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凸物見館(福島県矢吹町)6時15分から7時45分 ■篠竹の藪+荊
前日に購入した「矢吹町史」によると、山頂部分に100m四方の土塁跡が残存しているとの誠に有難い記述。
とはいうものの、当該町史が刊行されてから既に30年近い月日が経過。
さらに調査時点から見れば30数年間が経過。
こうした事情から、その間の土地利用の変遷に伴う地形改変の影響は計り知れず。
遺構の残存確率は拙い経験上からは直感で50%。
予め現地での縄張図作成も視野に入れて早朝からの探訪開始。
直登を避けるべく北側の尾根筋から迂回。
迂回ルートの途中までは、かつて軽トラックが走れたような良好な山道。
無論、途中の分岐からはお馴染みの「篠竹の藪+荊」の連続に。
この間の稜線の移動距離は直線で約250mほど。
植林の先の幾分視界が広がりを見せる丘陵先端部には間違いなく土塁と空堀が現存。
しかし、その規模については100m四方よりはやや小ぶり。
凡そ主郭部については東西60m×南北50mの規模で、東側の一部に耕地化に伴う地形の改変跡を確認。
残念ながら堀跡は東側ではほぼ完全に消失した観が。
然しそれ以外の個所では概ね現存を確認。
この地域の丘陵上の城館跡のモデルケースの一つとして認識できたことは大きな成果かと。
こうなると現金なもので、体中に刺さりまくった荊の跡も全く気にならず(笑)
なお西側斜面の谷筋から比高差にして45mほど直登すれば、以外に楽かも知れないと感じたのはタカナシ城の帰りがけに立寄った際のことで(苦笑)
凸佐久間館(同上)8時10分から8時25分
タカナシ城へのコース途中に所在するので立寄ったまで。
「矢吹町史」などによれば、水田と集落が混在する西原集会所の辺りの平地が伝承地とのこと。
時代背景等を別にすると、寧ろ小字中丸の集落北側や小字本城館の丘陵の方が遥かにそれらしい地形。
凸タカナシ城(同上)8時30分から11時20分
本日の本題部分で2008年6月時探訪の宿題解決。
当時と情報は変わらないためやはり当初は位置関係が不明。
たまたま農作業のためにおいでになった地元の方に伺うものの、現在地等を特定するには至らず。
それでも主郭小口付近の地形等から、徐々に現地と縄張図に記された各郭との相関関係が判明。
主郭北西部には高さ3m、延長100mに及ぶ土塁遺構も現存。
地元の農作業中の方からは見学の了承を。
その上その場で採ったサラダ野菜までいただいて正しく幸せの限り。
圧巻は二の郭北側の空堀跡。
何と幅開墾された農地のど真ん中に、約20m、深さ4mから8mにも及ぶ空堀の一部が現存。
この遺構の所在地は麓からでは完く把握不可能。
二の郭北端で俯瞰したのちに漸くその位置関係と遺構残存状況を理解。
凸袖ヶ城(同上) 11時30分から13時30分 ■篠竹の藪+荊
東西にのびた丘陵の南麓から比高差僅か30mほどの稜線へと直登。
藪と荊は西方の「詰め城」側へと向かう尾根筋が最悪。
多分訪れたとしても過半数は撤退するのでは。
寧ろ北西の腰郭先端部を目指して這い上がった方が無難かとも。
当該郭の規模は極めて小さく南北5m×東西15mほどの楕円形。
堀切とこれに続く横堀跡も現存はしているものの濃厚な篠竹の藪は視界を8割方遮断。
なお、「詰め城」と呼ばれている個所はその構造と規模から寧ろ物見の役割が相応しいという印象。
篠竹の藪については東側の主郭部でも同様。
ただしこちら側は、同好の方々がつけたと思しき踏み跡を辿ると篠竹の密生した堀跡の中で唯一堀跡を越えることのできる個所から主郭部分へと到達できるのであります。
また加えて伐採等のために北側の民家側から車が上ってくる道ができているのでありました(笑)
凸笹目平館(同上) 13時40分から14時00分
福島県文化財データベースによれば、耕地整理された水田地帯南部の丘陵地帯に空堀跡があるとの情報。
北麓の畦堀を除くと丘陵上には当該堀跡(横堀、堀切、竪堀のいずれも)に関わりそうな地形は確認できず。
本日も昨日に続き幾分凹んできたのであります。
凸大和久館(同上) ■篠竹の藪+荊 14時25分から15時10分
笹目平館で凹んだことから、昨日購入したばかりの「矢吹町史」を車の中で取り出して、山頂部分に遺構が残存している可能性を確認。
