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そう思い込んでいたのは大きな勘違いらしく。
今年1月からの通算では僅かに6度のみ。
にも拘らず凡その地理関係を把握したという誤解を生じていた模様。
こうした成り行きから、今年冬季の城館探訪-千葉方面のミッション-に一区切りつけるべく沿線の手近な城館跡の探訪を企図。
凸小野田城(船橋市) 8時25分から10時20分
はじめに城跡南端付近の祖師堂裏から時計回りに安房神社の台地まで外周部をほぼ一周。
県教委による調査報告では残存遺構は部分的との記述。
実際に回ってみたところでは、特に西側を中心に比較的良好に残されているという印象。
無論、この地域特有の竹林のなかにひっそりと隠れてはおります。
なお神社北側の切立った台地の崖線が当時のままのものかどうかはやや疑問も。
しかし全体として中世城館としての景観を伝えているものと思われます。
周辺の宅地化、耕地化等のため全体の縄張りが把握しづらいところも。
なお遺構現存個所は全体の東寄りの部分であることについては概ね確実。
城跡全体として当該台地の形状から想定する限りでは、諏訪神社近くの谷津方面まで広がっていたという見解もほぼ妥当性があるものと思われました。
「小野田城」のカナ読みは「こだのじょう」とのこと。
国道16号線から僅か300mほどの距離に所在していることを思えば、遺構の残存状況としては正しく奇跡的とも。
凸金堀城(同上) 10時50分から11時25分
読み方は「かねほりじょう」とのこと。
主郭部の大規模な削平に伴い、東辺から北辺にかけて僅かに土塁と堀底道(空堀跡)が残存。
それでも北辺の堀底道から見上げた崖線の高さには瞠目するものが。
またこの城館も台地続きの外部よりも郭内の方が明らかに低いという特徴を見出すことができます。
なお東辺土塁の一部に櫓台跡のようにも見える高まりも見受けられます。
無論、あくまでも限りなく願望に近いものが。
帰り際、農道脇にてオオイヌフグリとヒメオドリコソウの近接撮影を。
凸吉橋城(八千代市) 11時55分から12時50分
さほどの期待をもって臨んだわけでもなかったことから、下記画像の壮大な二重土塁との遭遇には率直に感動。
また郭内にひっそりと設置された城跡の石碑の存在にも感動。
その傍らでゲートボールに興じるお年寄りのグループとの取り合わせもなかなか対照的で味わい深く。
「城郭大系」等では貞福寺境内を主郭と推定していますが、二重土塁や竪堀、坂小口、切岸等が良好に残されている2の郭を主郭と見る見解に賛同。
凸尾崎城(同上) 13時00分から13時25分
県教委の報告書では「尾崎城」で、それ以外では「尾崎館」との呼称。
吉橋城と一体と見る見解が有力な模様ですが、川を隔てていることを考慮すると仮に年代としての同一性があったとしても機能としての同一性については疑問の余地があるようにも思われます。
一般には方形館であったことが想定。
しかしかつて転用されたという現状の地形からはその面影は希薄なものが。
全体としての縄張りも把握しづらく、消化不良のまま次の目的地へと移動。
なお北側土塁の堀跡への張出し部分は、内部を観察するには絶好のロケーション。
しかし廃棄された野菜などのために極めて地盤軟弱。
まさしく要注意であります。
因みに管理人は20cmほど沈下(爆)
従って堀跡の窪みに直接降りることは避けた方が賢明かとも。
凸米本城(同上) 14時00分から15時40分
遺構の南半分は高度成長期の土取りによりほぼ消滅。
それでも北側部分と消滅した南側部分の東端には城郭遺構が残存。
とりわけ城跡南東に細長く残された土塁、切岸部分には最大25m前後の比高差も加わり絶景。
