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凸天童古城(山形県天童市) 8時00分から9時30分
天童城とも呼ばれる愛宕山とその尾根筋の遺構。
近世織田氏の「天童陣屋」も天童城と呼ぶ場合があるとのこと。
このため地元の郷土史家・研究者は「天童古城」と呼称するとの由。
残念ながら尾根筋の階段状郭群の下段部分はかつての観光開発により地形の改変が顕著。
とはいえ階段状の切岸はどうにか現存し、周辺の郭群との相乗効果を想定すればかなりの堅城と推察。
折から野生のシャガが満開。
豪雪にも強いその常緑葉が遺構の観察にとっては大きな阻害要因に。
一般的には「人間将棋」の舞台と呼んだほうが馴染があるのかも知れません。
凸天童古城郭群(同上) 9時30分から11時50分
所謂「天童8館」に相当する郭群。
その史実としての信憑性については大いに疑問の余地が。
元来舞鶴山全体が戦国期天童氏の山城。
主要部分とされる愛宕山を除いた個所にも膨大な遺構が現存。
適当な呼称が無さそうなので、あくまでも取り敢えずの名称。
「天童氏と天童古城」(2005/天童市立旧東村山郡役所資料館発行)にも記載されているように、取分け「東郭」群の遺構は素晴らしく観光開発などにより一部改変を受けている愛宕山の遺構を遥かに凌ぐものが。
何しろ大小合わせて数十箇所から構成される郭群が現存。
とても短時間で縄張図を作成するなどできるはずも無く。
舞鶴山全体では愛宕山の個所を除いたとしても最低でも3日以上は必要かと。
合わせて5月半ばという季節のため、草木の成長は順調で地表観察には余りにも不向きなことを痛感。
このため今後の予定に含まれる山城については、遺憾ながら主に遠景からの確認で済ますことに方針を転換。
あ、雑用のためドタバタしながら出かけてきたために膝のサポーターを忘れたりしたこともその一因で。
凸土生田館(山形県村山市) 13時25分から14時25分
比高差僅かに20m。
神社境内を中心とした遺構のため気楽な見学のはず。
単郭と腰郭乃至帯郭程度の単純な構造かと思いきやさに非ず。
帯郭には高さ1mばかりの段差。
主郭部分は少なくとも3ヶ所に区分される予想以上の防御体制。
一部堀残し気味の土塁、物見台状の地形も残存。
このため急遽縄張図を作成しつつの探訪のすることとなり当初の予定時間を大きく超過。
これは嬉しい誤算。
けれども腹具合が芳しくなく嬉しさが半分に...
凸飯田館(同上) 14時40分から14時45分
資料不足+比高差80m以上+登り口皆目不明+異常低温+北西の強風++体調不良+気力喪失⇒麓からの遠望(苦笑)
凸三月楯(同上) 15時25分から16時00分
こちらも比高差僅かに20m。
これくらいなら何とかなりそうと思い半ば枯渇した気力を振り絞って挑戦。
然し登り口が見当たらず。
止む無くサクランボ畑となっている雛壇状の腰郭先端部からアプローチ。
今以て高さ2mから2.5mの切岸は有効。
縄張図から小口部分を探さないと登れないのでありました。
あ、足元はトレッキングシューズに履き替え忘れたため普通の運動靴..元へ、スニーカーで。
麓から8段ほど登り漸く主郭部分へと到達。
すると東側の沼地側に立派な柵が設置されているのを目撃。
何のことは無い、東側の堰堤側から登ればサンダルでも登れるように整備されていたのでありました。
なおこちら側から登れば、横矢のかかる構造の搦手経由で忽ち主郭へと到達。
凸櫤山楯(同上) 16時10分から16時15分
比高差150mの本格的山城。
麓から見る限り地表観察はほぼ絶望的に様相。
探訪所要時間は最低でも120分以上。
無論登り口も全く不詳。
こうした諸般の事情に鑑みて、所在地の確認に留めあっさりと退散。
凸楯岡城(同上) 16時20分から16時25分
比高差約80m、バラ園が併設されているためある程度の整備がなされている模様。
しかし東西約600m以上にも及ぶ雛壇状の郭群。
推定所要時間は150分。
相変わらず体調が回復せず、こちらも次回の課題ということで先送りに。
楽しみはあとに残しておく...って、必ずしも来年来れるとは限らないのでありますが。
凸稲下楯(同上) 16時40分から17時00分
山城が無理でも平地の神社ならばどうにか。
文字通り稲荷神社境内の周囲に残存する土塁と空堀跡。
深さは余り無いものの数mに及ぶ堀幅から神社の普請に伴うものでないことは確かな模様。
凸大久保館(同上) 17時15分から17時25分
大久保小学校北側に所在する夫々長さ50mほどに東西に分かれた水堀が関連遺構と考えられます。