無論突入を躊躇う、かなりの「篠竹の藪+荊」付。
実のところは、この時点で南部の状態を把握する気力が完全消失。
よく考えれば連日で、ここが6度目となる藪漕ぎ。
加えて本日は午前5時半からの探訪開始。
かくて体力も次第に限界に(苦笑)
凸泉崎館(泉崎村)
帰宅ルートの関係で、白河方面へと出る必要から資料館を含めて寄り道。
体力、気力とは無縁の行動。
以前確認できた堀跡は近年に消滅したとのこと。
止む無く用水路の風景などを撮影。
今回の遠征は再訪という性格もあり、探訪日程の決断は3日前という無計画さ。
髭剃道具を忘れた以外には大きなトラブルや齟齬も無く、2泊2日という変則の仙道地区再訪が終了。
凸観音山館(福島県矢吹町)7時40分から11時05分
2008年6月に続く再訪。
前回時には探訪した時刻が黄昏時。
全く人気の無い森閑とした雰囲気は好印象。
このためデジカメの画像は三脚を使用してもぶれまくる始末。
縄張構成等も確認するだけの時間が無いままに終了した経緯が。
その反省を元に今回は朝からの探訪。
しかし、冒頭から太陽の角度が低すぎたため遠景撮影が困難に(笑)
また今回はたまたま堀跡の一部を除き城跡の樹木が伐採された直後。
前回は確認することが不可能だった空堀が剥き出しに。
このため臨時縄張図作成班を編成。
といっても単独行なので、デジカメ撮影+遺構確認+縄張図作成をする羽目に。
「中世城館調査報告書」および「日本城郭大系」の縄張図が両方ともに不正確であることは確認。
さりとて3時間半と、かなりの時間を費やした割には成果が伴わず。
換言すれば高低さを巧みに利用した縄張なのでありました(汗)
終了の時点ですでに予定所要時間の倍以上を要し、玉川村、鏡石町方面へと足を伸ばすことを断念。
凸中畑陣屋(同上)11時20分から11時35分
幕末に長崎奉行の役職もついた旗本松平氏の陣屋址。
その名残は2本のカヤの木と南北の道路沿いに開けた集落の佇まいで、屋敷については会津の武家屋敷に移築されたとのこと。
カヤの木の所在地は少し分かりにくく、何と中畑郵便局の裏手なのでありました。
凸国神城(同上)11時45分から12時10分
畑の中に主郭部分のみが残存するシュールな城跡。
城跡は耕地整理の行われたとはいえ、ひときわアップダウンが目立つ河岸段丘上に位置。
用水路などの低地部分は空堀跡と関連しているようにも。
また北西部にある三峯神社境内辺りが城跡の北限なのかも。
なお城跡に立つ文化財説明版は説明部分が破損落下。
凸寺内館(同上)12時40分から12時50分
車を停めるような適当な場所が無く止む無くハザードで路駐。
さほど早くも無い足で丘陵を駆け上る管理人(苦笑)
城館跡と思われる辺りには神社の小祠が2か所ばかり。
丘陵の頂上部にはそれらしい削平地も現存。
凸西袴館(同上)13時05分から13時25分
地図上で見当をつけておいた場所は牧草地に。
地表観察には支障が無いことだけは確実。
南東側の植林帯との境界部分に土塁状の地形のようなものが所在。
城館遺構との関連性は不明。
凸袴館(福島県中島村)13時25分から13時45分
ブログを打ち込んでいる際に気づいたのでありますが、ここは矢吹町の東隣となる中島村。
滑津館の方が有名であることは間違いが無く。
なぜここを訪れたかといえば、「西袴館」があるなら「袴館」(東袴館)があってもよく、幸いにして小字名が「袴館」なのでそれらしい丘陵に登ってみたというだけのことなのであります(笑)
無論、直接遺構につながるような地形は確認できず、耕地化などにより削平されたと思われる平場が続いておりました。
凸沢尻館(福島県矢吹町)14時00分から14時50分 ■藪+荊
「中世城館報告書」では、「郭、空堀、犬走」が残るとの情報。
然しかつての植林などにより地形の改変が行われた模様で、最高地点を中心に歩き回った割には明確な遺構は無いも同然(疲)
だいたい帰ってきてから城館名称の間違い気づくという始末。
少なくとも当日回っている間はずっと「沼尻館」だと誤解を。
それよりも篠竹の藪+荊がなかなか頑強で。
少なくとも両足を中心に10か所ほどは傷だらけに。
この時点でかなり凹む管理人なのでありました。
その影響で以下の探訪については、もうあからさまな数稼ぎなのであります。
凸堤館(同上)15時00分から15時20分 ■藪+荊
予め遺構消滅という情報。
