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しかし根が地味な性質であることが災いし、できるだけ目立たず遺構も少ないと思われる個所ばかりを厳選。
無論、松葉杖を突きながらの歩行訓練も兼ねていることもあり当然ながら平地の城館跡に限定を。
また極度の運動不足のため、正直なところ確実に退院後の体重は増加の一途。
来るべき山城シーズンを迎えるにあたり、リハビリに加え体重の減量が急務というのが真相なのであります。
かくして、今年5月以来の群馬県藤岡市方面「のんびりテクテク減量大作戦」を発動したのであります。
凸下栗須堀之内 9時40分から11時00分
情報源はあくまでも「群馬県文化財情報システム」のみという侘しさ。
これが復活後第一弾の訪城先とは我ながら地味すぎると呆れるような始末で(苦笑)
それでも備考欄には「土塁一部消失」との記載も。
これを逆に考えると、ことによれば....という程度の期待感も無くはなく。
一方城館名はあくまでも仮称であり、上記システム上では「神流川地区2号城館址遺跡」とのこと。
これでは余りに無味乾燥のようでもあるため、勝手に管理人が所在地の「大字+小字」をそのまま城館名としたものなのであります。
従ってネットで検索しても、今のところヒットする可能性は皆無なのであります。
さて、自宅から2時間半を費やして訪れた場所は利根川支流の河川改修された中川左岸の住宅地。
「堀之内」との地名が残されているとはいえ、大がかりな河川改修が施工されていることからさほどの期待感もないままに速やかに推定地へと到達せり。
新興住宅地に接し一部旧集落の名残も感じさせる屋敷林のある風景が眼前に展開。
推定範囲は東西約150m、南北約180mほどの不整形地。
この場合の定石は、先ず推定堀跡と目される道路に沿ってぐるっと一回りテクテクと歩くことに尽きるのであります。
しかし予想に反していくらもあるかないうちに、旧家の間に所在する竹林の中に連続した人為的な盛土の形跡を視認。
高さ1.5mから2mほどの盛土が合計3か所ほど点在。
こうした地形について、一般には「土塁」(古記録等では「土居」とも)と呼ぶのでありましょう。
無論その立地条件から洪水除けの堤防の可能性、年代観、全体の縄張など不明な要素が多いことは否定できず。
しかし、一応「土塁」であることには相違なく、その後は当初の予定通り時計回りに周囲の道路を一周して推定地のほぼ中心部に相当する位置に所在している事実を確認したのでありました。
凸五町田遺跡 11時10分から11時20分
こちらも前記の文化財情報システムだけが頼りの場所。
立寄った理由は上記の隣接地ともいうべき至近距離に所在しているという理由のみ。
事後収集した資料によりますと、中川の河川改修事業に伴う発掘で中世城館との関わりを想起させる遺構・遺物が検出されている模様。
しかし、この日は稲刈りが終わった後の平坦な水田が広々と広がりを見せ、東側には中川が北流し、北側には上越新幹線の高架橋が北西から南東方向に走るという中世城館跡とは余り縁のなさそうな光景が展開しておりました。
凸中城 12時00分から13時10分
古い関係資料には内郭部分の東側を除いた三方に空堀と土塁遺構が存在するとの記載も。
しかし、近年の宅地化によりほぼ消滅している可能性が濃厚と推定。
実際、現地を訪れてみた限りでは、倉庫の建物に隠れたような状況で内郭北辺の西端に相当する位置に部分的に、堀幅5m、堀側の土塁の高さ3m以上、ただしその長さについては凡そ20mあるかどうかという堀跡・土塁遺構が確認されますが、資料に掲載されているこれ以外の遺構についてはほぼ完全に地表からは消滅していたのでありました。
勿論、念のため定石通りに東西約180m、南北約200mの外郭堀跡と推定されている道幅の細い道路を反時計回りにテクテクぐるっと一周を。
凸篠塚館 13時20分から13時50分
東西約30m、南北約40mの児童公園が城館跡の推定地。
