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集落内という事情もあり、駐車スペースの確保の如何が皆目不明。
このため邑楽町の図書館に駐車して、この際徒歩で回遊することにしました。
尤も自宅を出発したのは、午前9時過ぎという体たらくで、現地に到着した時刻は既に午前11時20分でした。
夏の間は結構早起きをしておりましたが、肝心のこの季節になり寝坊の癖が復活したようです(苦笑)
凸鶉城(群馬県邑楽郡邑楽町、以下同様) 12時20分~12時40分
古城の面影を今に伝える鶉古城とは異なり、遺構は集落内の旧家の宅地境という状況。
加えて屋敷林と藪とが相俟って、堀跡と土塁を覆い隠しておりました。
とはいっても遺構が現存するのは、僅かに宅地の西側側部分のみ。
これとても西側隣地の景観の変容は間近と思われ、もはや時間の問題なのかも知れません。
また、かつての堀跡と推定される外郭部は道路改修などにより、すっかり整地されておりました。
凸千原田塁 13時20分~13時35分
近年の河川改修事業により、遺構はほぼ消滅している模様です。
これといって踏査できそうなところもありません。
強いて挙げれば河川北側の屋敷林内付近なのかとも思われますが、宅地内であることに加えて見通しに難点がありました。
止むを得ず付近の長良神社で参拝の上社殿を撮影。
ついでに、「千原田橋」と刻まれたネームプレートなども撮影して撤退を。
凸藤川館 14時20分~14時25分
今回の回遊した中では、最も遺構の存在が期待された城館でした。
その形状は方形館の北東部を三角形状に切り落としたような恰好。
幅5m弱、深さ1.2mほどの堀跡が明確に残っていますが、ここも屋敷林や周囲の宅地に囲まれています。
そのため西側、南側の状況は何とも分かりかねました。
凸横田屋敷 14時35分~14時40分
かつては堀跡と郭状の地形が確認された模様ですが、現状は宅地開発等で完全に消滅しているようです。
撮影する場所もなく、ここでも近くの四祀開神社で記念撮影。
午後3時前とはいえ大分日が傾き始め、画像の明暗処理が必要となってきました。
凸秋妻屋敷 15時05分~15時25分
手元の資料からは複郭の城館であったことが推定されますが、こちらも集落内の遺構のため宅地化等に伴い残存遺構はごく一部分に限られていました。
明確な遺構は祠が所在する北側に背丈ほどの土塁状の地形を確認できます。
このほかには西側の民家境の幅1.8mほどの宅地の排水機能を兼ねたような堀跡状地形くらいのものでした。
回遊中は、このところの諸事情により一切飲まず食わず仕舞い。
万歩計によれば、歩行距離は約2万9千歩で、およそ20kmほど。
今月初めの寺尾城の比定地めぐりでは、早くも1万3千歩付近で足に疲れが。
今回は2万歩付近でどっと疲労が発生。
何といっても、邑楽町のシンボルタワーまでの道程の遠かったこと...
