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然るに城館全般にわたる手持ちの資料は「戦国武田の城」「武田信玄城と兵法」「山梨県中世城館調査報告書」「日本城郭全集」のみという不十分極まりない状況。
知識不足、資料不足、土地勘不足の正にないもの尽くし。
とはいえ、かの有名な信玄公所縁の地。
このため今回はあくまでも橋頭保の確保を主眼とし、敢えてデジカメ撮影は一切行わず、記録よりも記憶にとどめる方式とした次第。
然し実はその記憶が最も大きな課題なのでありますが(苦笑)
ご案内いただいた城館跡は次の通り。
凸牧野砦(山梨県上野原町) 9時30分~10時50分
本日唯一の山城で、麓からの比高差はおよそ125m。
5条の堀切と複数の郭から構成される遺構。
足元の不安も含めて管理人の現在の体力では最早この辺が限界の模様であります。
凸勝沼氏館(同甲州市)11時50分~12時30分
整備復元された勝沼氏の館跡。
季節を問わず探訪可能かと。
諸設備の経年変化が些か気にかかる館跡でもあります。
凸金吾屋敷(同山梨市)12時40分~12時45分
凸連方屋敷(同山梨市)12時50分~13時05分
西辺と南辺に堀跡と共に高さ5m前後の良好な土塁が残存。
以前は藪に覆われていたという遺構も樹木の伐採により現在は一目瞭然の状況。
凸下窯口烽火台(同山梨市)13時30分~14時20分
武田氏の烽火台のひとつで、麓からの比高差は約90mほど。
裏手の林道を利用したため、地形上は山城ではありますが尾根筋を下ってアプローチ。
郭下方の石積みについては年代不詳。
しかし石の加工状態、風化の程度、石組の特徴などからは400年以上前のものとは思えない節もあるような。
凸荻原氏屋敷(同山梨市)14時25分~14時30分
凸中牧城(同山梨市)14時40分~15時30分
主郭部分は一面の葡萄畑に変貌しております。
然し櫓台、郭、堀跡等の遺構からは、十分に往時の様子が想起されます。
富士山を始め甲斐の山並みの美しさも印象的。
凸十組屋敷(同甲州市)15時35分~15時40分
凸於曽屋敷(同甲州市)15時50分から16時15分
高さ4~5mの土塁が四方に残存する方形館。
その半分以上が公園化され程よく整備。
表記した所在地があっているかどうかさえもあやふやなレベルの低い管理人(汗)
今シーズン中に再訪すべく地道にコツコツと復習・予習に励まねば。
ご案内、ご同行いただいたお二人に感謝。
帰省の渋滞を避けるべく早朝の行動。
然し考えてみれば製造業関係は不況と相俟って資材・製品の運搬は終了済みのところも多いはず。
その分トラックの数は目に見えて少なく。
早朝の往路と、夕方の復路の所要時間に殆ど大差がなく(苦笑)
凸大日山城(茨城県竜ケ崎市 以下同様) 7時40分~9時05分
関係資料によれば残存遺構にはある程度の期待が。
竹藪も想定していたよりは遥かに状態がよく、巨大堀切部分を除けば踏査には全く支障なし。
とはいえ、本来のルートは途中から倒木と藪のため通行不能。
比高差は全体でも15mほどなので、頭上の腰郭を目指して直登。
幅20mを超える堀切も北側から眺める分には藪は気にならず。
主郭辺縁部の土塁も明確に残存。
西側2か所の櫓台も明瞭。
急傾斜地にも拘わらず腰郭、切岸も良好。
多分にがっしりと地中に根を張る竹林のお陰かとも。
寧ろ支障があったのは体調の方で。
早朝の冷え込みのためか途中から腹に来てしまったのであります。
コンビニの所在地を頭の中で反芻しつつ、最後の方には脂汗をかきながら撤退(苦汗)
凸登城山城 9時40分~10時40分
土橋を含む堀切、土塁、郭、腰郭、竪堀、小口とひととおりの遺構が現存。
とりわけ土橋と堀切・土塁が残る台地南部の状態は良好。
なお土塁状地形の一部は、寺院の境内という事情から庭園の要素も否定できず。
凸半田八幡神社 10時50分~11時00分
要害山城に赴くにあたり駐車スペースを探していたところ、駐車場と共に土塁発見(苦笑)
無論、時代背景は不詳で委細不明かと。
社殿の大きさに合わせて普請されていることから、恐らくは近世以降の神社境内の整備に伴うものかとも。
それにしてもとても良くできた土塁なのであります。
なお神社の正式な呼称は不明。
半田地区に所在する八幡神社ということから、便宜上名付けたものに過ぎません。
凸要害山城 11時05分~12時00分
