本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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本日は史進さんにご同行を願い、旧沼南町、印西市方面へ出陣。
集合場所は手賀沼の畔の「道の駅しょうなん」
凸箕輪如意寺城(柏市、旧沼南町) 6時50分から7時10分 再訪
凸鹿島城(柏市、旧沼南町) 7時20分頃 再訪
凸泉妙見山城(柏市、旧沼南町) 7時30分から7時45分 再訪
凸泉城(柏市、旧沼南町) 7時40分から8時10分 再訪
凸柳戸砦(柏市、旧沼南町) 8時30分から8時50分 再訪
再訪にもかかわらず、アプローチに失敗を。
◎兵主八幡神社(柏市、旧沼南町) 8時55分から9時15分 再訪
凸高野館(柏市、旧沼南町) 9時20分から9時40分 再訪
凸布瀬館(柏市、旧沼南町) 9時45分から9時50分 再訪
凸松前館(柏市、旧沼南町) 9時55分から10時00分 再訪
凸井の内城(印西市) 10時30分から10時50分
城館遺構らしき堀跡、郭跡の地形あり
凸平岡城(印西市) 11時15分から12時20分
東西方向にのびた竹林の丘陵上に郭、腰郭、土塁、切岸などが健在。
けっして小規模な遺構ではなく丘陵全体に遺構が展開。
それほど大きな期待を抱いての探訪ではなかったこともあり本格的城館遺構を目にして欣喜雀躍。
公共施設建設に伴う発掘調査により中世城館跡と推定される堀跡などが検出。
ただし地表遺構についてはほぼ消滅。
凸浦部竜崖城(印西市) 13時20分から13時50分 再訪
凸歓喜院の土塁(印西市) 14時00分頃 再訪
凸歓喜院東の遺構(印西市) 14時10分から14時20分 再訪
凸手倉砦(印西市) 14時55分から15時15分 再訪
県道沿いの電波中継塔を目印にショートカットで探訪。
この時点あたりから管理人の両足は次第に行動の限界点に。
凸仲山城(印西市)15時30分から16時00分 再訪
車でのアプローチが些か難しく前後の時間を浪費。
やはり運動公園から徒歩で接近すべきだったと反省を。
加えて僅か比高差15mほどの崖がなかなか登れず(汗、苦笑)
凸神々廻城(白井市)16時20分から16時35分 再訪
日没直前の探訪。
夕闇迫る森閑とした竹林の遺構は他に訪れる人はあろう筈も無く。
約9か月ぶりとなる城館探訪の再開。
比高差の少ない丘陵という条件でさえもこの疲労感...
病院などで年相応と言われてしまった管理人の足回りの弱体化は益々顕著に。
本格的な山城への回帰の見通しは皆目不明なのかとも(汗)
明らかに動作の鈍くなった管理人に一日中お付き合いをいただいたき感謝を。
集合場所は手賀沼の畔の「道の駅しょうなん」
凸箕輪如意寺城(柏市、旧沼南町) 6時50分から7時10分 再訪
凸鹿島城(柏市、旧沼南町) 7時20分頃 再訪
凸泉妙見山城(柏市、旧沼南町) 7時30分から7時45分 再訪
凸泉城(柏市、旧沼南町) 7時40分から8時10分 再訪
凸柳戸砦(柏市、旧沼南町) 8時30分から8時50分 再訪
再訪にもかかわらず、アプローチに失敗を。
◎兵主八幡神社(柏市、旧沼南町) 8時55分から9時15分 再訪
凸高野館(柏市、旧沼南町) 9時20分から9時40分 再訪
凸布瀬館(柏市、旧沼南町) 9時45分から9時50分 再訪
凸松前館(柏市、旧沼南町) 9時55分から10時00分 再訪
凸井の内城(印西市) 10時30分から10時50分
城館遺構らしき堀跡、郭跡の地形あり
凸平岡城(印西市) 11時15分から12時20分
東西方向にのびた竹林の丘陵上に郭、腰郭、土塁、切岸などが健在。
けっして小規模な遺構ではなく丘陵全体に遺構が展開。
それほど大きな期待を抱いての探訪ではなかったこともあり本格的城館遺構を目にして欣喜雀躍。
平岡城
凸山王台遺跡(印西市) 13時15分頃公共施設建設に伴う発掘調査により中世城館跡と推定される堀跡などが検出。
ただし地表遺構についてはほぼ消滅。
凸浦部竜崖城(印西市) 13時20分から13時50分 再訪
凸歓喜院の土塁(印西市) 14時00分頃 再訪
凸歓喜院東の遺構(印西市) 14時10分から14時20分 再訪
凸手倉砦(印西市) 14時55分から15時15分 再訪
県道沿いの電波中継塔を目印にショートカットで探訪。
この時点あたりから管理人の両足は次第に行動の限界点に。
凸仲山城(印西市)15時30分から16時00分 再訪
車でのアプローチが些か難しく前後の時間を浪費。
やはり運動公園から徒歩で接近すべきだったと反省を。
加えて僅か比高差15mほどの崖がなかなか登れず(汗、苦笑)
凸神々廻城(白井市)16時20分から16時35分 再訪
日没直前の探訪。
夕闇迫る森閑とした竹林の遺構は他に訪れる人はあろう筈も無く。
約9か月ぶりとなる城館探訪の再開。
比高差の少ない丘陵という条件でさえもこの疲労感...
