01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
天候もまずまず。
加えて計画停電も中止...それにしても妙な表現かと。
かくて世間に申し訳ないと思いつつも、午前6時40分過ぎに自宅を出発。
ようやく3度目となる2011年の城館探訪。
富岡市と甘楽町境の藤田峠(標高約520m)に到着したのは9時30分頃。
凸藤田城(群馬県富岡市) 9時45分から10時35分頃まで
事前の情報よりも近年の林道整備などに伴いさらに主郭(推定)付近の地形が大きく改変され、遺構もある様な無い様な表現が難しい事態に。
キャンプ場にともなうハイキングルートの整備により、東側からの尾根筋のルートも山崎一氏が踏査した頃の面影は消失しておりました。
烽火台と推定されている標高631.4mの山頂部へといたるルートもなかば荒廃。
凸二ツ山城(同上) 10時35分頃から12時30分
所在地がいまひとつ不明確なので、藤田峠西側の藤田城からそのまま敢えて歩きやすい林道を避け足元の悪い尾根筋経由でアプローチすることに。
山頂から北西にのびる尾根筋を約280mほどすすんだ標高600m強のピークまで降下。
ここからさらに北西尾根筋へとルートをとり、直線距離にして約500m、2か所目の標高約550mのピーク付近の「城跡」へ到達。
しかし、ここも予想通り明確な城郭遺構は確認できず。
強いてそれらしいものを挙げれば幅8m×長さ約30mほどの痩せ尾根上の平坦地なのかと。
北東側にのびる腰郭風の尾根筋の位置も資料と対比するかぎりでは些か曖昧。
念のため標高544mのピークまで移動して地形を確認。
その途中土塁の様な地形と堀切のように見えなくもない自然地形などを確認するも城郭遺構と関連付けるには余りに無謀(苦笑)
踏査中は連続する棘の出現に気力・体力ともに喪失。
帰路の林道の棘にも失笑するほど。
尾根筋を誤ることは考えられないので、残る可能性としては時折あるように「中世城館報告書」に記された所在地自体に誤りがあることくらいだろうか。
凸大島下城(同上) 13時20分から13時35分
上記のような事情のため急遽追加で探訪。
といっても耕地化された平城跡。
現存している石塁は川原石を使用していることを除きその時代背景は不明の一言。
よく見ると南端部の宅地側にも土塁(石塁)遺構が現存。
という次第で耕地化された平城が本日の最大の収穫に。
やはり還暦を過ぎたからなのか、足回りの筋力が大幅に低下している模様。
加えて腰痛、右膝痛、神経痛...来年の今頃が正直怖い様な(汗)
還暦を迎えた後、柔軟体操で右腰の筋肉を痛めたのがケチのつきはじめだったのかも。
その後は首筋の寝違え、右腰の神経痛、足のマメ、右膝関節痛、慢性気管支炎と余りの災厄つづきに茫然自失(汗)
ようやく本日2ヶ月ぶりとなる城館探訪を再開。
幸いいまのところ花粉アレルギーは小康状態を維持。
今日などは山火事と間違えそうなくらいまでに飛散した花粉で山並みが霞み、また履いていたトレッキングシューズの色は本来ならばダークグリーンのはずが、鮮やかなレモンイエローに変貌を遂げておりました。
凸西平城(群馬県富岡市) 9時30分から13時20分
比高差は約130m前後。
稜線が目前に迫ったあたりから道を誤り登攀ルート消失。
このため掴まるものとてないような斜面をジグザクに登攀。
これで本日の気力・体力の大半を消費。
肝心な遺構の方は良好な堀切が約3か所現存。
主郭南部には土塁遺構も残存。
城道が曖昧になっている部分が多く、腰郭経由のルートが追い切れず。
北側ないし東側を意識した防御構造となっていることだけは確実かと。
唯一の拠り所にしていた山崎一氏が作成されたと思われる縄張り図は、サイズが小さいこともあり等高線と遺構の書き入れが区別できないほどに不鮮明。
然も上信越道の建設により北側の一部が確実に消失。
このような事情から半ばゼロからの縄張り図作成をする羽目になり約4時間の在城を余儀なくされました。
ただし、気力・体力が枯渇してしまったために、東側の大手方面の残存遺構は全くの未確認のまま終わっています。
腰郭の上り下りを4回以上繰り返したため実質比高差200m以上に相当するのかもしれません。
なお、下山の時点では事前の足回りのテーピングが効果を発揮し、マメやクツヅレは皆無でありましたが、早くも右膝と両足首が疲労の限界に。
