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凸中林城(群馬県吉井町)10時25分~12時30分
事前の情報では平地の居館部分と背後の比高差約50mほどの郭からなる城郭とのこと。
主郭に相当する部分に土塁跡が残るともいわれているけれども、耕地化・宅地化などにより現在では確認が難しい状況。
堀跡の方については西側の自然堀に何とかそれらしい雰囲気をとどめるのみ。
なお、主郭西側の小古墳の上には「地四郎様」を祀る小祠が所在し、複合遺跡としての「中林遺跡」に関する説明版及び文化財標柱も設置。
さて背後の山上の物見台方面は、一見して篠竹を含む手強そうな藪に覆われた様子が遠目にも明白。
また自衛隊の武器弾薬庫と直に接しているためにある程度の行動の制約も。
取敢えずはアプローチするルート探しからスタート。
やはり東側から北側の尾根筋に取り付くのが正道と判断。
先ず東側の堀跡とされる道路を北上。
地図どおりこの道路は基地のフェンス手前で行止りに。
しかしよくよく見ると民家庭先の北側を西の尾根筋へと向かう細い道が。
この道をそのまま道なりに進むと、やはり北側の基地のフェンスで行止り。
それでも尾根筋が見えることと合わせて、フェンス沿いに道を辿ることは可能なのでそのまま西進。
途中から定番の蜘蛛の巣と棘に阻まれつつ、斜面の角度も45度となるもひたすら直進。
早い話ネットフェンスの網に掴まりながらの登攀。
この間尾根筋まではせいぜい直線で80mほどの至近距離、かつ比高差も僅かに40mほど。
そのまま尾根筋を南下して、始めに北側の削平地(東西約5m、南北12mほどの小郭)を確認。
尾根筋全体の形状から観察する限りでは明らかに人手が加わっていることは明瞭。
しかし無論鬱蒼とした樹木が叢生するため眺望は皆無。
周囲に竪堀、堀切の形跡も見られず。
次に50mほど南側に進んで物見台(南北約5m×東西約10mほどの楕円形)とされる尾根筋の先端部へと移動。
しかしここも北側の削平地と同様に眺望皆無。
ただし物見台南東部に竪堀状の地形が存在。
物見台の規模に比べ竪堀の幅が大きすぎる印象も。
岩崎城西側の竪堀と同様「竪堀+自然地形」と見るのが妥当かどうか検討の余地も。
凸入道が谷屋敷(同上)12時55分~13時35分
中林城の直ぐ北東の丘陵先端付近に所在し、こちらはさらに自衛隊の基地内という悪条件。
尤も以前に発生した崖崩れのため、屋敷跡そのものは消失しているとのこと。
このためあくまでも丘陵の遠景の確認が目的。
まずは唯一遠景を望むことができそうな西側の戸建住宅団地へと移動。
ところが樹木のためになかなか遠望できる個所が見当たらず。
自衛隊の基地と共にその北側に隣接するゴルフ場のため行動範囲も限定。
あちこち探して取敢えずは団地の給水タンクが所在する見晴らしの良さそうな高地を目指すことに。
確かに南側の見晴らしは抜群で中林城を背後から俯瞰。
然し肝心の入道が谷屋敷ーが所在した辺りの丘陵先端部は樹木の陰に。
ところが散策路のような道が延々と目的地方面へと続いている様子。
これ幸いとそのまま道を辿るとゴルフ場と基地のフェンスに両側を挟まれた丘陵先端部へと到着。
かくて金網越しに完全に消滅したとされる屋敷跡を確認。
時候はまさに秋たけなわ。
然も好天の代休日。
自宅で惰眠を貪るなどは以ての外。
体力の方は別として、気力だけは何故か横溢。
行先は今年始めの奥平城以来となる吉井町の鏑川両岸。
めぼしい遺構も些か少ないことから、とりわけ気力だけは肝要。
凸岡城(群馬県吉井町 以下同じ) 9時55分から11時10分
上信電鉄北側の台地。
地形状の制約から三角形の縄張を有する城館跡。
