本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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《暫定版》
福島の1日目は、白河小峰城、白河城、天王館、赤館城、棚倉城のみでした。
予想通り白河小峰城に時間がかかり、明日のルートを変更しなくては(汗)
なお、野草の方は10種類ほど。
埼玉と比べて半月ほど季節の進み具合が遅いような印象です。
ホテルのPCで書き込んでいるので以上でございます。


《本編》
自宅を出かけたのは午前6時前。
当初は遅くも午前4時頃には出発するというスケジュール。
しかし、資料などの読込みと整理に思いのほか手間取り、ようやく就寝したのは当日の午前1時過ぎ。
これでは早朝に起きられるはずなども無く。

さてアクセスを含め下りの東北道は至って順調。
ところが腹具合が不調となり、少なくとも30分以上のタイムロス。
このため白河インター到着は午前9時を大きく超過。
そのあとも止せば良いのに小峰城を遠望しつつ土手に咲く野草の観察などをして20分ほどのタイムロス(苦笑)


白河小峰城 福島県白河市 午前10時15分~午後1時10分

ここで本日二度目のトラブルが。
持参したデジカメのオートフォーカスの動作異常。
レンズ故障のため別のレンズに換えたことによるものか。
しかし事前に機能チェックだけは一通り実施したつもり。
マニュアル確認して事無きを得たものの、結局ぱ約15分ほどのタイムロス。

まず復興された三重櫓と城門を撮影するポイントを探すべく広場へと赴くことに。
ところが恰も城攻めに群がる軍兵のごとく、保育園の団体がゾロゾロとあちこちに散開中。
お弁当や色とりどりのシートなどの荷物が芝生の上一面に展開しまさに百花繚乱。
加えて併設されているバラ園を含めた見学者・観光客も少なくなく。
さらに観光ボランティアと目される方が目立つところで職務を全うすべく立哨中。
おまけに三脚でデジカメ撮影しているのが珍しいのか、件の園児ら数名に取り囲まれ暫し子どもたちとのお相手なども。
5歳児にして実に味わいの深い心温まるイントネーション。
かくしてどうにか写真を撮影できる状態になるまでに都合30分ほどのタイムロス。

人出が少なくなるのを待ちながら、この際殆ど人気の無い東側の石垣部分からじっくりと開始見学。
この個所は大きな樹木も無く石垣の様子もよく観察でき思わぬ収穫に。
堀跡らしき幅の広い窪みも確認。
また南側の水堀の感触も石垣上からはなかなかの佳景。

白河小峰城の南側水濠と石垣
白河小峰城の南側水濠と石垣


無論復興された有名な三重櫓も角度を変えて心ゆくまで撮影...
とはいえ、このあとの予定に鑑みて余り多くの時間を費やすわけにはいかず。
主郭ではなかった...え~と...本丸の上を大まかにぐるっと一周。
このあと西側からの遠景撮影のため堀跡沿いの堤へと赴いたものの、やはり時節柄余りに樹木が繁りすぎていてどうにもならず。
また土手の紫露草が接写してくれと言わんばかりに見事なまでに咲き誇り...(苦笑)


■丹羽長重廟ほか 福島県白河市 午後1時30分~2時頃まで

時間に余裕があれば必ず訪れておきたい史跡。
しかし今回は探している時間もなく、予定が押気味のためスルーするはず...
ところが世の中というものは、何が幸いするか分からないもので。
白河城へ向かうはずの道を間違え、今更戻るのも面倒なのでそのまま進むと廟所史跡の案内板が道路脇に設置。
かくして長重公の重厚長大な宝篋院塔とともに松平氏の五輪塔2基をも文字通り拝むことに成功。
石段の歪みがかなり目立ち足元は不安定。
しかし、ここでは今までなかなか思い通りの画像が無かった睡蓮、今まで余り目にしていなかったムラサキサキゴケ、山紫陽花なども拝めるという幸運に恵まれたのでありました。

