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本日は同好の士4名(S氏、H氏、G氏、某)にて、比企郡滑川町南部を中心に「城館まがい」もふくめた誠に地味な悉皆調査を敢行。
先日までの寒波が嘘のように風もなく穏やかな日和に恵まれましてございまする。
羽尾村の鎮守にて村社である羽尾神社社殿背後の尾根筋を掘削したと推定される堀切状地形が所在。
小字堀ノ内との地名が残るtが地元に伝わる口碑を除いてその経緯は委細不祥。
武州松山城攻防時に後北条氏に加勢した武田勢の戦火により焼失したと伝わる中世寺院跡。
篠竹の藪のなかに土塁らしき地形が残存するもデジカメ撮影は困難にて候。
さてここで、不肖某めが伐採された樹木が散乱する足元を表題通りに踏み破りましてございます。
右足の膝上まで陥没いたしましたが、幸い儀一殿のご助勢により事なきを得ましてございます。
福厳寺と尾根続きの丘陵。
謎に包まれた桝形状の窪地、尾根筋に平行した溝跡など不詳の地形が所在する市野川北岸の独立丘陵。
社殿の削平地斜面の切岸状地形と神社鳥居右側の不詳の溝跡が所在する市野川北岸の独立丘陵。
樹木の生育が切岸、腰郭状地形を覆い隠す現況。
城館名称は知られていても、予備知識が無ければ些か分かりにくい遺構。
このためテンションは幾分低下気味に。
旗本岡部氏の陣屋跡と伝わる丘陵の鞍部を背にした曹洞宗寺院の境内。
近世中期と思われる四天王の彫像と山門は町指定文化財。
凸その裏山の桑畑(比企郡滑川町)午前10時05分から10時20分
以前は桑畑と推定される丘陵鞍部の魅力的な造成地形。
90%以上は桑畑の造成に伴うものかと。
この謎めいた地形を目の当たりに参加者の低下気味のテンションが僅かばかり上昇。
あらためてあの規模の土木工事が何時どの様な形で行われたものかとの疑問が。
小字「郭」との地名が。
謎の石積み、2段構えの切岸状地形が所在。
小規模な「村の城」という印象をあらためて感じる次第。
テンションは下がってはいない模様にて一安心。
凸陣馬沼(比企郡滑川町)午前11時20分から午前11時35分
三門館などに関連した地名と推定。
V字型の里道と竹林内の折れ曲がる溝状地形が所在するも確証不足は否めず。
テンションは上がりもせず下がりもせずかと。
神社の参道という見解も。
やはり城館跡であって欲しい堀跡状地形は今も健在。
周辺の眺望を確認し、昼食を摂るためにプチハイキング。
食事をするには格好の天候。
しかし、眺望を期待するには南風は不向きにございました。
ムラサクシキブの実
旗本酒井重勝の陣屋跡と伝わる寺院。
現在も酒井氏歴代の墓が現存。
呼びかけ人の怠慢により、危うく飛ばしそうになった城館跡にございますが、相変わらずダイナミックな空堀跡が竹林の中にひっそりと佇んでおりました。
全員のテンションは明らかに上昇気味。
これも古い文化財の案内道標のお蔭にて、地元の篤志家の方々に深謝。
泉福寺館の堀跡
埼玉における「村の城」の典型事例として捉えられている感のある民家の裏山。
関越インター建設により消失したと思われる側道に変貌した堀切跡が恨めしく候。
山城探訪の季節にて、多少は確実に遺構が存在する城館跡も訪れねば申し訳が..
