本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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振り替え休日が諸事情のため、今月分だけで最低4日ほど発生する公算。
このため平日の晴天ならば、毎秒10m以上の強風でもない限りは出動予定。
かくして本日も性懲りもなく群馬県の藤岡方面へ。

浄法寺城(広義の三ツ山城) 午前10時20分~11時10分
山崎一氏の広域的な「浄法寺地区の城郭群」(山城の三ツ山城・金鑚御嶽城、
崖端城の保美の砦、前屋敷、芦田川屋敷など)の相互の位置関係、神流川お
よび南北に所在する天然の堀となる支流の状況を検証することが目的。
このため浄法寺に参拝のあと、徒歩にて周辺一帯を踏査。
途中、某のいでたちから駐車監視員あるいは建設関係の事前調査と誤認され
たり話題性には事欠かず。
平地の城館は別としても、やはり「小字根際」付近の丘陵がどうしても気にか
かるのであります
なお、関連資料に記載が散見されもその存在が推定されている八潮方面の防
御拠点については当然ながら分からずじまいなのでありました。
また神流川左岸から眺めた御嶽城は、その標高の低さに比べて山懐が深く尾
根筋も複雑であることも再認識したというのが唯一の成果かも知れず。

三ツ山城(山城)
三ツ山城(山城部分)

三ツ山城比定地 午前11時10分~正午
川鍋巌氏の浄法寺城(三ツ山城とも)移転説の検証が主目的。
しかし、資料不足と相俟って推定地付近は宅地化が進行していることもあり完
璧なる空振り状態を呈することに。
某のごとき未熟者に探せるようなはずもなく。
従って結果的には、神流川支流の確認作業が中心となってしまったのでありま
す。

金鑚御嶽城
金鑽御嶽城(神流川左岸より)


保美の砦 午後12時20分~13時10分
昨年末訪れたときには明らかに本来の所在地とは異なる南側の見通しのよい
河岸段丘上の畑付近をうろうろ。
北側の竹林を怪しいとは思いつつも、事前調査・資料不足が災いして御嶽城
の写真を撮影していたのであります。
今回は、複数の航空写真画像と地形図、周辺の建物等の配置などをしっか
りと頭に叩き込み、イメージトレーニング付で再訪。
無論、所在地は完璧にヒット。
南側の砂防ダムの所在する荒戸沢の谷を下り、神流川の河川敷まで踏査。
思いのほか荒戸沢の規模は大きく砦の推定所在地周辺では幅20m、深さ
10m超という個所も。
あわせて崩落も顕著で水量は少ないものの対岸の急斜面は降雨の後などに
は崩落する危険性さえも内在している状況でありました。

保美の砦
保美の砦

前屋敷 午後13時20分~13時35分
芦田川屋敷 午後13時35分~14時20分
両所とも県道側からアプローチすると非常に分かりにくい所在地。
三名川沿いのゴルフ練習場を目安にして芦田川屋敷の位置を把握し、南側の
御滝沢対岸に所在するとされる「前屋敷」に見当をつけるという方法がベター
のようであります。
いずれにしても保美の砦と同様に、東側の神流川の河川敷方向から眺めると
いう方法が確実なようです。
なお、推定地の西側に付近残る「城戸」という小字?名の地元での読み方は
「しろど」と読むとのことでありました。

芦田川屋敷
芦田川屋敷

飛石の砦 午後14時30分~14時40分
昨年から今年にかけて幾度となく通過している場所なのでありますが、本日
改めて通りすがりに一瞥したところ東側になにやら不自然な盛り土が所在。
運送会社の事務所建設による造成にしては盛り土の規模と形状に不自然さ
を感じるのであります。(駐車場側で高さ約1m、長さはおよそ6mほどの規模)
北西側に僅かに残存する遺構からの距離を目測、歩測で確認するとおよそ
60mほど東側に所在。
山崎氏の縄張り図の位置を照合すると、困ったことにほぼ一致しているという
印象さえあるような。
「藤岡市史」の記述によれば、すでに完全に消滅したと記されているのであり
ますが、北西の僅かに残る堀跡・土塁が残存遺構であるとすれば、この方の
問題はどう判断すべきなのか困惑しておりまする。

