本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
カテゴリー
最新CM
中城の歴史の引用について(返信済)
(07/01)
おつかれさまでした(返信済)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
お疲れ様でした(返信済)
(10/13)
お疲れ様でした(返信済)
(03/22)
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
アクセス解析
フリーエリア
3年ほど前から加入させていただいていた「お城メーリングリスト」が、諸般の事情からこの8月27日をもって休止。
自宅のPCの前に居るだけで、日本全国津々浦々のありとあらゆる城館に関する情報が得られたという大変有難い存在。
ML管理人の方を軸にしたその運営努力には、言葉には言い尽くせないような数々のご苦労があったものと拝察。
また参加されていた数多くの方の会員の方々の有用かつ貴重な最新情報を拝見することにより触発されて、何時の日か全国展開への契機として行くことに期待を膨らませていたのでありました。
然し現在の己の置かれた諸状況を冷静に考えれば、当面は埼玉県内限定の怠惰な城跡めぐりを細々と継続していくことがもっとも無理のない継続性のある選択肢であるということにあらためて気づかされたのであります。
自宅のPCの前に居るだけで、日本全国津々浦々のありとあらゆる城館に関する情報が得られたという大変有難い存在。
ML管理人の方を軸にしたその運営努力には、言葉には言い尽くせないような数々のご苦労があったものと拝察。
また参加されていた数多くの方の会員の方々の有用かつ貴重な最新情報を拝見することにより触発されて、何時の日か全国展開への契機として行くことに期待を膨らませていたのでありました。
然し現在の己の置かれた諸状況を冷静に考えれば、当面は埼玉県内限定の怠惰な城跡めぐりを細々と継続していくことがもっとも無理のない継続性のある選択肢であるということにあらためて気づかされたのであります。
埼玉県内の中世城館跡をめぐり始めてボチボチ3年近くに。
最盛期には半年間で100個所の更新を行っていた時期も。
然し現在は1年間で50か所の更新さえ覚束無く。
年齢に伴う体力の衰えに加えて取分け両膝の疾患や呼吸障害も発症。
視力の低下と共にキーボードの誤操作が頻発。
さらに打ち込み速度は今のところかつての半分以下にまで確実に低下しておりまする。
「城館紛いの地形」も気になることもあり、現在のペースでは埼玉県内を一通りまわり終えるまでには少なくともあと10年はかかりそうな気配。
そうなると何とか動き回れる年代までに完了しない可能性があるやも知れず...然しそれもまたひとつの人生なのでありましょうな。
最盛期には半年間で100個所の更新を行っていた時期も。
然し現在は1年間で50か所の更新さえ覚束無く。
年齢に伴う体力の衰えに加えて取分け両膝の疾患や呼吸障害も発症。
視力の低下と共にキーボードの誤操作が頻発。
さらに打ち込み速度は今のところかつての半分以下にまで確実に低下しておりまする。
「城館紛いの地形」も気になることもあり、現在のペースでは埼玉県内を一通りまわり終えるまでには少なくともあと10年はかかりそうな気配。
そうなると何とか動き回れる年代までに完了しない可能性があるやも知れず...然しそれもまたひとつの人生なのでありましょうな。
左馬助殿より事前に「川越百万灯まつり」に伴う交通渋滞情報いただいき、予め帰りの回避ルートを設定するなど万全の態勢で出陣したはず。
然し東松山市では「夏祭り」、小川町では「七夕」による交通規制が行く手を阻み..
加えてのっけからちょっとしたトラブル発生。
北本の「宮岡氷川神社遺跡」にて左側の路地に入るべく県道脇を歩いている時、後ろから走行してきた乗用車のサイドミラーが某の右腕にボコンと接触..