予想通り手ごわいお犬様がおいでになりました。
しかし飼い主の方の温かいご配慮により無事に通過することに成功。
お犬様は吠えすぎで声が嗄れ果てた模様にございました。
西郭方面の草木の繁殖が以前よりも目立った以外は予想よりも遺構の確認は容易。
某も3度目の訪城により、主郭東側の土塁跡を有する腰郭乃至帯郭状地形も確認でき誠に再訪した甲斐がございました。
高谷砦堀切
東側腰郭乃至帯郭
概ね予定通りの時刻に一応無事に下山完了にございます。
ご一同の皆様方には、たいへんお疲れ様にございました。
鋭意調査中
訪れた個所はあわせて15か所。
内訳は正統派中世城館跡6か所、近世陣屋跡推定地2ヶ所、城館紛い5か所、中世寺院跡1か所、展望台1か所のおまけ付き。
紅葉見物がてらの城館紛い散策という目論見につきましては、先日来の寒波にもかかわらず時期尚早にございました。
不肖の案内人の故、皆様平にご容赦を m(__)m
なお、大坂城周辺の彷徨のためつぶれたマメは、今や完全に角質化の一途を辿り万全の備えを確立。
⇒本日の史進殿のブログをご覧ください。
⇒本日の儀一殿のブログをご覧ください。
城と名のつく所へくると俄かにスイッチが切り替わることを諦観してくれた家内に感謝。
このため、朝食後はそれぞれバラバラに単独行動。
家内との待ち合わせはJR新大阪駅。
タイムリミットは午後1時43分発の座席指定のひかり34号。
本日の行動時間を当てはめれば、遅くとも午後1時頃にはJR大阪駅必着。
前日の綿密なる行動計画に従い通勤時間帯のJR環状線にて玉造方面へ。
目的地は昨日は日没コールドとなってしまった真田山方面。
と、ここでふと思い出したことが。
昨日訪れた玉造稲荷神社では、「玉造」の地名は「勾玉」に由来するものであることを初めて認識。
「長堀通」「空堀町」「真田丸出城」「大阪冬の陣」「真田幸村」とくれば、てっきり「火縄銃の鉄砲玉を製造していたことに因むもの」などと、修学旅行の生徒でも間違えそうもない全くとんでもない誤解をしていたことに気がついて..(大汗)
事前の準備が全くなかったとはいえ、末代までの恥、正に汗顔の至りに御座候。
凸真田丸出城(大阪市中央区)午前9時から午前10時
玉造駅から徒歩で反時計回りに長堀通を西へ進み、空堀町交差点を南下。
ここであらためて周囲の地形を見まわすと、思いのほか坂が目立つ起伏の多い地形。
然も完全に市街地のど真ん中。
これでは他所者の素人に真田丸出城の位置などをあれこれと推定できるはずもなく。
推定地は一般には、円珠庵の北方もしくは北東の高台などの情報が。
何れにしてもいったん下った坂を再び上り南西の円珠庵へ。
思ったよりも小さな堂宇であることにやや困惑していると、ちょうど散歩に訪れていたご年配のご婦人から以前はもっと大きな境内地であった旨のお話を伺うことに。
このあと明星学園から真田山小学校、宰相山公園、三光神社へと向い再び真田幸村の銅像前に。
しかし、朝の日差しは銅像にまだら模様の陰影を投影。
このため銅像の画像そのものは日没時の方がよっぽどマシという結果に。
かくして右足のつぶれたマメが余計に疼き始めるのでありました。
市街地化が進み現状地形のみから判断するのは最早困難なほど見通しが利かず。
それでも当時は笹山と呼ばれた出城の位置については、概ね明星学園、真田山小学校、宰相山公園・三光神社付近一帯であることはほぼ間違いが無さそうに思えるのでありました。
比定地の目安に引用される「円珠庵」
-2007/11/20 撮影 以下同様- |
六大院(南側堀跡説も)
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宰相山墓地の盛土
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宰相山公園の「真田の抜穴」