飛石の砦
飛石の砦

平井城 午後14時50分~16時20分
前回は資料不足のため復元土塁周辺のみを散策し日没までの残り時間を計
算し早々に退散した経緯が。
今回は関連する寺院3か所、神社1か所、全ての郭推定地、堀跡など関連し
そうな個所を完全に踏査することが目的。
やはり上野といえば関東管領山内上杉氏。
関東の戦国史の典型的な敗者ではあるものの、城跡めぐりをライフワークにし
つつあるものの立場としては、その居城とされる平井城を少しは極めねば管
領殿に申し訳なく。

とはいえ、上州名物赤城おろしが吹きつける90分間の彷徨はメモを取る手の
自由が利かずかなり難航。
この地における最大の成果は北西側に所在する庚申堀跡の確認。
現在は水田地帯となっているものの、明らかに宅地との比高差が顕在し目測
によれば最大で2mほどで、堀跡としての幅は約20mから25mくらいかと。
手持ちの資料の位置とも符合するので、先ず間違いはなさそうかと思われる
のでありました。

平井城庚申堀跡
平井城の庚申堀(推定)

藤岡城 午後16時40分~16時50分
前回訪れた時に土塁の延長距離が短いことが気にかかり、再訪のはこびと
なったような次第。
とはいうものの、この場所を訪れるときは前回も日没間際。
今回も日没時間が多少は遅くなってきてたとはいえ、太陽はすでに西へ大き
く傾きはじめ、このあとの図書館での資料収集の時間を考慮すると時間の余
裕は殆どなく。
結果的に再び慌しい訪問に。

戦没者の方々を慰霊するための「英霊殿」が、丁度北側土塁の東端付近に
相当するらしく、現在小学校の北側に「城址公園」として残されている部分は
全体の3分の2ほどの延長距離になるという計算。
この間に所在する工場の部分を含めれるとすると、西側の銅像の個所から
この英霊殿の所在する小高い個所までの距離は資料のとおり約170mとい
うことになり、まずは一件落着をみたのであります。

英霊殿
英霊殿(北側土塁の東端)

■藤岡市立図書館 午後16時55分~17時40分
依田氏に関する基本資料が著しく不足していたので、「藤岡市史」などの必要
個所を複写し、ついでに旧万場町誌の中世在地領主と城郭部分の個所も複写。
申込書を記入して図書館職員が複写を行うという著作権法の規定を遵守した
方式のため些か手数がかかるのは致し方ないところ。
ところが見開きA4版のものをA3版に拡大(141%拡大)してもらうように依頼
したものの、臨時職員と思われる方はコピー機の操作方法に慣れていない模
様なので僭越ながら使用方法の説明などを。
途中から交替した正職員の方も余り変わらず。
脇で見ていてもらって、自分でやったほうが早かったのかも知れず。
「みやま文庫」などのシリーズなどもある程度は揃っていることもあり、これから
時々お世話になりそうなこともあり、なるべくにこやかにして度々コピーを失敗す
る姿を眺めていたのでありました。

夜景
藤岡市立図書館付近の夜景


これだけ頻繁に群馬県南方面に通っていると、いくら生来方向音痴の某でも藤
岡方面程度ならば道路地図を一瞥することなく往復できるようになるから不思
議なもの。
あわせて往復5時間程度の運転所要時間もさほどは長くは感じなくなってくる
のであります。
勿論眠気覚ましに、ブラックガム、肉桂飴をはじめとして特売の袋入りアーモ
ンドチョコレートなどを装備したりしておりまする。
おまけにこの日は藤岡氏の図書館から自宅までの所要時間はぴったり2時間
という効率の良さ。
本日の予定された行動は概ね完了し、上野進出7回目にしてようやく少しは計
画通りの行動ができるようになってきた模様であります。

拍手[2回]

早朝に新聞を取りに玄関へ出ると何故かアスファルトの路面が濡れておりました。
昨夜から今朝方にかけて雨音の気配には全く気付かず。
おかしなこともあるものだと思いつつ、ふと傍らの地面に視線を移動。
霜ではない何やら白いものがうっすらと。
よく見れば積雪量は限りなくゼロに近い初雪。

