本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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鎌刈館(千葉県印旛村) 11時00分から12時40分

事前の情報でも、果たして中世城館と断定できるかどうかというような遺構。
下総にはこうした同様の遺構が少なくなく、今後の試金石とするために敢えて80m四方にも満たない方形遺構をじっくりと見学。
 

鎌刈館の不思議な土塁と空堀
鎌刈館の不思議な土塁と空堀


確かに郭と思われる土塁の内側に巨大な空堀が所在するという通常は理解しがたい縄張構造。
このほかにも郭の中心部の南北方向に空堀と土塁が存在し、さほど広くは無いと思われる郭を東西に分割。
あわせて郭自体の削平も極めて不十分でかなり凹凸の目立つ印象。
また台地上の遺構にしては、郭の狭さと比較して土塁、空堀の規模が大きすぎるようにも。
舌状台地における占地についても、防御が容易な台地先端部ではなく台地の基部に所在。
周辺の土塁遺構と関連した広大な集落の防御施設の一部、近世の牧などの諸説も首肯できるような印象も。

鎌刈館 
鎌刈館(細かすぎて見えない)


高田山城(千葉県印旛村) 13時20分から14時35分

鎌刈館からは直線で約1.2㎞離れた師戸川を挟んだ対岸の舌状台地先端部に所在。
ただし、間に視界を遮るものがほとんど何も無いとはいえ、鎌刈館が台地基部に所在することから互いに視認することは不可能な模様。
切り立った地形の台地先端部に所在することから、一見防御性は高そうに思えます。
しかし現状では思いのほか比高差が少なく、北側麓から頭上の腰郭を目指して這い上がればあっという間に主郭付近に到着。
麓から見上げたよりも郭内はある程度見通しも確保されています。
とはいえ多少藪に慣れていないと手や顔の擦り傷程度は不可避かと。
 

高田山城外郭の土塁と空堀
高田山城外郭の土塁と空堀

残蔵する遺構は、主郭と2郭の複郭構造。
ただし主郭部分の規模は小さくおよそ60m四方。
これに台地続き部分を2郭が西側と南側を取り巻く形の構造。
主郭部分の塁線折歪多用に比較して、遺構規模の大きな2郭の土塁・空堀遺構は一部に折歪と出枡が見られるものの全体的には直線的な構造。



こうしたことからこれらの遺構が同時期に普請されたものではなく、元来は単郭構造であったものを後に複郭とした可能性も指摘されているようです。
ただし残念なことに周辺では様々な開発行為が迫っており、この藪に隠れた素晴らしい遺構が何時まで存在できるのか不安を感じました。
 

高田山城
高田山城(やや手抜き)

 

米津出羽守屋敷(千葉県印旛村) 14時50分から15時45分

歴史的経緯も分からなければ、明確な所在地も不明。
このため遺構の詳細については全く不明。
にもかかわらず1時間近く当たりをつけた一帯を散策。
土塁や平場など気になる地形はあちこちに散見。
しかしそれが直ちに陣屋跡に関連するものかどうかは全く不明。
 

謎の土塁
謎の土塁

 


岩戸城(千葉県印旛村) 15時50分から16時05分

この時点で未だ本日の最低目標の半分(苦笑)
日没までの残り時間と西側の雲の厚さ等を考慮して足早に見学。
臨済宗西福寺の境内地なので、あれこれと場所を探すような手間は全くかからず。
寺院の入口から土塁そのものがすぐに目に入るという便利さ。
 

岩戸城の土塁
岩戸城の土塁


ご本尊の場所が分からないので摂りあえず寺院の建物の方に向かって参拝。
郭内からでも土塁の高さは3mを越える個所も所在。
遺構については土塁・空堀ともに北辺と東辺の状態が良好。
南辺も土塁については概ね残存。
空堀も土塁側で見かけ上は最高5mの深さを測ります。

岩戸城 
岩戸城(かなりの手抜き)

船戸城(千葉県印旛村) 16時20分から16時35分

こちらも所在地は直ちに判明。
住宅の裏側の台地が郭跡。
宅地化に伴いかなりの部分が消滅している模様。
 

船戸城の主郭と土塁
船戸城の主郭と土塁


それでも西側の空堀、北側の腰郭、主郭の出枡などは良好な状態で現存。
然しいよいよ日没までの時間が迫り始めたため、とっとと師戸城方面へと移動。
 

船戸城
船戸城(トースト2枚風に)

 
師戸城(千葉県印旛村) 16時40分から17時30分

本日最大の目玉となる城郭。
公園化されているので予め黄昏時の探訪を想定。
土曜日なので日中は家族連れなどで多少賑わうことが予想されたのであります。
外郭は駐車場、さらにその内側の広大な郭は野球場。
やはり日中に訪れなくて正解でありました。