それでも午後5時前には図書館に到着したので、さっそく予定通りに邑楽町誌などの複写申請を実施。
なお、この方面はざっと3年ぶりのため、国道407号線と県道66号線を通過するルートも忘れがちに(汗)
現在HP掲載の比定地の出典は「新編武蔵風土記稿」の記述そのもの。
ところが最近、掲示板への書込みを契機にして、「武蔵志」「武蔵野話」では勝福寺付近を示唆していることを確認。
さらに、「入間郡誌」では氷川神社付近を示唆...と近世地誌類などの表記は実にまちまち。
そのような次第でかつての新河岸川支流と推定される河岸段丘沿いを水源地付近から徒歩にて踏査。
5月以降はまともな運動をしていないので老化した筋力を活性化させるには絶好の機会かとも(苦笑)
■曹洞宗東光寺 10時45分から10時50分
諏訪神社の別当寺を兼ねていました。
■諏訪神社 11時15分から11時30分
所伝の創建年代の古さ、比高差約5mの段丘に関心が湧きますが、寺尾城の比定地としてはやや地理的な諸条件を欠くようにも思われます。
■勝福寺、日枝神社 11時40分から12時15分
社殿北側の土塁は如何にもそれらしい佇まいを見せておりました。
現在の勝福寺の境内地付近までで消滅しているのが、後世の地形改変によるものなのかどうかが気になります。
日枝神社境内の東側崖線部も何やら訳がありそうな形状をしておりました。
勝福寺の境内地の位置が、「武蔵野話」に掲載されている挿絵と異なり山麓(段丘の麓)付近に描かれており、このあたりの事情にも何か鍵がありそうです。
■寺尾城(日枝神社) 12時45分から12時50分
6年ぶりの再訪です。
以前と比べ、あまり大きな変化は見られませんでした。
有力な比定地ではありますが、勝福寺、日枝神社と比べますと木々の少ない分城跡らしさに欠けるようにも思えてきました。
■氷川神社 13時00分から13時15分
比高差4mほどの舌状台地の先端部に占地。
神社の普請に伴う地形の改変は各所に散見。
西側社殿裏の土塁は神社の普請に伴うものと思いつつも見事な造形。
歩行距離は約13kmで約1万8千歩。
帰路の1万5千歩辺りから膝にどっと疲労が集中。
予想以上に足回りにガタがきていることを痛感しました。
また肩の痛みについては、背中の荷物の着脱に支障のあることが明白に。
凸村井貞勝邸址 6時30分
推定地は三条通商店街のど真ん中。
無論遺構跡の痕跡などは皆無。
日中は人通りも激しいため、朝日に照らされた無人の商店街の風景を撮影。
■本能寺信長廟 6時45分から7時00分まで
複数所在する信長廟のひとつで、現在の本能寺境内本堂の東側に所在。
この地を訪れたのは高校の修学旅行当時なので、たぶん43年ぶりのはず。
当時宿泊した記憶のある本能寺会館の宿泊施設も健在。
信長、信忠父子とともに討死を遂げたとされる家臣名簿を確認。
■京都御所 9時20分から9時45分まで
昨日に続く再訪。
今度は確実に発掘された石垣の復元遺構と対面。
下立売御門よりもひとつ南側の門跡、御苑側から見て向って右側の土塁部分に所在。
石柱にはめ込まれた説明板も所在。
凸花の御所 9時50分から10時10分まで
足利義満の時に栄華を誇った将軍家の御所跡。
現在は理容店のある南西角に石柱が設置されているのみ。
凸淀古城 11時20分から11時30分
京阪本線を利用しての移動。
観光地の喧騒とは無縁の小鳥がさえずる静かな佇まい。
秀吉の側室となった淀君の産所とも。
妙教寺こじんまりとした鐘楼前には、ひっそりと城址碑が設置されておりました。
凸淀城 11時40分から12時00分
今回の遠征?では唯一城郭本などに掲載されているそこそこ著名な城跡。
内濠の一部と天守台などの石垣遺構が残存する城址公園。
周辺は宅地化が進み石垣自体にも各所に痛みが散見されましたが、内桝形などに近世城郭としての雰囲気は残されています。
ここで白ネコの城ネコさんと恒例の御対面。
残念ながら大坂城や山形城ほどには懐いてはくれませんでした。
とはいえ脱兎のごとく逃走もされず、石垣上の植込みの中でじっと気をころしていました。
この時点で昼食や京都駅までの往復時間を考慮し、徒歩往復6kmの勝龍寺城を計画より除外。
単独行ならばそのまま昼食抜きで歩きぬくことも考えておりましたが、同行者もありタクシーも見つからず断念。
所用が予定よりも早く済み、2日目の午後からは京都市内の史跡を探訪。
いわゆる観光地には余り接近せずに、あくまでも概ねひたすらに石碑、石柱を求めて歩くという構図。
■東本願寺
烏丸通を北上するというルートの必然から撮影をしてみたまでです。
凸本能寺跡 12時55分から13時05分
かの有名な事件の現場。
最も最初に訪れたかった史跡でもありました。
無論、遺構などは皆無。
また所在地も町名(元本能寺町)などからの推定の模様。
堀川高校の周囲に石柱、石碑が各1か所設置されておりました。
跡地とはいっても、著名な事件の史跡としてはやや寂しい印象がなくもなく。
■茶屋四朗次郎邸跡 13時15分から13時20分
徳川家康に関与した著名な京都商人の邸跡。
南蛮寺を探していたら、偶然民家の塀沿いに説明板が設置されていた。
■南蛮寺跡 13時30分から13時35分
信長が庇護したイエスズ会のキリスト教寺院跡とのこと。
所在が分かりにくく、地元の方に伺っても不明だったのは想定の範囲。
通りの名称から追っていき、ようやく確認に成功。
然し肝心の石柱は自転車とバイクの陰に隠れて埋もれて...