丹羽長重墓所
丹羽長重墓所


白川城 福島県白河市 午後2時20分~午後3時

車で主郭の近くまでいけることを知らず林道の分岐手前から徒歩にてアプローチ。
このためにまたしても約20分ほどのタイムロス。
手持ちの数少ない資料によれば、主郭東西南北にも郭、土塁、空堀、堀切などの多くの遺構が存在している模様。
この時期に見学できるのは残念ながら整備の良い主郭部分周辺限定版。
時期を見計らって再訪する(できるか!)こととして、主郭上の野草観察に勤しむことに(汗)
従って城跡を見学できたのはほんのごく一部。
坂小口と思われる個所に残存する土塁の断片と削平された主郭、並びに南側尾根筋とを分ける堀切状地形を確認したのみ。
尤も、その全てを確認しようとすれば東西700m、南北400mの標高400m前後の尾根筋を右往左往しなければならず。
おそらくその所要時間は最低でも4時間以上はかかりそうな印象が。

白河城北西部
白川城北西部

▲表郷堀之内 福島県白河市 午後3時40分~午後3時50分

実は何を隠そう、次の川東田城と間違えて立ち寄った場所。
同じように南側に張り出した独立丘陵を形成。
一応は堀之内という小字名を有する南側に水田地帯を抱える集落で、南北双方に如何にもそれらしい地形の独立丘陵が所在。
集落を東西に抜ける往還を扼するには南北に拠点があったほうが合理的と感じるのは現代人の感覚なのかとも。
川東田城ど同様に、白河結城氏の一族が居館としていても不思議はなさそうな立地条件...などと強がりを(笑)
但し北側は地元の方の墓所で、南側の小さな比高差20mほどの小丘陵には神社が所在するのみでありました。
帰りに道路わきに設置された地名表示の支柱には、確かに「表郷堀之内」と表記が...


川東田城 福島県白河市 午後4時~4時30分

読み方は「かとうだじょう」で、別名を天王館(てんのうたて)、天王寺館(てんのうじだて)とも。
棚倉方面へのルートに位置することと、白河市の史跡として市のHPに掲載されていたことから前日に急遽予定に組み入れたもの。
入口には白河結城氏の一族である河東田氏が居城とした旨の解説版なども設置されている由緒正しい城館跡。
しかし生憎こちらも縄張図が手元に無いので大まかな見学に終始。
それでも、主郭北側の切岸をはじめとして神社参道西側の二重土塁などを確認。
本日の中では一番意外性に溢れた城館跡なのでありました。

川東田城西側の二重土塁
川東田城西側の二重土塁



赤館(城) 福島県東白川郡棚倉町 午後4時55分~5時15分

上台と呼ばれる「赤館」(あかだて)の主郭上からは北側の往還および南側の棚倉の町並みが俯瞰できる要衝の地。
このため戦国期の後期には幾度となくく白河結城氏・芦名氏と佐竹氏の双方により争奪の対象とされた城館。
結局は佐竹氏が抑え南奥州への拠点となり、後に関ヶ原合戦で佐竹義宣が形勢を観望した地でもあるとのこと。
さらに慶長15年には九州柳川へ戻るまでの間に立花宗茂が1万5千石の大名として入封したという大変由緒のある城館。
しかし主郭に相当する部分は概ね公園化され、この季節では樹木の繁茂が盛んで主郭の切岸、帯郭などのほかには印象的な遺構を確認するには至りませんでした。
なお、「館」の後ろにわざわざ「城」をつけなくなくとも良さそうな感じも。