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凸岡山砦(御勝山)(大阪市生野区)午前10時30分から午前10時50分
大阪夏の陣で徳川秀忠が布陣したとされる前方後円墳とのこと。
古墳としての遺構が残存する円墳部分は樹木が叢生するとともにフェンスに囲まれた状態。
このため、近代に使用された農学校跡地の石碑が墳丘の中腹に設置されていることを確認したのみ。
石碑の後側がちょうど家庭ごみステーションのため資源ごみとともに記念撮影などを。
勝山通の歩道橋から観察するのが宜しいようで、無論地表の観察など出来る術もなく。
現在は公園となっている方墳部分との間には「勝山通」が東西方向に走り遺構を分断。
古代史の視点から見れば二重の遺跡破壊の跡ともいえなくもないような。
また大阪はホームレスの方が多いとは聞き及んでいたものの、こちらでも男女各1名の関係者が新聞紙、アルミ缶などを自主回収されておりました。
すぐ西側には生野区役所が所在。
トイレを借りるついでに無くて元々と思い玄関を入ると、向かって左側のコーナーに御勝山古墳の発掘関係資料が常設。
歴史関係の冊子等も展示されていることから、総合受付で関係資料頒布の有無を尋ねることに。
ここで無償のA4版古墳の解説資料の入手に成功。
しかし、御勝山に関する地名の由来が記されているのみで、残念ながら関係個所は僅かに50文字でございました。
凸大塚城(茶臼山)(大阪市天王寺区)午前11時20分から午前11時50分
予定通り生野区区役所前からタクシーで茶臼山のある天王寺方面へ移動。
しかしタクシーが天王寺公園への道が分からず、大阪3日目の某が道案内をする破目に。
比較的著名な場所なので大阪市内が地理不案内とも思えず不思議な体験を。
天王寺公園は西側が動物園、東側が美術館と公園に。
勿論徳川家康の本陣が置かれたとされる茶臼山の所在する東側の公園へ。
茶臼山古墳への園内の道沿いの芝生に気持ちよさそうに日光浴の最中のネコさん発見。
大阪城でも人懐こい子ネコと戯れてきたのですが、こちらのネコさんは筋金入りの人間好きらしく。
しばらくナデナデをさせてもらった後、道を急ごうとすると後ろからからノコノコとついてくるのであります。
よほど暇だったか、気に入られたのかは不明ですが、これほど懐いてくれたのは2年近く前の秩父の田村氏館以来かと。
しばし別れを惜しみつつ和気清麻呂の伝承を残す大きな川底池の橋を渡り茶臼山へ。
前方後円墳らしき古墳である以外には格別の地形的な特徴はなく。
円墳部分の広さは直径にして約25mほどの規模。
比高差は一番少ない北側で12mほどかと。
樹木が元気に繁殖しているため大坂城方面の現在の見通しは限りなくゼロ。
帰り際の美術館前からは、往路には全く気付かなかった大阪名物の通天閣が間近に見えたのでありました。
凸天王寺砦(大阪市天王寺区)午前12時20分から12時30分
四天王寺一角は有名な観光スポット。
しかし当方はその北西に所在する天王寺砦跡と推定されている月江寺が目標。
大阪の寺院は一般に派手なつくりが多いなかで、天王寺区の区民センター北側に隠れるようにして所在。
その700坪ほどのこじんまりとした境内は落ち着いた佇まいを見せておりました。
西側は台地の辺縁部にあたるため緩やかな坂を形成していること以外には砦跡の名残は見ることができませんでした。
不精ひげをはやし、マメがつぶれた右足、膝が棒のようになった両足にてヨタヨタと大阪の町を歩く姿はデジカメを所持していないと誤解されかねない風体。
その後JR大阪駅で車両故障が発生するトラブルが起きたものの、新幹線の発車時間の30分前には無事到着。
かくして、3日間で当初の予定通り合計10か所の訪城に成功。