病院などで年相応と言われてしまった管理人の足回りの弱体化は益々顕著に。
本格的な山城への回帰の見通しは皆目不明なのかとも(汗)
明らかに動作の鈍くなった管理人に一日中お付き合いをいただいたき感謝を。
更新ばかりしていると飽きてくるので、些か気の早い話ですが、ただいま来春以降の訪城計画を策定中。
遠征先としては比較的資料の準備が進行している山形県村山郡、最上郡方面。
市町村としては天童市、村山市、大石田町、尾花沢市ほかを想定。
2009年5月の時には体調と天候に恵まれず、その際土地勘の醸成に重点を置くこととし山城らしいところは殆どパスしておりました。
今回はそうした無名の山城を軸に探訪することを想定しております。
比較的比高差が少ない地域ですが、大小の夥しい郭群を伴う楯跡も少なくなく、概念図スケッチ作業を含めると一日あたりの探訪件数は5城館前後と推定されます。
現在候補地としてリストアップしている城館数は計100城館ほどで、この半数以上が山城となります。
因みにこの方面の踏査をひととおり終えるには、約5年ほどの歳月を必要とする模様です。
実施にあたっての最大の課題は、加齢に伴う身体機能全般の低下現象であるものと確信(苦笑)
少なくとも事前には県内、近県をウォーミングアップ代わりにして数回出かけてみる必要もありそうです。
と公言してしておかないと、気力が伴わなくなってきた還暦前の事情なのであります。
遠征先としては比較的資料の準備が進行している山形県村山郡、最上郡方面。
市町村としては天童市、村山市、大石田町、尾花沢市ほかを想定。
2009年5月の時には体調と天候に恵まれず、その際土地勘の醸成に重点を置くこととし山城らしいところは殆どパスしておりました。
今回はそうした無名の山城を軸に探訪することを想定しております。
比較的比高差が少ない地域ですが、大小の夥しい郭群を伴う楯跡も少なくなく、概念図スケッチ作業を含めると一日あたりの探訪件数は5城館前後と推定されます。
現在候補地としてリストアップしている城館数は計100城館ほどで、この半数以上が山城となります。
因みにこの方面の踏査をひととおり終えるには、約5年ほどの歳月を必要とする模様です。
実施にあたっての最大の課題は、加齢に伴う身体機能全般の低下現象であるものと確信(苦笑)
少なくとも事前には県内、近県をウォーミングアップ代わりにして数回出かけてみる必要もありそうです。
と公言してしておかないと、気力が伴わなくなってきた還暦前の事情なのであります。
謹告
毎年季節が春めくとともに体調不良に陥る管理人。
本年も体調悪化の兆しが次第に顕著に。
加えていくつかの疾患も復活。
ここ2年ほど続いた春の北上作戦も今年は見送ることに。
かくして本年の城館探訪は早々と閉幕。
あ、別段すぐさま生命に関わるような事態ではありません。
身体症状としては、記憶力・視力の減退(加齢)、頭痛(原因不明)、腰痛(原因不明)、筋肉の硬化、四肢の疼痛(疼痛性障害)に、起立性低血圧、慢性のアレルギー性呼吸疾患、睡眠障害に果ては幻聴までも...と兎も角身体が謀反を起こし...肝心の気力の維持さえもも危うく(苦笑)
このような事情により、当分の間は新規の城館探訪を見送る次第とさせていただきます。
無論当ブログ、掲示板、サイト更新を含めたサイトの運営につきましては、できる範囲内で細々と継続して参ります。
以上誠に勝手ながら、宜しくご理解を賜りますようお願いを申し上げます。
毎年季節が春めくとともに体調不良に陥る管理人。
本年も体調悪化の兆しが次第に顕著に。
加えていくつかの疾患も復活。
ここ2年ほど続いた春の北上作戦も今年は見送ることに。
かくして本年の城館探訪は早々と閉幕。
あ、別段すぐさま生命に関わるような事態ではありません。