凸岩染城(群馬県富岡市) 13時30分から15時20分
前の1か所だけで帰還してのんびりと富岡市の図書館で資料調べをとも思いましたが、目指す目的地はすぐ目の前の小丘陵で比高差は実質的には50m前後かと。
北東方向からアプローチを試みましたが、丘陵地帯の北西部を中心に大がかりな耕地整備が行われたために稜線そのものが消失しておりました。
それでも城域の北限と推定された畑の端の斜面へと取り付き南西へ。
3か所の堀切のうち、北東側のものは耕地整備により消失。
残りの2か所も奇異な印象が拭えない後世の地形改変があるようにも。
そうしたなかで主郭小口手前の石積みは小規模ながらも城郭の面影を伝える要素となっておりました。
結果的に当初の予定通りに2か所を巡ることとなりましたが、右足踵の骨棘の痛みは別としても左足のテーピングにはさらに工夫が必要なようです。
還暦を過ぎ気力体力低下は愈々隠しようもなく、1日あたりの行程としては山城は2か所以内で比高差は200m前後までというガイドラインが設置された日ともなったようです(苦笑)
事実車を止めさせていただいた額田公民館までの1kmほどの道程が実際の距離以上に長~く感じられました。
城館探訪自体は昨年12月から再開。
しかしある程度の比高差を伴う山城は本当に久しぶり。
凸茶臼山の砦(群馬県富岡市) 10時20分から12時20分
標高269m、上信越自動車道の南側丘陵地帯に所在する城郭遺構群のひとつです。
丘陵北側麓からの比高差は約100mほどありますが、南麓の公道からは比高差約60m前後に過ぎません。
中世城郭遺構としてよりも、北茶臼山古墳の古代遺跡としての方が有名で、城跡全体は古墳と共に富岡高校の林業関係の演習林となっています。
山崎一氏の調査によれば、古墳が所在する東側の稜線部に郭および腰郭群が存在していたことが判明しています。
しかし四半世紀以前の「中世城館調査報告」当時においても遺構の残存状況は不良と明記。
そうした中で概ね明確な遺構として捉えられるのは北東部稜線の幅の狭い腰郭群が挙げられます。
無論南東の稜線部にも腰郭状の10段近い幅の広い腰郭状地形が認められます。
ただしこれらについては林道の築造や植樹などによる相当の地形の改変も窺えます。
また主郭とも考えられる北茶臼山古墳の南斜面にも複数の大規模な腰郭状の地形が散見されます。
こちらについても、植林或いはその日照条件から耕作地の開墾によるものという可能性も想定されます。
尤も、そうした腰郭状地形を確認するために滑りやすい落ち葉の斜面などを幾度か往復しましたので、実際には比高差にして軽く100m以上は行動していたことになります。
そうした事情もあってか、下り道では右膝関節部に明らかな痛みを発症(苦笑)
この時点で時刻は12時を大きく回り、次の目的地は確実な駐車スペースがないことから、約2.5kmを徒歩で行かざるをえないという事情も重なり、安全面を考慮し即帰還という選択枝も頭に浮かぶ状態でした。
凸浅香入城(群馬県富岡市) 13時00分から14時15分
それでも次の目的地に進むという気力を支えたものは北茶臼山古墳から眺めた浅香入山方面の遠景でした。
遠望する範囲では該当しそうな山容は3か所ほど。
当初はそのまま徒歩で城跡南部の谷筋ルートからのアプローチを想定。
しかし、独立丘陵最北端に所在していた額賀神社への階段を目にして急遽予定変更。
神社へ階段を上がれば確実に比高差を稼ぐとともに初詣も叶うという充実したプラン。
この方面からの比高差は約110m。
ひたすら城跡方面に向かい南下する稜線ルートは眺望にすぐれないことを除けば快適そのもの。
途中で以前から気になっていた平場状地形(たぶん耕作地跡)、複数の堀切状地形(たぶん里道)、竹林の中の切岸、腰郭状地形(不明)を通過。
この途中で大型哺乳類に遭遇を。
始めはその跳ね跳ぶ姿から野兎のようにも見えたのですが、点在する糞や体格の大きさからカモシカに間違いなく。
なお麓の注意書きによりますと、イノシシの出没も少なくないようでした。
肝心の城跡遺構として目ぼしいものは主郭北部の堀切。
北部に残存している腰郭も自然地形との区分が不明瞭。
主郭とされる部分は山崎氏の縄張り図よりもやや幅広の地形。
予想外のものは城跡南側斜面の岩場。
斜度自体は大したことがないものの、落ち葉で滑りやすく掴まるものもなく...