近年の環境整備に伴い公園化された景観となっています。
凸宝鏡寺楯(同上) 17時35分から17時50分
最上川の左岸の河岸段丘辺縁部に所在する単郭の居館と推定。
遺構に関連しそうな地形は、西側の空堀跡(現在は畑)と東、北の二方に残る高さ4mほどの切岸状の崖線。
2日目は天候の方は前日の予報が全く外れて安定傾向に。
しかし地理不案内の地ゆえに、平地モードからの速やかな切替は至難。
加えて強めの北西の風が吹きまくり、気温低下により腹具合に支障発生。
このため国道13号線の「道の駅むらやま」を中心に移動。
この時点でほぼ日没。
寒河江市の図書館まで依頼したコピーを受領して本日の予定を終了。
既に季節は5月半ば。
蔵王、月山などの標高の高い個所以外は城館探訪に相応しくないことは確実。
それでも一縷の望みをもって山形遠征を挙行。
東北自動車道を利用しても片道5時間以上の道程。
千葉、茨城、群馬、栃木など関東近県に比し約2倍以上の所要時間。
このため実際には11日(月)の午後に自宅を出発。
無論できるだけ「天地人」の混雑を避けるべく米沢方面はパスすることに。
凸天童陣屋(山形県天童市) 5時40分から7時00分
戊辰戦争で焼失した織田氏(信雄の系統)の陣屋跡。
陣屋跡の中央部には鉄道の軌道が敷かれて、僅かに城下町特有のクランクした道路が同時の様子を伝えるという塩梅。
その割には些か時間がかかりすぎのようにも。
凸成生館(同上) 7時10分から7時30分
現存する遺構は土塁一か所と空堀跡二か所。
果樹園のなかに隠れる空堀跡。
お蔭で遅咲きのサクランボの花を観察。
このあと生憎と次第に小雨模様に。
なお翌日のテレビのローカル放送では、たまたま成生地区のサクランボ農家のサクランボ盗難対策が放映されておりました。
未だ出荷時期までには半月ほど早く、挨拶は欠かさないようにしているものの、多分に不埒な輩と誤解されかねない時期なのでありました。
凸二階堂遺跡(同上) 7時50分から8時10分
雨は小降りのままやや断続的に。
本降りになりかけたかと思うと何時の間にか小止みに。
予め天候を予測して遺構の少ない平地の城館跡ばかりを抽出。
とはいえ傘を差しての探訪は極力避けたいところ。
肝心の遺構の方は、堀跡といえば堀跡のような窪みが現存。
水田地帯のため草の生育が顕著。
説明版がなければまず分かりそうもない遺構ではあります。
凸高櫤城(同上) 8時30分から9時00分
この際、土産をまとめて購入。
その店構えからはやや想像しがたいものの、かなり有名な店の模様。
朝早いにもかかわらず買い物客が次々と多数来店。
製造直売の「王将最中」とあわせて、ついでに地酒を購入。
あ、遺構は堀跡の水路のみであります。
この後、ついつい看板に誘われて天童ワインのワイナリーにてワイン2本を購入。
凸新田館(山形県寒河江市) 9時45分から10時00分
天候は次第に安定し、その後は薄日が顔をのぞかせるように。
このあたりから目的地捜索に関する山勘が機能全開モードに。
とはいえサクランボ畑の中に御影石製の城跡標柱のみ。
凸本楯(同上) 10時10分から10時30分
こちらも石碑と標柱が中心。
それでも土塁跡と思われる高まりの一部と堀跡の形状を伝える宅地の区画等が現存。
凸寒河江城(同上) 10時50分から11時40分
城跡は台地上に所在し、説明版が計三か所、石碑・標柱が各二か所。
あとは堀跡の水路が二か所ばかり。
たったこれだけのことを確認するにしては些か時間がかかりすぎのような。
凸寒河江代官陣屋(同上) 11時40分から11時50分
あきらめかけて帰ろうとしたところ、県道沿いの細長い緑地の植込みのなかに陣屋跡の標柱を発見。
凸長岡陣屋(同上) 12時20分から13時00分
複郭の証左となる土塁が現存。
ただし市営グランドとツツジ公園の中。
折からツツジ祭りの真っ最中で、花に向かってデジカメを向ける多数の人々。
こちらはただひたすら土塁に向かってシャッターを押し続けるのでありました。
但し陣屋とはいっても戊辰戦争当時の代官陣屋なのであります。
天候が読めないので山城方面には近寄れないのであります。
なお翌日の天童市の舞鶴山(天童古城跡)にてツツジを見学にこられた観光客の何組かのご夫婦に、この長岡山の情報(移動所要時間、道路アクセス、今が見頃、売店あり)を提供。
なお、舞鶴山のツツジは本数も少なく、それよりも麓の神社付近の方が見ごたえがあります。
あ、特に寒河江市方面から依頼されているという訳ではありません。
凸白岩館(同上) 13時20分から14時00分
資料不足で城館の縄張りは詳細不明。
なお、寒河江市の図書館で閲覧した資料を見ても???