公園整備されているものの郭塁線の折歪は美しく。
土塁上からの景観も予想以上。
ただし麓が宅地化されていることから城跡らしい遠景の撮影が難しく。
 

師戸城の土塁
師戸城の土塁

帰りがけに師戸城内を住処とする2匹のネコさんとお近づきに。
はじめは近寄ると一定距離を空けるという動作の繰り返し。
こんな時には鶉古城以来持ち歩いている「ネコのコリコリ餌」。
5粒ほど駐車場のアスファルトに置いてみたところ忽ち食餌モードに突入。


本日も早起きに失敗して自宅を出たのは午前8時20分。
前日の雨による足元の悪さ、予報には無かった朝方の強風、花粉症に伴うアレルギー性喘息...と理由はいくらでも(苦笑)
やはり気力の問題が一番大きいのかとも。

それでも最低目標としていた印旛村の踏査を概ね終了。
訪問3度目にして少しは本埜村、印旛村の地理が飲み込めてきた模様。
日没後には予定通り佐倉市立図書館で資料収集。
印旛村、旧山田町、旧下総町、成田市などについて、午後8時の閉館時間に間に合うように複写作業。
国道16号線経由で自宅へと帰りついた時刻は午後11時過ぎに。

元来より著しく更新作業が遅い管理人。
最近はこれに俯瞰図・概念図・縄張図には程遠い極めて主観的な悪戯書きを追加。
これがなかなかに時間がかかるのであります。
かくてますますサイトの更新作業は遅延していくのでありまする。

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荒野の土塁(千葉県本埜村) 8時00分から8時50分

荒野城山が本来の目的地。
「電子国土」上では、だいたいの所在地を把握。
ところが現地で当該推定地を間違え谷筋1本分東側の方を探索(汗)
山林に囲まれた畑の航空写真の資料と似通っていたのが間違いの元。

よくよく冷静に考えれば、谷津田からは見づらいとはいっても北総鉄道の車両基地の建物が予想とは異なる場所に見えていることにもっと早くに気付くべきで。
確かに見覚えのある県道65号佐倉印旛線まで辿り着いてから完全に間違えたことに気付くような始末(恥)

この間の所要時間は何と1時間近くも。
初っ端から貴重な時間に加えて、最近とみに欠乏気味の体力・気力を早々と喪失。

なお、たまたま県道沿いの平地林の中に土塁状の地形を確認。
高さはおよそ1.2m前後、延長は全体で15m前後。
3月上旬の落葉期であるにも拘らず、平地林の見通しはあまり芳しくはなく、ひっそりと埋もれるようにしておりました。
ただし農道により幅約3mほどが分断され、北側には建設会社の資材置場が隣接するという環境。
無論、その歴史的経緯等は全く不明なのであります。
 

荒野の土塁
荒野の土塁


荒野城山(千葉県本埜村) 9時00分から9時30分

1時間遅れの仕切りなおし。
今度は携行している関係資料に基づき、入念に地形確認を実施。
100%間違いの無い谷津田沿いの道も確認。
主谷から北西方向分岐する小さな谷筋も確認。

ただし孟宗竹、真竹、篠竹などが鬱蒼と生育する昼間でも薄暗い環境。
加えて雨天続きのために足元の状況は泥濘寸前。
所在すべき谷筋自体は確定していても遺構の具体的所在地は不明。

ここで竹薮突入モードへと転換。
すなわちゴーグル、ヘルメット、作業用手袋など一式を装着。
谷底より3mほど上の斜面へと這い上がり北西方向を目指して踏査を開始。
視界は密生する竹類のため最大でも10m前後。

時々腰をかがめて竹林内部を凝視。
ところが10分ほど経過しても、それらしい地形が見当たらず。
別途平地林の山道らしい地形は確認。
確かに50cmほどの段差も存在。

しかし、あくまでもかつて通行していたことによる地形であるらしいことは管理人さえも判別できるような代物。
このため北側崖線に沿って西側へと移動を開始。
とはいうものの竹薮と荊の障害物を迂回しながらの行動。
いくらもしない内に西側の資材置場へと到達。

地名としての「城山」の位置は明確。
今度はその場所から当初とは反対に谷底を東進。
すると左岸(北側、比高差2m弱)の斜面に、資料どおり馬蹄形の口を開けた土塁が出現。
何のことはなく先ほどの資材置場の南端部に隣接しているのでありました(笑)

規模はおよそ30m×40mの方形で南辺が開口。
高さは郭内で1mから1.5mほど。
北辺部分だけには二重土塁、二重堀のように思われる地形も存在。

「本埜の歴史」に掲載されているとおり、やはり中世城館関連遺構と即断するには資料不足の感も否めず。
郭内の規模の小ささと立地条件の問題(日当り劣悪)なども。
また、この地方に多い野牧との関連があるのかとも。
竹薮の踏査のためにかなり長い時間をかけていたように感じたものの、実際の所要時間は僅かに30分。
見通しの悪い薄暗い竹薮内では、方向感覚だけではなく時間の観念さえも危うくなるのでありました。
 