当然車内からでも大きな音がしたようで前方にて急停車。
同年輩の運転者の方は平身低頭し頻りに謝罪を。
交差点の近くであったため恐らく速度は20キロ足らず。
転倒式の合成樹脂製サイドミラーであったことと、当った個所が幸いにして手首と肘の間の腕の筋肉が最も厚い部分で、衰えた某の体の中では唯一頑健な部位。
このため、衝撃音に比べると痛みなどは全くなし。
このブログを打ち込んでいる現在でも打撲などによる内出血や痛みなどは皆無。
運転者の方は何を勘違いされたのか、寧ろ某のデジカメの方をしきりに心配。
ほんの少しずれていれば肘関節への影響は免れなかった可能性も。
何れにせよお互いに不幸中の幸いということなのでありました。
凸宮岡氷川神社遺跡(戦国期館の堀跡)(北本市)10時50分から11時40分
さて肝心な館跡は6月に発掘調査された後に2週間ほどで埋め戻されて現在は畑の一部のような更地。
北西側の氷川神社から西側の宮岡公会堂にかけて浅い谷津が所在する以外は、一帯は広大な平坦な台地であり格別見通しも利かずこれといって特徴のない地形。
その現状からはこの地に幅5メートル、深さ2メートル、長さ10メートルにおよぶ堀跡が存在しているとは某の貧困な発想からでは俄かに想像し難いものが。
新聞などによれば北本市教育委員会では一辺が一町四方の方形館を想定。
加えてかの上杉謙信の武州松山城救援時の石戸在陣の地としての可能性を示唆。
1万平方メートルほどの方形館であると仮定すると、その収容人員の限度は短期間かつかなり多めに見ても1千人以内と推定。
主力が在陣するとすれば通説どおり、やはり当時上杉方であった太田資正の属城と推定される石戸城(別名を天神山城)の方が、その防御性の高さや数千人規模の軍勢の在陣などの諸点からも相応しく思えるのでありました。
凸小川堀ノ内(小川町)12時40分から13時30分
新編武蔵風土記稿の比企郡小川村の小名として「堀ノ内」の名称が記されていて以前から気になっていた場所。
最近「小川町の歴史(上巻)」に概ねの比定地として記述されていることに気づき訪れた次第。
勿論中世城館との関わりについては一切不明。
現在は中郷(小字か)と呼ばれる江戸時代中期に建立されたと伝わる八宮神社の北側一帯には兜川から取水していると推定される曲折の目立つ用水路が所在し、更にその東域にも水路に囲まれた地域が続いておりました。
しかし本命はどちらかといえば兜川が大きく南に蛇行し槻川と合流する八宮神社南側近辺が尤もそれらしい印象。
なお、堀ノ内の北側に所在する比企丘陵の一部となる小川日赤病院近くの日向山とその南東側に隣接する竹林の生い茂る比高差40メートルほどの小さな独立丘陵地帯がなかなか趣のある地形を呈していることに改めて気づいたのであります。
このようにして気になる場所は増え続ける一方で、現在小川町の町内だけでも20か所以上はストック。
かくして当分は埼玉県内から脱出できない気配が濃厚に。
凸阿保境館(上里町、神川町)14時30分から14時40分
土曜日ということもあり、折から工場の南側に隣接するグランドでは少年サッカーの大会が開催中。
このため結果的にはサッカーに興ずる子どもたちの姿と道路の向側に所在する順調に成長を続けている緑が鮮やかな水田の風景を眺めるという結果に。
傍目には孫の勇姿を撮影しに来た関係者のような年代に近いことから、さしたる違和感はなかったのかも知れず..
こうした現況から、この地にかつて外周部が一町半四方におよぶと推定される大規模な阿保氏関係の館跡が所在していたことを想像するには至難の業なのでありました。
凸大御堂陣屋(上里町)14時45分から14時55分
代官頭伊奈備前守忠次の支配下にあったと推定されている近世の陣屋址。
現在でも北側の水路沿いに低い土塁跡らしき地形が長さ20m程にわたって続いていることが確認でき、陣屋址としての当時の面影を感じさせてくれます。
「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、林虎之祐の名が記されていますが、「上里町史」ではこの人物については備前守配下の代官・下代などと推定。
この林氏が一町四方の「陣屋」にして、七本木町、安保町、長浜町の町分の建設および新田川用水の普請にあたったものとしています。
このあと前回訪れた際に確認し忘れた吉祥院の五輪塔・宝篋院塔を撮影。
よく見てみると本来は五輪塔の空輪・風輪が宝篋院塔に混ざっているような光景も。
その何れも年代は古くいかにも中世のものといった印象が滲み出ておりました。
なお本日の車の走行距離は〆て160km。
国道254線の小川パイパスでは、既に「七夕」の交通規制に伴う交通渋滞も発生したこともあり往復所要時間は延5時間以上も。
それに見合う成果があったのかと自問すると、これがなかなか評価が難しく。
然し、両膝の三重サポーター巻きとはいえ、基本的に杖なしで延2キロメートルを無事に歩行できたということは別の意味で大きな収穫なのでありました。
然し東松山市では「夏祭り」、小川町では「七夕」による交通規制が行く手を阻み..