縄張り不明ながらも、確実に土塁、小口、帯郭等の遺構は現存。
北国の山形県とはいえ、やはりこの季節では遺構観察には無理があるようで。
特に野生のシャガが満開で、遺構の画像が野草の画像にしか見えないのであります。
このあとも、このシャガの繁殖力の強さに辟易とするのであります。
あ、強いて言えば山城です。
但し比高差は最大でも30m...(汗)
凸柴橋陣屋(同上) 14時35分から14時40分
高札場の標柱を確認。
多分この柴橋寺駐車場付近が代官陣屋跡なのだろうか...
凸落衣長者屋敷(同上) 14時50分から15時10分
やや痛々しい様子の土塁と耕作地と化した空堀各一か所が現存。
これらの遺構に比較すると不似合いなくらいに立派な説明版も設置。
このあと、まず天童市内に戻り資料館で関係資料の購入。
その後再び寒河江市内へと戻り、市立図書館で資料の複写申請。
予め二時間半の余裕を見たものの複写は未了。
明日再度足を運ばねばならない羽目に。
あ、複写方式はセルフ方式ではありません。
自分でやれば手馴れているため幾分は早いかも。
なおこうした事情により、天童-寒河江間を3往復半することとなったのであります。
閉館後夕食がてらファミレスにて九時過ぎまで複写資料の整理作業。
かくて本日延べ16時間の任務終了。
本日は史進どの、モナーどの、儀一どのと、武蔵直登会員が勢揃い。
行先は3年越しの懸案となっている藤岡市の鼠喰城がメイン。
Googleで検索しても、ヒットするのは史進どのと小生のサイトと山岳ブログ(但し未踏頂)の3件のみという限られた情報のみ。
すなわち登り口不明。
ルートの良否不明。
遺構の状況不明...
凸飛石の砦(群馬県藤岡市) 9時時50分から9時55分まで
日野谷に向かう道筋に所在することから立寄ったまで。
凸七村城(同上) 10時50分から11時45分まで
2007年の冬に続く再訪(無論HPは未更新のまま)
神社境内とその上方の尾根筋が城跡とされていますが、郭としての規模も極めて小さく遺構そのものについてはいささか明瞭性を欠くきらいが。
そうしたなかでは堀切状の峠道が最も城郭遺構に相応しいようにも。
凸後藤屋敷(同上) 12時05分から13時15分まで
日野谷り南側緩斜面に展開する奈良原の集落奥に所在。
宅地造成に伴う石積みはどれほど古くとも近代以降のものか。
ミツバツツジや山桜、菜の花などが咲き乱れる桃源郷との言葉が相応しいのどかな山村。
凸鼠喰城(同上) 13時45分から17時05分まで
本日最大というよりも、近年最大の目玉。
事前の資料とは相反し比高差は携行した高度計によれば、少なくとも不動明王の鳥居からは380m以上を計測。
然し地図上で見る限りは340mほど。
この差がなぜ発生したのかは今以って不明。
多少のアップダウンを加味すれば間違いなく400mに。
また平面上での移動距離は約800m。
稜線の大半は緑泥片岩質のヤセ尾根の急斜面。
所々に設営されたトラロープが断裂若しくは断裂寸前...