明らかな遺構は北端部の土塁との情報。
竹林の中に所在する土塁は、高さは2mから2.5mで延長約15mほど。
ただし幾分遺構としての形態が崩れかかっている様子があるようにも。
遺構南端部には堀切状の堀跡の一部も現存。
しかし全体として南側の台地続きについては宅地化と耕作により、かつての姿を偲ぶことは困難かとも。
凸上池館 11時25分から12時10分
鏑側右岸の侵食を受けた崖地に所在。
資料に示された代官陣屋当時の北側の堀跡は不明。
その南側の土塁も同様。
南側の遺構はほぼ消失したという印象。
北端の稲荷社に建立されている石碑を撮影させていただいて現地での作業終了。
この後鏑側対岸から遠景を撮影するため移動。
浄水場が所在する辺りからは断崖の様子も明確に把握。
背景の山稜には「一郷山城跡」の模擬天守台が写りこんでおりました。
凸塩川城 12時20分から13時00分
史進殿の情報どおりに確かに何も無く、低下する一方のテンションを維持するのに一苦労を。
屋敷門を有する旧家以外には歴史を感じさせるような景観に余りにも乏しく。
魚料理店、派手な印象の中華料理店、一般の住宅等々により概ね宅地化。
ここで昼飯抜きの空腹を解消すべく「ラーメン+餃子3皿」が...
しかし日没までの残り時間と体重管理を優先。
予定通り西側の防御ラインであった大沢川と南側の寺院跡に所在する地表段差の見学に切替え。
折りよく2両連結の上信電鉄のカラフルな車体が時速40kmほどで目前を通過。
何を隠そうこの日は連写機能を使用し、度々俄か鉄道ファンへと変貌しておりました。
それにしても汽笛が鳴ってから列車が接近するまでの時間の長いこと。
凸本郷城 13時10分から14時05分
上池館と同様に鏑川右岸に所在。
全体とすれば物見として利用されたと推定されている古墳以外にはこれといって目ぼしい遺構は見当たらず。
強いて挙げれば比高差最大5mほどの主郭北側の崖線かと。
また宅地化の状況の影響から遺構東端部の現況も把握しづらい状態。
凸岩崎城 14時30分から15時40分
本日の予定の中ではある程度遺構の存在を期待できる城館跡。
山城形式とはいえ比高差は僅かに50mほど。
現状の足回りでは、この程度が試金石に相応しく。
弁天沼越しの丘陵地帯はなかなかに落ち着いた佇まい。
堰堤から続く山道も極めて良好。
南麓最下段の腰郭ないし郭東側の堀底道も味わいが。
しかし、順調なのはここまでの話。
化学工場とネットフェンスで仕切られた稜線は行く手を阻む蜘蛛の巣と背丈に届かんばかりの雑草がぎっしり。
雑草の藪潜りは、その間北へ約200mばかりの行程。
体中にこれでもかとばかりに纏わりつく障害物を乗り越え踏みしだき。
距離自体を把握していても、兎に角目先の見えない藪潜り。
主郭を過ぎた辺りの鞍部付近にて、堀切の形跡が無いことを足の先で確認。
この地点から主郭が所在する南へと大きく方向転換。
植生もこの辺りから篠竹へと変化。
これがまた、途方も無く密度の高い竹藪で。
資料が無ければ脱出不可能なほどの密生度。
主郭北側の低土塁さえも屈んで篠竹の間から覗かねば分からない状況。
楕円形のはずの主郭も辺縁部はおろか足元さえもろくに見えず。
直ちに南側の堀跡、腰郭と推定される方向に向けて移動。
しかし雑草の藪とは異なり全く体が前に進まず。
止むを得ず幾分密度の低そうな個所から下降開始。
然しいくら下っても腰郭・帯郭付近の平坦地には到達せず。
篠竹の藪から抜け出たところで現在地の確認。
すると恥ずかしながら長さ100mほどの竪堀をそのまま途中まで下っていたのでありました。
全体としてこの藪では、仮に元の位置に戻ったとしても遺構確認は困難と判断。