これだけ歩いて痛みが起きないということは、膝の具合については夏頃に比べると確実に回復している模様。
3か月ほど杖を手放せなかったことを思えば、これも今回の大きな成果のひとつであることは間違いなく。
朝一でJR大坂駅前のホテルから地下鉄谷町線にて娘のアパートへ。
大分急いで片付けたようですが、相変わらず部屋は散らかっておりました。
ワンルームなので居場所もなく、3人で予定通り天神橋の博物館へ。
しかし火曜日は生憎の休館日。
そういった予定は家内に一任。
当方はもとより城館関係しか念頭になく、如何に長く単独行動できるかで頭が一杯。
このため予定変更して少しばかり天神橋の商店街を散策。
この早い時間から開店している店も少なくタクシーで大坂城へ移動。
凸大坂城(大阪市中央区)午前10時より午後3時15分
西側の大手口より入城。
ここで如何に上手く立ちまわれるかが本日のポイント。
娘も既に社会人なので父親に写真を写されて喜ぶ年齢ではなく。
さりとてあからさまに別行動をとるのも大人げなく。
何よりも家内のご機嫌も損ねては今後に支障が(冷汗)
結局は目立たぬように家内たちから遅れて行く心理作戦を敢行。
これがものの見事に成功し、少なくとも夕刻まで別行動できる結果に。
近世末期の建築物とはいえ重要文化財に指定されている建造物を逐一確認し、城内から登れる個所はできるだけ時間をかけて観察。
時間の関係で予め再建天守内には基本的に入らない方針を樹立。
大手門、六番矢倉、太鼓櫓跡石山本願寺跡推定地、豊国神社、ごく最近建立された秀吉の銅像、一番櫓、千貫櫓、焔硝蔵、金蔵、山里曲輪、淀君などの墓所、淀君・秀頼自刃の石碑、秀吉時代の凡その天守台推定地などを回ったのち極楽橋を渡り蓮如の石碑へと移動。
そのあとは京橋口から天守方向を撮影しつつ、ついでに夜景の撮影ポイントも確認。
西の丸は閉園するので、京橋口方面が良さそうなことが判明。
気がついてみれば飲まず食わずきで5時間以上が経過。
かくして日中の大半を大坂城内で過ごす結果に。
とはいえ所期の目的が達成され足まわりの疲労を別にすれば充実した時間。
お馴染の土塁と空堀の城館とは異なり、近世城郭もまた別の味わいが。
一方些か気になることもないではなく。
代表的な観光地とは思えない山里曲輪付近の工事方法。
東側石垣からの排水と天守南西の巨大な配管設備。
石垣内側の石段全体に歪みが目立つこと。
派手好きの娘曰く「コテコテの天守外壁の装飾」など
これらを一切ひっくるめて、これが大阪の文化と納得するような印象もあるような。
凸桜の岸砦(ろうのききしとりで 大阪市中央区)午後3時35分から3時45分
石山合戦の舞台となった砦跡のひとつらしい。
うーむ、余りにも資料不足の感が。
復路の土佐堀通り沿いには、かつての船着場、魚河岸等の所在を明らかにした文化財石柱が設置。
かつてこの辺りが大阪湾の沿岸部であったことが偲ばれたのであります。
永田屋昆布本店前に置かれた「八軒屋の今昔」という貴重なパンフレット(24頁オールカラー、非売品)を拝領。
大坂城が上町台地の北端に所在するという事実確認とともに、自分の足で歩くことの大切さを改めて実感した次第。
■玉造稲荷神社(同)午後4時35分から4時40分
「豊臣秀頼ゆかりの神社」らしいとしか手持ちの資料では分かっていないのでありました。
実際に訪れてみると思いのほか大きな神社で神職の方もお住まいの模様。
すでに夕闇に包まれ始めた境内には、ライトアップされ七五三参詣の旗指物(商品名「桃太郎旗」とも)がはためく賑やかさ。
秀頼寄進の鳥居、千利休に因んだ石碑なども所在し豊臣家との関わりの深さが窺われたのであります。
凸真田丸出城(同) 午後4場55分から5時15分
三光神社近くの公園には「真田幸村の銅像」と「大坂城から通じる抜け穴」が所在。