山歩きの経験はそこそこあるにはあるのでありますが。
久しぶりに生命の危機、滑落、行方不明、遭難と縁起でもない単語が次々と登場する局面に再会。
山頂の小祠の姿を見出したときには達成感で感涙の極みに。
腰を下ろして休憩したいところなれども、座ったら最後立ち上がれないほどの疲労感が(苦笑)
なお鳥居からの所要時間は休息を含めて1時間50分ほど。
かなりの山慣れした健脚者でも安全を考慮すると1時間30分ほどかと。
なお標高830mから930mの間での平面上の移動距離は僅かに100m。
すなわち分度器の二等辺三角形の鋭角の角度ということに。
つまりは斜度45度、比高差100mの斜面をそのまま直登していた計算で...まさに武蔵直登の面目躍如。
遺構の多寡は別として、計画以来足掛け3年にわたる鼠喰城の制覇。
前日は雨。
岩場、急斜面の多い地形。
本来ならば登山の常識に照らし順延が相当。
折りしも季節はうつろい始め、木々の芽吹き寸前でありました。
凸藤岡城(同上) 18時00分から18時05分
既に黄昏時。
打上げの途上に東側の櫓台跡(現在は戦没者慰霊塔)をそそくさとばかりに訪問。
こののち藤岡市内のガストにてお決まりの甘味にて打上げ。
今回の鼠喰城制覇は無論単独では到底成しえない所業にて。
参加者全員に事故も無く無事帰還したことは慶賀の至り。
合わせて「武蔵直登」メンバーの面目躍如。
そうしたなかで取分け全身疲労と筋肉痛が体中に蔓延し始めてきた年齢的にも今年がギリギリの管理人なのでありました。
「城郭図鑑」管理人様より、松ヶ崎城を見るならば今が旬との貴重な情報。
とはいえ今シーズンから下総方面探訪を始めたばかりの当サイト管理人であります。
土地勘の無いことは甚だしく、国道16号線沿線から少しでも外れると忽ち迷子になるのであります(汗)
あ、カーナビなどというものは搭載しておりませぬ。
また仮に搭載したとしても操作方法が分からず、老眼の進行により小さな画面が見えないのであります。
然しここで行かねば果たして何時いけるかと、迷子恐れるに足らずとの決死の覚悟を持って出陣。
幸いにして迷子になったのは予め予定しておいた夕食の場所を探したときのみ(笑)
凸松ヶ崎城(柏市) 12時00分13時30分
諸般の事情から城跡の樹木がきれいさっぱりと伐採。
一部消失した遺構もあり、消失部分の確認も含めて縄張図と照合。
小口の土塁の一部と崖線およびその直下の腰郭が不明となっている模様
史跡整備途上にもかかわらず、話題性のある城跡ということもあり地元市民の方々を始めとして終始見学者は途切れることなく。
中世城館跡の探訪で見学者に出会うことなどは極めて稀な体験。
凸根戸城(我孫子市) 14時15分から15時30分
主郭部分以外はそろそろ草が伸び始めて探索には厳しい季節。
主郭の高土塁、折のを伴う空堀、城跡東端部の櫓台、土橋等の遺構が明瞭に残存。
西側からは宅地化の波、北側には常磐線、東側には新しい市道建設と市街地化の著しい周辺地域の事情を斟酌する限りでは奇跡的な城跡。
文化財等説明版が市道建設に伴い城跡東側の一部を削り取った防護壁に埋め込まれていることも何やら象徴的で。
凸増尾城(柏市) 16時00分から16時40分
実は余り期待しないで訪れた城館跡。
というよりも、残り時間の関係で最も距離が近くかつ確実に遺構を観察できると思われたのがこの増尾城なのでありました。
事前の期待に反して遺構状況は極めて良好。
郭内側での土塁の高さも3mを超える規模。
また櫓台としか表現ができない土塁の張り出し部分も明確で大規模。
城址公園のため土塁などが幾分磨耗している感触もありますが、それだけ地元の方々に親しまれているという傍証かとも。
凸本多藩陣屋(流山市) 17時30分から17時35分
数合わせのために用意をしておいた城館跡。
予め立寄ることを予定しておいた流山市立図書館が陣屋址の一部という好条件。