赤館が所在する丘陵
赤館が所在する丘陵

棚倉城 福島県東白川郡棚倉町 午後5時10分~6時過ぎ頃まで

本日のメインのひとつにも拘らず、ようやく訪れることができたのは日没前という余りの計画性の無さに我ながら呆れる始末。
残存している遺構は概ね四方を水堀で囲まれた本丸部分のみ。
本丸の広さと比較して、水堀の大きさがいかにも近世城郭らしく印象的。
然し城址公園化されていることから水堀には噴水が施され、中世城館に慣れ始めた管理人としては些かの違和感も。
近くの長久寺に移築されている城の南門は、小雨・日没コールドのため見学に至らず。

棚倉城西側の水濠
棚倉城西側の水濠



なお本日の訪城予定個所は〆て18か所という凡そ実現不可能な計画。
もとより全て回りきれるとは当初より思わず、あくまでも現地での選択肢としてメニューに含めたまで。
それにしても現実は厳しく以上の通りなのでありました。
また埼玉に比べて夏へ向かっての季節の進み加減はおよそ半月遅れというような印象も。
幾度かのタイムロスに見舞われつつも、僥倖にも恵まれどうにかこうにか5城訪城を達成したことはそれなりに評価すべき結果なのかも知れず。

この日は須賀川市内まで戻りビジネスホテルに宿泊。
今まで福島方面は東北道にて通過した経験はあれども、一般道を走行した経験は皆無。
実際のところ土地勘は事実上ゼロに等しく。
その後深夜まで翌日というか当日の計画変更に無い知恵を絞る管理人なのでありました。

⇒只今、画像整理中です。
今夜10頃には何とか...(苦笑)
結局完了したのは翌日(6月20日)の夜でしたm(__)m

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ようやく今月初めての訪城。
先月は貧血騒動、今月は足首のじん帯不調...(苦笑)
元来が出不精の性質なので、一端のんびりすると出かけることが億劫になるらしく。
何のかんのと理由をつけて出かけぬことを正当化していた向きも。

足首の方は昨日平地を歩いて確認した限りでは殆ど問題なく。
立ち上がり動作に注意して、階段や急坂などを避ければ概ね行動可能と想定。
とはいえ念のためにテーピングを施しサポーターを装着。


小林館(群馬県藤岡市)午前11時10分~11時45分

「藤岡市史資料編」では、北側から東側にかけて高さ1mほどの土塁が残存しているとの記述が。
しかし現状はコンクリート製品製造企業の製品置場に変貌。

敢えて面影を辿るとすれば同書でも記されている北側に面した細長い畑。
及び笹川(流路の河川改修)と館の川と呼ばれる神流川に平行する細い水路。
それに氾濫原との地形を分かつ比高差3mほどの崖線というところでありましょうか。
それでも北東側の2本の流路の合流点付近から見渡してみますと、平地とはいえある程度の要害としての要素を帯びていることが感じられるのでありました。
 いずれにしましても事前の情報・資料がなければ、中世城館跡とは想像しにくい現状ではありました。

季節柄道路脇の民家の鮮やかな花色を持つ「紫蘭」が目立ち、また比較的珍しい白花の品種のものにも対面。
このようにして冒頭からある程度予想していたこととはいえ、訪城6割、植物4割という配分となってしまったのであります。

小林館北東部付近
小林館北東部付近

矢車菊(青色)
矢車菊(青色


戸塚城(同 上)午後12時20分~12時50分
小林館の北方に所在する微高地で東側は神流川の低地に面し、水田面との小林館同様にその比高差は3mほど。
但し拡幅されたと思われる市道が存在するために以前の地形は不明。
残りの三方が細い農業用水路に囲まれたやや南北方向に細長い形態。
「藤岡市史資料編」などによれば、構造上は内郭を有する二重方形館と考えられそうです。
残念ながら肝心の内郭部分については、最早その所在地を特定する手立てが無さそうな印象も。

 しかし、下戸塚の集落の中心部であることは理解できても、この現状の地形からだけでは直ちに中世城館跡とは想像しにくいものがあります。
現在東側を流れる一部だけ二重の用水路、南側の一部開口式の用水路等に面影を辿る以外にはなさそうでした。
こちらでも「黄花菖蒲」「黄花秋桜」が、まさに花の盛りの時期を向かえておりデジカメは半々の撮影枚数に。