とはいえ西方は雲がなく、日中の晴天を期待できる空模様。
目覚ましは一応6時前にセット。
しかし適度に温かい布団の中で少しずつ目的地を削減。
余りの心地よさについつい惰眠を貪ってしまったのでありまする。
かくて午前7時過ぎに漸く第6次上野厭世遠征に出発--辞書機能不具合のためか、何故か「厭世」に変換されるのであります。

黒熊中城 (群馬県吉井町 以下同)午前9時50分~10時50分
舌状台地の先端部分に所在。
資料によれば延命寺境内が主郭で、南側の内出と呼ばれる個所が二の郭に相当する模様。
歴史を感じさせる宝篋印塔や五輪塔が所在する墓地脇の竹林。
何かありそうにも思えたのですが、ごく普通の斜面でこれといって格別の成果はなく。
堀跡は西側の谷川を利用しており非常に分かりやすい地形。
このほか段差の目立つ地形がそこかしこに所在するものの、そのままそのすべてを城館遺構と断定するには幾分躊躇するのでありました。
後世の宅地化や開墾の影響を無視できないような印象が感じられるのであります。

黒熊中城
黒熊中城

遺構の方はさて置き、両郭を分断する道路の突き当りの場所に面白いものを発見。
ブロック塀に描かれてた交通安全キャラクターたち。
「ピーナツのピー子ちゃん」「タマネギのとんぺいクン」「カボチャのおとっつぁん」「キャベツのおっかさん」「トウモロコシのぺろりん村長さん」「クルミのくる子ちゃん」「クルミの頑固じいさん」などなど「チロリン村とくるみの木」のオールスターキャスト。
♪♪らんらんチロリン野菜村♪♪
その描かれたキャラクターの色褪せ加減と相俟って誠に郷愁をそそるのでありました。

チロリン村
チロリン村


奥浅間の砦 午前10時55分~11時40分
上信越道脇に所在する浅間神社の数か所の平場は、確かに如何にも曰くありげな雰囲気を漂わせております。
またこの奥に所在する入野碑が建立されている比高差50mほどの見晴らしの良い尾根筋も山頂の削平と切岸の印象が濃厚。

そして、資料によればさらにその奥の奥浅間山とも呼ばれているゴルフ場の中に所在する小山は物見、狼煙台との可能性を指摘されていまるひときわ目立つ地形。
しかし事前の予想通り、この奥浅間山へ向かうにはどうしてもゴルフ場の中を通過せねばならず。
加えて50m下って再び50m登り、帰りにまたこれを繰り返さねばならず。
左膝の状態を考慮してあっさりと尾根筋から眺めるだけに止めることといたしました。

奥浅間の砦群
奥浅間の砦

吉井町の資料では黒熊中城と一体の遺構として捉えていますが、直線距離にして600m以上も離れていることから一応別の遺構群として取り扱うこととした次第。
折から植林された早咲きのロウバイの幼木が見ごろになっておりました。
しかしこのあとで文字通り「周章狼狽」する羽目に陥ったのでありまする。

ロウバイ
ロウバイ



小串城 午後1時10分~1時55分
ボケるにはまだ早すぎる年齢でありますが、久しぶりに見当識を完全に喪失。
早い話が現在自分のいる場所が何処なのか分からなくなったのでありまする。
付近に住家などは皆無。
勿論台地上に目印になるようなものも皆無。

耕地整理のため、これといって特徴のない細い農道が東西南北に幾本も所在。
方角自体は概ね合ってはいるものの、高圧線の鉄塔の位置などからどうも地形が資料とは明らかに違うような印象。
適当に見当をつけて鏑川沿いの舌状台地先端を目指したのが拙かった様で。
国道254線の位置が異なり、眼下に見えるはずの入野小学校の建物が全く見えず。

止むを得ず一度国道に出てから、ひとつずつ交差点名を確認しながら西へと進むことに。
結果はなんと1kmも東側の台地の辺りを彷徨していたのでありました(大汗)
おまけに肝心の国道が道路工事により片側通行止めの大渋滞。
何のかんので90分ほどのロスタイムが発生。