加えてのっけからちょっとしたトラブル発生。
北本の「宮岡氷川神社遺跡」にて左側の路地に入るべく県道脇を歩いている時、後ろから走行してきた乗用車のサイドミラーが某の右腕にボコンと接触..
当然車内からでも大きな音がしたようで前方にて急停車。
同年輩の運転者の方は平身低頭し頻りに謝罪を。
交差点の近くであったため恐らく速度は20キロ足らず。
転倒式の合成樹脂製サイドミラーであったことと、当った個所が幸いにして手首と肘の間の腕の筋肉が最も厚い部分で、衰えた某の体の中では唯一頑健な部位。
このため、衝撃音に比べると痛みなどは全くなし。
このブログを打ち込んでいる現在でも打撲などによる内出血や痛みなどは皆無。
運転者の方は何を勘違いされたのか、寧ろ某のデジカメの方をしきりに心配。
ほんの少しずれていれば肘関節への影響は免れなかった可能性も。
何れにせよお互いに不幸中の幸いということなのでありました。
凸宮岡氷川神社遺跡(戦国期館の堀跡)(北本市)10時50分から11時40分
さて肝心な館跡は6月に発掘調査された後に2週間ほどで埋め戻されて現在は畑の一部のような更地。
北西側の氷川神社から西側の宮岡公会堂にかけて浅い谷津が所在する以外は、一帯は広大な平坦な台地であり格別見通しも利かずこれといって特徴のない地形。
その現状からはこの地に幅5メートル、深さ2メートル、長さ10メートルにおよぶ堀跡が存在しているとは某の貧困な発想からでは俄かに想像し難いものが。
新聞などによれば北本市教育委員会では一辺が一町四方の方形館を想定。
加えてかの上杉謙信の武州松山城救援時の石戸在陣の地としての可能性を示唆。
1万平方メートルほどの方形館であると仮定すると、その収容人員の限度は短期間かつかなり多めに見ても1千人以内と推定。
主力が在陣するとすれば通説どおり、やはり当時上杉方であった太田資正の属城と推定される石戸城(別名を天神山城)の方が、その防御性の高さや数千人規模の軍勢の在陣などの諸点からも相応しく思えるのでありました。
凸小川堀ノ内(小川町)12時40分から13時30分
新編武蔵風土記稿の比企郡小川村の小名として「堀ノ内」の名称が記されていて以前から気になっていた場所。
最近「小川町の歴史(上巻)」に概ねの比定地として記述されていることに気づき訪れた次第。
勿論中世城館との関わりについては一切不明。
現在は中郷(小字か)と呼ばれる江戸時代中期に建立されたと伝わる八宮神社の北側一帯には兜川から取水していると推定される曲折の目立つ用水路が所在し、更にその東域にも水路に囲まれた地域が続いておりました。
しかし本命はどちらかといえば兜川が大きく南に蛇行し槻川と合流する八宮神社南側近辺が尤もそれらしい印象。
なお、堀ノ内の北側に所在する比企丘陵の一部となる小川日赤病院近くの日向山とその南東側に隣接する竹林の生い茂る比高差40メートルほどの小さな独立丘陵地帯がなかなか趣のある地形を呈していることに改めて気づいたのであります。
このようにして気になる場所は増え続ける一方で、現在小川町の町内だけでも20か所以上はストック。
かくして当分は埼玉県内から脱出できない気配が濃厚に。
凸阿保境館(上里町、神川町)14時30分から14時40分
土曜日ということもあり、折から工場の南側に隣接するグランドでは少年サッカーの大会が開催中。
このため結果的にはサッカーに興ずる子どもたちの姿と道路の向側に所在する順調に成長を続けている緑が鮮やかな水田の風景を眺めるという結果に。
傍目には孫の勇姿を撮影しに来た関係者のような年代に近いことから、さしたる違和感はなかったのかも知れず..