かくてそのまま林道へと下山。
多分2月頃でもこの篠竹の藪は健在のはず。
仮に再訪するとすれば西へ迂回して南側の斜面から取り付くか、下りてきた竪堀を這い上がるか。
比高差は殆ど無いものの正に難攻不落なのでありました。
日没時刻も早まり午後5時前。
行動可能時刻は午後4時半が目安に。
本日は久しぶりの藪潜りも。
このため気力・体力のゲージは限りなくゼロ表示。
比高差僅かに50mといえども何とかクリア。
今後の行動に微かな希望の光が見えてきたようにも。
合わせてマニフェストの25分の1も達成(苦笑)
この日は一昨日よりも30分以上早く出発。
にも拘わらず到着時刻は全く同じ。
すなわち往路の所要時間は2時間45分以上。
つまりは往復5時間前後を要し、自宅から群馬県吉井町を一日おきに往復しているという構図。
遺構の残存状態に比して、この時間と労力は如何と自問自答を。
といって午前6時前に出発するという元気も無く(苦笑)
凸神保植松城 午前10時15分から12時
上信越道自動車道建設に伴い遺構の中心部分を含む大半が消滅したといわれている城郭。
北東の腰郭そのものは郭、切岸とも側道工事等によりほぼ消失しているという印象が濃厚。
僅かに東側から入込む谷と、かつて腰郭などが存在していた北東方向にのびる舌状台地に城跡としての名残をとどめているのかも知れず。
とはいえ以前に、儀一殿などから「高速道路南側に遺構が残存する」との貴重なる情報を思い出し。
念のため植松陸橋を南へと渡ることに。
先ず目に入るのは「への字」形の折を有する土塁。
高さは最大3m、延長60mほどの規模。
その南側に続いて深さ約1m、幅約12m、長さ40mの耕作地化された空堀跡も。
この二つの遺構を挟んで南北に郭跡と見られる削平地及び切岸も現存。
つまりは高速道路建設以前の関係資料に記された遺構のうち、少なくとも全体の4割ほどに相当する南側部分については概ね現存しているということに。
予め以前の縄張図上に高速道路の想定位置を書き込んだ前日の急造資料が役立ち、予想以上の展開は当初の予定時間を大きく上回る結果に。
凸天久沢陣城 午後12時20分から13時10分
全域が公園化されていることから藪と薮蚊には悩まされず。
主郭上のトイレもこの類のものとしては驚くほど綺麗に管理。
しかし整備されすぎたというのが正直な印象。
詰まるところ主郭周辺を除いて、その現状からはかなりの地形改変が行われた模様。
眺望自体は丘陵先端部のために尾根続きの西側を除き極めて良好。
しかし臨時の陣城としても、東西100m、南北50mの規模は余りに小さいという印象も。
また西側の尾根続きには堀切の防御が欲しいところかと。
凸天王原屋敷 午後13時15分から13時50分
上信越自動車道を挟んで天久沢陣城の北西約200mの地点に所在。
南側の一部は道路建設により消失しているとのこと。
また北側部分も現状は耕作地等のため屋敷跡としての面影は皆無
あくまでも道すがらで数合わせのような探訪とはいえ、この光景を目前にしてテンションのゲージは大きく低下。
止むを得ず天王原の陸橋上の防護策越しに「多胡下城」の遠景を撮影。
本日を含めてこの吉井方面は6回目かと。
少しはこの方面における相互の城館の位置関係が呑み込めてきたのかも。
凸矢田城 午後14時00分から午後14時30分
上信越道の側道から多分この辺りかと道路の幅員が広がりをもつ部分で車を止め現在位置の確認。
幾分度の合わなくなり始めた遠近両用眼鏡を額の上に上げ何とか焦点を合わせ資料を確認。
ふとなにげなく道路の反対側に目を転じると、屋敷林に囲まれた大きな屋敷構えの民家が。
西側の道路沿いには紛れもない空堀を前面に配した4mほどの高土塁が...