森東城(同 上)午後13時10分~13時40分
当初は外郭と推定されている道路部分を完全に一周しようと心に決めていたものの、このあたりから照りつける日差しの強さが増し次第に気温が上昇。
このため忽ち軟弱モードに切り替り、内郭部分と北東の鬼門に位置する飯玉神社を中心に見学。

 さて、本日の訪城では唯一遺構とご対面できた城館跡。
尤も地元旧家の宅地西側を中心とした土塁・空堀遺構のため勿論道路脇からの見学。
堀幅約3間から3間半、土塁の高さは堀側で約1.5m、延長は約50mで南辺の一部にも明確に残存。
北側にも遺構は続いている様子が見て取れるものの、宅地境界部分であるためはっきりとは分からず。

現状を維持管理されている所有者の方に心より感謝を。内郭の西側周辺では、現在新しい戸建住宅の建設が進行中。
以前にはもう少し歴史を感じるような景観が残されていたようにも思えるのでありました。
ここでも初夏の風に揺れる「矢車菊と三尺バーベナ」に目が行き五分五分の状況。

 

森東城
森東城西側の土塁と堀跡

矢車菊(白)
矢車菊(白)



森城(同 上)午後14時10分~14時40分
城館跡は東西南北それぞれ約200mの規模の正方形。
森東城とは泉通寺と県道を挟んで隣接。
南西には森西城もほぼ隣接。
資料によればかつては南西部に堀跡らしき連続した窪みが所在したとの記述が。

勿論現在ではその形跡は全く確認できず。
県道に架かる歩道橋上から俯瞰してみたものの、南東の部分には広々としたブドウ畑が広がるだけなのでありました。
寧ろ北東にほぼ隣接する形の曹洞宗泉通寺西側の古い墓石の立ち並ぶ土塁状地形(高さ最大2.5m、延長約60mほど)の方が気にかかるのでありました。

曹洞宗泉通寺の土塁状地形
曹洞宗泉通寺の土塁状地形

紫蘭
紫蘭



森西城(同 上)午後14時50分~15時10分
資料によれば、内郭は東側を除いて土塁などが残るとの情報。
西側は民家との境界部分で殆ど確認できず。
南側の西端にも土塁状の高まりを塀越しに拝見できるものの、近年の造園工事との判別がつきにくく。
北側は道も無く防風林の竹に囲まれている状況のため全体状況の確認が難しく。

こちらも、県道沿いのアスファルトの隙間に逞しく自生中の紫、ピンク、白色などの「矢車菊」のバリエーションがとても印象的な城館?探訪なのでありました。

森西城
森西城北東部分

矢車菊(桃色)
矢車菊(桃色)




天候の心配もなく、日没まではまだ2時間前後も余裕が。
しかし、本日はあくまでも足慣らしの予定。
暑さに極端に弱い体質のため、早めに撤収したこともあり心配された足首の痛みは発症せず。
しかし、帰宅してから自宅の階段を下りる時にズキンと脳天に響く激痛が(苦笑)
それでも、デジカメ撮影の際に右足首を深く曲げられるようになってきたので、これも本日の大切な収穫の一つには違いなく。

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自宅を出発したのは午前8時30分。
目的地までの距離に比べるとかなり遅めとはいえ何時もの事にて。
本日は貧血症の回復具合を観察することがも目的のひとつ。
従って、高低差の無い平地では息切れ状況の確認が難しく。
とはいえ、本格的な山城に突入するには体力、時期ともに不適当。

このようにして選んだ行き先は神流町の山城。
中でも「桐の城山」(1042m)は、標高の割には近くまで林道があるので至って便利。
またすぐ近くには公営の宿泊施設も所在。
加えて山城にも拘らず余り上り坂が無いという利点も。