荒野城山
荒野城山


中根遺跡(千葉県本埜村) 10時00分から11時00分

先日訪れたばかりの中根城が所在する同じ丘陵地帯の南端。
前回はその地形の特徴から何となく気になりつつも、時間の関係上から踏査を見送った次第。
ところが地図等に記された集落内の道と現地の道路事情がいささか異なる模様。
忽ち方向感覚を喪失する管理人(汗)

しかし、視線の先の畑の端には明らかな土塁上地形が現存。
手持ちの資料を暫し眺めて位置関係等を特定。
南東側土塁の延長距離少なくとも80m前後の規模。
その実質的な高さも最大で3m以上の個所も存在。

北西側にも同様の土塁が恰も城壁の如くに屹立。
この方面に関しては切岸としての高さは5mから6mに及ぶような壮大な景観に。
土塁の外側には空堀も所在し結果的に堀上土塁となっている部分も。

また南側を中心として地元の方々の古い墓地と板碑も存在。
東側が畑として耕作するために森林が大きく切り開かれていることから陰鬱な印象は希薄。
とはいっても西側斜面の方は晴天の真昼でも相当に薄暗い森閑とした竹林。

予め携行していた一脚+手ぶれ補正レンズ+ASA400でどうにか撮影可能な明るさ。
なお北東方向の神社まで移動を敢行するも密生した竹林に前進阻まれて敢無く撤退。
結局踏査できたのは南西部分の土塁・空堀のみという結末に。
ただし、先に訪れた「荒野城山」よりも中世城館としての印象がより強く感じられるのでありました。
 

中根遺跡
中根遺跡


城ノ内城(千葉県印旛村) 11時20分から12時00分  

城跡遺構が地元の方々の民家宅地に混在。
このため北側の土塁遺構を拝見するに当たり、まずは長屋門のある旧家のお宅にご挨拶を。
こちらの宅地の裏山に刻まれた金比羅様の祠への道を通していただくことに。
祠が所在する個所がそのまま細長い腰郭。
その4mほど上に「コの字」型をした土塁と平場、堀跡などがまとまって存在。
しかしその先はまた別のお宅の敷地内に。

明確な中世城館関連遺構はおそらく舌状台地北端部に集中している様子。
ほかには南西側の八坂神社境内・消防団車庫の個所から続く切通しとなった急傾斜の坂道地形が堀切の様にも見えるのでありました。
ただこうした地形は舌状台地の多いこの地域には、生活上の利便性から少なからず散在。
こうした事情を考慮しますと、一概には断定できかねるもののようです。
 

城ノ内城
城ノ内城


吉高城(千葉県印旛村) 12時15分から13時30分

事前に収集した資料等の情報によれば、かつての「土取り」により概ね消失したといわれている城跡。
壮大かつ良好な状態の遺構を目にすることも中世城館探訪の目的のひとつ。
一方失われてしまったとされる城館跡を訪れて、そこに何らかの微かな痕跡を辿ることにも別の趣を感じるのであります。

もっともこちらの場合には、肝心の城跡の範囲が良く分からないという大きな問題が(笑)
さてとりあえずは国道464号線沿いの元舌状台地先端部分西側から捜索開始。
東側には土取り後に新たに植林された平坦地が広々と広がっております。
しかし、この部分はどうやら城域からは外れている模様。

そうは思っても、何とか台地が残存している東側の部分を踏査。
このとき遠近両用の死角とも言うべき個所で、左足の太腿に竹を伐採した古枝が接触。
より正確に表現すれば竹の枝が刺さり、おまけにやや大型の有刺植物の棘までも(苦笑)
無論かような場合に備えて、消毒液と傷薬は常時携行。

一方、この場所での肝心の遺構に繋がりそうな地形は皆無。
自然地形の地山の尾根筋を確認したのみ。
それでも竹林に覆われた舌状台地先端部の地形が妙に気になり、竹林内の小さな石祠の参道経由で急崖の先端部を登攀。
すると2段に別れた腰郭状の人工地形に遭遇。
僅かに残されている台地の残滓とはいえ、土取りの行なわれなかったと目される部分ではあります。

次に最も東側の舌状台地方面へ。
先端部は下から見上げた限りでは腰郭などの人工地形は確認出来ず。
そのあとは宗像神社へと向かう緩やかな坂道を南進。
右手には笹薮などに覆われた低台地の稜線が、その部分へと向かう農道とともに出現。
もちろんその笹薮へと向かうことに。
稜線は西側の土取の影響のために著しく幅が狭められた状態に変形。
ただし地形状からは土塁と表現すべきような延長およそ40mほどの地形が存在。
しかし、その南側の宗像神社へ向かうべき尾根筋は台地ごと消失。