土塁幅が実質1mほどの個所もあることから、高所恐怖症の傾向がある場合には探訪不可かとも。
また消滅以前の景観が残されている壮大な空堀跡も必見。
堀幅は下記の画像のように余りに広すぎて目測困難。
なお宅地に近い部分には独立した郭がほぼ完全に残存。
北側には埋まりかけてはいるものの土橋に隔てられた空堀が現存。
南側には小口と櫓台(推定)地形も現存。
凸正覚院館(同上) 15時50分から16時25分
現存する遺構は寺院の墓域の拡張に伴い漸次消滅している模様。
資料と照合した限りでは、土塁遺構として残存している部分は北側のごく一部と参道の脇の一部分。
ところが、これとてもかなり不鮮明という印象。
日照時間が延びて、日没までは未だ十分なゆとりが。
しかし生憎と西側には分厚い雲がかかり日差しを遮断。
このため西側山林の中に所在するはずの堀跡の確認には至らず。
当初は八千代市から佐倉市西部へと移動して探訪を継続する予定。
然しここで低気圧接近を予知する軽い頭痛。
西の空にかかる厚い雲の存在。
疲労による足元の覚束無さ。
以上を勘案して予定の切り上げ。
まず近くのスーパーいずみやにて夕食(かつ重480円)を購入。
本日もまた、さしたる理由もなく朝食から2食抜き。
スーパーの駐車場の車中で3食分をまとめた食事を。
このあとは彼岸のために渋滞する成田街道、県道57号線を経由して鎌ヶ谷市の図書館へ。
予想通りの大渋滞のために、通常の倍近くの所要時間。
鎌ヶ谷市立図書館はこの周辺の図書館の中では閉館時間が遅いのが有難く。
加えて参考図書類も充実。
30分ほどで船橋市、八千代市、旧沼南町の自治体史を閲覧の上複写。
自宅への帰還は午後10時12分。
本日も往復所要時間はおよそ6時間で想定の範囲。
但しこれとは別に、八千代市から鎌ヶ谷市までの移動時間が何と1時間30分(苦笑)
凸立城(印旛村) 10時35分から11時30分
城館としての伝承が残り、たまたま当地にお住まいの方より当該伝承等を伺うことに。
竹林に覆われていた延長40mほどの土塁も、その伐採により明確な姿に。
小口、堀跡、切岸、その他の低土塁も残存。
ただし西から北側にかけて台地辺縁部に存在する溝は純度100%表示の畑の根切溝(笑)
出典は「印旛村史」より。
県教委の悉皆調査からは先の鎌刈館を含めると計3か所の中世城館(類似遺構)が除外されていたという次第。
凸ジョウビヨ(印旛村) 11時35分から13時00分
こちらも出典は「印旛村史」より。
郭内の地面が郭外の地表と比べて3mから4m低いという不可思議な遺構。
もののついでに、「印旛村史」では土塁の位置について、北と東に残存すると記述。
その記述を元に探索したところでは、まず北と西にかなり湾曲して残存。
さらに複郭の跡のような地形も確認。
城館跡と断定できる確実な決め手には欠ける状況。
したがってデジカメ画像よりも俯瞰図で。
それにしてもどのような字を宛てるべきか全く見当がつかず。
凸瀬戸浅間神社(印旛村) 14時00分から14時30分
浅間神社の裏山が気になる地形。
伝承、地名を含めて城館に関係する歴史的な要素は皆無。
あくまでも地形。
ただひたすらに印旛沼方向に張り出した地形というだけの拘り(苦笑)
一応2か所の平場を確認。
部分的には腰郭状地形に見えなくもないような。
全体としてはどう見ても丘陵尾根筋の緩斜面かと(爆)
凸師戸金比羅神社(印旛村) 14時40分から14時50分
印旛村内で当たりを付けた個所は10か所以上。
これもその一つ。
船着場には相応しい金比羅神社。
比高差が僅かとはいえ切立つ崖線。
しかし廃棄物の不法投棄防止に伴う立ち入り禁止の表示が。
凸洲崎砦(佐倉市) 15時10分から15時25分
奈良県立文化財センターのデータベースと関連出版物が示す所在地には僅かな乖離がある模様。
