01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
5月下旬から9月の初め頃まで極度の体調不良が継続。
このため訪れた城館関係の数は再訪を含めても110か所という結果に。
とはいうものの11月に大阪城方面、12月に群馬県西南と、ようやく3年目にして県外へと進出。
「城郭図鑑」のモナーどのに触発され、本年初めて訪れた城館のベスト5を発表仕候。
第1位 凸高山城(群馬県藤岡市)
昨日の上州ミニオフにて、「城逢人」管理人史進殿のご推挙により急遽登場した複合城郭遺構。
筆舌に尽くしがたい麓の石垣・巨大空堀に加え、俄には形容しがたい天屋城の見事なる5条もの堀切の数々。
まさに9回の裏、代打逆転満塁本塁打にございまする。
第2位 凸武州松山城(埼玉県比企郡吉見町)
低丘陵先端部に所在するにもかかわらず、その空堀のスケールは掛け値なしの称賛に値いたしまする。
3回訪城。
第3位 凸伝大串氏館(埼玉県比企郡吉見町)
その経緯の詳細は不明。
近世屋敷の構堀の可能性も。
いずれにせよ北側に所在する明確な堀跡に感激をいたしましてございまする。
3回訪城。
第4位 凸古御岳城(埼玉県秩父郡横瀬町)
主郭西側の険しい岩場を文化財の標柱を背負い登攀。
ご尽力された地元の高齢者事業団の皆様に感謝と敬意を込めて。
第5位 凸りゅうがい山(埼玉県飯能市)
けっして素晴らしい遺構が所在するという訳ではございませぬ。
余り知られていない城郭遺構であることに加え、無論「城郭もどき」の可能性も全面的に否定はできず。
合計4回訪れたという管理人の思い入れのある場所ゆえ、無理やりの第5位にございまする。
今年1年ご愛顧を賜り厚くお礼申し上げます。
皆様どうぞよいお年をお迎えくださいませ。
然し年末の多忙期のため、暇人の某とは異なり些か日程調整が難航。
それでもどうにか本日の決行と相成りました。
ところが昨晩からの雨模様。
夜半過ぎには本降りに。
天気予報では降水確率0%の表示。
ともあれ小雨模様のなかを上野に向けて進発。
それでも日の出とともに雨雲は次第に薄くなり、時折晴れ間も見える空模様。
山城ゆえに昨夜からの降雨により、足元に問題もあるやも知れず。
予定通り神川町にて集合。
すぐさま目的地へと直行。
凸三ツ山城(群馬県藤岡市 以下同様)午前8時~11時
明確な所在地、登り口とも詳細不明。
地形図を元に登り口らしき個所から登攀。
しかし遺構に辿り着くまでのルートが途中から難航を極め予定所要時間を大きく超過。
ルートは険しかったものの最終的には主郭部分と予想以上に見ごたえのある堀切2か所を含む遺構確認に成功。
また南側の遺構に向かう尾根筋の途中では、城郭遺構かどうか判断に迷う腰郭状の削平地のような地形があちこちに所在。
眺望は思ったよりも良好。
平井金山城を俯瞰するような立地条件。
なお最長老約1名(某のこと)は、途中から次第に足首に力が入らなくなりメンバーから著しく遅れること頻り。
己の余りの体力低下に茫然自失。
息切れも酷くなりはじめ徐々に頭の中が無酸素状態に突入。
かくしてなかば夢遊病者のような風体に。
比高差約200m+明確なルート不明+登り口不明+足場の悪い急斜面の連続+荊の不意打ち等の悪条件が完備。
これでは訪れる物好きな人は希少かと。
危険は少ないものの、仮にもう一度行けと言われたら脱兎の如く逃亡したくなる山城かとも。
凸高山氏館 11時20分~11時25分
養蚕学校の高山社発祥の地で、近世以来の館跡とのこと。
解説版に備え付けのパンフレットを拝領し、道路からのみそっと拝見。
なお、このあたりから次第に雲行きが怪しくなりはじめ小雨模様に。
清水山城に向かう途中には本降りに変貌。
「降水確率0%の予報責任者を呼べ」といいたい所なれども、谷間の山村のため携帯は圏外にて。
清水山城の登り口と思われる付近で停車したものの、なかなか雨の弱まる気配が見られず。