桐の城(群馬県多野郡神流町)午後12時40分から午後17時10分

本日は予報よりも天候に恵まれ、途中あちらこちらで植物の画像を撮影しながら移動する高原観光ドライブのような軟弱さ。
このため林道の登り口付近に到着したのは既に12時半過ぎに。
体力が落ちているとはいえ余り楽をしても意味が無いので、敢えて秋葉峠東側の峰(標高約1130m、林道との比高差約60m)から入山。
この小ピーク自体、尾根筋の岩、山頂の平場が気にかかる存在かと。
60mも登ってしまったので、あとはひたすら比高差120mの下り道。

小口のような尾根筋の岩
小口のような尾根筋の岩

小ピークの平場
小ピークの平場


途中で通常登山ルートの未舗装林道(数ヶ所の崩壊と地割れのため車両通行不能)と合流。
いつもどおりあちこち気になる地形を辿りながらのため、この時点で既に13時35分。
城跡の手前で幾分幅の広い尾根筋が括れようやく尾根筋の堀切に到達。

比較的分かりやすい堀切
比較的分かりやすい堀切


このあと北東側の腰郭を踏査して山頂到着は14時20分。
昼食後南西の腰郭、岩場付近のテラス状地形を恐る恐る確認。
天狗沢との名称のごとく、この方面からの登攀困難を実感。
滑落する可能性が濃厚な岩場が各所に切り立つ要害。

落ちれば止まらない
落ちれば止まらない


林道が無ければ麓の集落からは比高差にして約650m前後。
そういう意味では「霧の城」との別名のごとく、まさに「天空の城」の趣さえ。
樹木が繁茂していなければ、確かに南側神流川沿いの眺望はある程度確保できる立地。
然し北側は1200m前後の山脈が東西に伸び眺望ゼロ。
主郭自体は15m×20mほどの小規模なもの。

主郭北東の腰郭
主郭北東の腰郭


水の手は豊富で北東の谷筋と推定。
水場の付近には平場も所在するものの、冬季の在城は恐らく至難の技。
それでも腰郭の階段状の配置などからは防御にも一定の工夫の跡が。
単なる物見、狼煙台とするには勿体無く、いまひとつ築城目的が分かりにくい山城でありました。

ミツバツツジ
開花の早いミツバツツジ


右足首の捻挫の後遺症をカバーするためのサポーターが登る前から破損。
本来はもう1か所訪城予定。
また、山頂から南東方向にのびる見通しのよい尾根筋が気になったもののこの際自重。
とくにマップルで標高945mと記された「桐の城山」(たぶん間違いかも)付近。

常に鈍痛を抱えての歩行となったので、この際心ゆくまで「桐の城」遠望の撮影地点を探索。
尾根筋の肩部分に所在するため麓からではまず不可能。
さりとて、御荷鉾スーパー林道方面からは直接眺望できるような個所も見当たらないような。
城跡から見た限りでは東側のゴルフ場の一番上の辺りが最適の様子。
しかし、時刻は既に夕刻の日没間近。
足元の問題もあり標高920mほどの「みかぼ高原荘」の近くから、逆光で恰も霞んだように見える「桐の城」の撮影に暫しの間没頭し本日の任務を完了。

黄昏時の桐ノ城山
黄昏時の桐ノ城山


貧血による「立眩み」は8割方改善の模様。
然し、「息切れ」の方は、とても顕著な回復とまではいかず。
それでも左足首の脱力感は発症せず。
全体として概ね5割程度の回復状況という印象なのでありました。

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本日は単独の時では、先ず想像もできない早朝よりの行動。
何と自宅の出発は午前3時50分という快挙達成。
とはいえ、2日後の検査予定に備え大幅な食事制限の真っ最中。
つまり満腹感を伴うような高カロリーの食事は不可という悪条件。