前者では道路東側の現況家庭菜園の台地を明示。
たしかにそれらしい平場と切岸地形は存在。
しかし、どうも狭隘に過ぎる感が無きにしも非ず。
後者では反対側の西側台地。
その間は距離にして約50メートルほどの違いが。
事後整理の諸状況から勘案する限り、どうやら後者の方が正解の様子かとも。
ただし当日の残り時間の関係で、前者の場所しか確認していない管理人なのであります(汗)
然もこの日は最大瞬間風速が15mほどの突風。
いつもの資料バインダーが、まるごとごと吹き飛ぶというトラブルが。
もはや軽い足取りでは追うことができない我が身故。
畑の中をひらひらと舞いながら飛び去っていく資料群を眺めつつしばし呆然。
加えて運悪く徒歩移動のために、4か所分もの資料が在中。
幸いにも当該地形は小規模ながらも谷津状地形。
無論風の収まるのを待ちながら、速やか?に全て回収に成功。
凸臼井田宿内砦(佐倉市) 15時30分から16時30分
臼井城支城の中で最は最も遺構保存状態が良好とされる砦。
「砦」との名称が付されているものの、城郭と呼ぶに相応しい縄張り。
見所は2か所の郭を区画する大規模な土塁と櫓台。
腰郭も多数が残存。
周辺は完全に宅地化。
関係者の方々の保存に向けての長年の努力に深謝。
遺構に関する事項をその感動とともに詳細に記述すべきところ。
然しこのところすっかり嵌ってしまった下手くそな俯瞰図で代用。
凸稲荷台砦(佐倉市) 16時35分から16時40分
宿内砦に半ば隣接しているような位置関係。
洲崎、田久里などをふくめ、全て臼井城外郭部の拠点なので当然といえば当然。
元来の地形が地山ごと改変されている印象。
このため具体的な所在地がいまひとつ確定できないのでありました。
やむを得ずやや北東側に所在する稲荷台公園の風景などを撮影。
凸田久里砦(佐倉市) 16時50分から17時00分
南臼井台の住宅地の一角。
一帯が臼井城跡地形が南西方向に傾斜しているので住宅地の日当たりは良好。
無論遺構は消滅。
ん、そういえばウェブ地図の「いつもガイド」では「白井台」と誤記。
ついでに思い出したので、奈良文化財研究所の文化財データベースでは本埜村と印旛村の標記がかなりの部分で混乱中。
閑話休題。
嬉しいことに公園の一角には小さな祠とともに城跡の説明が記された説明版が設置。
予想外のこうした配慮に遭遇すると、心なしか世の中が和んで見えてくるのであります。
凸忍台城(佐倉市) 17時40分から17時45分
一夜城公園が近いので訪れたようなもの。
地表の遺構は皆無。
公園名に「城」の文字も無く、石碑も無く、説明版も無く。
15世紀後半頃の陣城と推定されているという。
凸謙信一夜城(佐倉市) 17時45分から17時50分
上杉謙信が永禄年間に越山して関東を制圧。
その際の陣城と伝わる個所。
1973年の発掘調査により方形の空堀と土塁、小口、櫓台の存在が確認されたという。
宅地化により遺構は消滅し、現在はその東側付近に「一夜城公園」が整備。
城跡の由来が刻まれた立派な石碑が建立されているという情報は未収集。
日没後の夕闇迫る人気の無い公園で、ひとりニヤニヤとほくそ笑む不審者を演じておりました。
平日とはいえ自宅を出たのはすでに午前7時20分過ぎ。
このところ城館探訪の前日は早めに就寝しようと心に決めているのではありますが、思いつく限りあれもこれもといろいろと調べ物を。
そうしているうちに大抵は翌日となっていることが多いのであります。
このため予定起床時刻までは睡眠時間が3時間乃至4時間という計算に。
このためなかなか早起きが難しく、当然の結果として交通渋滞などにより現地への到着が遅延。
かくして1日あたりの探訪件数は通常5か所前後に。
然しこうしたことを繰り返していると、数合わせの悪知恵も。