明確な遺構は西側の高さ1.2m、長さ12mほどの土塁のみ。
また5mほどの間を置いてこの南側にもやはり土塁跡とみられる地形が存在。
しかしその高さは最も高いところでも数十センチほどを測るのみでありました。
東側と北側が比高差2m前後の崖地を形成しているものの、城館跡の地続きとなる南側にはやや不自然に折れ曲がった印象のある道路以外には、これといって城館の存在を想起させるような地形は見当たらず。
凸動堂城(ゆるぎどうじょう) 14時00分から14時55分
関係資料によれば、東西、南北それぞれ200m以上の規模を有し北東鬼門方向にに隅欠を持つ不整形の外郭と、中央部にやや不整形の五角形をした内郭を有する城館跡。
こちらでも外郭を構成する堀跡と推定される道路を中心にテクテクとぐるっと一周。
しかし、堀跡の名残と推定される曲折した道路以外には予想通りこれといった人為的な遺構は確認されず。
なお地形図上では概ね比高差に乏しい平坦地に立地していますが、実際に歩いてみた限りでは外郭西辺部のみは最大2.5mほどの高さの段丘状の崖地を形成していることが判明いたしました。
また、外郭の南側には旗本溝口氏の近世の陣屋跡といわれる規模の大きな方形状の宅地が現存しています。
凸本動堂屋敷前遺跡(もとゆるぎどうやしきまえいせき) 15時05分から15時10分
現状は平坦な水田と畑となっておりますが、以前の発掘調査により薬研堀状の溝、板碑等を含む遺構が検出され中世の屋敷跡と推定されている模様。
なお小字「屋敷前」という地名は、溝口氏の旗本陣屋(代官陣屋か)の存在に因むものと推定されるのではないかと考えられます。
凸原屋敷遺跡 15時15分から15時20分
上信越道の南側約100mの地点に所在し、発掘調査により約60m四方の規模を有する中世の屋敷跡であることが推定されています。
しかし上記の場所と同様にテクテクと歩くような堀跡道もなく、農道には未だ夏草が残り足元が見えず、また宅地開発のため敢えて地形の確認をするような状況でもないことから速やかに撤収を。
凸下大塚城 15時30分から16時15分
地形的に「中城」を思わせるような内郭北側の印象。
しかし案に相違して、内郭に相当するとされる旧家宅地西辺中心に幅約6m、長さ約70mの見事な堀跡が現存しておりました。
加えて北辺の西端部(北西角)には高さ2m、長さ5mほどの土塁も現存。
さらに西側の堀跡は南辺へも15mほど続いておりました。
屋敷林の樹木等がくまなく伐採されていることから、公道上より遺構全体を拝見できるというのも実に有難いことなのでありました。
締めくくりとして外郭を形成していたのではないかと想定される東西の用水路付近および内郭東側の堀跡道をくまなくテクテクと歩いて観察。
本日ここまでの歩行距離は、累計にして凡そ6kmほど。
たかが6kmとはいえども、退院後の一日当たりの歩行距離としては紛れもなく最長不倒距離かとも。
諸々の不安材料も多く果たして何処まで歩くことが可能なのか不明ではありましたが、何はともあれ平地に限定するならばどうにか歩くことができるという事実に安堵したのであります。
本日はかなりの中弛みもみられたものの、最初と最後でどうにか帳尻合わせが整いまずまずの成果かと。
なお日没時刻までは未だ40分ほどの余裕もありましたが、生憎と西側には分厚い雲が西日を覆い隠し、撮影には不向きな環境に。
また、ここまで昼食抜き、水分補給なしで行動してきたため早目の夕食を摂るべく藤岡市街方面へ移動を開始。
2週間前から練りに練った当初の計画では、「朝駆け夜討ち、日帰り作戦」ともいうべきもので、時間をかけて考えた割にはかなり無謀な構想(苦笑)
ところが日曜日の午後の段階で、少なくとも2日続きの好天が期待できることが明らかに。
このため急遽計画の見直しに着手し、月・火の2日間にまたがる「遅参、早帰り+保己一最中作戦」に変更したのでありました。
その辺の詳細は翌日のブログにて...