こうした現況から、この地にかつて外周部が一町半四方におよぶと推定される大規模な阿保氏関係の館跡が所在していたことを想像するには至難の業なのでありました。
凸大御堂陣屋(上里町)14時45分から14時55分
代官頭伊奈備前守忠次の支配下にあったと推定されている近世の陣屋址。
現在でも北側の水路沿いに低い土塁跡らしき地形が長さ20m程にわたって続いていることが確認でき、陣屋址としての当時の面影を感じさせてくれます。
「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、林虎之祐の名が記されていますが、「上里町史」ではこの人物については備前守配下の代官・下代などと推定。
この林氏が一町四方の「陣屋」にして、七本木町、安保町、長浜町の町分の建設および新田川用水の普請にあたったものとしています。
このあと前回訪れた際に確認し忘れた吉祥院の五輪塔・宝篋院塔を撮影。
よく見てみると本来は五輪塔の空輪・風輪が宝篋院塔に混ざっているような光景も。
その何れも年代は古くいかにも中世のものといった印象が滲み出ておりました。
なお本日の車の走行距離は〆て160km。
国道254線の小川パイパスでは、既に「七夕」の交通規制に伴う交通渋滞も発生したこともあり往復所要時間は延5時間以上も。
それに見合う成果があったのかと自問すると、これがなかなか評価が難しく。
然し、両膝の三重サポーター巻きとはいえ、基本的に杖なしで延2キロメートルを無事に歩行できたということは別の意味で大きな収穫なのでありました。
誠に古い話で恐縮にございます。
大分以前に高谷砦への登り口を探していたところ謎の洞穴に遭遇したことが。
高谷砦とは明らかに谷の反対側だし、恐らくは戦時中の防空壕跡などであろうか..とそのまま失念。
最近になって、別途の必要にせまられて「小川町町の歴史(下巻)」を何気なく見ていると、ようやくその真相が明らかに。
実は敗色の濃くなった太平洋戦争末期の通称「燕部隊」と呼ばれた第一航空軍の地下軍事施設の入り口であったことが判明。
かくて2年半もの月日を要し「戦争遺跡」の究明に成功..
元い、単に某の不勉強さ加減が暴露されただけのことに過ぎないのであります(大汗)
フルオートのコンパクトデジカメのため当時の画像をこうして眺めると、画像が粗いのがかえって懐かしくさえ感じられたのでありました。
およその位置は高谷砦の谷を挟んだ西側方面とだけ。
多分に酸素不足と崩落の危険性を伴うことから、具体的所在地につきましては非公開とさせていただきます(苦笑)
大分以前に高谷砦への登り口を探していたところ謎の洞穴に遭遇したことが。
高谷砦とは明らかに谷の反対側だし、恐らくは戦時中の防空壕跡などであろうか..とそのまま失念。
最近になって、別途の必要にせまられて「小川町町の歴史(下巻)」を何気なく見ていると、ようやくその真相が明らかに。
実は敗色の濃くなった太平洋戦争末期の通称「燕部隊」と呼ばれた第一航空軍の地下軍事施設の入り口であったことが判明。
かくて2年半もの月日を要し「戦争遺跡」の究明に成功..
元い、単に某の不勉強さ加減が暴露されただけのことに過ぎないのであります(大汗)
フルオートのコンパクトデジカメのため当時の画像をこうして眺めると、画像が粗いのがかえって懐かしくさえ感じられたのでありました。
およその位置は高谷砦の谷を挟んだ西側方面とだけ。
多分に酸素不足と崩落の危険性を伴うことから、具体的所在地につきましては非公開とさせていただきます(苦笑)
本日の目的地は児玉郡の上里町。
本来ならば先月中旬には概ね完了している筈。
然し、天候が良いと仕事関係の荷物運びで2回膝を痛め、体調が良いと天候が..などとモタモタとしているうちに早1ヶ月半という日々があっという間に過ぎ去って行ったのでありました。
先ず、膝のサポーターOK。
持病関係の薬一式OK。
デジカメ、メモリーカード、電池充電OK。
水分補給関係OK。
平地なので恐らく不要な方位磁石もついでにOK。
藪潜り用品一式OK(ゴーグル、手袋、この時期必需品である薮蚊よけスプレー&ジェルタイプ各種、痒み止めの各種軟膏)。
トレッキング用の杖2本もOK。(先日新たに追加購入したので何と5本も所有)
資料一式を収納したバッグOK。
筆記用具一式OK..と、久々の訪城ゆえに忘れ物の無いように指差呼称により確認。
しかし嵐山町まで行ったところで、自宅で充電中の携帯を忘れたことに気づくというお粗末さ。
近々チェックシートでも作成せねばいかぬと思う次第。
けれども、そのこと自体を忘れそうで..