国道464号線から200mほど南西に所在する旧吉高村社の宗像神社には神社に多く見ることのできる境内地を囲む土塁が。
また、宗像神社北東の台地上からは印旛沼北側の景観が一望。
やや霞んでいるものの名峰「筑波山」も一望。
城ノ内城にてコンビニ購入のオニギリを食べてしまったことに後悔するほどの絶景なのでありました。
 

吉高城
吉高城


松虫陣屋北東(千葉県印旛村) 14時00分から14時30分

今回、踏査するかどうの判断を迷った個所。
千葉県教育委員会が行なった悉皆調査によれば「松虫陣屋」は舌状台地北東先端部としか想定できない縄張りに関する記述と概念図が掲載。
ところが、より調査が新しいと考えられる遠山成一氏が作成された松虫陣屋跡に関する解説と縄張図では台地の基部に存在していることを明記。
勿論、単郭構造である事を除くと各々は全く異なる縄張りを有する城館跡。
つまりは、同じ台地上の両端部に別々の形態をした2つの「松虫陣屋」が存在しているということになるのであります。

無論現実にはそのようなことは考えられず、おそらくは千葉県教育委員会の悉皆調査時の掲載に当り何らかの齟齬を生じたものと解釈することが妥当なのかも知れません。
しかしそうは言っても、現実にこの目で確かめてみないことには何とも言えず。
かくて松虫陣屋が所在する舌状台地の縦断踏査をしてみることとなったような次第。

まず台地北東先端部に何らかの遺構が存在すると仮定。
台地の北側に刻まれた切通し状の山道から稜線へ。
次に東側の主に篠竹に覆われた台地先端部を東西方向(約100m)と南北方向(約60m)を夫々一度ずつ踏査を実施。
つまりは崖線先端部には合計で3回ほど到達したことに。

然し結果としては、当初の予想通り踏査は空振り。
すなわち少なくともこの舌状台地の北東部の地表には、中世城館に関連すると思われるような人工地形は現存していないことが判明。
視界が遮られた藪の中を歩いているので随分と長時間を要したように錯覚しますが、この間に要した時間は僅かに30分なのでありました。
 

松虫陣屋北東
松虫陣屋北東


松虫陣屋(千葉県印旛村) 14時40分から16時30分

一度南東側麓の道路の様子を確認するため斜面を駆け下り、再び少し以前までは切通しとして使用されていた廃道を這い上がり稜線へ。
さてこの堀切状地形を含めてこの舌状台地には少なくとも4本の溝が刻まれていることが判明。
うち最も遺構として確実なものは一番南西側の土塁に伴う堀切。
次にその形状から関わりが深そうに思えるのが、その東側の掘り上による低土塁を伴うように見える台地を横断するやや浅めの溝。
その北東側の溝となるとV字型の掘削跡が鮮やか過ぎるように思われ、一番北東側の溝についても同様。
この2か所の溝については、仮に歴史的経緯が古いものであるとしても後世にかなりの改変を受けているという印象が残ります。

肝心の松虫陣屋の遺構は「北総鉄道」の成田までの延伸工事ルートにかかっていたため、ほぼ南側を中心に1/3ほどが側道建設などのために消失。
それでも北東側の小口・櫓台跡などを伴う土塁・空堀と腰郭は思いのほか良好な状態で現存しておりました。
また北西部の土塁の折も明確に残存し、何度と無くデジカメ撮影。
しかしこれがなかなか肉眼で見えるような状態とは程遠く(苦笑)
下りは防護フェンス沿いに降下し、工事により無残に削り取られてしまった後の人工的な斜面とともに松虫陣屋の全景を心行くまで撮影。
僅か距離にして500mに満たない低台地の縦断でしたが、思わぬ地形との遭遇などもあり十分に楽しめたのでありました。
 

松虫陣屋
松虫陣屋

今後そう何度も訪れる機会も無いものと思われることから、この後は体力・気力の続く限り松虫寺の周辺を徘徊を...いや踏査を実施。
その用途、時代背景は不明としても他にも土塁、堀跡などと思われる地形が各所に散見される状況を確認。


本日は午前5時15分に自宅を出発。
自宅へと帰りついたのは午後9時5分過ぎ。
その後いつものように画像整理を優先して、城館別のフォルダに分類した上で画像補正。
時計の針が翌日に近づく前に就寝。
かくてブログの記述は翌日まわしに。
というような経過で、今回も悪戯に長文なブログを綴っておりまする。
なお最近の傾向としては「城館紛い」遺構の方が、どうしても異常に盛り上がってしまうことに気付いたような次第なのでありました(爆)