三ツ山城では上手くいったものの、登り口不明に加えて本降りの雨模様ではどうしようもなく。
清水山城はここであっさりと断念。
やむを得ず次の目的地である比較的登りやすそうな子王山城方面に向かうことに。
凸子王山城 11時40分~12時15分
まずは峠の「みはらし茶屋」にて、北西の冷たい季節風を避けながらほんの少しだけ腹ごしらえ。
茶店は残念ながら冬季休業。
風が吹けば桶屋が儲かる..ではなく、天候の回復が期待。
事実空が次第に明るくなり雨の降り方も大分小降りに。
小雨模様の中、濡れそぼった比高差80mほどと思われる400段の階段を黙々と登攀。
ここでまたしても何度も足が止まり忽ち息切れする管理人。
頭の中が真っ白になりつつも山頂の主郭に到達。
次第に北側の赤城山方面の見通しが良くなり、季節風が冷たい分確実に天候回復の兆候。
凸黒沢屋敷 12時30分~12時40分
地元の公民館駐車場に駐車。
手元の資料に記されているかつての屋敷跡の名残はほとんど見当たらず。
古い墓地が近くに所在する以外にその面影を辿ることは困難かと。
天候も完全に回復し、このあたりからは子王山城の山容が実に印象的。
凸駒留城 12時40分~13時35分
黒沢屋敷近くに所在しているので、そのまま引き続いて小学校脇の谷川沿いの道を辿り城跡へ。
比高差は90m弱で然も緩い上り道。
それでも次第にメンバーから遅れ始める管理人。
主郭北側の大木が落雷により倒壊し著しくワイルドな光景がメンバーの眼前に。
主郭には地守神社奥社の石祠が所在。
神社の奥社からは古い参道が。
下り道としては至って便利な急坂。
然し、これを登れといわれると..
凸高山城 14時~16時30分
日没まではだいぶ時間の余裕が。
かくてメンバーのS氏一押しの城郭跡へ。
平井金山城は対岸に所在し、この場所からはその山容が明瞭に眺望。
麓の空堀の規模は上幅4間以上、深さ5mと正に大城郭並み。
一部残存するシュールな印象の石垣遺構にも感激。
言葉では言い尽くせない要害山の構堀、天屋城の5か所に及ぶ見事な堀切。
2007年の締めくくりの訪城に誠に相応しい遺構群なのでありました。
ゴルフ場の建設により消滅した部分があるとはいえ、これだけ良好な城郭遺構が存在しているという事実にあらためて感動。
然し120%疲労困憊の極致にある管理人は相変わらず夢遊病者のごとき足取りにて。
ひたすら他のメンバーに多大の迷惑をかけ続けるのでありました。
凸東平井砦 16時40分~16時45分
帰路の途中に所在しているため、6日前に続いての再訪。
今回は東側の堀跡遺構の存在をしっかりと確認。
とはいうものの、傍目には枯草に覆われた冬枯れの野原という表現の方が正しいような。
今回の訪城では改めて基礎体力の低下を思い知り愕然。
比高差200mの悪路を伴う山城攻略はそろそろ限界なのかとも。
単独行であるならば、2か所も行けたかどうかさえ分からず。
ご案内、ご同行いただいた史進どの、モナーどの、
最初から最後までヘロヘロの某にお気づかいいただき厚くお礼申し上げまする。
これに懲りずに来年も本年同様お付き合いくだされm(__)m
珍しくも久々に午前6時前起床に成功。
気温の低下とともに体調は次第に好調気味。
身支度を整えた後にネコの給餌を済ませて出発。
やはりこのくらいの時間に出かけると道路事情は良好にて。
一日中飯抜きではきついので、途中でコンビニに立寄り朝食購入。
それでも自宅から2時間余りで現地到着。
最大の問題は途中での睡魔かと(汗)
このため眠気覚ましのニッキ飴を山ほど携行。
ブラックガムよりも穏やかな持続性がメリット。
さて、本日の目的地は全て藤岡市内の予定。
資料だけは〆て12か所分を用意。
とはいうものの山城1か所を含む内容。
このため5か所程度回れれば御の字というところ。
凸浄法寺館(群馬県藤岡市 以下同)午前8時50分~9時20分