夕刻からの分刻みによる4か所の駆け足のごとき城館探訪はまさにそのもの。
多少の事前調査をしたとはいえ、所在地明確、遺構確認不要、長時間滞在無用の三拍子が具備しております(苦笑)
しかし、天候に恵まれず午後2時過ぎまで大平町の図書館にて待機。
勿論二人ともに、その間はひたすら資料漁りの職務に専念。
凸富田城(栃木県大平町) 9時20分から9時40分
大平町の図書館に向かう途上の探訪。
とはいうものの、そぼ降る小雨はなかなか止みそうな気配もなく。
ささっと小学校北側の土塁遺構を拝見したのみの探訪に。
このあと、町立図書館にて大平町内の関係資料も確保。
後日、改めて再訪...できるかどうかは何ともいえないような(苦笑)
凸要害山城(栃木県佐野市) 15時30分-16時山頂-遺構踏査ののち17時25分下山
単郭とはいうものの、主郭周辺には野面の石積み遺構。
このほかに南北の稜線を中心に堀切3条、腰郭3群を伴う。
コンパクトではあるものの本格的構造を有する山城。
特に東側は登攀困難な急斜面。
山頂の主郭からは彦間(飛駒)の集落が一望。
監視のための物見と同時に在地領主の詰城として相応しい規模と立地条件が具備されているようにも。
麓からの比高差約170m。
登攀所要時間はのんびりあるいても約30分。
わずかこの程度の比高差で息切れしてしまうという厳しい現実。
過去には実質比高差1千m以上の山に、少なくとも100回以上登攀していたとは自分でも全く信じられない体たらく。
30年以上の歳月というものは、あくまでも冷酷に体力の著しい低下現象を招来するものなのであります。
凸要害山の館(栃木県佐野市) 17時30分から17時45分
要害山城の根古屋といわれる館跡。
東西方向に細長くのびた要害山南麓の低丘陵に占地。
遺構としては堀切(空堀)1条とL字型の土塁が予想以上に良好な状態で残存。
さてあともう1ヶ所くらいは何とか...と逸る気持ちとは裏腹に、太陽はすでに山入端にその姿を隠して久しく。
暮れなずむ彦間川沿いの県道を南下し帰途へとついたのでありました。
最近「俯瞰図」に凝り始めた管理人。
資料漁り飽きたので、30分ほどを費やして「松虫陣屋」(ただし部分、かなりの手抜き)を完成?
デッサン風とイラスト風の2通りで描き分けるという、些か姑息な手法も思いつき。
下手の横好きとはよく言ったもので、早くも通算で15ヶ所、20枚ほどに。
ただし、山城と大規模城郭は全く未知の領域。
とりわけ元になるある程度の縄張り図などが無いと、どうにも手をつけることができないレベルなのであります。
今回は佐野市の要害山(小野城とも)とその根古屋館。
丘城である館の方は全く問題なし。
しかし、単郭とはいえ比高差160mの山城の俯瞰図を作成するというのはかなり無謀な予感が...
というような次第で、城館な探訪よりも如何にして「俯瞰図」を作成するかに比重が移りつつあるのでありました(苦笑)
最近幾分貧血症状が再発。
儀一殿との集合時間に30分も遅刻したルーズな管理人なのでありました。
全体像をデジカメ撮影できるはずもないので、「中世城郭事典」等の縄張り図の丸写しであります。
それでも平面図を俯瞰図に置き換えるには、ある程度の加工処理が不可欠であります。
頭の中でイメージを構成することとあわせて、これがなかなかに面倒な作業工程なのであります。
現在筆記用具は7ミリと9ミリのシャープペンシルを使用。
5ミリ以下のものは、筆圧に合わず使えないのであります。
芯の硬度はHB、B、2Bを使用。
メーカーは三菱、パイロット、ぺんてる、プラチナ、ダイソーの各社。
このため使用するするシャープペンシルは本日現在何と9本に増加。
このような次第で、本日も更新が滞っているのであります(爆)