集合場所に到着したのは、約束の15分ほど前の午前5時45分。
予定の午前6時の集合時間までには多少の余裕も。
集合場所である「道の駅おにし」の中をフラフラと散策していると、お馴染みの儀一どのが登場。
すでに史進殿は40分前に到着とのこと。
早い話が呼びかけ人である当方が一番最後の到着であった模様にて。
かくて冒頭より殿を務めることに。


諸松城(群馬県藤岡市-旧鬼石町)午前6時15分から午前9時20分
林道からの登り口について情報不足のため、取敢えず10軒ほどの諸松集落の端よりさらに南西200mほどの地点から城跡が所在する尾根筋目指して比高差30mほどの斜面を攀じ登ってみることに。
勿論、管理人はこの時点から早くも息切れの開始。
城跡南側の尾根筋というだけあり、人工的地形改変の印象のある細長い尾根筋、平場、堀切状地形を拝見することに。
城郭関連遺構に直接結びつくものかどうかは別にして、誠に興味の湧く地形なのでありました。

さて城跡本体のうち、特に主郭の東西方向は切り立った斜面という要害。
また城跡最大の見所は、主郭北側の壮大な二重堀切。
特に主郭側の部分については、現状でも最大約6m前後の深さで攀じ登ることが困難に近い構造。
城跡先端となる北側の尾根筋は三波川への断崖に続く地形。
これほどの堀切を普請する必要があるのかどうかというほどの堅固さ。
地形状の弱点を見出すとすれば、諸松集落が所在する南側の緩斜面付近。
勿論この部分にも堀切、腰郭などが配置され、主郭小口への通路は上方からの横矢掛りも。
壮大な堀切との対面に、一同満ち足りた気持ちのままにて次の目的地へと移動。

主郭北側の堀切
主郭北側の堀切



妹ヶ谷城(群馬県藤岡市-旧鬼石町)午前10時から午後1時30分
駐車場から不動尊までは、幼児からお年寄りまで歩くことのできる極めて安全な遊歩道。
然し、不動尊本堂の裏側から続く尾根筋を垣間見て全員が薄ら笑いを浮かべる状況に。
方向としては確かに間違いなく、他に迂回できそうなルートも見つからず。
意を決して切り立った岩尾根を攀じ登ること約20分。

到着した尾根筋の先には、何と林道とコンクリートで固められた高さ10mほどの崩落防止壁が出現。
無論迂回すべき道なども無く、谷筋から登れるような地形さえも見当たらず。
100mほど西側の崩落中の林道の先から尾根筋とも呼べないような斜面が。
四肢を駆使して這い上がること約40分(元気なお二人は多分25分ほど)、漸く下段腰郭に到着。
山城について熱く歓談中のお二人差し置いて、忽ち管理人はザックを枕に仰向けに。

下山が、またまた一苦労で。
途中までは、尾根筋沿いに比較的安全に降下可能。
然し比高差残り50mほどは、木の枝にしがみ付きつつ滑り落ちるような下降に。
無論、管理人も当然ながら3mほど滑落しやや右の足首を..

妹ヶ谷城主郭北端の石積み遺構
妹ヶ谷城主郭北端の石積み遺構


城跡は三波川渓谷の一番奥、東御荷鉾山北東の複雑に分岐する尾根筋の肩に所在。
標高約710m、比高差約210m。
登攀は難路が続くことから、実際にはその数値以上の体力が必要。
北側の通行不能な林道経由、或いは東側の不動沢から同林道を経由したとしても、比高差約100m+平均斜度45度前後の急斜面直登が不可避の城跡。
現在でも難攻不落で、単独ならば林道に出たと同時に、そのままUターンする可能性も濃厚。
使用されていた当時は、今よりも遥かに難攻不落と考えただけでも実に恐ろしげ。