尤も遺構等は皆無にちかく、あえて関連性のあるものといえば台地上の地形と後に県庁が置かれたことに伴う石碑のみ。
凸流山陣屋(同上) 17時40分から17時50分
例えが失礼極まりますが、正しく行きがけの駄賃のようなもので(苦笑)
図書館から徒歩約5分。
折しも黄昏時のため、大河ドラマブームの去った後の一抹の侘しさが漂う土蔵前に整備された石碑等を撮影。
この後、市立図書館にて関連資料の複写作業を実施。
自治体史関係が周辺の一部地域を除いては以下整理されていないことを除けば郷土史コーナーは概ね充実。
然し両名共約1時間近く前に到着。
予定通り周辺の城館跡を互いに案内係を務めつつ四街道方面へアプローチ。
凸島田城(八千代市)
凸米本城(同上)
凸臼井田宿内砦(佐倉市)
凸稲荷台砦(同上)
凸円能遺跡(同上)
凸忍台砦(同上)
凸謙信一夜城(同上)
以上は再訪または再々訪。
近日の温かさのため僅か2週間ほどの間に確実に草木の緑が顕著に。
凸福星寺城(四街道市) 11時45から12時45分
5か所ほどの出枡を伴った戦国末期の単郭。
主郭土塁外部切岸の高さは現状でも8mを超える個所が散見。
堀幅は上面で最大20mほど。
どう多く見ても200名が守りにつけるかどうかという規模の単郭。
そのアンバランスが実に興味深い城郭であります。
凸東作城(同上) 13時15分から13時50分
この城郭から地元研究者の方にご案内を。
小ぶりで直列、複郭で構成される鹿渡城と同じ台地上に所在する城郭。
南北方向を軸とした城域ではありますが最後まで全体の規模が掴めず。
縄張り図もどきを描く習性が付き始めたために、忽ち遅れを見せ始める管理人でありました。
凸中台城(同上) 13時40分から14時50分
方形土塁に囲まれた単郭。
喰違い小口、枡形小口、二重堀、櫓台など多くの遺構が現存。
しかし南西方向の市道拡張工事が予定され、その一部は消失する運命にあるとのこと。
旧状を目にすることができた幸せを噛みしめつつ、次第に縄張り図もどき作成に混乱の度合いを深める管理人。
凸鹿渡城(同上) 15時00分から15時50分
以前は公園として管理。
近年になって事情により地権者の方々に返還されたとのこと。
それでも良好な状態で空堀、土塁、竪堀等の遺構が残存。
北側水田から遠望する舌状台地地形は秀逸。
凸大山砦(同上) 16時00分から16時20分
常磐線の線路の向かい側、鹿渡城から北へ250mほどの地点に所在する台地上に所在。
方形単郭の少なくとも2辺に土塁が残存。
能力不足と資料不足にめげつつも縄張り図もどき作成に勤しむ管理人。
凸山梨城(同上) 16時35分から16時45分
神社境内となっている郭部分と部分的ながらも良好な土塁・空堀が残存する遺構。
たぶん殿台館とも呼ばれている個所の南側の辺りなのかとも。
何分とも全くの勉強不足で..
にもかかわらず、ただひたすらにダイソー購入のスケッチブックと格闘する管理人。
凸和良比堀込城(同上) 17時00分から17時10分
市道幹線の整備により台地ごと削平された城館跡。
しかしその南側の一部分は公園化されて保存。
断片的とはいえ3か所の土塁遺構が現存。
かつての郭内では葉桜の下で花見に興ずる一組の団体が。
史進どのよりお誘いにて千葉県四街道市方面の城館探訪。
午後からは地元城郭研究者の方にご案内をいただき、夕刻まで非常に濃密な時間の連続。
3月29日から今回まで、山梨、千葉、福島、千葉と2週間ほどの間に5日間、述べ40ヵ所以上を探訪。
例年ならば、ほぼ間違いなくヨタヨタにへばっている季節かと。
お城仲間の皆様のお蔭で、感覚的に何時どの方面へと出かけたのか判然としないほどに満ち足りたシーズン最終局面を過ごしております(嬉)
以上、「縄張り図もどき」作成初心者のため、お誘いいただいた史進どのをはじめご案内いただいた地元城郭研究者の方に多大なご迷惑をかけ続けた管理人なのでありました。