身体症状としては、記憶力・視力の減退(加齢)、頭痛(原因不明)、腰痛(原因不明)、筋肉の硬化、四肢の疼痛(疼痛性障害)に、起立性低血圧、慢性のアレルギー性呼吸疾患、睡眠障害に果ては幻聴までも...と兎も角身体が謀反を起こし...肝心の気力の維持さえもも危うく(苦笑)
このような事情により、当分の間は新規の城館探訪を見送る次第とさせていただきます。
無論当ブログ、掲示板、サイト更新を含めたサイトの運営につきましては、できる範囲内で細々と継続して参ります。
以上誠に勝手ながら、宜しくご理解を賜りますようお願いを申し上げます。
当サイト管理人 「小頭@和平」
午前10頃からの行動開始を念頭に、午前6時45分に自宅を出発。
正真正銘、今季最後の下総探訪。
往路は国道298号経由で、片道の所要時間は約3時間15分は予定通り。
凸竜崖城(千葉県印西市) 10時30分から12時10分
2月の末に訪れた「手倉砦」の北北東1.3kmの独立台地上に所在。
城跡南東麓には所縁の井戸跡と説明板も。
今シーズンに入ってからというもの、城跡もしくは城跡に関係した説明板に対面できたのはこれが2度目。
遺構の集中するのは主に台地の西部付近。
特に登り道は無いので、麓の南西部から比高差8mほどの帯郭へ直登。
郭部分はさらに比高差4mから5m上の畑。
部分的とはいえ土塁遺構も3か所ほど残存。
郭への小口と想定される地形も現存。
台地全体の形状と平場等の残存状況からは、少なくとも複数の郭から構成されていたことが推定可能。
帰路は妙見社の祠に参拝し、そのまま台地を東に横断して永治小学校へ。
凸山王台遺跡(千葉県印西市) 13時00分から13時30分
北側が台地続きとなる舌状台地に所在。
資料によれば竜崖城との関わりも想定される空堀で囲われた中世の墓域とのこと。
堀の深さは最高で2.5m(ただしメジャー計測)を測る個所も。
堀幅は上面で約6m。
堀跡は南側と東側の残存状況が良好だが、北側は後年に耕作等のために埋め立てられた可能性が推定。
ただし概して内郭面よりも空堀の外側の地面の方が高い。
また土塁状遺構も無くは無く、帯郭状地形も無くは無く。
ただし、その内側に空堀に囲まれた区画が所在するという変則的な構成。
凸仲山城(千葉県印西市) 13時40分から15時40分
西側の台地麓から比高差15mほどの斜面を直登。
久しぶりとなるアズマザサ群生地の藪。
無論至る所に棘も元気に生育。
この辺りを起点として先ずは反対側の東側崖線まで距離にして約60mほどを直進し、目ぼしい遺構が存在しないことを検証。
次に反時計回りに台地北端部の崖線に沿って移動し腰郭、帯郭等の有無を検証。
文字通りの笹藪は視界3mから5m。
これでは仮に局部的な遺構があったとしても見過ごす可能性は大。
今更ながらに縄張り図や概念図があまり出回っていない事情を首肯。
さて土塁があるとすれば、台地辺縁部または台地を東西に横断する配置のはず。
台地西側の崖線を南進し笹藪を抜けると随分と次第に開けた地形に到達。
事前にマークしておいた電波塔が間近に見えたので現在位置が判明。
概ねこの電波中継塔以北に遺構が集中。
明瞭な残存遺構は台地を東西に分断する総延長100m近い土塁とその南側の空堀。
特にその東側部分は伐採直後のため遺構の確認には最良の環境。
ほかに土橋の形跡も3か所ほど確認されるが、耕作等により空堀が埋め戻されている模様。
少なくとも3か所ほどの土塁・空堀により区画されていたのかも知れず。
このほか南北方向の土塁状地形と小規模な土塁に囲まれた方形地形も所在。
なお伐採部分の台地斜面を観察した限りでは帯郭、腰郭の存在は確認できず。
駐車スペースの問題から、以上3か所の移動は全て徒歩によるもの。