荊の傷の痛みに加えてかなり凹んでいたために、家畜舎裏手の丘陵を遠望したのみで終了。
遠目にも篠竹の藪と荊はかなり豊富な丘陵でありました。
凸明神館(同上)15時30分から15時50分
明神地区の簡易水道施設が所在。
かつては「郭」が残されていた模様でありますが、当該施設の建設により概ね消失しているものと思料いたします。
それでもしつこく地形観察を敢行し切岸状の地形を捜し求めるのでありました。
凸和田館(同上)16時20分から16時40分 ■藪+荊+沼地
事前情報は遺構なし。
冒頭から谷筋と丘陵の地形を読み間違えるという不始末。
谷戸田式居館ではなく、丘陵上に築かれたごく普通の居館跡であります。
しかし郭内の突入はかなり困難。
なお当地は水が豊富で、四駆の軽でなければ帰還不能。
四駆の運転を誤るとそのまま身動き不能な地形。
体重が多くかつ積載物の多いことが幸いすることも。
凸郷倉地館(同上)16時50分から16時55分
事前情報では遺構無し。
夕刻となってきたことから竹林の全景撮影で終了。
反対側に所在する「タカナシ城」の遠景撮影が中心。
凸古館(同上)17時00分から17時10分
水田地帯のため土塁と郭の残存情報も心細く。
しかし、予想以上に良好な土塁+郭の切岸が現存。
西辺の土塁延長は60mから70m、高さ2mから3mの規模。
郭東側の切岸は最大で高さ4m(後世の補強等の地形改変含む)
かくて2勝11敗1分けとなるべきところ、3勝10敗1分けに。
ここまで荊の傷の痛みに加えて9割方心が折れた管理人。
正しく明日への希望と活力を与えてくれたのでありました。
凸小松館(同上)17時15分から17時20分
阿武隈川沿いの耕地整理が行われた水田地帯。
無いものはなく。
あるものは高圧線の鉄塔1基。
折りしも東側の鉄塔では保守管理作業の真っ最中。
しばし地上約40mの高所作業を見入っておりました。
凸陣ヶ岡館(同上)17時30分から17時45分
かつては郭と土塁が確認できた模様。
しかし、周辺の宅地化等に伴う地形の改変が余りにも顕著。
暮れなずむ阿武隈川の堤防上から独立丘陵の遠景を撮影して本日の探訪を終了。
今回は前日の仕事終了後にそのまま出かけるというスタイル。
国道16号から県道3号線経由で久喜ICから北上。
往路は日曜日の下りなので矢吹町の現地まで僅か3時間弱。
福島県南までの心理的な距離は大幅に短縮。
なお如何にもやっつけ仕事風の縄張り図?は、この日の宿泊先で作成したものであります。
所用と交通渋滞のため読経の時間には間に合わず。
墓参り後にかねてから気にかかっていた小川町腰越自性院裏の尾根筋へ。
非常識な管理人でも、礼服と皮靴のままで城館探訪をするのは今回が初めて。
比高差は麓から計算しても僅か80m足らず。
熊野神社の参道を抜けて、八坂神社脇から九十九折りの山道へと突入。
一定の林道整備が行われているため皮靴でも全く問題なし。
稜線には予想以上の平坦地形が存在。
ただし人工地形かどうかは判断がつかず。
南北方向の斜面は切立っているので堀切があれば十分に防御可能な地形のはず。
しかし四半世紀ほど前にゴルフ場開発が行われ、未完成のまま放置された個所に続くのであります(苦笑)
西方の腰越城と尾根筋でつながることから、来年の正月にでも初詣を兼ねて尾根筋の完全踏査をしなくては。
凸島田城(八千代市) 13時05分から14時20分
関係資料によれば既に消滅したとの情報。
確かに該当地と推定される一帯は宅地と農地に変貌。
ただし一部台地が含まれるとされているとの記述も。
周囲を見渡す限りでは、それらしい舌状台地はおよそ3ケ所ほど。
まず、南西方向に所在する麓からの比高差が12mほどの妙泉寺の境内へ。
加えて台地基部が巾着のように括れた地形。
手摺付の石段をヨタヨタと登り境内裏へと到達。
眺望には優れるとともに台地斜面も急傾斜という好条件。
さらな絵に描いたような台地基部の括れ地形。
大宮神社周辺の地形が気になり北西方向へと移動。
すると神社周辺の方は別としても、公道東側には高さ2m、延長50m以上のL字型土塁状地形が所在。
公道の切通要素を考慮したとしても、好印象なのであります。
さらに土塁状の地形はその東側の台地辺縁部にも所在。
一方これに対して北側の子安神社裏の竹林。
こちらは比較的新しそうな人工的な崖線のみ。
なお、南側の独立した小丘陵は比高差と面積の不足という印象。