国道から向かったルートは一発で目的地に到着し、殆んど失いかけた見当識を取り戻すことに成功。
取り立てて目立った遺構は存在しないものの、資料の縄張り図通りの曲がりくねった道路が現存。
搦め手のルートは上方の郭からはものの見事に横矢がかかるように布設。
また、この台地からは奥浅間山方面もよく見渡すことができることを再確認。

小串城
小串城

このあとは先ほどまでのもたつきがjまるで嘘のようにまさに山勘大当たり連発となり、どうにか5か所の制覇を達成したのでありまする。
上記の画像はシイタケ栽培の原木の山越の榛名山の威容。
この日は日差しはあるものの、常に上州名物の北西風が5mから6mほど吹きすさぶという天候。
このため時々こうした風避けの陰で資料にメモなどをしておりました。


峯山城 午後2時20分~2時45分
大武神社が目印なので所在地自体はまず間違えようもなく。
神社の入口近くに駐車して徒歩にて台地の先端部へ。
現状は豚舎を含む施設が一面に立ち並び、遺構と呼べそうなのは東側の堀跡らしき窪地と西側の笹曲輪と呼ばれる尾根筋付近のみという印象。
このため撮影させていただくアングルに苦慮することに。
とうにか城跡としての地形の特徴を反映しているのが下記の小口付近とされる辺りかと。 

峯山城
峯山城


多胡下城 午後3時10分~4時00分
上信越道の南側に所在する、とくに目印がないこの場所も何故か一発で到着。
四駆の軽なのでおそらく山頂まで行けそうな気配も。
山頂が削平された独立峰であるにもかかわらず、遠方からは見分けがつきにくい立地条件。
真北に聳える榛名山、時々雪雲に隠れる赤城山、中腹より上が冠雪している浅間山と上州の名山を眺めるには相応しい地形。
しかし肝心の遺構の方は地面の確認ができないほどに篠竹が密生。

多胡下城
多胡下城


尤も資料によれば方形の単郭の周囲を取り巻く堀跡は消滅しているとの記述が。
おそらくは桑畑の開墾の際に削平されたものと考えられます。
それでも北辺の西側には帯郭状の地形と郭状の削平地が所在。
しかし、これとても予め資料がなければただの山道と幅の広い平坦な尾根筋にも見えるのでありました。


本日も往復所要時間は軽く5時間以上。
以前ならば、眠気と腰痛のためせいぜい往復3時間くらいまでが限度だった時も。
ところが慣れというのは不思議なもので。
ある程度連続して出かけていると、復路の運転が全く苦にならなくなってきたような。

北西の風がやや強めで、体感温度は摂氏0度くらいかと。
暑さに弱い性質なのでこのくらいの寒さは呼吸も楽なので大歓迎。
しかし、やはり左膝の状態は万全とはいえず。
テーピングと三重サポーターで、どうにかもったような次第。
心肺機能のテストを兼ねて緩やかな山道を50歩ほどジョギング。
しかしあっという間にヘロヘロになるという情けなさ。

そうはいっても天候と体調次第では今月中あと1日くらいは出かけよう、などと早速資料整理などの算段にとりかかるのでありました。

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今年に入りすでに3度目の群馬県。
昨年から通算するとすでに5度目かと。
今のところは県南中心に西へ進出する心づもりにて。
午前5時に自宅を出発する予定が、予想だにしなかった事情により結局は午前7時23分の出発に。
当初は6か所を目標にしてルートを検討。
しかし、すでにスタートから途中の渋滞を考慮に入れれば3時間ほどの遅れが発生。
このため順序を逆に並び替えてまわることに。

八束城(群馬県吉井町)
午前10時15分 麓の駐車場出発
山頂到着正午 上り所要1時間45分(しばしば休息)
調査時間 105分(東西の稜線に所在する郭・堀切等の遺構確認による比高差約200m)
昼食15分
午後14時45分 駐車場到着 下山所要時間45分
標高452.3m、比高差 300m、駐車場からの直線距離約1km
遺構 堀切約8か所、郭約8か所、小口・腰郭・帯郭各1か所ほど