一度尾根筋を下りかけ、再び城跡南西部の鞍部へと下り、沢沿いの藪の状況を確認。
再び東側の尾根筋方向へと戻り、沢筋の旧道跡まで孟宗竹に掴まり下山。
下山ルートの比高差は約80mほどですが、明確な踏み跡は殆ど消失していました。
下山の間際から右膝関節痛に加えて腰痛も発生。
これに左足親指爪先の痛みも再発。
歩数計上では僅かに1万3千歩足らず。
なお、急斜面などでの慎重な動作は歩数計に反映しないことも判明。
さして比高差のない低山さえも、この疲労困憊ぶりに我ながら茫然自失。
筋力、心肺機能など体力面での衰えは最早確定的といっても過言ではなく。
残るは僅かばかりの気力と余り当てにはならない経験くらいのもの。
ある程度のレベルでの山城探訪が可能なのは、それ程長くも無さそうにも思えるのでありました。
凸根小屋城(群馬県富岡市) 午前8時50分頃から午前9時40分頃
今月18日に続く再訪
凸内匠城(同上) 午前10時頃から午後12時頃
今月18日に続く再訪
前回は未確認だった南東部から東側の崖線部にかけて踏査実施
凸八幡山の砦(群馬県甘楽町) 12時10分頃から12時40分頃
2008年に続く再訪
2年前の探訪であるにもかかわらず未だ未更新のまま(恥)
凸上野屋敷(同上) 12時45分から午後13時00分頃
2008年に続く再訪
ここも未更新
というか甘楽町12か所すべてが未更新(大汗)
方形館西側の見事なまでの土塁遺構は健在でした(嬉)
凸茶臼山城(群馬県高崎市) 13時35分頃から14時50分頃
堀切、横堀を備えた単郭方形のコンパクトな山城
城山団地側から上ると比高差が少なく有難いことこの上なし
このあとは本庄市(旧児玉町)のファミレスにて昼食兼夕食兼打上げ兼忘年会を開催。
ご多忙のところをご同行いただいた史進さん(企画運営部門担当)、儀一さん(困難調査、ナビ部門担当)に心より感謝申し上げます。
ん、恒例のスイーツを食べるのを忘れた(笑)
あえて高速は使わないので往復所要時間はおよそ6時間以上。
それでも2008年頃には、度々藤岡、吉井方面に出かけていたこともあったせいか思いのほか近く感じました。
当面の問題は気力は兎も角として、やはり脚力の低下現象。
一応昨年の冬には減量の成果も。
加えて主に下総方面に限定していたため、あまり露呈せずにいた問題。
今回は僅かばかりの切岸で降り積もった落ち葉のために滑落。
藪に足を取られ尻餅。
下った切岸をなかなか登れない。
と、つくづく足首回りの筋力低下を思い知らされることに。
凸根小屋城(群馬県富岡市) 10時15分から11時05分
東西を南流する蕪川の支流に挟まれた比高差30mほどの丘陵先端部に所在。
蕪川、庭谷城方面の眺望に優れた地形です。
ある程度の篠竹の藪を想定していましたが、南端部の上段腰郭が一面の枯草に覆われていることを除いて
、全体が耕作地として利用されているため表面観察をするうえでの支障はありません。
無論耕作に伴うある程度の地形改変が含まれているものと判断されますが、郭、堀切、空堀、腰郭等の形状は十分に把握することができます。
「中世城館報告書」などによれば、16世紀戦国期の城郭と推定。
「根小屋」の字名が残りますが、当該集落の規模は大きくはありません。
蕪川対岸方面を意識した戦国期の砦という性格なのかも知れません。
なお今回は西側の沢沿いのルートからアプローチしましたが、車の駐車スペースを確保するには東側の耕地を経由する方が便利なことを認識。
凸内匠城(群馬県富岡市) 11時30分から13時30分
蕪川の北岸に所在する根小屋城からは直線で4.5km離れた富岡IC近くまで移動。
蕪川支流である雄川が南と東を流れる比高差50mほどの丘陵東端部に占地。
上信越自動車道の建設等により、北側空堀跡の一部などが消滅している模様。
そうはいっても外郭部に穿たれた幅約15m、深さ6mに及ぶ空堀の存在は圧巻。
強いて言えば竹林のため些か見通しに難点もあるような。
南斜面に削平された腰郭群にも見応えが。
それらに伴う切岸もほぼ現役の機能を有し、一度降りたら登るのに難渋(汗)
複数の縄張図に記された遺構の残存状況を照合しながら、南辺の遺構に沿って西進し、空堀2本を横断しつつ土橋状地形を確認。
そのまま外郭の空堀を北進して城外へと脱出。
西方の雲量を見る限りでは、実質的な日没時間までには少なくとも2時間近くの余裕も。
しかし、問題は足首の筋力の欠乏の方で。
己の力量を睨んで、元々2か所に絞った計画。
上信越自動車道に架かる陸橋の上から妙義山方面の絶景を撮影して撤収。