そうしたところ15世紀初頭の奥州探題畠山満泰の事跡として、「太郎丸城」を攻略したという関東公方御教書に関する記述が登場いたしました。
通史の著者は複数の可能性のうちの一つとして、埼玉県嵐山町の「旧太郎丸村」の存在とその関連性を指摘されております。
まさかこんな所で当方の「城館まがい」と対面するとは思いもよらないことで。
まさに出会いがしらの衝突のようなものではありますが、早速拙サイトの記述に引用追加させててただきました
尤も同書では詳細な所在地を示しているわけではなく、あくまでも地名としての関連性から可能性の一つとして示唆しているに過ぎないのであります。
さらに「新編武蔵風土記稿」でも近世の初め頃に分村した枝郷であるというような記述もあることなどから、けっして「城館まがい」が「城館」に格上げされる可能性が増えるというものでもございません(苦笑)
凸郡山城 福島県郡山市 午前8時30分から8時50分
事前に所在地情報等を「城郭図鑑」さんのHPより入手させていただいておりました。
しかし市街地内であるということ、交通事情と道路事情等が不明のため、念のため宿泊したビジネスホテルから片道約2キロほどの距離を徒歩にてアプローチ。
現地には案内板のようなものは見られないものの、城跡は桜木町1丁目の台地を中心とした地域に相当する模様。
もとよりその現状からは明確な遺構等を確認できるような状態には非ず。
また中心部は宅地分譲予定地の看板が立てられ、造成工事そのものは開始されてはいないもののすでに大きく地形が改変されている様子も。
城跡の名残りについて強いて挙げるとするならば、最大比高差8メートルほどの台地北縁部と東側の細長い都市公園に面した辺りに何処と無く面影が残されているようにも。
現状では多少の起伏を伴う地形とはいえ、僅か往復4キロ強の道程さえも時速約4キロ前後という情けなさ。
3日目とはいえども、この歩行速度の著しい低下現象に確実に体力の衰えを痛感して暫し呆然。
帰路に地元の地酒と土産物を購入して取敢えず所期の任務を達成。
凸三春城 福島県三春町 午前11時45分から午後1時30分
始めに入館料350円を支払い町立歴史民俗資料館に立寄り情報と資料の収集を。
やはりある程度の規模の城館跡は縄張図などの基礎資料は不可欠。
町史関係がディスカウントされ1冊1800円という格安さ。
このため古書サイトよりも遥かに安い価格で新品を入手。
ここで資料館の方に頼み込んで事務からの三春城の全景を撮影。
城郭関係書籍掲載の全景画像は概ねこの位置からのもののようでありました。
さて肝心の城跡遺構。
石垣関係は部分的に残存していることを確認。
主郭、二の郭への搦手口?脇と主郭東側辺縁部に顕著に残存しておりました。
復興?された櫓台の石垣は何処と無く不全な感じも拭えず、少なからず周囲の景観にそぐわない様な印象も。
寧ろ主郭東側の出郭周辺の帯郭、腰郭、切岸などの方が印象に残ることに。
この周辺に時間をかけすぎたため、主郭大手口付近、東館方面を確認する時間的余裕が完全消滅(汗)
この後の予定時間を考慮するとこれ以上の長居はできそうもなく、また季節柄樹木の繁殖も盛んなため再訪することを心に刻みつけ次の目的地へと移動。
観光シーズンと重なる可能性が懸念されるものの、竪堀遺構などの確認ならば10月下旬頃の再訪も一考に価するやも知れず。
凸御祭館 福島県三春町 午後2時05分から午後2時10分
予備知識は三春町公式HPのみ。
小浜城へ向かう県道沿いに所在する大内氏に対する三春城主田村氏最後の防衛拠点とのこと。
その割にはこじんまりとした比高差30m、南北方向150mほどの独立小丘陵。
無論余り時間も無いことから、あくまでも所在地確認が主目的。
とはいえ100%この場所であるかどうかは不明のまま。
一応北側には堀切ないしは構堀遺構があるとのこと。
しかし丘陵全体を覆う樹木の生育状況から見る限りこの時期の確認は困難と勝手に判断。
凸七草木館 福島県三春町 午後2時20分から2時25分
こちらも同様に所在地確認のみ。
比高差約35mとはいえ東西方向約300mと丘陵自体の規模は遥かに大きく、その分この時期の探索の困難さが一層明瞭に。
他に候補地となる地形が周囲に確認できないことから、所在地そのものについては概ね一致しているものと推定。