凸遠道遺跡(比企郡嵐山町)午前11時30分から午後1時まで
元々東武東上線の軌道が谷沿いに走る形で平沢地区と志賀地区が分断され、以前からの工場建設に加えて2年ほど前にはベイシアを含む郊外型のショッピングセンターがオープンして周囲の景観は殊更大きく変貌を遂げています。そうした中でも周囲を比高差50m以上の丘陵地帯に囲まれている立地条件を窺い知ること自体は現在でも可能かと。こうしたことから生活の基盤である水源を確保できるという地形であることが想定され、中世以来の集落がある程度継続して存在していたということは十分に肯けます。
以前の発掘調査の成果から堀跡とみられる遺構を始めとして出土遺物から中世の館跡である可能性が示唆されているという程度の遺跡ということのようです。然し中世初期には大伽藍が所在したとされる平沢寺と同寺を庇護したと推定される畠山氏の菅谷館が共に近いことから在地の小規模な領主階層のものと思われます。なお出土物の年代が13世紀から近世までと年代幅が広いとのことなので、その具体的な時期を特定することは難しいのかも知れません。
なお当地での歩行距離は志賀神社の石段および多少の上り坂を含めて約1kmほど。
杖と三重のサポーターでこの時点ではさほどの支障は感じられず。
凸吉祥院館(児玉郡上里町)午後2時から午後2時50分まで
上里町の大御堂地区に所在する新義真言宗智山派の古刹で、阿保氏との関わりを有するとされる阿保山吉祥院真光寺が館跡。遺構は寺域の四方に土塁状の高まりが残存し、南側の西端ぶと西側が良好。特に西側部分は一部に低い部分もあるものの凡そ200mほどにわたって続いていました。北辺部分は内側からの高まり自体は確認できないものの水田面とは1m以上の比高差を有しています。東側は本堂より南の部分におよそ50mほどの高まりが確認できますが、ブロック塀と同居する形となっておりました。
こちらでの歩行距離は周囲を2週ほど歩き回ったため約1.5kmほど。
この時点でも概ね歩行に支障なし。
■大御堂(児玉郡上里町)午後3時から午後3時40分まで
中世寺院跡で現在も大字名として遺されており、「だいみどう」ではなく「おおみどう」と読むようです。吉祥院の存在と深い関わりがあるとされているのですが、準備不足のため資料に記されていた具体的な大御堂の所在地が判明しないまま北西の神川町に所在する降松稲荷大明神や西側の石祠の所在する平地林を散策。このとき小さな水路を越えなければならず、さりとて飛び越すほどの余裕はないためやむを得ず片足に重心をかけることに。歩行距離は僅かに約600mほど。然し、この時に左膝付近に微妙な違和感がじわじわと。「新編武蔵風土記稿」や「享保年間の絵図」から察すると「大御堂」は御朱印30石を下賜された吉祥院自体を指すようにも。しかし、神川町の資料では吉祥院の西側に土塁を含む寺院遺構が存在していたというような記述が。尤も近年の耕地整備により景観が大きく変わっているので致し方のないところではありました。
なお、この散策では砂利の採掘現場が隣接していたため、沖積層の砂礫部分の厚みをこの目で確かめられるというおまけつきなのでありました。
かくして、お蔭様でどうにかこうにか漸く再開にこぎつけたのでありましたが、合計3.1kmしか歩いていないもののどんよりとした曇り空であったこともありこの辺が限度と決断し撤収の止む無きに。
それにしても往復5時間費やして、たった2ヶ所半とは我ながら余りの効率の悪さに呆然。
余談ながら、本日のルート沿いにはベイシアの店舗の多いことこの上なし。
川島町に始まり、嵐山、寄居、花園と都合4か所。
昼食を買うために立ち寄ると、靴下が一足90円だったので思わず品選びを始めてしまうという始末。
加えて涼しそうで速乾性の夏用の半袖スウェットが半ズボンのスペアがついて1890円..むむっとして、思わず手に取ったりしていたので、更に貴重な時間が失われていくのでありました(苦笑)
本来ならば先月中旬には概ね完了している筈。
然し、天候が良いと仕事関係の荷物運びで2回膝を痛め、体調が良いと天候が..などとモタモタとしているうちに早1ヶ月半という日々があっという間に過ぎ去って行ったのでありました。
先ず、膝のサポーターOK。
持病関係の薬一式OK。
デジカメ、メモリーカード、電池充電OK。
水分補給関係OK。
平地なので恐らく不要な方位磁石もついでにOK。
藪潜り用品一式OK(ゴーグル、手袋、この時期必需品である薮蚊よけスプレー&ジェルタイプ各種、痒み止めの各種軟膏)。
トレッキング用の杖2本もOK。(先日新たに追加購入したので何と5本も所有)
資料一式を収納したバッグOK。
筆記用具一式OK..と、久々の訪城ゆえに忘れ物の無いように指差呼称により確認。
しかし嵐山町まで行ったところで、自宅で充電中の携帯を忘れたことに気づくというお粗末さ。
近々チェックシートでも作成せねばいかぬと思う次第。
けれども、そのこと自体を忘れそうで..