資料によると遺構状況は良くないとの情報。
その当時よりもさらに年月を経ているので期待薄の城館跡。
加えて台地続きの部分は工場の敷地のため出入り不可。
それでも谷筋から竹林の斜面を攀じ登り、舌状台地先端付近で腰郭、土塁、土塁に囲まれた郭を確認。
またその郭の小口(小規模な枡形のようにも)と思われる地形も確認。
ついでに台地辺縁部に沿って藪の中を移動しつつ他の遺構探しを。
工場との間の大規模な溝状地形が存在。
攻城建設に伴う造成によるものとしても、郭側の切岸はどういう意味なのかが不明。
凸七曜城 12時30分~12時45分
真福寺境内の裏手の竹林の中に重量感のある土塁が残存。
竹林との境、隣家の裏手にも土塁らしい地形が存在。
尤も部分的な遺構のため城館の形態を想像するには情報不足かと。
凸宝泉寺城 13時00分~13時15分
寺院の周辺に方形土塁が残されているはず。
然し、すでに大半のものは墓地の増設に伴い消滅。
僅かに西辺の一部に土塁跡の名残が所在するのみ。
凸泉城 13時20分~13時50分
前の個所とは打って変わり、土塁遺構が各所に散在して目移りがするような始末。
集落の十字路に何気なく残るL字型の土塁。
竹林の中に隠れるようにして佇む土塁。
中には民家の風除けとして現在も活躍中のものも。
また、手元の資料には掲載されていなかった土塁状地形も。
L字型土塁の延長線上なので関連する遺構と考えても良さそうな印象。
この時点で日没までは残り2時間以上も。
少なくとも1か所は探訪可能な状況。
然し本日もまた一転びしており、自分の年齢等の事情を斟酌し...
というよりも孟宗竹、真竹、篠竹等々の竹藪に飽きたというのが真相であります(苦笑)
かくて遅い昼食を摂った後は、速やかに帰途についたのでありました。
毎回撮影画像を整理していて、今更のように気がついた共通点があり幾つかメモすることに。
先ず19ヶ所の中世城館の殆どが洪積台地の先端部(舌状台地)に所在。
低台地のため周辺の水田面との比高差は数mから最高でも20mの範囲。
近世以降に新田開拓された水田(かつての湖沼乃至は湿地帯)に三方が囲まれた地形。
植生は主に竹林(篠竹、笹藪を含む)
遺構消滅の経緯は宅地化・耕地化とは別に「土取り」が目立つこと。
こうした視点で小字名とあわせて電子国土の地形図と睨めっこをする日々。
するとそれらしい地形が次々と際限なく浮上。
かくして愈々更新が進捗しないのであります(苦笑)
単独行にしては珍しく午前4時半に自宅を出発。
国道16号線で柏市呼塚へと向い水戸街道経由で龍ヶ崎方面へ...と、ここまでは出だしは至って順調に推移。
ところが午前5時半という時間帯であるにも拘らず、明らかに16号線が渋滞気味。
またここで具合の悪いことに断続的な目眩が発症しはじめ。
さらには次第に意識の方も怪しくなり。
可能な限り注意を払いつつ、漸く龍ヶ崎市内まで辿り着いたのが到着予定時刻の午前6時50分。
市内のコンビニでおにぎり1個を購入し、常備のチョコレート菓子で糖分補給。
完全に体調が回復するまで駐車場で2時間ほどの仮眠。
このような事態を想定して厳冬期用の防寒着も常時車載。
原因は恐らく持病の鉄血清貧血+ここ数日の睡眠不足+昨日新調した遠近両用眼鏡等の影響なのかもしれず。
既に両親を見送ったとはいえ、こちらが見送られる立場となるには些か時期尚早..のはず(汗)
凸龍ヶ崎城(茨城県龍ヶ崎市、以下同様) 9時00分~10時30分
冒頭から2時間遅れという幸先の悪さ。
然もどちらかといえば目ぼしい遺構が少ないという訪問先。
行動予定が遅れたこともあり市役所に駐車。
尤も市役所に用のない場合には駐車禁止との掲示が。
今すぐ用はないことは紛れも無い事実。
然し後で確認したいこともあるので、路駐よりは迷惑がかからず許容範囲と解釈。
徒歩にて数百メートルほど東側の城跡が所在する丘陵へ。
城跡の大半は龍ヶ崎第二高校の校庭のため辺縁部の崖を除くとほぼ遺構は消滅に近く。
加えて東側に続く丘陵地帯は宅地造成により丘陵そのものが消失。
その場所から少し離れて郭跡とされる御嶽神社が所在する丘陵がポツンと残存するというような誠に寂しげな景観ではあります。
それでも「市史」に記されていた鹿島神社北辺の土塁遺構を捜索に。
神社裏側から丘陵辺縁部を辿ると確かに藪の中に、高さ1.2m、延長40mほどの土塁が明確に残存。
他にも笑い話の素材になりそうな紛らわしい地形も幾つか所在。