天台寺院に相応しい山門付近の石塁と境内の基壇が印象的。
境内側からよく見れば県道沿いの東側には土塁跡のような盛り土の痕跡が確認。
なおこの反対側に相当する西側台地部分の土塁の状況はといえば、台地を削平して境内地を拡張した模様で余り判然とはしていないという印象もあるような。
凸保美の砦 午前9時25分~9時40分
自宅の飼猫と酷似した名称にて。
このため何が何でも訪れねば..=^_^=
神流川左岸の比高差15m前後の崖地先端付近に占地している模様。
直感的には崖沿いの付近が怪しそうな気配。
然し足元は運転の便宜等を優先したためスポーツサンダル。
離れた個所から眺めたのみにて、足場の悪い個所には踏み込めず。
したがって画像はおよそこのあたりという曖昧な性格。
いずれにしても些か資料不足のため後日の再調査の対象に。
凸東平井砦 午前10時~10時15分
史進殿の情報によれば変電所の近くの道路沿いの水田に土塁跡があるとのこと。
信号からのおよその距離を目安に西側の方に目をやりながら車を走行。
いくらも行かないうちに確かに水田の中に不自然な地面の盛り上がりを確認。
L字型の地形で延長はおよそ30m弱くらいかと。
当時のものかどうかは判断が難しい拳大の石も数多く混入。
凸平井城 午前10時25分~11時00分
有名な関東管領山内上杉氏の本城。
とはいうものの復元された土塁、郭、空堀が存在するのみ。
往時の面影はいまひとつといった感も無くはないような印象。
公的な説明版以外にも地元の方々による手づくりの解説版の類が所狭しと配置。
このため一体どれを見たらよいのか迷うという贅沢な悩みも。
ここで公的な説明版のフレームが1か所だけ外れかかっているのを発見。
直ちに復旧作業開始..
とはいえ単に外れていたアルミのフレームを元通りにはめ込んだだけにて。
復元土塁の上からは詰城の金山城方面が一望。
しかし、この辺りから次第に曇りがちの天候に変貌。
凸平井金山城 午前11時10分から午後2時00分
本日のメイン。
足の遅さから恐らく登り降りの所要時間で1時間前後。
これに加えて見学とデジカメ撮影でプラス1時間を予定。
史跡公園というだけはあって尾根筋の遺構には、これでもかとばかりに頑丈かつ丁寧な石造りの解説標柱が設置。
最大の見所は案内標識は設置されているものの、余り人が訪れそうに見ない史跡指定地外の尾根筋に隠れるように所在。
なかでも大手口方面の見事な石積遺構、堀跡関連は必見かと。
しかし、登り降りの際の足元の負担を考慮したため、全ての遺構の確認までには至らず。
それでも3時間近い在城に。
ここも近いうちに詳細な資料を完備して再訪することに。
凸飛石砦 午後2時20分~2時35分
運送会社の一角に僅かに遺る堀跡と土塁跡。
以前には東側にも土塁跡が所在していたらしく。
残念ながらそちらの方は既に消滅。
事情が分からねば遥かに後世のものと判断されそうな地形。
遺構の直ぐ傍には当該企業の経営者が設置された民間信仰の石碑も所在。
意図的に遺された形跡が窺えることから、その企業としての志の崇高さに感謝をせねば。
凸三ツ木城 午後3時30分から3時50分
ここでついでながら約1時間ばかり仕事関連の雑用等をこなすことに。
城跡入口の反対側のケーキ店はクリスマスのかきいれ時。
車の出入りも多く常時20台ほどの車が駐車。
この規模の城跡にも現地解説版に加えて入口には表示板も設置。
藤岡市の担当課はかなり力を入れていることが窺える状況。
さて肝心の遺構。
一部自然地形を利用した堀跡並びに土塁跡とも思いのほか良好な状態で存在。
台地崖線を利用した天然の要害という地形は北西の水田地帯から一望するとまさに一目瞭然。
凸藤岡城 午後4時10分から4時25分
西日の傾きが次第に稜線にかかり始め次第に日没の時間が間近に。
ところが肝心の目印となる小学校がなかなか見つからず。
不思議に思いよくよく地図を見ると、何と県道には面していないことが判明。