飯塚氏屋敷(群馬県藤岡市-旧鬼石町)午後2時20分から午後2時30分
中世土豪の系譜をひくと思われる旧家。
現住民家のためやや手前の方から拝見を。
稜線南側の削平地にそのまま当時のものではないにしても石垣、櫓門などが配される重厚な屋敷構えに圧倒。

尾ノ窪城枇杷尾根城譲原堀の内(同上) 午後3時から午後5時過ぎ頃まで
何れも今回は再訪の場所。
当初の予定通り、日没時間までには幾分の余裕が。
さりとて残り時間もさることながら、「真下城」「塩沢の砦」へと向かう体力などは既に「妹ヶ谷城」の時点できれいさっぱり消費済。
このため管理人の事情で、余り登らずに一応それなりの遺構と対面できる2個所ほか。
これらを恰も数合わせのように巡回して本日のミニオフを完了せり。

鬼石の桜
鬼石の桜


数日前、左足首不調の直接原因が概ね解明。
立眩みを伴う貧血の原因を究明すべく、今月の25日(火曜日)には胃カメラの実施、31日(月)には内視鏡の検査予定というなかでの訪城。
家内からは、常識で考えれば絶対に行く筈が無いとの冷たい一言が。
確かに冷静に考えれば、「無謀」との表現が適切のようで。
そうしたなか集団行動でなければ、ほぼ不可能な山城攻略にも成功。
体力不足のため専ら殿を務める某に、快く同行していただいたお二人に深謝する次第でありまする。

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最近、加齢とともに朝の目覚めは早く。
しかし傍らにはネコたちの気持ち良さそうな寝顔が。
このため2度寝してしまうことも珍しくなく。
訪城の予定日当日も例外に非ず。
まさに春暁。

塩沢の砦(群馬県藤岡市-旧鬼石町) 12時45分から16時00分
寝坊+行楽シーズンの渋滞+圏央道の突貫工事による交通規制。
この結果、往路の所要時間は約3時間半。
かくて登り始めたのは既に12時45分。
それでも日没時間が遅くなり、本日は雨の心配もないのことから最低5時間は行動可能と推定。

山頂への登攀ルートは地形図を見る限りでは、北西、北東、東のおよそ3ヶ所ほどかと。
始めに地元の方に入山の了解をいただき、予め下山ルート1か所を確保。
たまたま伺った方はこの山の所有者なので情報は確実そのもの。
さて、残り2か所は「東側のハイキングルートを南下して途中から鞍部へと登り詰める」ルートがひとつ。
もうひとつは「北西の尾根筋?経由」を想定。
最近楽なところばかりなので、自らの体力を確認する必要も。

塩沢の砦遠望
塩沢の砦遠望

このため敢えて道のなさそうな北西の尾根筋とも呼べないような斜面から直登開始。
比高差約180m、最大斜度45度、危険な岩あり、まともな道なし。
標高1千m前後であれば場合により遭難の危険も。
今回は幸い標高400m未満のため人家も近く..と思ったのがよくある間違いの元。

三波川沿いの行き止まりの林道の途中から斜面を登攀。
予想通り足場が悪く、登りたくとも登れないという事態に直面。
地形図を頼りにひたすら西方へと斜面を移動しつつ登攀ルートを模索。
漸く露岩が目立つ尾根筋状地形に出て九十九折にて直登。
しかし、この時点で最近富に耐久性が欠如しつつある両足首に異変が。
息が切れるのは別にしても、昨年末の三ツ山城に続き足首に全く力が入らない状態に。

北東の急斜面
北東の急斜面

ここで諦めれば、もう山城には登れないと悲壮な覚悟を。
3歩ほど登っては、杉の植林に寄りかかり。
このようにして足首の回復を待つという、誠に情けない動作を幾度となく反復。
尤もこのお蔭で、途中資料の縄張図には示されていない比較的大きな腰郭状地形も確認。