八束城本郭東側の大堀切
八束城本郭東側の大堀切

要約すれば上記の通りにございますが、何分にもハイキングコースの稜線を直線にして軽く1km以上歩かねばならないという大きな問題が。
しかしルート自体は地元の皆さんのご厚意により、駐車場・道標に始まりコースの整備は万全。
残存遺構も良好な状態。
低山の割には急勾配で、尾根筋には露岩がゴロゴロ。

東側稜線の堀切
東側稜線の堀切

念のため最短コースの林道経由で八束の集落方面からから上ってくるはずの南東方向からの尾根筋を確認してみましたが、やはりかなりの急勾配で途中には迂回できそうもない岩場が所在している模様。
また西側の岩稜ルートはある程度コース整備されているとはいえ、中間部分は露岩のオンパレードで高所恐怖症の傾向の方は避けた方が無難かと思われます。
「天引城」の景色を眺めるには相応しい岩稜が続き、どちらかといえば下りよりも上りルートとして使用する方が安全かと思われました。

さて、堀切を含む遺構が東西の尾根筋に分散しているため始めに東側の稜線を確認し、次に山頂まで戻り城郭としての領域を確認するため西側の岩稜ルートの途中まで降下。
往路を下山した方が安全かつ時間の節約になるため、再度比高差100mを登攀。
このため合計にして比高差500mほどを登るという羽目に陥りました。
このため昨年末30日のミニオフに続いて再びヘロヘロに。

八束城遠望
八束城遠望


以下の2か所は、天候のくずれが予想されるような厚曇りの夕暮れ時のドサクサに、本日の数合わせのようにして訪城したようなものです。


瀬戸の城(同上)15時20分から16時00分
孟宗竹の生い茂る竹林の中が城跡であった模様なのですが、肝心の土塁などの明確な遺構の存在は確認できず。
意外だったのは近くの鄙びた小さな阿弥陀堂を囲むように鍵の手状の土塁が残存。
ただし年代、役割、経緯等は不明。
北側と西側がそれぞれ長さにして15m、高さは1.5m前後という規模。

「瀬戸の城」近くの阿弥陀堂の土塁
「瀬戸の城」近くの阿弥陀堂の土塁



中の原城(同上)16時10分から16時20分
「瀬戸の城」の谷一つ隔てた東側の舌状台地に所在。
遺構そのものは以前の耕地整理により完全消滅したとのこと。
桑の切株などを撮影して即座に終了。


今回の分を合わせて、とうとう群馬の分だけでも未更新が合計25か所になってしまい申した。
「更新や如何に」
「何れ折を見ましてございまする」
「何れとは如何なる存念にて」
「...」
「正直に詳らかに申し述べよ。何年何月何日何時何分にありや」
「...」

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今月の2日に続いての群馬城館探訪。
昨年末とうとうルビコン川ならぬ神流川を越えてしまった。
こうなると上州への出陣にもはや歯止めが利かず。
うずたかき更新未処理の山は放置されたまま。
このため未処理の城館跡の怨念かどうか分らぬが、出がけからどうも体調が思わしくなく。

朝から晴天のはずがどんよりとした圧曇り。
加えて寒気がするようなしないような。
おまけに息苦しいようなだるいような。
気持ちが悪いような倦怠感が体中に蔓延。
その後天候が急速に好天に回復したものの、体全体の倦怠感が抜けきれず。
平地を歩いていても直ぐに息切れが発生。
予定に入れていた山城1か所を冒頭から敢え無くキャンセルすることに。


吉井陣屋(群馬県吉井町 以下同)10時05分~10時45分
本来は吉井町関係の資料収集が第一の目的。
そのついでにいくつか城館跡に立ち寄れればといったような極めてうテンションの低い今回の出陣。
はじめに郷土資料館に寄って資料の物色などを。
ここで4点ほどの資料を収集。
この寒い新年早々から来館者などがそうそう来るはずもないようで展示室の照明が消えておりました。