さて小学校の北側部分に城跡公園として延長80m、高さ6m超の土塁が現存。
実戦の役に立つことは無かったとしても、この規模の土塁があれば既に埋められた幅20mほどの堀跡を加えて単郭とはいえども相当な威容を誇ったことが窺われるのでありました。
公園化され整備されているとはいえ、市街地内の平地の単郭城館でこれだけの規模の土塁が遺されているとは感激。
なお、土塁の西端には大きな銅像と石碑が。
説明文を拝見するとこの土塁部分を含め小学校の敷地を寄付された方の顕彰碑なのでありました。
広大な土地を寄付された篤志家の方と土塁遺構を保存した行政当局に感謝を。
先月故あって都内1か所、大阪9か所を回ってから埼玉県内に固執する頑固さが消滅傾向に。
年齢を考えれば取敢えず元気に回れるのは、あとせいぜい10年前後と推定。
年間50か所前後を回ったとしても、到底1千か所に届くかどうかは実に微妙な按配。
いつまでも県内に拘泥するのも一興ではありますが、どうしても視野は狭くなる一方であることを痛感する日々。
かくて上野を含む近県への進出を決断したのでありまする。
今年は夏の間体調をくずしていたこともあり、年末の時点での残日数は26日余り。
翌年に繰り越せるのは20日分まで、あとの残り分は権利消滅の憂き目に。
有給休暇の残日数が年末の時点で30日を割り込むことができたのは凡そ30年ぶりくらいかと記憶。
仮に毎年10日ずつ権利消滅していったとすると、実労働日数が250日ほどのため少なくとも一年分は闇の中に消えていったという計算に。
このため、事業所一同(とはいえ総員3名)繁忙期が過ぎ去り、交替で有給休暇消化強化月間に突入。
凸池田館(埼玉県神川町 以下同様)午後0時30分~1時20分
冒頭から本日のメインディッシュ。
旧家の西側と北側に見事な堀跡と土塁遺構が現存。
とりわけ西側部分の折の個所の土塁の規模には瞠目。
東側は御嶽城を水源とする金鑚川の流れが天然の堀跡。
遺構の有無ということのみに限れば、このあとの行き先では唯ひたすらテンションが低下することになるのが目に見えている次第。
西側の畑からだけではありましたが、存分に地表の凹凸を堪能させていただきました。
ふと、南側の方角に視線を転じると、先日訪れたばかりの金鑚御嶽城の稜線が目前に。
しかし東側の物見岩の個所はこちら側からは逆光であるとともに、山頂から派生している稜線の陰になり肉眼ではその確認が難しく。
いつもは滅多に使用しない常備の双眼鏡での観察を試みたものの結果はほぼ同様にございました。
上方から見渡すことが可能でも、下方からはその所在が分かりにくいとは摩訶不思議にて。
凸岡部屋敷 午後1時40分~2時05分
珍しくコンビニで昼食を購入し腹ごしらえ。
単独行の場合には時間節約等のため、だいたい昼食抜きが当たり前にて。
しかし何故かザックの中には2日間位は生存できる高カロリー保存食料等を常備しているのであります。
近くの農業用水路では改修工事の真っ最中。
このため車の通行に支障があるかと思い、500mほど離れた個所から徒歩にて接近。
勿論遺構と呼べるようなものは皆無に近く。
歴史を感じさせるものとしては、唯一北西の角部分に宝暦年間の墓石などが所在。
中世の板碑も所在しているとのことでありましたが、表面の摩滅が著しく近世以降の墓石との判別が難しい状態に。
この場所からも金鑚御嶽城の稜線が一望に。
耕地整理された畑よりも金鑚御嶽城の遠景写真を撮影する時間が長く。
凸中新里館 午後2時30分~2時55分
規模の大きな遺構とされていますが、圃場整備の実施により平坦な地表に現存する遺構に結びつくような存在は殆んど確認できません。
その中で唯一関連付けることができるのが東側の用水路部分で、一応東側の堀跡の推定ラインと符合しています。
折りしも館跡推定地の中心部分では農業用水の建設作業が進行中で、その殺風景なことこの上なく。