貧血のため、だんだんと遠のきはじめる意識。
それでも次第に高度を上げ、主郭直下に所在する北西の大規模な腰郭下部に到達。
しかし、ここからが腰郭の切岸直登となる最大斜度45度の文字通りの正念場に。
実際に登攀してみて、この方向から攻め上ることの難しさを確認。
最終的に何と約70分を要して登攀完了。
元気な人ならば40分もあれば登れるはずかとも。

さて主郭と腰郭の比高差は約2mほど。
主郭南側には最大高さ1m、延長50mほどの低土塁が南側を中心に現存。
東側には山城では比較的珍しい構堀が南北方向に普請。
ここで暫し昼食タイム。
とはいえ僅かにお握り1個のみという誠にささやかなもの。

北西の腰郭から主郭
北西の腰郭から主郭

主郭からの眺望は西と北にやや開けているものの、全体として余り良好とはいえず。
元来が東側以外はより標高が高い山に囲まれた地形。
その点は清水山城に酷似した立地条件。
山頂自体は東西50m、南北30mと、予想よりも遥かに広く程よく削平。
所有者の方からは平らな場所があるだけとのお話。
当方としてはその平らな場所、並びにこれに付随する凸凹地形に強い関心が。

主郭南側の土塁
主郭南側の土塁

腰郭を含め確認できる遺構はすべて見逃さないようiに、先ずは下山路となる北東尾根筋から探索。
ところが比高差にして約80mほどの急斜面。
さらに体力が喪失するという結果に。
それでも縄張図通りにおよそ5、6か所ほどの大小の腰郭群を確認。

再び斜面を這い上がり、主郭へと戻り南側の稜線鞍部へ。
尾根筋の東側には人工的に削平された形跡のある平場が所在。
さらに少し南へ進むと、一目でそれと分かる堀切状地形が出現。
堀幅は6mから8mほど、長さは15m前後で竪堀は伴わず。
深さは主郭側で3mから4m前後の規模。
尾根続きの鞍部に普請されていることから典型的な堀切遺構と考えて差支えがなさそうかとも。
西側はやや緩斜面となるものの東側は予想以上の急斜面を形成。
ここで東側谷筋からのルートは、尾根筋への取り付きにかなりの困難が伴うことを確認。

南側の堀切
南側の堀切

さて帰路は予定通りご教示いただいた北東の尾根筋から下山し民家背後の社脇へと下山。
所要時間は僅かに25分ほど。
しかし、こちらから登ったとしても当方の現在の体力では1時間近くかかりそうな急斜面が。

北西の尾根筋
北西の尾根筋


枇杷尾根城(群馬県藤岡市-旧鬼石町) 16時10分から17時15分
本日は天候に恵まれ夕刻になっても西方は晴天のまま。
このため体力的には限りなくゼロに近い状態であるにも拘らず、道路沿いの民家の満開の梅の花を愛でさせていただきながら城跡である廃校となった三波川東小学校へ。
確かに校庭北側の段々畑は城郭関係遺構のようにも見えなくも無く。
しかし後世での地形改変の要素の方が大きいようにも思われるようにも。

満開の梅
満開の梅

その一方で、学校跡の南東方向の尾根筋には2段の腰郭が。
上段部分は学校敷地の造成時に一部改変されている様子が感じられるものの、下段の腰郭は切岸をともなう20m四方の明確な削平地として現存。
加えて西側部分には高さ1m、長さ5mほどの堀上土塁状の地形も確認。

堀上土塁
堀上土塁か



さらにその西側には堀切状地形さえも存在。
夕刻のどさくさに薄暗い斜面を這い上がっただけの甲斐が。

腰郭の間の堀切地形
腰郭の間の堀切状地形

本日は何時にも増して遅い出陣であったにもかかわらず予想外の遺構との遭遇も。
数を稼ぐことは叶わなかったものの、それなりに充実した訪城成果となったのでありました。
春の訪れは思いのほか早く、標高500m未満の山城探訪は今月末頃までが目安のように。

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