立派な構えの陣屋門自体は郷土資料館などの公共施設が集まる敷地に移築されたものらしく。
西側の少し離れた個所には吉井藩当時の武家長屋が現存。
4世帯の方が現在も居住されているとのこと。
ついでに図書館にも立ち寄ってみると施設の狭さに対して資料構成自体は充実しているという好印象も。
ただし書架間の有効幅が80センチなので、思わず単位面積当たりの荷重計算などをしてしまうのでありました。

奥平城 11時15分~12時00分
河川の合流点となる畑の先端部分が東の端に相当する模様。
つまりは城跡を道路が城跡を東西に縦断しているということらしく。
この時期でないと入り込むことができない竹林を北側の崖線沿いの踏跡を辿り探索。
竹林の切れ目に近い西側に僅かばかりの堀切状の溝があるようなないような。
ことによると工場の建設の際の造成に伴い消失している可能性があるのかも知れず。

奥平城
奥平城遠景


長根陣屋 12時30分~12時45分
吉井町の「文化財ガイドブック」(2006)によれば、天正16年(1588)にこの地を知行された徳川氏旗本奥平氏の陣屋跡で「城の内」との地名が残ると解説。
...って、どこか時代背景がずれているような気がするのであります。
「吉井町誌」に記された山崎一氏の記述には含まれていないので、何処かで取り違えたのかも知れず。
街中なので無論遺構などがあるべくもなく、用水路の曲折が往時の姿を僅かにとどめるということらしい。

長根城 12時50分~13時50分
二の郭の一部分に明確な土塁と空堀が現存。
ただし民家の敷地内なので遠くから拝見することに。
主郭の小口部分の土塁は墓地となって辛うじて残されているという印象。
寧ろ東側の長根神社方面の土塁と空堀らしき地形がやたらに目についた次第。

多胡砦 14時10分~14時25分
舌状台地の先端部に所在していることから眺望は良好。
独立した城砦というよりも多胡館とほぼ近接していることから居館と砦という密接な相互関係があった時代も想定されるような立地条件。

多胡館 14時25分~14時50分
源先生義賢の館跡と伝わる方形館。
歴史の古いことは発掘調査の結果から間違いのないところ。
事実上文献史料が存在しないのでこの経緯に関しては肯定も否定も難しく。
明確な土塁と空堀が残存していることは見ての通りなのですが、何分にも竹林の元気が良すぎて北側の一部分しか見えないところが残念と言えば残念。

多比良城 15時20分~16時00分
本日の中では最も収穫のあった部類かと。
郭はほとんど畑として耕作されているものの、廓の形状はほぼ原形が保たれている状態に見えたのであります。
また東西を深い谷に挟まれた舌状台地の先端部分を利用した実に効率的な縄張りであることもよく分ります。
主郭の形状も思いのほか明確に残されており、平井城の背後を防御する役割は十分に果たしていたと考えられます。

多比良城の本郭
多比良城の本郭


一郷山城 16時20分~16時30分
この途中にて日没コールド。
模擬天守へ向かう道路が11月からは午後4時で閉鎖。
道路の建設で西側部分、さらに近年の模擬天守(展望台)の建設でほぼ消滅しているとの情報。
目の前に見上げるようにして壁のように立ちはだかる稜線。
もはや比高差約100mの丸太の階段を登る気力はなく。
八束城の登り口の確認作業もこの時点で完全に気力が消滅。


平地の城館ならば、問題ないかと思いきや足取りさえも覚束かない状態。
コースタイムを見ていると、如何に途中での休息時間(こまめに食料摂取を含む)が長いか明白。
こうしてみると食欲はあるものの、やはり未更新のまま放置されっぱなしの城館たちの祟りかもしれず。
もとより歳を省みず出かけすぎの傾向は確かに否めないところかも知れず。
冗談はともかくとして、そろそろ体のあちこちの定期点検に赴かなくては。
  

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昨年末のミニオフにて天候の急変のため訪れることができなかった清水山城方面へ。
午前6時に目覚ましはセットしたもの毛頭起きる気などなく。
ネコの朝食などの面倒を見ているうちにどんどん時間が経過。
かくて8時40分にようやく出発という運びに。