有名な真田信繁(幸村)が活躍した大坂城の出城の推定所在地ということですが、真田山小学校が当地に所在することと「○○真田山」との名称のマンションがやたらに多いことを除けば真田勢の活躍した舞台とは思えず。
それでも今も空堀町や長堀通(但し近世の運河跡ですが)の地名がのこる。
推定地には幾つかの候補地があるようで「明星学園付近」「宰相山」(別名を真田山?とも)などが有力な候補地とされている模様。
しかし仮に3千もの将兵が守りを固めていたとすれば、少なくとも1万坪以上の広さを要求されることから、宰相山公園を中心に明星学園から真田山小学校を含むかなり広範囲な地域が想定されるものと考えられます。さて、夕闇の中を強引に彷徨していたものの、西側に厚い雲が生じていたために午後4時過ぎには早くも夕闇が迫り辺りは日没も同然の薄暗さ。
街灯が点灯し次第に闇に包まれ始めた宰相山墓地を徘徊する怪しい人物に。
画像は場所が場所だけに心霊写真のようなものばかりにて。
いずれにせよ真田丸出城については翌日あらためて再訪することを深く胸に刻んで。しかし、よく考えてみると移動時間含めて正味4時間程度で4ヶ所も回りきれるのかという素朴な疑問が浮上
さて、こうなったら大坂城の夜景を撮影せねばと北風の中を再び京橋口から入場(爆)
レントゲンのように息を止めての夜間撮影を繰り返した後、そのまま徒歩にてJR大阪駅まで行軍。
かくして本日の歩行距離は累計で約18kmに達し、運動不足の我が足はものの見事に足のマメがつぶれたのであります。
さて、ホテルへ戻り就寝前に1時間以上かけて移動ルートと交通手段の綿密なプランを検討。
始めにJR環状線にて玉造駅で下車し玉造町周辺一筆書きの要領にて最短距離で巡回⇒その後は再び玉造駅から2つ先の桃谷駅へ電車で移動して徒歩20分の距離に所在する御勝山(岡山砦)へ⇒生野市役所で関係資料を漁りタクシーで天王寺方面へ移動し茶臼山へ(約2キロ近い距離があるので、マメがつぶれた足を以ってしては時間の浪費となることは最早自明の理)⇒そのあとは再び徒歩にて天王寺砦の推定地へと赴いて、市営地下鉄谷町線で東梅田へと戻る。
このルートの合計所要推定時間は約4時間なので、新大阪駅からの新幹線乗車時間との整合性などを考慮して午前8時30分にはホテルを出発することに決定。
大阪で一人住まいで働いている長女に会いに行くのが本来の目的。
アパート探し等のため家内の方は既に何度か訪問。
しかし自分は全く初めて。
というより、大阪自体が初めて。
だいたい半世紀以上生きていて、京都より西へ行ったことさえなく。
前回は確か20年ほど前に仕事で京都日帰り。
遠距離出張には全く縁がなく、個人的にも連休がなかなか取れない職業人生。
新幹線に乗車するのも人生でこれが漸く3回目(恥)
思えば新婚旅行も仕事でキャンセルしたような。
当然、飛行機も乗ったことがなく。
都内の城館跡さえ意識して訪れたところはなく。
それがいきなり大阪へと出かける羽目に。
尤もこういう機会でもないと恐らく一生訪れない可能性さえ。
凸平塚城(東京都北区)午前8時05分から8時35分
久々の墓参りも兼ねて立ち寄ることに。両親は戦後間もなくこの神社で結婚式。
遥か半世紀以上前に不肖某もここで七五三などを。
数年前に他界した父とは頻繁に散歩に出かけた場所。
早い話が自分の生まれ故郷。
卒業した小中学校もこのすぐ近く。
何故か校歌も未だに記憶。
「きよ~らかに~ただしく、なおく、もろともに」
区立なのにこうして文字にすると何か讃美歌のような..GHQの影響か..(笑)
そういえば校舎裏に薪を背負い本を読む「二宮金次郎の石像」が転がっておりました。
「東に、希望の空輝き、平和の富士、西に高し..」(ミソソミ、ララソラ、ドラソラ、ソミ..)