西側と北側の一部とはいえ、これだけの壮大な規模の遺構に遭遇するとは予想だにせず。
個人宅地内のため道路沿いから遺構を拝んだのち西側の郭の周囲をぐるっと一周。
そのままほぼ隣接した北側の代官所跡へ。
凸矢田代官所 午後14時30分から午後15時00分
道路沿いの西側の入口には文化財の案内標識が設置。
こちらも民家の宅地内のため、道路上から屋敷門と石積みで補強された土塁などを拝見。
資料の通り北側の裏門方面には空堀・土塁も現存。
中世末期の城郭、近世の陣屋そして近世代官所と、これだけの遺構現存するとともに近接して存在していることに驚きを禁じえないのでありました。
この日も日没にはまだ2時間近いゆとりが。
しかし僅かばかりの土塁や古墳の昇り降りの影響か、右膝に気のせいとは思えない違和感も発生。
ある程度運動せねば、足回りリハビリのみならず心肺機能維持、皮下脂肪燃焼にも悪影響。
さりとてここで無理をしても元も子もないことも事実。
一昨日と同様に、途中で早めの夕食を摂るべく速やかに帰途についたのでありました。
前日まで、というよりも正確には当日の深夜。
累積する一方となっている不良在庫のコツコツと整理更新。
このため自宅を出発したのは午前8時丁度。
途中川越市内での混雑は予想よりも僅かなもの。
トイレ休憩を含めても現地到着は午前10時15分という順調さ。
天候も珍しく予報どおりの快晴
近世城郭の石垣を含めた建築物を撮影するには絶好の日和。
しかし中世城館跡の土塁・空堀には「降水確率0%薄曇」がベストなのであります。
またこの時点で日没までの時間と訪問先等の諸条件を勘案すると最多でも6か所程度が目安かと。
凸小串館 10時15分~11時35分
資料などによれば、城館関係の遺構については殆ど現存していない模様。
それでも道路形状には部分的に堀跡外郭の名残りも。
また比高差7mほどの北側崖線にも要害としての風情が。
地勝寺の墓地には小串氏所縁の墓所も実在。
南西300mの台地には小串城跡も所在。
これらのことから詰城と居館という用途を使い分けていた様子が窺えたのでありました。
凸河内城 11時55分~12時55分
鏑川右岸の所在する他の城館と同様に北方に張り出した舌状台地に占地。
資料によれば土塁・腰郭跡も残るとのこと。
しかし、夏草の勢いは未だ旺盛で土塁の方は確認に至らず。
それでも蜘蛛の巣を払いつつ当たりをつけた竹藪へと突入。
忽ち薮蚊の間断の無い攻撃に数ヶ所がボコボコに。
辛うじて2段からなる腰郭状の地形を台地北東部において確認。
なお「吉井町誌」の記述によれば、戦前から戦後にかけての伝染病の隔離病棟が所在した場所でもあるとのこと。
現在は住宅が立ち並びそうした痕跡は、入口の坂下に残された通行止めの小さな石柱だけでありました。
凸高の砦 13時05分~13時50分
河内城と比べると、大沢川川原に自然公園が設置されているためより段丘自体の比高差が際立つ印象も。
目指べき遺構は段丘上の土塁跡。
取敢えずは狼煙台と推定される稲荷神社跡を目指し東へと移動。
2棟の古い納家(家畜舎か)北側には予想を超える状態の良い土塁の一部が現存。
その配置からは比高差20m以上の急崖に加えて、北側の守りをさらに固めていたものと推定。
凸折茂の内出 14時~14時40分
事前情報では関係遺構はほぼ消滅している模様。
さて関係資料に示された占地について判然としないのが、耕地整理された丘陵東西の尾根筋部分。