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中野城(群馬県邑楽町) 7時05分から7時10分

今月7日に続く再訪。
足利方面へ向かう通りがかりなので、ついでに立寄ったまで。


鳩ノ峰城(栃木県佐野市・足利市) 8時00分から9時50分 比高差240m

今回の山城3連発にあたっていくつかのルートを想定。
まず北側のハイキングコースとなっている塩坂峠経由で尾根筋伝いに迂回する方法。
難点は尾根筋を歩く距離が長くなること。
次に樺崎城-赤見駒場城-鳩ノ峰城とアップダウンを繰り返して高度を上げていく方法。
この難点は樺崎城を登るにあたり、ほぼ山道のないルートを進むこと。
これに加えてアップダウンが些か激しいこと。

というような次第で、樺崎城北側の集落から谷筋の道を辿り鳩ノ峰を目指すことに。
予想よりも谷の奥の方まで歩きやすい道が存在。
しかし谷筋の左岸にわたった辺りからは次第に山道そのものに。
「電子国土」では、山頂の西側の急斜面を這い上がるというとんでもないルートが記載。
しかも谷筋から見上げた限りでは、足元軟弱+掴まる樹木僅少という様相。
高度計は残り約50m前後を表示。
等高線の本数・密度を比較する限りでは、このまま谷筋を直登する方が妥当と判断。

とはいえ登りに弱い管理人。
3歩進んで一休み...
5歩進んで水分補給...
また2歩進んで高度計確認...
というような醜態を露呈しつつ漸く標高280m前後の稜線へと到達(ハアハア、ゼイゼイ)

小休止後、山頂北側直下の谷頭部分に2段の平場を確認。
北西の季節風を防ぐ絶好のポイント。
然も水の手の確保も可能と推定される地形。
この地形等のみからその時代背景を推定することは余りに無謀とは思うものの、物見のための番小屋を設置するには絶好の環境かとも。
 

鳩ノ峰城
鳩ノ峰城山頂の平場

山頂は2段の平場状に削平。
無論、神社境内の整備に伴うものとの区別がつく訳も無く(汗)
鳩ノ峰城南西側の痩岩尾根下りは樹木も少なく思いのほかの急降下。
平面距離100mに対して約70mの降下。
つまりは平均斜度は約37度。
加えてこの日は西寄りの10m前後の強風が吹き荒れる天候。
元々はハイキングコースのため、3ヶ所の難所には補助ロープが設置されておりました。


赤見駒場城(栃木県佐野市・足利市) 10時35分から12時30分 比高差165m(尾根伝いから約15m)

鳩ノ峰からは直線距離にして約800mほどで、途中3ヶ所ばかりの小ピークをアップダウン。
むむっ、どことなく低山ハイキングのブログのような趣に...(苦笑)
この間に「疑問符付の堀切状地形が2か所」、「ある低度確実視される堀切が1か所」ばかり所在。
取敢えずデータベースに記載されていた堀切というのは、恐らくはこれのことかと納得を。

主尾根の堀切
鳩ノ峰から続く主尾根の堀切

さて下調べでは堀切の存在場所として、登って来た尾根続き以外には4本の稜線を想定。
先ず手始めに東側に約200mほどのびる比較的平坦な地形の尾根筋から踏査開始。
すると50mも進まぬうちに何と二重堀切に遭遇。
30mほど先にも、竪堀を伴うもうひとつの堀切が。
さらに稜線の括れた個所にももうひとつ。
以上3ヶ所、4条からなる堀切群がこの尾根筋を防御しておりました。
 

支尾根西側の二重堀切
支尾根西側の二重堀切

 中間部の堀切
中間部の堀切

東端の郭西側の堀切
東端の郭西側の堀切


稜線の南北は概ね切り立った斜面で登攀困難。
そして尾根筋先端部には見事なまでに削平され先端部が幾分広がった台形状の郭状の地形さえも存在。
さして著名ではないというよりも、寧ろ殆ど無名に近い山城。
無名に近いこうした城館跡で、このような堀切群に遭遇できるとは夢にも思わず。
儀一殿の慧眼に敬服。
 

稜線東端の郭
稜線東端の郭

郭の先端部からは佐野氏西方拠点の赤見城方面が一望に。
戦国時代の一時期、佐野領に睨みを効かせていた足利長尾氏にとっては、東方地域の重要な最前線拠点であったのかもしれません。
 

赤見城(佐野)方面
赤見城(佐野)方面

  
樺崎城(栃木県足利市) 12時30分から13時40分 比高差約150m(東尾根伝いから約40m)
東側の赤見駒城の尾根筋からは90mほどの降下。
樺崎城山頂までの山道は思いのほか荒れておらずルートも明瞭。
主郭および周辺の帯郭、腰郭群も概ね良好に残存。
なお堀切状地形は少なくとも北東尾根筋と南東稜線続きには確認できず。
 

樺崎城主郭
樺崎城主郭

下山は予定通りに北麓目指してまっしぐら。
つまりは直降モード。
麓を流れる2本の谷川も勢いに任せて難なく渡河。
登りの時には、からきし弱い管理人。
しかし下りならば絶好調(苦笑)
珍しく今回は枯葉の斜面で滑るようなこともなく、前々回から供用開始した新しい靴の効果も確認。