このほかに、歴史を感じさせる存在としては館跡東側の「東城稲荷」の祠が所在。
如何にもその名称が気になるところでありますが、中世の館跡との関係は不明なのでありました。
凸光権寺館 午後3時10分~3時40分
圃場整備のため比較的近年の発掘調査によって二重堀を有する中世の館跡が確認された遺跡とのこと。
僅かに北西側に所在していたとされる堀跡と現在の用水路が幾分接近していることを除けば、梨園として活用されているその現状から当時の様子を窺うことは難しく。
雪を頂いた浅間山はよく見えるのでありますが、平坦な畑と梨園の保護ネットを様々な方向から撮影しても、師走の午後の日差しが大分傾き始めていたためどれも同じような風景となってしまうのでありました。
凸安保氏館 午後3時50分~4時20分
以前より幾度となく前の道路を通過するのみにて。
今年だけでも4往復はしているはず。
自分の描いた手順通りでないと、先へとすすめないという幼少時からの誠に因果な性格が原因。
しかし先日念願の金鑚御嶽城を訪れることができたこともあり、今回やっと正式に訪城の運びに。
大分以前に本郭的な発掘調査が実施され、堀跡を含む大規模な遺構が確認されているとはいえ、現状は概ね畑と宅地のみで地表上の遺構の形跡などは跡形もなく。
加えて「史跡の石碑および文化財の現地解説版」が、館跡の推定地の西のはずれにポツンと所在しているという奇妙な配置。
かくてこの目標物がすぐには見つからない場合が少なくないのは至極当然のようにも。
しかし文化財の解説版と石碑が所在するということは、訪れるものにとってはそれだけでも有難いこと。
ふと思えばこの場所も半世紀近く前に訪れているはず。
何処となく阿保神社境内の社殿の配置やご神木にも微かな記憶があるような。
当時小学校高学年の某にとっては、まさに何も見るべきものも無くひたすらふてくされていたような気も。
まして当時はこのようにして訪れることになろうとは全く予想だにせず。
しかし館跡北方の塚(古墳か)が気になった以外には何も無いことには変わりは無く。
二重堀が所在していたとされる辺りには、既に収穫を終え冬支度の済んだ地元特産の「梨園」が所在。
「梨」だけに「無し」という「落ち」にて。
先日と撤収時間は偶然にも全く同じ時刻。
但し本日は平地の城館跡とはいえ一応5か所。
遺構が少なく、歴史的経緯も不明な個所が殆んど。
このためHPの更新が楽...ん、どこか本末転倒のようにも...
また足回りの健康状態を確認するには無難な内容で。
事前に予防措置を講じておきさえすれば、歩行自体には目立った支障も見られず全体としてもまずまずの成果。
年内に最低あと1日は訪城することを深く心に刻んで、見慣れた外秩父山系のシルエットを横目に見ながら2時間20分かけて自宅へと車を走らせたのでありました。
一昨年と比べると明らかに体力が低下。
元気で動ける年月には自ずから限界というものが。
かくて両足に不安材料を抱えたまま懸案の神川町の御嶽城方面へ。
本来ならば一昨年の冬に訪れているはず。
そのうちになどと先送りしているうちに、早くも2年の月日が経過した次第。
凸真鏡寺館(本庄市-旧児玉町)午前11時40分から午後12時55分
御嶽城へのコースの途中に所在していることから立ち寄っていくことに。
館跡は南向きの丘陵地帯の緩斜面に所在。
手元の資料によれば南側の畑の中に堀跡の痕跡が確認できるとのこと。
さっそく畑の中の堀跡へと向かうと、以前は水田であったと思われる帯状の細長い低地がに東西方向にのびておりました。
また東側の道路、西側の道路付近も堀跡の痕跡が漂う低地を形成。
本堂の北側には延長60メートルほどの堀跡も所在。
ただし遺構の状態としては境内地という事情もあり些か微妙な塩梅かと。
西側の牛舎近くでは堀跡のためか某の体重のためか原因は不明なるも、何故かずぶずぶと足元が沈み込むのでありました。
旧児玉町地域では天台宗はこの一寺のみ。