内田康夫氏のミステリ小説に登場する主人公。
昔は榎木孝明、次に辰巳琢朗など、そして今は沢村一樹だったかと。
その主人公の実家が東京都北区西ヶ原3丁目という設定。
自分の生まれた住所と偶然の一致。
尤も自分の住んでいた所はかつての谷田川沿いの低地。
屋敷町は確か北側の高台の方角に所在していたという記憶が。
このため子どもの時から平塚亭の団子はお馴染。
この日もお参りの後に買い物。
朝まだ早い時間帯のため、生憎と団子は無く出来たての豆大福を購入。
大分以前の郷土史関係資料。
この平塚神社の洪積台地を城跡と明確に記述。
なかには切り通しの道路沿いに生育する樹木の傾斜を空堀の存在に結びつける見解なども提示。
さらには「飛鳥山城」との記述に加え、果ては「西ヶ原城」の存在さえ示唆(苦笑)
しかし最近の研究者の見解では、平塚城が名族豊島氏の拠点であったかどうかについてその実在が些か危うく。
実在したとしてもこの台地ではなく、もう少し南寄りの方面との説も。
ことによると関連しそうな神社東側の城官寺にも立ち寄ることに。
ところが法要のため様々な葬祭用具が設置され写真撮影がなかなか難しく。
そういえば卒業した小学校の隣に所在する大学の敷地は、あの有名な「下瀬火薬」の海軍工廠。
道理で有刺鉄線が張り巡らされた高い頑丈なコンクリート塀や防空壕があった訳で。
どうもこの年齢になると矢鱈に昔のことばかりが脳裏に浮かび。
それに反して最近の記憶が一段と曖昧に。
かつては奥行200m以上はあったと思われる神社境内の参道。
経営上の理由からか、参道両側の半分以上が月極めの貸駐車場に変貌しておりました。
凸野田城(大阪市福島区)午後2時20分から2時40分
JR大阪駅から大阪環状線に乗り換えて2駅目のJR野田駅下車。
往復時間徒歩2分を含めて10分間の訪城。
現地は大阪の市街地の一角。
以前は銀行の支店が置かれていたらしい細長いマンションの左側にポツンと石碑が設置。
戦国史では著名な三好一党、織田信長、石山本願寺と馴染の名前が登場。
それにしては余りにあっさりとしているようにも思われるのでありましたが、日没までの時間が迫りつつあるのでとっとと移動。
凸若江城(東大阪市)午後3時40分から4時10分
若江公民館分館前に設置された解説板はすぐに発見。ところが予め資料として用意していた本が古かったせいか、若江小学校近くと思われる肝心の石碑の所在地がなかなか見つからず。
できるだけ優しい口調で、下校途中の5年生くらいの男子児童に尋ねてみることに。
始めは関西弁なので会話不成立。
というか、何を言っているのか分からず。
要は「下校途中なので、案内したいけど寄り道になるので一緒にはいけまへんがな」と言っていたような。
指差した方向にどうやら目標物があることを漸く理解。
丁寧にお礼を言って、もと来た方向へと少し戻ると小堂宇の一角に土地改良組合の顕彰碑などとともに鎮座。
以前よりも確実に歩くスピードが低下。
僅か1.5kmほどの距離を歩くのに20分以上も
電車の本数が少ないことと合わせて思ったよりも時間を浪費。
辺りは次第に夕方の気配が漂い始め次の目的地へと先を急ぐことに。
凸木村重成墓所(東大阪市)午後4時25分から4時45分
第二寝屋川沿いの公園の一角に大きな石碑とともに所在していたので迷うことなく現地到着。
解説によれば元々は寝屋川沿いに所在していたものを河川改修により現在の場所へと移転したとのこと。
若江小学校の南東約直線600mほどの地点。
とはいえ近道をしても徒歩10分以上もかかってしまった。
明らかに歩行速度が低下していることを痛感。
さて日暮れ時の公園にはホームレスの方がお二人と黒ネコが3匹。
どうやらネコたちは飼いネコの模様。
ちゃんとネコ用の段ボールとブルーシートが。
そのうちの一匹はベンチで大人しくお座りをしておりました。
しかし肝心の人間の方の居場所は何処に在りや。
凸山口重信墓所(東大阪市)午後4時50分から5時00分
大阪夏の陣の「若江の戦い」で木村長門守重成と合戦を行い討死を遂げた徳側方の武将の墓所。
家康の勘気を被っていた父重政は後にこの重信の戦功などにより1万五千石の譜代大名として復活。
子孫はそのまま幕末まで牛久藩主として存続したとのことです。
両者の墓所は第2寝屋川を挟んで南北に対峙しておりましたが、こちらの墓所の方が100mほど東に寄っているので東軍としてはそれなりに整合性のあるような配置状況かと。
始めは他の墓石に紛れてその所在が分からず。
市街地とはいえ幾分肌寒さを感じる日没後の薄明かりの墓地に佇む人影などは皆無。
仮においでになればそれはそれで些か不気味なものが。
デジカメではそれなりに見えておりますが肉眼では限りなく夜に近く..ASA800に感度修正。