 
稲荷山城(栃木県足利市) 14時50分から15時40分 比高差約50m
北西の中腹には稲荷神社が所在し、神社境内を経由して城跡へ。
縄張は北端の主郭、その南側の二の郭までは明瞭。
さらにその南側の幅広い堀跡状(片堀切状)の地形を経て北側に低土塁を有する比較的細長い形状の郭が続いている模様。
また主郭、二の郭の直下には南側を除いて帯郭が巡り、東側の山腹には3段ほどの腰郭も現存。
このほか丘陵北西麓には僅かに土塁・堀跡の痕跡と思われる地形も残存。
 

推定3の郭北側の土塁
推定3の郭北側の土塁

城跡が所在する丘陵全体は西側を除き城郭としては斜面の傾斜が緩やか。
仮に戦国期足利長尾氏によるものと仮定すると、東側小河川が所在するとしても敵対する佐野氏側に対する備えとしてはやや不十分な印象も拭えません。


尻無山城(栃木県足利市) 16時00分から16時30分 比高差約20m
掲載されているサイトを拝見する限りでは、明確な遺構が期待できないという足利市街地内の城館跡。
このため期待感は探訪する前から幾分沈みがちで。

北東側は公園化。
南側は宅地化。
それでも公園内にはそれなりに腰郭状の地形が存在。
しかし公園化に伴う地形変更との区別がつきかねます。
木立の間には幾つかの小規模な群集墳も所在。
なお公園以外の部分は、全体として篠竹の藪が目立ち地表部分の確認は概ね困難でした。


小平城(栃木県佐野市) 16時50分から17時00分 比高差0m
2008年11月に訪れた際には、竹林が伐採されて殆ど土塁遺構が剥きだしに。
その後の形質変更等の状況が気にかかるという点で衆議一致。
早速、黄昏迫るなかを数キロメートル東の佐野方面まで移動。
到着したのは既に山入端に太陽が隠れ始めた日没間近の時刻。
夕日を浴びたL字型の土塁、深さ約5mを測る城館遺構は概ね3ヶ月前と変わらずに健在ぶりを誇示。
 

健在だった小平城の土塁
健在だった小平城の土塁


この日は山城3ヶ所+低丘陵の城館2か所+平地の城館2か所の計7ヶ所のみ。
探訪した件数は少ないものの、赤見駒場城の予想だにしない堀切遺構との遭遇は正しく衝撃的。
足回りに心地よい疲労感を感じつつ帰途に着いたのでありました。
単独ではなかなか遂行することが困難な探訪。
先月に続き同行、ご案内いただいた儀一殿に心より感謝。

 

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中根砦(千葉県印旛郡本埜村)12時30分から13時40分

具体的な所在地はあくまでも推定。
遺構の残存状況については既に20年前の情報。
加えて何よりも土地勘が皆無。
従って唯一の頼りは県別マップルと事前に掻き集めた手持ちの関係資料のみという寂しさ。

机上の調査からは北側の沖積平野へと細長く伸びた舌状台地先端部であることだけは確実。
しかし肝心の舌状台地自体を特定するのが難しく。
何といっても周囲にはそれらしい舌状台地が文字通り山ほど所在。
時々あてにしている「奈良文化財研究所の文化財データベース」もたまに??の場合も。

それでも何とか漸く車1台が通行できる細道を上り、事前に当たりをつけておいた台地の根元部分へと無事到着。
次に道路の形状、墓地と戦没者慰霊塔の所在地等から北へと進むべき丘陵を特定。
農道のような道のため徒歩にて200mばかり北進(⇒より正確には北北東)
台地は先端に行くほど幅が縮小しているので城郭跡としての確信は深化。
試しに台地の東辺縁部に赴くと明らかな腰郭状地形が出現。

さて、郭の台地続き以外の三方には幅の広い帯郭が付属。
東側の一段下には腰郭状地形も確認。
西側の帯郭の一部には土塁が残されて横堀(構堀)の形態にも。
主郭の土塁は北と西の部分に高さ1.5mほどで比較的良好に残存。
 

中根砦
中根砦

東側腰郭状の地形の評価によっては、単郭と見るか複郭と見るかの判断が分かれる可能性もりそうな。
現在のルートとしては南側からの農道に加えて、東側斜面に刻まれた山道と北側先端部に付けられたものが確認。
この内北側のものは、後世の耕作などのために刻まれたものかも知れず。
すると所謂大手は台地続きの農道の部分で、一方搦手は台地東側の比較的目立たない腰郭的な帯郭により防御されたルートなのかとも。