天台密教といえば修験との関わりが。
渋谷金王丸(土佐坊昌俊)を開基とする経緯も理解できるような。
ただし渋谷氏と塩谷氏との関わりについては明確でなはないようです。
しかし周囲をのんびりと2周もしてしまったために、本日のスケジュールがこの時点で早くも押し気味に。
凸御嶽城(神川町)午後1時10分から午後4時20分
コースどおり、始めは重要文化財の多宝塔を見学。
神社境内の南側から整備された遊歩道に従いつつ、特別天然記念物の「鏡石」方面へ。
本日は足元に不安材料があるだけでなく、緩やかな遊歩道であるにも拘わらず忽ち息切れ状態。
一回りくらいも年嵩の年配者に追い抜かれるという情けなさ。
尤もこちらは5Kgほどの荷物を背負ってはおりまするが。
息も絶え絶えの状態でどうにか尾根筋へと到着し、そのまま東廓へと向かうことに。
ふと入口を眺めると何やら小口のようにも見える地形。
弁慶の穴、物見岩などの名所を見学。
この物見岩については御嶽城の物見台という見解もあれば修験道関係のものとする説もあるようですが、いずれにしても眺望は実にすばらしいものがあります。
さて、御嶽城の本郭へ向かうべく今来た道を戻って遊歩道とは別れて尾根筋の細い山道へ。
途中には見過ごしてしまうような小さな堀切が2か所ほど所在。
真竹の目立つ痩せ尾根をいくらも歩かないうちに、それとわかる堀切部分に到達。
幾分尾根筋の傾斜がきついためトラロープが設営。
この場所を過ぎるとあっという間に本郭へと到達。
御嶽城の本郭であることを記した標柱が所在するのみで、残念ながら眺望はほとんどない状態。
本郭の規模も思いのほか小さく、小屋掛けできるかどうか微妙な大きさ。
さて、この山頂から派生している3方向の尾根筋の何れへと向かうべきか暫し思案。
実はこの時点で右膝にも軽い痛みが。
ついでに左足のアキレス腱にも違和感が。
いくら標高が低いといっても冷え込みの厳しい山中での立ち往生は避けたいところ。
足元の状態、日没までの残り時間を念頭に、手始めに登り降りが楽で比較的ルートが明確な西側のルートを選択..したはず。
しかし何故か北西の2の郭方面へと向かっておりました(汗)
また、この時期にもかかわらず藪が酷く地面の観察が難しく。
再び山頂に戻り西側のルートを地形図と方位磁石を頼りに探すことに。
なんせ山頂からは叢生する樹木と藪のために、確かに派生しているはずの尾根筋が全く見えず。
それでも西側の帯郭の先端部分からのルートを探し当て西進。
このとき再び左足に鋭い痛み。
原因は荊のトゲにて。
よく見ると尾根筋のあちこちに荊が。
2番目の堀切は掴まるものがないと昇り降りが面倒なくらいの急斜面。
しかし滑り落ちたとしても痩せた岩尾根ではないのでその点は安心。
この堀切の北側谷沿いに所在する平場には石積みがあるはずとの情報。
しかし何分にも藪がひどく、足元も悪く地面がよく見えず。
石の破片が目立つ以外には明確に石積みといえるような遺構は確認できず。
しいて言えば下記の画像の個所くらいのものでありました。
一番西側の物見台と推定される標高314メートルのピークまで移動。
眺望は思いのほか良好で時間さえあればゆっくりと食事でもしたいところ。
しかし、時刻はすでにこの時点で3時40分に。
山頂の本郭へと戻ったの時には午後4時ちょうど。
このあと予定通り修験道の法楽寺跡を経由して神社の駐車場へと到着。
谷沿いの地形で、西方の雲が厚いこともあり事実上の日没。
南側の尾根筋、2の郭から派生している2本の尾根筋方面については確認できず仕舞い。
比較的条件の良い西側のルートでもかなりの藪が。
残りの部分は本郭からの比高差がそれぞれ50メートル以上はある難路かと推察。
自宅に向かっていくらも車を走らせないうち完全に日没。
3か所程度は訪れることができるかと皮算用。
結果は1か所+約2分の1。
現在の自分の足元の状態から考えると、本日はこの程度で納得しておかねば。