常岡城(群馬県藤岡市 以下同様)午前10時40分~11時30分
麓のどこか寂しげな小さな神社にて初詣などを。
露天さえ設置されていた金鑚神社と金鑚大師の初詣とは誠に大違いかと。
もっとも詣でる人が少ない分だけ、ご利益は多目かも知れず。

肝心の遺構については篠竹の藪が酷く、実のところ明確な遺構が確認できないまま悪戯に時間のみがズルズルと経過。
尾根筋の先端部分にあるはずなのですが、その先端部分があまり明確ではないような。
きれいに笹が刈り取られたあたりを想定したいものの何処か何かが違うような印象。
沼の位置との関係で当りをつけても、どうもいまひとつすっきりとしない按配。
およその場所自体は合っているはずなので、とりあえずはこの辺りかも知れないと自分自身を納得させるのにかなり苦労するような始末。
初訪城にしては出だしから暗雲漂う一年の始まりなのでありました。

常岡城
常岡城(推定)


清水山城 
正午~午後2時40分
先月の30日の時には突然本降りの雨に。
しかし本日は120%の晴天。
問題は登り口の所在。
資料によれば西側の集落から鞍部を目指す模様。

ところがやはり直接鞍部へと続く山道はなさそう。
このため取敢えず畑の間の畔道から稜線を目指すことに。
ほんの少しだけ藪こぎをすると思ったよりも明確な道に出会うことに。
地元の方が作業などのために設置された道のようで、無論登山道でないことは確か。

いくつかの分岐が所在するも、より鞍部に近い方を選ぶことに。
それでも最後には道は消滅。
踏み跡ともいえないような斜面を斜めに登り、鞍部の東側へと無事到達。
ここまで来ればしめたもの。
あとは稜線に沿って山頂を目指すだけ。

途中削平された平場、半ば埋まっている堀切などを経て主郭へと到達。
250平方メートルほどの広さのを有する主郭の東西には思いのほか規模の大きな腰郭が所在。
主郭南側には謎の石積みなどもあり、けっして大規模な城郭ではないものの遺構の残存状況は良好。
ここで倒木に腰かけて軽く食事。
何時も立ち寄る神川町のローソンで購入したミックスハムサンドから片づけることに。
同時に購入したおにぎり2個は後回しにして、万一の時の非常食糧に。

清水山城
清水山城堀切

登り口から山頂までの某の所要時間は30分。
遺構の確認などに最大でも30分程度。
下山は20分もあれば大丈夫かと。
比高差130メートルしかないことに加え、麓から山頂が見えているというのは気持の上でも大変登りやすいという事実を改めて確認。


七村城 午後3時20分から午後3時40分
付近は標高600メートル以上もある上に日照時間も少ない谷沿いの地形。
このため途中の県道177号線も一部は路面凍結状態。
この状況を確認した段階で、所在地および登り口の確認だけとなる可能性を覚悟。

北側の沢伝いの林道脇には50センチほどの氷柱が溶けずにそのまま成長中。
登り口となる栃の木沢に架けられたコンクリート橋は右岸の川岸がそっくり流失。
このため、丸太を束ねた臨時の橋が継ぎ足されておりました。
登り口も明確で地形から判断した所要時間は最大でも2時間ほどかと。

七村城麓の氷柱
七村城麓の氷柱



さて登り口付近は稜線の東側なので、気温の低下が著しくおそらく摂氏3度前後という状態。
指先の感覚が次第に無くなっていくのをひしひしと感じ、デジカメが故障しないうちにとっとと撤退することに。
この結果3番目の七村城は所在地と登り口を確認しただけにとどまることと相成りました。


本日の目標は出発時間が遅いので3か所を予定。
然し清水山城の登り口へ向かうための歩行時間が予想以上にかかったこと、清水山城から七村城までの距離が長く路面の凍結などの道路状況に支障もあり結果的にタイムロスを連発することに。

ことのついでに「鼠喰城」へのアクセスを確認しようとおもったものの、生憎と林道は標高900m前後の北側斜面。
この時期は標高600mでもこの状況なので、通行止めの表示どおり間違いなくあちこちで路面凍結しているはずかと。
「鼠喰城」については4月上旬頃の方が訪れやすいのかも知れず。

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