御祭館と同様に「田村48館」のひとつとされ、季節と時間を恨めしく思いつつも次の目的地へ移動。
凸宮森城 福島県二本松市 午後2時45分から2時55分
現地へと赴いたところ、事前に当りを付けておいた推定地はものの見事なまでの的外れに。
てっきり県道40号線の西側と思い込んでおりましたが実は県道の東側で。
よく見れば現地にはしっかりと案内板まで立てられておりました(苦笑)
さらにあらためて地形図を確認すれば、麓を北流する小浜川を天然の水堀とすることができるのは東側の丘陵しか無い訳で。
しかし往還を扼するには比高差は同程度としても西側丘陵の方が20メートル近く標高も高く...くどくど、くどくど
凸小浜城 福島県二本松市 午後3時00分から午後3時30分
旧岩代町役場北側の丘陵に所在。
主郭南部に蒲生氏時代の石垣が部分的に残存。
主郭部分は児童公園として整備。
とはいえ三春城の児童公園と同様に麓の集落からの比高差60mの公園内には人影は皆無。
石垣以外には主郭東側切岸ラインが見所かと。
その折の付けられた形状、傾斜角度の組合せが誠に見事な城郭遺構として残存しておりました。
整備に伴う補助金がらみかも知れませぬが、比高差60mの山上の児童公園は三春城と同様に如何なものかとも思うのでありました。
凸二本松城 福島県二本松市 午後5時00分から午後7時00分
縄張図などの基礎的資料を持ち合わせないことから、始めに市役所へ向い関係課にて資料と情報を収集。
次に市立資料館へと赴き市史関係資料を入手。
この際教育委員会の方にわざわさ資料館までの道をご案内いただき感激を。
さて、まず途中で見つけた高台墓地からの遠景撮影ポイントへ移動し超望遠画像を撮影。
再び資料館方向へと戻り、ひと山超えて麓の駐車場へと到着。
三脚付デジカメを担いで復元?された箕輪門と二重櫓の個所から見学開始。
既に午後5時を過ぎていることから有名な観光スポットとはいえども人影はまばらというよりも殆ど見当たらず
ここから頂上までは比高差にして約100mほどの距離。
遊歩道の整備された登り道は、薮蚊と蒸し暑さを除けば快適そのものの環境。
めっきり衰えた管理人の足で、のんびり歩いても僅か20分足らずで整備された山頂の本丸へと到着。
山上からの眺望は予想通り良好の一言。
復興本丸天守台跡にて、本日6本目となる500ml入りの飲料水で水分補給。
勿論当人以外は全くの無人で、時折吹き抜ける風はまさに一服の清涼剤。
このようにして思惑通りに二本松城本丸を独り占めし、贅沢かつ至福のひと時を過ごすことに。
折りしも安達太良山に夕日が沈みかけ、「♪♪東京の空~ 灰色のそおら~」と倍賞千恵子の歌が脳裏をよぎり暫くの間リフレインを繰り返し続け。
このあと城内の搦手口、二本松少年隊の碑、千恵子抄の碑など幾つかの史跡・名所を回り麓の駐車場へ戻ったのが午後7時ちょうど。
無論残念ながら見落とした個所も幾つか。
しかし夏至前の晴天でなければとても行動不可能な時間帯なのでまずまずの締めくくりと考えることに。
そういえば、こちらの麓にも何故か唐突に児童公園が所在。
なお戊辰戦争での解説板等には新政府軍の呼称は官軍、征討軍とは呼ばずに「西軍」との表記が目立ちました。
考えれば未だ140年ほど以前の出来事故に、未だにある種の拘りがあっても然るべきかと納得を。
3日間の訪城で合計22か所(⇒うち麓から眺めただけが7か所も)+史跡1か所(⇒偶然の産物)を回ることにどうにか成功。
全く初めて訪れたにしては我ながら上出来の部類かとも。
なお、本日の食物摂取関係はビジネスホテルのサービス朝食のお握り一個+味噌汁一杯のみ(苦笑)
この日も腹具合が余り思わしくなく、昼食抜きで行動していたので高速SAにて夕食を予定。
しかし、午後9時を過ぎると自販機のみの営業に。
かくして2食抜きのまま午後11時半に自宅へと無事到着。
往復および移動を含めて合計700キロメートルの走行。
平日夜間の東北自動車道は渋滞とは無縁。
このため平均時速100キロメートルで走行することも可能。
しかし夜間は極端に動体視力が低下する体質のため、時速80キロで大型トラックのあとをトコトコと走行していたのでありました。
凸須賀川城 福島県須賀川市 午前8時から午前8時30分
近世の絵図などによれば、須賀川市内の市役所北側400mほどの地点に所在する二階堂神社付近が主郭跡と推定されている模様。