笠神城(同上)14時00分から15時40分

神社と寺院の境内ということなので、遺構が見やすいと思ったのが大間違い。
南方の神社側の遺構については、境内付近を除くと倒木・潅木・竹林が思いのほか濃密に成長。
視界は確保できるものの郭同士を繋ぐ土橋状の地形も凝視しないと判別不能。

見せ場ともいうべき墓地南側の大規模な堀切も伐採された大量の孟宗竹に半ば埋まっているという印象も。
不動堂?の堂宇から北側の主郭へのルートは、堀切(+後世の切通し?)により深さ7mの断崖となって完全に分断。
両手が開いてさえいれば斜度50度ほどの斜面なので攀じ登れなくも無いのでありますが、足回りの弱体化に加えて事実上両手が塞がった状態のため暫く登る場所を捜索。

結局東側に伸びた小さな尾根筋に取り付いて潅木が生い茂る中を西進することと決定。
ところが途中から足元には伐採された年代物の孟宗竹が大量に敷設。
つまりは一歩歩くたびに踏み抜くという至る所に陥穽が隠されている状態。
直線にしてたかだか120mほどの距離を進むのに10分近くを要するというおまけ付き。
 

笠神城
笠神城

それでも肉体的被害は荊の棘による長さ5cmの引っかき傷1か所のみ。
勿論、孟宗竹の踏み抜きに伴う転倒は数回ほど。
土塁と小口の状態を確認したいがための行動ではありましたが、肝心の主郭一帯は2月という季節にも拘らず常緑の植物が元気に繁殖。
このため期待された土塁もデジカメ画像としては成立せず。
帰路はそのまま北側の比高差25mほどの斜面を滑り降りて、この方面からの登攀が概ね不可能なことを身をもって実証。

帰りがけに本埜村役場へと立寄り、「本埜の歴史」(2008年刊行、頒布価格1400円)を購入。
同書には中根城で急遽書く羽目に陥った自作の縄張図(概念図)とほぼ同様の縄張図が掲載されておりました。
これを徒労と捉えて悲しむべきか、概ね一致していたという結果について満足すべきなのか(笑)


このたび漸く千葉県北部へと進出。
この辺りは今までにも別件で2度ばかり訪れてはおります。
しかし2度とも道を間違えて現在位置が不明となったという余り思い出したくない体験が(汗)

今回は道こそ誤ることが無かったものの、途中国道464号線の道路工事に伴う渋滞により大幅に現地到着が遅延。
加えて出かけた時刻も午前9時20分と遅く、実際に訪れることのできた城館跡は僅かに2か所。
尤も通過したというだけならば、帰りがけに佐津山城(鎌ケ谷市)-高柳谷中台城(柏市、以下同様)-高柳城-殿山城-大井追花城-戸張城-高田城7ヶ所について暗闇の中をほぼ縦断しております(苦笑)

自宅からの道程そのものは片道で100kmほど。
但し外郭環状線を利用しても概ね片道3時間程度を覚悟。
国道16号線経由も走行距離が長くなるだけで、余り往復時間の短縮には結びつかず。

未明の出発というのもボチボチ体力的に厳しい状況。
午前中はどうにかなるものの、確実に午後にはどっと疲れが。
次回以降どのようなルートを採用するかが今後の大きな課題のひとつかと。

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今月2日の筋肉疲労が癒えないままに、性懲りも無く再び山城を目指す管理人。
「筋肉疲労には適度の運動が相応しい」というかつての経験則がこの歳で最早通用するのかどうかは全く不明。
なお本日は同年代の同行者が1名。
午前6時に集合して、早くも3度目となる足利市へ向かうべく北上を開始。


伝・安達盛長館跡(埼玉県鴻巣市)7時05分から7時15分

武蔵水路北上ルートの起点に所在することから、2005年11月以来となる3年足掛け4年ぶりの再訪。
多分に伝承地としての色合いが濃く、同音の足立氏と混同された可能性もあるとされ、館跡としては糠田氏との関連が示唆されていたような記憶が。


鶉小城(群馬県邑楽町)7時55分から8時25分

個人的には城を見るよりもネコに逢いに来たのかも。
清潔な公衆トイレもあり極めて有用な中継地点であります。
少量のドライタイプの餌も前日から用意するという周到さで(笑)
さて数匹のネコは、飼猫なのか栄養状態・毛並みともに良好な様子。
生後1歳未満と思われる3匹のネコさんとお近づきに(嬉)
あ、勿論白鳥などが飛翔する姿も観察。
 

鶉小城のネコさん
鶉小城のネコさん


小俣館(栃木県足利市)9時10分から9時40分

2か所ばかりのんびりと寄り道をしていたので約1時間遅れのスタート。
かつて足利氏庶流小俣氏が代々別当を勤めていたといわれる鶏足寺の南側平地に所在。
山崎一氏が40年前に調査された縄張図には土塁跡等の残滓が記されております。
無論40年間の歳月の流れはその痕跡を消し去るに余りあるものがあったようでございました。
なお、「栃木県中世城館報告書」に記されている推定地と山崎氏の縄張図に記された所在地には微妙なズレがあるようにも思われます。
また、鶏足寺を中心とする一帯には中世寺院跡に関連すると思われるような平場、土塁などの地形も残存しておりました。
 