かくて本日の歩行距離は台地直登3回分+藪漕ぎを含む歩行距離は平地換算にして約15km。
なお午後5時過ぎのために断念した「木下街道」沿いの竹林中の土塁状地形も合わせれば4か所に...(苦笑)
復路は久しぶりに国道16号経由で。
夕刻にも拘わらず呼塚交差点の交通渋滞も殆どなく快調そのもの。
途中野田市郊外の餃子の王将で夕食。
しかしこれが結果的には仇となり、5kmほどの事故渋滞に遭遇し30分以上のロスタイム。
かくして復路の所要時間も3時間。
往復約150km、所要時間6時間15分を要した甲斐があったのかどうかは自分にも分らず。
正真正銘、今季最後の下総探訪。
往路は国道298号経由で、片道の所要時間は約3時間15分は予定通り。
凸竜崖城(千葉県印西市) 10時30分から12時10分
2月の末に訪れた「手倉砦」の北北東1.3kmの独立台地上に所在。
城跡南東麓には所縁の井戸跡と説明板も。
今シーズンに入ってからというもの、城跡もしくは城跡に関係した説明板に対面できたのはこれが2度目。
遺構の集中するのは主に台地の西部付近。
特に登り道は無いので、麓の南西部から比高差8mほどの帯郭へ直登。
郭部分はさらに比高差4mから5m上の畑。
部分的とはいえ土塁遺構も3か所ほど残存。
郭への小口と想定される地形も現存。
台地全体の形状と平場等の残存状況からは、少なくとも複数の郭から構成されていたことが推定可能。
帰路は妙見社の祠に参拝し、そのまま台地を東に横断して永治小学校へ。
凸山王台遺跡(千葉県印西市) 13時00分から13時30分
北側が台地続きとなる舌状台地に所在。
資料によれば竜崖城との関わりも想定される空堀で囲われた中世の墓域とのこと。
堀の深さは最高で2.5m(ただしメジャー計測)を測る個所も。
堀幅は上面で約6m。
堀跡は南側と東側の残存状況が良好だが、北側は後年に耕作等のために埋め立てられた可能性が推定。
ただし概して内郭面よりも空堀の外側の地面の方が高い。
また土塁状遺構も無くは無く、帯郭状地形も無くは無く。
ただし、その内側に空堀に囲まれた区画が所在するという変則的な構成。
凸仲山城(千葉県印西市) 13時40分から15時40分
西側の台地麓から比高差15mほどの斜面を直登。
久しぶりとなるアズマザサ群生地の藪。
無論至る所に棘も元気に生育。
この辺りを起点として先ずは反対側の東側崖線まで距離にして約60mほどを直進し、目ぼしい遺構が存在しないことを検証。
次に反時計回りに台地北端部の崖線に沿って移動し腰郭、帯郭等の有無を検証。
文字通りの笹藪は視界3mから5m。
これでは仮に局部的な遺構があったとしても見過ごす可能性は大。
今更ながらに縄張り図や概念図があまり出回っていない事情を首肯。
さて土塁があるとすれば、台地辺縁部または台地を東西に横断する配置のはず。
台地西側の崖線を南進し笹藪を抜けると随分と次第に開けた地形に到達。
事前にマークしておいた電波塔が間近に見えたので現在位置が判明。
概ねこの電波中継塔以北に遺構が集中。
明瞭な残存遺構は台地を東西に分断する総延長100m近い土塁とその南側の空堀。
特にその東側部分は伐採直後のため遺構の確認には最良の環境。
ほかに土橋の形跡も3か所ほど確認されるが、耕作等により空堀が埋め戻されている模様。
少なくとも3か所ほどの土塁・空堀により区画されていたのかも知れず。
このほか南北方向の土塁状地形と小規模な土塁に囲まれた方形地形も所在。
なお伐採部分の台地斜面を観察した限りでは帯郭、腰郭の存在は確認できず。
駐車スペースの問題から、以上3か所の移動は全て徒歩によるもの。
かくて本日の歩行距離は台地直登3回分+藪漕ぎを含む歩行距離は平地換算にして約15km。