凸二条御新造跡 14時55分から
織田信忠が数百名に及ぶ家臣団とともに討死を遂げた史跡。
京都国際マンガミュージアム(旧龍池小学校)の校門脇に石柱。
現在史跡であることを示しているものはこれだけらしい。
■妙覚寺跡 15時05分から
本能寺の変当時に織田信忠の宿所となっていた日蓮宗寺院跡なのですが、現在の町名で残されている以外には往時を伝えるものは無さそうでした。
■東三条院殿趾
詳細は分からねども史跡は史跡(汗)
凸妙顕寺城跡 15時10分から15時15分
秀吉が築いたとされる二条城東側の城跡ですが、西福寺境内の南側(押小路通)に石柱と解説板が設置されているだけです。
通りからは二条城の南東櫓も見えましたが、サクラのライトアップをしているような観光シーズン。
ある程度の混雑が予想されることから、遠くから一瞥したのみで東方向へとUターン。
凸足利義昭邸跡 15時40分から15時45分
平安女学院北西の一角付近に石柱と解説板。
当該解説によれば東は京都御苑の敷地の一部にかかるほど広大な規模を有していたようです。
以前はフェンス越しの御対面だったようですが、現在では画像のように改善されておりました。
凸京都御所
足利義昭邸の復元石垣遺構を探しに行ったのですが、終始分からず仕舞いのまま(汗)
止むを得ず蛤御門へと移動し、禁門の変の戦跡見学へ。
たしかに旧式銃と思われる弾痕らしき窪みが門扉や門柱のそこここに散見。
■在原業平邸跡
ボーッと信号待ちをしていたら、目の前に石柱が設置されておりました。
本日3度目ですが、それだけ歴史的な史跡の密度が高いことの現れなのでありましょう。
同行者は諸事情により途中でリタイア。
この日の歩行距離は凡そ約20kmほど。
2年ほど前の頃に比べて、膝ベルトの未装着も影響したのか愈々足回りの方は確実に衰えが...
史跡の所在地の特定と移動に予想以上の時間を消費することが判明。
このため翌日の予定を大きく変更することを余儀なくされました。
前回の経験からストック、ヘルメット、ゴーグル+αという装備に変更
凸藤田城(富岡市) 10時00分から10時25分
二ツ山城への経路のため必然的に通過。
そのついでに堀切跡と南尾根腰郭並びに削平地(戦後の植林等に伴うものか)を確認。
凸二ツ山城(富岡市) 10時35分から13時10分
前回は消化不良気味に終始したので、再訪にあたり地形図を詳細にチェック...したはず。
しかしその結果は捗々しいとはいえず。
乏しい成果の内訳は、前回の地形の北西に続く「堀切1条」(下記画像)と「削平地」(8m×25mほどの郭状の地形)だけでした。
今後における気力・体力を勘案すると、この先3度目の調査は無いものと思い、標高約550mの「二ツ山」そのものの山頂部自体も確認しましたが、山崎一氏作成の縄張図に相当する地形はとうとう見出せませんでした。
都合2回の調査結果を概念図に表しますと、完全に2か所の遺構群に分かれてしまうことから益々同氏の縄張図(単郭、腰郭)からは遊離していくのであります。
ことによると、「中世城館報告書」の編纂過程で何らかの齟齬があったというのも一つの見方なのかとも。
こうした点については藤岡市の三ツ山城に酷似しているようにも。
未だ日差しは高く、風もなく穏やかな日和。
日没まではたっぷり時間があったものの、急斜面を連続して上り下りしたことにより足回りが限界に。
このため以上2か所の再訪のみに。