このあと麓の高校設立の経緯を記した石碑の情報の確認とあわせ遠景を撮影するため北西方向の龍ヶ崎第一高校へと移動。
凸伝・江戸崎氏館 10時40分~11時10分
龍ヶ崎城の北西500m付近に位置する丘陵で元々気に留めていた地形。
龍ヶ崎城の丘陵と向かい合う形で、標高はほぼ同程度のはず。
地形上の違いは崖線形状がより複雑で丘陵自体も1.6キロメートルと遥かに長大。
丘陵上に堀切を設置するにしても尾根筋が狭隘な地形が多く普請自体が極めて容易。
当時は周囲が湿原に囲まれていた点は同様。
防御の容易さという点に限定すれば、この地から龍ヶ崎城へと本拠地を移転する必然性が不明なほどの地形でありました。
無論、遺構は宅地開発、大学キャンパス、工場建設などに伴い皆無と推察。
なお、予想通り校門脇の個所からは龍ヶ崎市内が一望に俯瞰。
勿論、龍ヶ崎城もその全景を視野に収めることができました。
このあと、駐車場所に戻り予定通り市役所にて情報を入手。
お礼も兼ねて、近くの和菓子店にて地元の銘菓を購入。
偶にはこういう気を遣わないと閉門蟄居を言い渡されないとも限らないのであります(苦笑)
凸馴馬城 12時20分~13時20分
事前情報によれば目ぼしい遺構が少ないなどのため、ルートと所要時間の関係から本来は今回の訪城予定には含めず。
しかし諸々の事情が変わったために市立資料館へ立寄ったついでに訪問。
というか完全に隣接しているので立寄らないわけにもいかないという事情も。
それにしては約60分と長時間の滞在。
せっかくなのでこの際は散在している断片的な遺構等を全て踏査していたことによるものなのであります。
なお、あわせて城跡西側に隣接する重要文化財の多宝塔も見学。
凸羽原城 13時40分~15時05分
遺構所在地が南北500m、東西150mの範囲に3ヶ所にわたり分散しているという状況。
つまりは踏査に時間がかかることは必定。
最も北側に所在する新地方面は民家宅地裏側のため未確認。
中心部分に相当する城ノ内の西側土塁等はどうにか確認。
南側の丘陵先端部に所在する高さ4mの壮大な土塁遺構は道が分からず難渋するも取敢えずは確認。
これらの遺構について同時代の一体のものかは判断が難しく。
その残存遺構の断片的な状況からは何とも言いがたいという印象。
凸屋代城 15時20分~15時35分
資料館で土塁遺構が校門近くに残存しているとの情報を入手。
関連遺構については地表から全て消滅したと思い込んでいたこともあり俄かにテンションが向上。
昭和の終わり頃までは、城ノ内中学校およびニュータウン建設以前には数ヶ所に分散した土塁・堀跡が所在していたとのこと。
現在は調査報告書に記された北側の1号土塁と思われる遺構が保存されています。
この1か所だけとはいえ、高さ2mから3m、延長約45mの規模を有する土塁の存在は本日不調気味の体に確かな活力を与えてくれました。
凸外屋代城 15時40分~15時55分
屋代城の土塁のお蔭で勢いが戻り、日没間近の東隣の城ノ内小学校へ移動。
こちらは発掘により存在が確認された遺構が多く、折を伴った堀跡等も校舎・校庭の地中付近の模様。
このため実際には周囲から遠景を撮影するだけの作業と相成りました。
凸長峰城 16時05分~16時40分
西側に厚い雲があり、すでに事実上の日没時間。
とはいえ城跡は車で5分ほどの至近距離。
しかし都市公園化されいるという情報のため、遺構の位置確認に難航することも予想。
後日に順延という方法もなくはなく。
然し往復の所要時間5時間20分という事情を天秤にかけて調査敢行。
結果としては、まず全体の3割ほどに相当する南西部分は宅地開発のために消滅した模様。
一の谷と呼ばれる付近も工場が建設済みで残りの部分も造成が進行中。
確実に残存していそうなのが主郭とその北側の2段の腰郭付近。
その他には家臣団屋敷跡と推定される個所の段築、その西側に所在する帯郭、ほかに物見台城の盛り土が2か所というような具合でありました。
遊具設置、駐車場工事、芝生敷設等によりかなり元の地形が変貌している印象があります。
僅かな日没後の薄明かりを頼りにギリギリまで粘ってみたものの把握できたのはこの辺りまでという次第。
本来の予定では、このあと龍ヶ崎市、牛久市の図書館へと立寄り茨木県南の関係資料収集を徹底的に行う心積もり。
しかし朝方の体調不良という経緯もあり、途中で夕食を摂り大人しく往路をそのまま戻り速やかに帰宅したのでありました。