こちらの方が内出と推定されている個所に比較すると明らかに眺望の優れた高位に所在。
丘陵最高地点を占地しているならば問題のないところ。
しかし関係資料では丘陵の南側緩斜面の段築部分のみを想定するという不可解さも。
それはさておき南側の同等の標高を有する丘陵方面を除いた三方の眺望は頗る良好。
風も無く秋の柔らかな日差しの下、無住の堂宇の軒先でおにぎりを食べ暫し惰眠を貪りたい心境に。
凸神保館(神保城) 14時50分~15時50分
遠く榛名の山々、妙義山の岩峰、超大型航空母艦のようにも見えてしまう特徴のある平坦な山稜の荒船山。
折茂の内出よりもさらに、これらの山稜が正に手にとるように一望にできる見晴らしの良い高台に占地。
関係資料を眺め、あらためて所在地を探すまでもないこと。
否応も無く視界に入る北西側の季節風を防ぐ広大な防風林が神保館そのものであることは自明の理。
たまたま防風林脇の畑にて試掘中。
始めたばかりで詳細不明の模様でしたが恐らくは古代末期ものとのこと。
さて肝心の堀跡・土塁等の遺構は北西部に明確に残存。
幅8m弱、深さ最大2.5mの規模を有する空堀跡が凡そ100m近くにわたり現存。
土塁もこの堀を挟み二重土塁の形態と推定。
辛科神社方面にも同様の遺構が現存。
現在も城館名と同名の旧家が所在している模様。
その宅地南東側には比高差4mの郭状の台地も現存。
この時点でどうにか本日の最低目標に到達。
未だ日没時刻までは約1時間ほどの余裕も。
しかし西側には分厚い雲が湧いて西日を遮断。
加えて薮蚊の活動も無視できず。
腹具合を考え毎度の事ながら飲まず食わずのテクテク訪城。
減量は疑いの無い事実とはいえ、血液は間違いなくドロドロ状態。
このような次第で早めの夕食にて水分とカロリー補充を決断し本日の任務を終了。
凸中大塚城 7時50分から8時45分
実は昨日の夕刻にこの西側の道路を通過していたのであります。
しかし曇天の夕暮れ時に加え、地理不案内+空腹のためにその存在に全く気づかず通過(汗)
本日は早朝よりの訪問のため、多少は頭も冴えわたっているものと誤解を。
入念に距離を測りつつ推定地へと接近する手筈が、何と遥か西側の古墳のところまで行き過ぎるという不始末。
古墳の見学を行った後、徐に西側の農道方面空から遠景を撮影しつつ城館跡へとアプローチを開始。
明確な遺構は先ず旧家西辺の延長70mほどの土塁・堀跡で、土塁は堀跡を挟んで二重土塁の形式を構成。
さらにこれに続く南辺の堀跡と高さ3mを超える土塁も現存。
北辺にも屋敷林に視界を遮られているものの明らかに同規模の堀跡と土塁が現存。
関係資料によれば北東に所在する千手寺方面を別郭とする考え方も示されていますが、寧ろ外郭の一部として捉えるべきではないのかなどと独り言を。
南西側の外郭部の曲折個所を含め周囲をぐるりと一周半したのちに次の目的地へと移動。
凸落合代官所 9時00分から9時20分
件の「文化財システム」によりますと、概ね落合の交差点北西部付近に該当する模様。
資料不足のために残念ながら近世の何時頃の時代のどのような性格の代官所であるのかは不詳。
所在地については、おそらく大きな屋敷門を備えた民家を中心とした辺りかと漠然と推定を。
凸岡の砦 9時30分から9時50分
上記の地点から鏑川右岸の河岸段丘の一部と推定し崖地と堀跡らしい地形を求めて移動。
ところがそれらしい地形がなかなか見つからず。
宅地化された低い崖地の存在は確認できたものの、この地点が該当地であるかどうか自信が...