小俣館
小俣館


小俣城(同上)9時50分から13時45分

今回の最低限の目標、かつ本日の目玉。
登り口は概ね把握済み。
予定通り小俣川にかかる宝珠坊橋の手前の川沿いの東側尾根筋麓から登攀を開始。
道は概ね良好とはいえ、比高差約70mと推定される尾根筋の肩までいきなりの直登。
早くも弱体化の一途を辿る心配機能と足回りに過重な負荷がひしひしと。
 

小俣城の登り口のひとつ
小俣城の登り口のひとつ

それでもどうにか無事に露岩の目立つ稜線部分へと到達。
休みがてら所々にマーキングをしてきたこともあり、この間の所要時間は約30分ほど。
眺望は概して素晴らしく、萎えた気力の回復には正に好都合。
途中2、3か所の人工的な削平を匂わせる尾根筋上の平場地形が所在する尾根筋を緩やかに登りつつ北進。
この辺りからは北西方向に所在する小俣城主郭が一望に。
 

小俣城
小俣城


風も無く穏かな日和で、地要望に優れた快適な稜線歩き。
ん、どことなく低山ハイキングのブログのような趣に...(苦笑)

その後緩やかに登りが続き、やがて主郭東側の2の郭へと到達。
石積みの残滓と思われるようなやや大き目の石が尾根筋上に散乱。
なおこの地点には北側からの尾根筋経由と思われるハイキングルートが合流しております。
従ってここからは、半ばハイキングルートのようなもの。
これがハイキングならば西側の山頂目指してまっしぐら。
まさに時刻も昼時、山頂で腰を下ろして握り飯を...

小俣城の主郭(東側から西方向を撮影)
小俣城の主郭(東側から西方向を撮影)

とはいえ一応は山城探訪なのであります。
途中の2か所の堀切と複数の雛壇状の腰郭等の遺構を入念に撮影。
 

主郭近くの堀切
主郭近くの堀切


主郭小口、腰郭基部等の石積み遺構も時間をかけて観察。
年代背景は不明ですが、人工的な石積みに相違ないであろうことを確認。
このほかにも些か判断に迷う石積みも残存。
 

主郭手前腰郭の石積み
主郭手前腰郭の石積み


主郭直下のほぼ全周する帯郭、北側と西側の腰郭群も概ね踏査を完了。
比高210mのところ、腰郭等の踏査のため上り下りしたので実質的には300m前後かと。
 

主郭直下の帯郭
主郭直下の帯郭

主郭北尾根の腰郭のひとつ
主郭北尾根の腰郭のひとつ


以上平面上では僅かに道程1.5kmの行程。
若い世代の方が効率よく回れば、上り1時間、下り40分、調査40分の合計2時間20分程度かとも。
このあと時間と体力があれば、松田湯ノ沢城へと向かう算段も用意。
けれども共に還暦間近の年代ゆえに、山城の城館探訪はここまでに。
いそいそとばかりに足利市内にての昼食に赴くのでありました(汗)


八椚城(同上) 15時00分から15時20分

城郭大系に掲載されている旧家の付近がかつての城跡と推定される一帯らしく。
せっかくなので、周辺の道路に沿って城跡周囲の一周を。
城跡を東西に走る南北の道筋には、その形状から堀跡らしい名残が感じられます。
また水田面からはおよそ高さ1m前後に盛土された宅地にも同様の印象があります。
とはいえ宅地化が進む現状ではこれ以上のものは望めないようです。

城跡遺構かどうかは不詳な地形
城跡遺構かどうかは不詳な地形


川崎城(同上) 15時30分から15時40分

「栃木県誌」によれば小野寺氏の一族の居城跡(小野寺支城址とも)記されております。
明治期の終わり頃までは土塁と堀跡が残存していたとも。
さて推定所在地は渡良瀬川左岸の河川敷。
さらに現況はゴルフの打放し練習場で。
作業車がもうもうと埃を上げて河川敷の中を走り回る姿がとても印象的で...
遺構が完全消滅していることは承知の上でしたが、どう見ても数合わせのような本日の締めくくりとなりました。

川崎城
面影のない川崎城
 

以上本日は再訪2か所、新規4か所(ただし上げ底含む)
足が、足が..などとならないうちに早々と撤収してしまう2名からなる高齢者予備軍の足利市内低山陽だまりハイキングなのでありました。
筋肉疲労は予想通り幾分復調傾向にある模様。
このパターンを3日おきくらいで繰り返せば筋力の鍛錬にもなるはずではありますが、諸々の所用のため次回はどれほど早くとも1週間先に。

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