと以前何気なくゴルフ場方面に進み、戻るべき方向を誤った悪夢が頭を過ぎるのであります。
昨年の秋口には間違いなくこの山中にクマが棲息していたはず。
さて春先のクマ騒動というのは余り耳にした記憶が無く。
無論出てきてもらっても困るのでありますが。
凸根古屋城 午前10時25分から11時40分(昼食時間を含む)
所在地、登口については一年前に学習済み。
しかし、稜線からのルートを些か失念..情けない案内にて(汗)
稜線に出たら、そのまま主郭と北東側のピークの間の斜面を直登するのが正解なのでありました。
主郭の大穴も健在。
山頂から見下ろすと腰郭の形状がより明確に。
時刻は午前11時を少し回ったところ。
幾分早いものの、キリがよいのでこの場にて昼食を摂ることに。
曇天で弱い冬型の天候のためか、谷から吹き上げる風がやや冷たく感じた次第。
さて当初の予想を遥かに超えて未だ時間に大分余裕が。
史進と相談の上、中世城郭未公認の「りゅうがい山」方面へと林道経由で移動。
というよりもこの資料しか手持ちがなく、無理やりお付合いいただいたような。
初めて通行する林道も一部落石が目立つ程度で問題なく通過。
地図読みに長けているナビゲータが同乗しているというのは実にありがたいことにて。
凸りゅうがい山 午後0時55分から1時55分まで
今年の1月27日以来3度目(正確にはデジカメの故障時も含めると4度目)の訪城。
やはりハイキングコースの尾根筋沿に所在するV字状の谷は謎の多い地形にて。
この「りゅうがい山」は根古屋城と比べ土質・植生の違いのためかかなり樹木の生育が宜しいようで城館跡の探訪にはギリギリでありました。
例の巨岩と土橋・竪堀状地形を一通り観察した後山頂へ。
史進殿のご指摘により、改めて山頂から見下ろすと北側の尾根筋に腰郭状の半円形の地形が。
この際なので山頂から腰郭らしき地形を目指して降下。
実際下りてみると確かに緩斜面の平坦地にて。
岡部屋敷の詰の城と想定すれば腰郭説も有力。
然し材木の搬出に伴う地形とも。
結論は先送りして、そのまま西側の稜線へから岡部屋敷へ。
凸岡部屋敷 午後1時55分から2時15分まで
楕円形の平坦地は予想していたよりも草が少なく、とりあえず地形の特徴を掴むことは可能でありました。
前回は露出不足のためピンボケとなった祠と巨岩も今回はしっかりと撮影。
さて麓の旧吾野小学校の跡地には、今や枝垂桜が満開にて暫し観賞を。
ライトアップの設備も用意されるほどに見事な枝ぶりにて。
帰路の途中にイノシシ型の薪ストーブを製造直売している個所からあらためて「りゅうがい山」と「岡部屋敷」の姿を確認。
ついでに「平野砦」の地形も確認。
そろそろ今季の山城探訪は概ね終了の見通しと相成り候。
はからずも既に訪れた城館跡を再検証することに。
同行していただいた史進殿のお蔭で、その幕引きに相応しい内容となった次第にて。
些か早めに出かけてきたこともあり待ち合わせの時間まで大分余裕が。
時間潰しがてらに予め小瀬戸城の様子などの下見に。
やはりこの時期になると西側の住宅地からの堀切付近への直登ルートは労多くして..の印象が濃厚。
朝っぱらから小学校の周辺をうろつく不審人物と成り果てつつも漸くプールの東側の細道のルートを発見(笑)
尾根筋の見える個所まで上がり、以前の訪城で見覚えのあった里道らしいことを確認。
さて、このあと午前9時に飯能駅にて順調に史進殿との待ち合わせに成功。
凸小瀬戸城 午前9時20分から10時00分まで
やはり、東側からのルートは正解でありました。
比高差およそ40m前後。
明確な里道にて緩やかな斜面を5分ほど登っただけで忽ち稜線部分に到着。
逆に西側からの直登ルートは、稜線から眺めても頗る樹木の生育が宜しいようでありました。
早めにHPの登口の説明を変更せねば...(汗)
一年ぶりに懐かしの堀切と再会。
堀上土塁も健在。
ふと以前何気なくゴルフ場方面に進み、戻るべき方向を誤った悪夢が頭を過ぎるのであります。
昨年の秋口には間違いなくこの山中にクマが棲息していたはず。
さて春先のクマ騒動というのは余り耳にした記憶が無く。
無論出てきてもらっても困るのでありますが。
凸根古屋城 午前10時25分から11時40分(昼食時間を含む)
所在地、登口については一年前に学習済み。
しかし、稜線からのルートを些か失念..情けない案内にて(汗)
稜線に出たら、そのまま主郭と北東側のピークの間の斜面を直登するのが正解なのでありました。
主郭の大穴も健在。
山頂から見下ろすと腰郭の形状がより明確に。
時刻は午前11時を少し回ったところ。
幾分早いものの、キリがよいのでこの場にて昼食を摂ることに。
曇天で弱い冬型の天候のためか、谷から吹き上げる風がやや冷たく感じた次第。
さて当初の予想を遥かに超えて未だ時間に大分余裕が。
史進と相談の上、中世城郭未公認の「りゅうがい山」方面へと林道経由で移動。
というよりもこの資料しか手持ちがなく、無理やりお付合いいただいたような。
初めて通行する林道も一部落石が目立つ程度で問題なく通過。
地図読みに長けているナビゲータが同乗しているというのは実にありがたいことにて。
凸りゅうがい山 午後0時55分から1時55分まで
今年の1月27日以来3度目(正確にはデジカメの故障時も含めると4度目)の訪城。
やはりハイキングコースの尾根筋沿に所在するV字状の谷は謎の多い地形にて。
この「りゅうがい山」は根古屋城と比べ土質・植生の違いのためかかなり樹木の生育が宜しいようで城館跡の探訪にはギリギリでありました。
例の巨岩と土橋・竪堀状地形を一通り観察した後山頂へ。
史進殿のご指摘により、改めて山頂から見下ろすと北側の尾根筋に腰郭状の半円形の地形が。
この際なので山頂から腰郭らしき地形を目指して降下。
実際下りてみると確かに緩斜面の平坦地にて。
岡部屋敷の詰の城と想定すれば腰郭説も有力。
然し材木の搬出に伴う地形とも。
結論は先送りして、そのまま西側の稜線へから岡部屋敷へ。
凸岡部屋敷 午後1時55分から2時15分まで
楕円形の平坦地は予想していたよりも草が少なく、とりあえず地形の特徴を掴むことは可能でありました。
前回は露出不足のためピンボケとなった祠と巨岩も今回はしっかりと撮影。
さて麓の旧吾野小学校の跡地には、今や枝垂桜が満開にて暫し観賞を。
ライトアップの設備も用意されるほどに見事な枝ぶりにて。
帰路の途中にイノシシ型の薪ストーブを製造直売している個所からあらためて「りゅうがい山」と「岡部屋敷」の姿を確認。
ついでに「平野砦」の地形も確認。
そろそろ今季の山城探訪は概ね終了の見通しと相成り候。
はからずも既に訪れた城館跡を再検証することに。
同行していただいた史進殿のお蔭で、その幕引きに相応しい内容となった次第にて。