止むを得ず西側の「伊勢塚古墳」へと赴き、その所在地から砦跡の地点を推定。
やはり上記の宅地化された低い崖地が当該砦跡である模様。
東側の路地よりアプローチを行い水田跡のような幅広い短冊形の地形を拝見。
取敢えずは、この地点が西側の堀跡なのかと納得。
凸落合の砦 10時10分から10時30分
十数年前の関係資料によれば当該遺構の残存状況は不良との記述。
確かに南側の堀跡は概ね埋め立てられ、僅かな窪みを留めているというような状況。
自然地形を含む北辺の急斜面付近が、現状では最も砦跡の景観に相応しいという印象。
このあと、当初の予定通りに藤岡市の歴史館に立寄り、資料のコピーなどを依頼を含めて50分ほどの時間を要して資料と情報の収集。
凸白石の砦 11時30分から12時00分
上記の関係資料によれば耕地整理により完全に消失しているとの事前情報。
山崎一氏の資料に記された地形図等から、それらしい尾根筋に相当すると思われる凡その所在地を推定。
丘陵上の林部分も大変気になりますが、砦跡自体はその隣接地の畑付近辺りかと思われたのであります。
凸白石上郷遺跡(吉良上野介陣屋)12時05分から12時10分
遺跡の名称ではしっくりときませんが、忠臣蔵で著名な吉良上野介所縁の陣屋址
元禄時代に本領とは別に知行の一部である700石ほどの土地をこの白石に有していたとされているようです。
尤も当主は江戸常府のために代官支配と考えられます。
しかし上野介の生誕の地とされていることもあり由緒ある近世陣屋跡として捉えることに。
凸上大塚の砦 12時20分から12時40分
同じ「大塚」の地名が冠されていることから過剰な期待をすると落胆の度合いが大きい城館跡。
水田の東側および南側に残存する高まりが土塁跡とのこと。
隣地には宅地が所在していることから遺構の残存は奇跡に近いものが。
とはいえ土塁上部分も耕地として利用されている模様なので、しっかりと突き固められたような土塁を想像してしまうと期待とのギャップの大きさに打ちひしがれる城館跡なのでありました。
凸大神宮山城 12時50分から14時15分
今回唯一比高差を有する城館跡。
とはいえその比高差は最大でも30mばかり(汗)
この時期には丘陵中腹の帯郭、先端部の腰郭部分の地表観察は未だ時期尚早でありました。
それならば南側の庚申山方面の尾根筋を区画する堀切部分は如何に。
南側の帯郭方面から接近するも密生する篠竹に阻まれ到達不能。
それでは南側の細い山道から接近しようと試みたものの、残念ながらほぼ同様の状況。
諦めつつ東側の中腹に刻まれた道路をテクテクと戻り、この辺りに堀切があるはずとよくよく繁みを観察。
すると同好の士がかき分けたとものと思われる踏み跡らしき形跡を発見。
せっかくの機会なので心の赴くままに藪へと誘われることに。
無論至る所に張り巡らされた蜘蛛の巣、薮蚊の大群による攻撃の妨害を受けながらの踏査。
また松葉杖は藪潜りには全く向かないことを実証的に体験。
すなわち本来は2本足に絡む枝草の類が3ヶ所に絡みつくという構図で身動きが(苦笑)
それでも摩利支天の祠にも到達し、始めに行き着いた尾根筋上の僅かな窪みが、かつては深さ2mの堀切跡であったことを確認。
凸根岸築城跡 14時30分から14時50分
武田信玄家臣の依田氏により築城されたとされる遺構。
発掘調査により堀跡遺構が検出されたのは国道254線のバイパス付近。
堀の内という地名が残る辺りも既に宅地化されて面影は無く、強いてあげれば丘陵の東側の水路沿い付近の崖地が最もそれらしい景観を残しておりました。
本日は夕刻の天候にも恵まれ、この時点で日没までは少なくともあと2時間ほどの余裕。
予め持参していた吉井町方面へと足を伸ばすという選択肢も。
然し4ヶ月のブランクに加えて、手術後の足回りの余力は既に限界に。
このため早々に撤収を決断し、旧児玉町の市街へと赴き念願の「銘菓保己一最中」(12個入)を購入。
梅月堂謹製のこの最中は、旧児玉町出身の群書類従編纂で名高い塙保己一に因んだ銘菓。
群馬、長野方面へと向かう道筋に所在する国道254線沿いの野立看板を見てから早幾年。
そのうちに買えるだろうと思い続けてから何と45年近い年月が経過(苦笑)
また最近その存在を知った黒沢謹製の「児玉党(最中)」も駅前通にて購入。
かくして恰も「最中」尽くしとなってしまった趣の手土産を携えて午後6時前に帰還