凸熊野神社遺構(同上) 14時40分から15時10分
熊野神社境内北側で、玉蔵院境内西側の比高差10mから15mほどの台地先端部に所在。
現存遺構は屏風のような土橋状地形と西側に続く規模の大きな空堀跡。
郭の存在を想定するとすれば玉蔵院側の小高い削平地。
然し空堀の規模に比して余りにも狭隘。
また空堀に平行する土橋状地形というのも奇妙な縄張り。
寧ろ土塁の一部か崩落したと見るべきなのかとも。
「八千代の歴史 通史編上」において城館類似遺構として収録。
凸保品竜害城(同上) 15時45分から16時00分
八千代市少年自然の家の建物から直線にして200mほど南東方向にすすんだ台地の先端部。
竜害城とはいえども、その実態は約1.5mばかりの畑の段差なのであります。
その延長距離も約30mほどであります。
よくよく観察すると、崖線に沿って盛土があるようにも。
冷静に考えれば耕作に伴うもののような。
たまたまおいでになった畑の所有者。
ここで伝承地名の確認などを。
然し市史に記述されていた以上の情報は得られず。
凸下高野館(同上) 16時20分から16時50分
小祠を祀った土塁が台地辺縁部に所在。
南と東側を急斜面で囲まれ、西側には堀底道、北側が件の土塁跡。
単郭としては狭隘に過ぎる向きも。
かといって複郭と見るには、耕地化による地形の改変が大きく。
凸先崎城(佐倉市) 17時10分から18時00分
黄昏時で、然も薄暗い山林の中。
近くに民家があるものの、なかなかに森閑とした佇まい。
遺構の北半分は土取等により完全消失。
残りの南側部分も鉄塔建設等により地形の改変が顕著。
南東部分に所在する郭とこれに伴う土塁・堀跡は明確に残存。
けれども郭内部は木々が繁殖し、土塁上もほとんど移動困難。
特に南東側ではオーバーハングした崖線にて自然崩落が進行中。
このため土塁上を歩行すると崩落の可能性が濃厚。
まして周囲は次第に夕闇が濃厚に。
どうにか残存遺構の範囲を特定できたということにして即時撤収。
早起きができず午前10時15分の出発。
一昨日よりも短時間とはいえ、往復6時間の行程。
今月はこれにて打ち止めに。
千葉方面も基本的にはシーズン終了に。
次なる目的地は一応福島県南のつもりであります。
昨年の経験によれば、関東南部とは3週間ほど植物の生育が遅れるはずではありますが。
凸要害山城(山梨県甲府市)11時10分から15時05分(途中昼食)
念願の武田氏の詰城である要害山城であります。
事前にイメージしていたよりも麓から見上げた限りではさほどの要害には思えないのであります。
然るに山中に足を踏み入れた途端に、著しく懐の深い要害に変貌するのであります。
主郭といわれている標高755mの郭にいたるまで、凡そ9か所もの関門が手薬煉をひいて待ち構えているのであります。
また主郭背後の尾根続きにも、削り残された細い土橋付の巨大な堀切3条と2か所以上の関門が。
無論全ての遺構が武田氏時代のものとは限らないとしても、ただひたすら率直に感動の連続なのでありました。
当初においては縄張図と照合しつつ、逐一遺構の存在および状態を検証する心積りなのでありました。
しかし全体を5ブロックに分けた書き込み資料を持参したにも拘らず、次第次第に余りの遺構の多さに頭が混乱を来たしていくのでありました(汗)
凸熊城(山梨県甲府市)15時30分から17時20分
要害山城南方の防御を固める砦跡との説が有力かと。
稜線後方から下り道でアプローチ。
このため体力欠乏気味の管理人にとっては、誠に有難い大変体に優しい山城探訪。
要害山城からは約100m近く標高が低いので砦跡からは常に要害山城の南側を見上げる位置関係。
防衛体制は全て南方を意識した縄張。
郭等の規模に比して余りに巨大すぎる堀切。
極めつけは城跡南西斜面に刻まれた畝状竪堀群。
より接近して観察したいのは山々なれども、足元が覚束無い管理人の足では山岳事故となることは必死の様相。
止む無く安全圏からの見学し4条(目視)+1条(推測)を確認。
この日は山梨方面のエキスパートと日頃より畏敬する史進どののご案内。
無論単独では道も分からず、所在地も分からず、登り口も分からず、体力さえもないという無々尽くしの管理人であります。
日没間際まで粘り続けさせていただいて要害山周辺を堪能。
昨年末の予行演習を経て、ふらつく足元を己の勲章としつつ、漸く甲斐国へと公式進出。