凸遠道遺跡(比企郡嵐山町)午前11時30分から午後1時まで
元々東武東上線の軌道が谷沿いに走る形で平沢地区と志賀地区が分断され、以前からの工場建設に加えて2年ほど前にはベイシアを含む郊外型のショッピングセンターがオープンして周囲の景観は殊更大きく変貌を遂げています。そうした中でも周囲を比高差50m以上の丘陵地帯に囲まれている立地条件を窺い知ること自体は現在でも可能かと。こうしたことから生活の基盤である水源を確保できるという地形であることが想定され、中世以来の集落がある程度継続して存在していたということは十分に肯けます。
以前の発掘調査の成果から堀跡とみられる遺構を始めとして出土遺物から中世の館跡である可能性が示唆されているという程度の遺跡ということのようです。然し中世初期には大伽藍が所在したとされる平沢寺と同寺を庇護したと推定される畠山氏の菅谷館が共に近いことから在地の小規模な領主階層のものと思われます。なお出土物の年代が13世紀から近世までと年代幅が広いとのことなので、その具体的な時期を特定することは難しいのかも知れません。
なお当地での歩行距離は志賀神社の石段および多少の上り坂を含めて約1kmほど。
杖と三重のサポーターでこの時点ではさほどの支障は感じられず。
凸吉祥院館(児玉郡上里町)午後2時から午後2時50分まで
上里町の大御堂地区に所在する新義真言宗智山派の古刹で、阿保氏との関わりを有するとされる阿保山吉祥院真光寺が館跡。遺構は寺域の四方に土塁状の高まりが残存し、南側の西端ぶと西側が良好。特に西側部分は一部に低い部分もあるものの凡そ200mほどにわたって続いていました。北辺部分は内側からの高まり自体は確認できないものの水田面とは1m以上の比高差を有しています。東側は本堂より南の部分におよそ50mほどの高まりが確認できますが、ブロック塀と同居する形となっておりました。
こちらでの歩行距離は周囲を2週ほど歩き回ったため約1.5kmほど。
この時点でも概ね歩行に支障なし。
■大御堂(児玉郡上里町)午後3時から午後3時40分まで
中世寺院跡で現在も大字名として遺されており、「だいみどう」ではなく「おおみどう」と読むようです。吉祥院の存在と深い関わりがあるとされているのですが、準備不足のため資料に記されていた具体的な大御堂の所在地が判明しないまま北西の神川町に所在する降松稲荷大明神や西側の石祠の所在する平地林を散策。このとき小さな水路を越えなければならず、さりとて飛び越すほどの余裕はないためやむを得ず片足に重心をかけることに。歩行距離は僅かに約600mほど。然し、この時に左膝付近に微妙な違和感がじわじわと。「新編武蔵風土記稿」や「享保年間の絵図」から察すると「大御堂」は御朱印30石を下賜された吉祥院自体を指すようにも。しかし、神川町の資料では吉祥院の西側に土塁を含む寺院遺構が存在していたというような記述が。尤も近年の耕地整備により景観が大きく変わっているので致し方のないところではありました。
なお、この散策では砂利の採掘現場が隣接していたため、沖積層の砂礫部分の厚みをこの目で確かめられるというおまけつきなのでありました。
かくして、お蔭様でどうにかこうにか漸く再開にこぎつけたのでありましたが、合計3.1kmしか歩いていないもののどんよりとした曇り空であったこともありこの辺が限度と決断し撤収の止む無きに。
それにしても往復5時間費やして、たった2ヶ所半とは我ながら余りの効率の悪さに呆然。
余談ながら、本日のルート沿いにはベイシアの店舗の多いことこの上なし。
川島町に始まり、嵐山、寄居、花園と都合4か所。
昼食を買うために立ち寄ると、靴下が一足90円だったので思わず品選びを始めてしまうという始末。
加えて涼しそうで速乾性の夏用の半袖スウェットが半ズボンのスペアがついて1890円..むむっとして、思わず手に取ったりしていたので、更に貴重な時間が失われていくのでありました(苦笑)