現地には城跡であることを示す解説版も設置され、かつ社殿には高さ2mほどの段築が施されていることからかつての城跡の残滓なのかも知れず。
しかしこれを除くと現状の地形からは市役所方面と比べ全体として比高差3mほどの微高地を形成していることがわかる程度。
主郭部分から見て東側の方も幾分微高地となっているのでかつての郭跡であるようにも思えるのであります。
何れにしても市街地のど真ん中に所在していることから、それ以上の収穫は見込まれそうにもなく。
凸越久館 福島県須賀川市 午前8時50分から10時20分
30年近く以前に刊行された「日本城郭大系」によれば小丘陵上の竹林に状態の良い遺構が所在するとの記述が。
とはいえ大分昔の調査であることと6月中旬という季節を勘案すれば、ここはひとつ所在地の確認程度で誤魔化そうなどとも。
そうはいっても寺院(無住)と神社付近だけでも確認しておこうと、取敢えず寺院の石段をヨタヨタと上へ。
確かに寺院境内なので削平されて平場には相違なく。
次に西側の一段高い神明社の平場へと移動...このとき何時もの如く右足首に激痛が。
このためやむを得ず横歩きの要領にて僅かばかりの斜面を恐る恐る登り、さらにもう一段上の物見台跡とされる平場へとどうにか移動することに成功。
前掲著によれば、この場所が最高地点との記述。
しかし、どう見ても南西側の郭の方が明らかに高いという印象が濃厚。
さらにその間には上幅10mから15m、深さ最大7mはあろうかという空堀も樹木の間から垣間見え明らかにテンションが上昇傾向に。
比高差20m足らずの小丘陵ということもあり、この際足回りのことは気にせずに薮蚊・蜘蛛の巣を払いつつ竹木が叢生する空堀跡を前進。
けれども前進を阻む倒木類を跨ぐという動作は、実に膝と足首に負担を強いるものなのでありまする。
搦手と思われる郭の切岸部分は最大8mにも及ぶ個所も所在し正に見上げるような高さ。
竹藪が濃密なため確認できない部分が多いものの、戦国期の城館跡としては驚くほどに遺構状態が良好であることに率直に感動を。
ただし前掲著の縄張図は近世の村絵図のごとく余りにも簡略で、位置関係も余り正確ではないよう模様。
冬季に再訪できる機会があれば是非とも再確認したい城館跡なのでありました。
凸下宿御所館 福島県須賀川市 午前10時50分から12時頃まで
「日本城郭大系」によれば、岩瀬氏との関わりが想定されるものの歴史的な背景は不明とのこと。
越久館同様に全く期待しない城館ではありましたが、時間をかけて執拗に捜索した甲斐があったのでありました。
見どころは平場ないし郭西側の大がかりな二重の土塁と堀跡。
特に内側の土塁の高さは最大8mに及ぶ個所も。
堀幅も上面で10mから15mはあろうかという規模。
なお残念ながら西端の空堀跡は宅地化などにより概ね消失したものと思われます。
また西側と南側については、この時期に安易に踏み込めるような状態からは程遠く。
2の郭とされる平場には伐採による切株が各所に点在。
北側にカーブした内側の土塁には近年削平された跡も生々しく。
この切株に腰を下ろし、近くのコンビニで購入したサンドイッチにて昼食。
尤もこの場所にたどり着くまでには、情けないことに二度も場所を間違えた上に斜面で転倒し完全に横倒しに。
それでも光量不足対策用の三脚付装備のデジカメだけはしっかりと支えておりました。
幸い体の方も左側面が斜面と平行になっただけで打撲などの症状もなく皆無。
この上体の頑丈さを足周りに分与できぬものかと思った次第なのであります。
凸星ヶ城 福島県郡山市 午後1時から1時20分
坂上田村麻呂が築いた?と伝わり、戦国期には二階堂氏に関連する城館跡とされている模様。
比定地に関する情報の入手が全く不足。
このためとりあえずは、御代田小学校北西に所在する菅布禰神社の丘陵を含む一帯と推定することに。
一応は社殿の北側を中心に切岸状地形が確認できるものの無論確信などは全く無いも同然なのであります。
凸守山城 福島県郡山市 午後1時45分から2時30分
城跡は谷田川と黒石川に挟まれた段丘上に占地し、主郭部は東側の小高い位置に所在。
近年において蒲生氏時代の野面積みの石垣が発掘調査により確認された城跡で、主郭と推定される通称城山八幡にも郭と土塁が残存。