なお午後5時過ぎのために断念した「木下街道」沿いの竹林中の土塁状地形も合わせれば4か所に...(苦笑)
復路は久しぶりに国道16号経由で。
夕刻にも拘わらず呼塚交差点の交通渋滞も殆どなく快調そのもの。
途中野田市郊外の餃子の王将で夕食。
しかしこれが結果的には仇となり、5kmほどの事故渋滞に遭遇し30分以上のロスタイム。
かくして復路の所要時間も3時間。
往復約150km、所要時間6時間15分を要した甲斐があったのかどうかは自分にも分らず。
本日は確実な雨模様の予報。
このため意志薄弱な管理人は出陣中止と思いこみ、集合時間から遅れること1時間15分(大汗)
史進さん、Mさん、どうかこの年寄りをお許しくだされ~
凸三増峠(神奈川県愛川町) 午前10時20分頃
説明する必要もない武田氏と後北条氏による著名な古戦場
凸生土城(静岡県小山町) 正午から13時40分頃まで
「駿河記」によると、管領一族上杉禅秀の叛乱により足利持氏が一時的に難を避けたとされる相模境の山城。
登り口とされる個所に佇み、この斜面を、この雨の中を、掴まるものとてこれ無く...下山の場合に訪れる悲劇(斜面での滑落+打撲+捻挫+擦過傷などなど)を想像して途方に暮れる3人組。
とはいえ、無類のお城好きの集まり故、申し合わせたように各人いそいそと登り支度を開始。
ここで健脚の史進さんの大活躍により安全確実な登攀ルートを確保。
しかし本日の気象条件の制約は大きく、縄張りの全容を確認するまでには至らずじまい。
限られた範囲の踏査とその地表上の残存遺構から観察する限りでは、後北条氏が台頭する戦国時代以前の削平地と切岸を中核とし堀切、腰郭群などから構成される比較的小規模な山城であったようにも思われたのでありました。
雨脚は終始止むことは無く、遅い昼食ののちに小山町立図書館にて資料漁り。
推定開架蔵書冊数約5万冊の図書館とは思えないほどに郷土誌関係が充実。
これも資料収集の拠点確保という意味では大きな成果に。
図書館を退館した時点では辺りには物凄い霧が発生し、信号機が識別できる視界は50m未満。
これもこの地方独特の気象条件のひとつなのかも。
このため意志薄弱な管理人は出陣中止と思いこみ、集合時間から遅れること1時間15分(大汗)
史進さん、Mさん、どうかこの年寄りをお許しくだされ~
凸三増峠(神奈川県愛川町) 午前10時20分頃
説明する必要もない武田氏と後北条氏による著名な古戦場
凸生土城(静岡県小山町) 正午から13時40分頃まで
「駿河記」によると、管領一族上杉禅秀の叛乱により足利持氏が一時的に難を避けたとされる相模境の山城。
登り口とされる個所に佇み、この斜面を、この雨の中を、掴まるものとてこれ無く...下山の場合に訪れる悲劇(斜面での滑落+打撲+捻挫+擦過傷などなど)を想像して途方に暮れる3人組。
とはいえ、無類のお城好きの集まり故、申し合わせたように各人いそいそと登り支度を開始。
ここで健脚の史進さんの大活躍により安全確実な登攀ルートを確保。
しかし本日の気象条件の制約は大きく、縄張りの全容を確認するまでには至らずじまい。
限られた範囲の踏査とその地表上の残存遺構から観察する限りでは、後北条氏が台頭する戦国時代以前の削平地と切岸を中核とし堀切、腰郭群などから構成される比較的小規模な山城であったようにも思われたのでありました。
雨脚は終始止むことは無く、遅い昼食ののちに小山町立図書館にて資料漁り。
推定開架蔵書冊数約5万冊の図書館とは思えないほどに郷土誌関係が充実。
これも資料収集の拠点確保という意味では大きな成果に。
図書館を退館した時点では辺りには物凄い霧が発生し、信号機が識別できる視界は50m未満。
これもこの地方独特の気象条件のひとつなのかも。