二の郭石垣の高さは4mから5mほどで西側から南側へと回り込んでいる様子も確認できます。
また、主郭北西隅には櫓台跡のような高まりも明確に残されておりました。
三の郭と推定されている城跡の西側部分は守山小学校の校庭および民家の宅地が広がり、城域の範囲が掴みにくくなっておりました。
なお時間が許せば周辺をじっくりと歩きながら観察したいところではありましたが、この時点で既に3か所もの感動的な遺構と対峙することが叶い本日の目標はおおむね達成されたも同然。
何れ近いうちに再訪することを深く心に刻んで次の目的地へと移動。
凸守山陣屋 福島県郡山市 午後2時35分から2時50分
宝暦年間に水戸家の支藩として松平家2万石の陣屋がおかれたもので、当時の遺構は残存していないとのこと。
それでも陣屋跡とされる北西付近には大きく曲折した道路が残っておりました。
城下町などによく見られる道路形状ですが、そのまま関連遺構と断定するには余りにも資料不足で。
なお、地元の集会施設には葵の御紋が掲げられておりました。
凸市野関館 福島県須賀川市 午後3時55分から4時まで
水郡線川東駅南側の独立丘陵なので場所は間違えようもなく。
元々殆ど遺構が無いとのことで、あくまでも所在地の確認と遠望のみの城館。
数稼ぎとの指摘がなされれば、誠に御尤もにてございまする。
たまたま見かけた水郡線の車両と直ぐ西側を流れる阿武隈川のゆったりとした流れがとても印象的なのでありました。
凸石見館 福島県須賀川市 午後4時20分から4時30分
雨田地区の蔀久保に所在。
西側の水田面からは比高差にして35mほどの独立小丘陵。
縄張り図等からは単郭で土塁、小口が残るととのこと。
とはいえ思いのほか規模が大きく木々の緑の深さとアプローチなどの問題から、こちらも遠望するに留めましてございまする。
凸三城目城 福島県矢吹町 午後5時10分から5時25分
東西南北共に400mほどの規模を有することから所在地はすぐに判明。
しかも入口の道路脇には説明板までも設置されておりました。
しかし残り時間と著しい資料不足のため、ごく手前の部分畑付近を拝見するに留めました。
凸観音山館 福島県矢吹町 午後6時25分から6時50分
近くまでは直ぐに行けたものの、途中でものの見事に方向感覚を喪失し幾度も方位磁石のお世話に。
原因は二叉路を右に進んだことによるものらしく確実に30分以上のタイムロスに。
このため漸く神社の鳥居のある入口に到着した時には辺りはすでに夕やみに包まれておりました。
鬱蒼と草木が生い茂る全く人気のない林の中へ侵入する姿は普通に考えればどうみても不審者かとも。
仕事柄か歳のせいかは分からねども、暗闇と超常現象の類は全く気にならず。
ほぼ暗闇に包まれどこか重たい空気さえ感じる200mほどの曲がりくねった参道を西へ。
土橋の両側には意外なほど大きな空堀跡が残存。
あらかじめ想定していたものの三脚付でなければとても撮影不可能な暗さ。
デジカメのシャッタースピードは、ISOを800に切り替えても「0」を表示。
3の郭とされる八幡神社の辺りは幾分林が開け取敢えず参拝。
すると右手の石段がおいでおいでと手招くようにも(汗)
その手に乗って名称の語源と思われる観音堂が所在するはずの2の郭へ。
途中、草木に覆われた2の郭の南側には規模は小さいものの空堀跡の暗闇も確認。
しかしその先に所在すべき観音堂らしき建物が全く見当たらず。
そのまま雑草に覆われた2の郭を横目に坂小口を登ると三峰神社の小祠が鎮座する主郭へと到達。
この時点でほぼ日没となり、これ以上の遺構確認は困難と考え撤収開始。
帰りがけに2の郭にて建物の残骸と思しき古材の塊を発見。
位置関係からすれば、どうやらこれが「観音堂跡」である模様なのでありました。
このあと、耕地整理により辛うじて主郭だけがぽつんと残っているはずの「国神城」へ。
ところが元々正確な所在地を把握していないため未確認のままタイムアップ。
こうなると素泊まりの予定のため途中のエコス(スーパー)で夕食やペットボトル飲料を買い漁っていた時間が恨めしく。
とはいえ予定していた11か所のうち10か所を回れた(⇒正しくは「見た」!)ことはそれなりに評価せねば。
かくして1時間遅れでどうにか郡山のビジネスホテルへと滑り込み、またしても深更まで翌日のプランの練り直しに勤しんだのでありました(苦笑)