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早朝の午前5時当方自宅にて史進殿と集合。
この季節になるとすでにあたりは夜明け前。
予定通りに国道16号線から県道3号線を経由し、久喜インターより東北道を北上し一路米沢市を目指した。
途中2度の休憩を挟んだものの約5時間半で山形県米沢市内に到着した。
小生は山形県は2009年5月に続いて2度目で、当時米沢市内は「天地人」の混雑を避けるべく通過したのみなので殆ど初めての地であった。
凸館山城 (山形県米沢市) 10時40分から12時00分
城域は大きく分けて土塁と空堀(堀切)により東西方向3ブロックに分かれている。
数年にわたる主郭部の発掘作業により残存する土塁には石積が大量に包含されていることが判明したところである。
現地解説板などによれば関ヶ原合戦前の上杉氏による改修の可能性を示唆している。
主郭を中央部と見るか東郭と見るかで見解が分かれているらしいが、これほど大規模な石積内枡形の配置を見る限りでは東郭を主郭として考えるべきなのだろうか。
北側斜面に刻まれた横堀遺構、西の郭と中央の郭を分かつ高さ最大6メートルの土塁の存在も見事である。
訪城時点では発掘に伴い除けられた川原石が放置されたままであったが、今後は過度に公園化整備されることなく、適正な史跡としての保存活用が為されることが望まれる。
郭内には折しもカタクリ、イチリンソウ、ショウジョウバカマなど春の野草が開花しはじめていたので、いささか足の踏み場に難渋することとなったが、これらの野生植物の保護を含めた城址整備保存計画等がすすむことを望みたい。
帰り際には東の郭におかれたやや傾きかけ錆び付いた古いサイレンが正午の時報を報じ、南側の水力発電所に付属している階段から退城させていただいた。
凸館山平城 (同上) 12時25分から12時55分
「中世城館調査報告書」によれば、館山城と一帯をなす平地の居館と考えられている。
報告書の調査が行われた20年前には南北方向に通称「並松土手」と呼ばれる高さ4メートルの土塁が若干残存しているとの記述があった。
しかし該当地を歩いてみた限りではすでにその形跡は消失しており、僅かに土塁東側に付属していたと見られる堀跡状の窪みが確認されたのみであった。
凸成島館 (同上) 13時20分から13時55分
成島八幡神社が所在する比高30メートルほどの南へと延びた台地先端部に所在している。
北側台地続きには明瞭な二重の空堀が配され、西側に折れた付近では現状では水堀となっている。
また西側小口枡形付近では湿地帯を含む一部3重堀からなる防御構造を確認できる。
しかし、北側台地続きは公園化により大きく地形改変されていることから、この方面における地形上の弱点をさらに補強するような痕跡を確認することはできない。
同神社の棟札からは戦国末期伊達氏等のものが確認されているという。
凸三月在家屋敷 (同上) 14時10分から14時20分
最上川支流の鬼面川西岸、成島館の北方に所在する平地の城館跡で、この付近には他に正月在家から十二月在家までの暦を示す旧地名が残っているという。
北側と西側の土塁はしっかりと現存していたが、以前には存在していたという寺と民家の間の西側土塁に続く南側の土塁部分については概ね消失していた。
西側どるいには付随する空堀跡が明確に残存していた。
伊達氏時代の地侍階層の居館跡なのだろうか。
このあとは米沢市内東側へと移動した。
凸羽黒神社館 (同上) 14時50分から15時00分
周辺は羽黒川と天王川に挟まれた南北に長い平坦地であり、比高差約15メートルほどの東西方向に伸びた楕円形の独立した小丘陵に占地し羽黒神社の社殿が現存している。
遺構は主郭の他に複数の腰郭と帯郭を北側斜面に確認できるが、残る三方向の斜面は傾斜がきつく特に南側斜面においては這い上がることが難しい状態であった。
凸川井館 (同上) 遠景撮影のみ
北東部は土砂の採掘により消失しており当該遺構の残存具合と約50メートルという比高差を考慮して現地踏査を省略した。
茂庭氏(鬼庭氏)に関連する館ともいわれているとのことである。
凸上谷地館 (同上) 15時10分から15時15分
県道235号線の東側に隣接した方100メートルの耕作地。
北辺の用水路付近には堀跡の名残が見られなくもない。
南東部の角部分には土塁状の痕跡がある様にも見える。
別名を安倍館ともいう。
凸前田屋敷 (同上) 15時40分から15時45分
晩年の慶次が暮らしたと伝わる屋敷跡で、現在は民家の敷地となっている。
南西角付近に土塁と堀跡状の窪みを確認することができる。
凸太郎兵衛屋敷 (同上) 15時45分から15時50分
慶次縁の屋敷跡とつたわる。
文字通りの屋敷跡であり現況は耕作地となっている。
●慶次の湧水 (同上) 15時55分から16時00分
前田慶次の屋敷が使用したと伝わる湧水で、現在でもその水量は極めて豊富であった。
凸堂ノ森館 (同上) 16時05分から17時20分
堂ノ森山の南東尾根筋下部に堀切、平場、複数の帯郭状の地形を有することになっている。
しかし4月下旬とはいえ薮が酷く足下も不良。
ここで小生は此の地にて些か熱中症気味となって暫しの間休息を。
この日の気温は摂氏28度以上だったかと。
凸我妻館 (同上) 17時25分から17時30分
水分補給を行い、気を取り直して近くの平地の城館跡の探訪を再開。
この20年ほどの間に南側を中心に残存していたとされる土塁、堀跡遺構ともに宅地化に伴い完全消失。
堂ノ森館の居館とも推定されているが。
凸原田館 (同上) 17時30分から17時50分
伊達騒動で有名な原田甲斐の居館とも伝わるが詳細不明。
二重方形館としての遺構が杉林のなかにひっそりと残存している。
思えば翌日「クマ」事件のあった木和田館から見ると低い尾根筋を挟んで僅か1キロメートルの至近距離なのであった。
青梅市内では完全な雨模様であったが、神奈川方面を南下し七沢あたりに至り曇り空へと変わった。
以後は大きく天候がくずれることなく降雨に見舞われず天候に恵まれた訪城となった。
帰りがけには恒例のネコさんとの遭遇あり。
いくぶん遠景での撮影となったが、これも大切な収穫なのである。
凸御所八幡宮 14時40分から15時20分
荘司屋敷の北側に所在する比高差30メートルほどの丘陵先端部上に所在する八幡神社境内も中村氏屋敷跡として推定されている。
社殿へ通じる石段の奥行きがことのほか狭く、帰路では手摺りを頼りに下りる羽目となった(汗
現地には館跡に関する解説板が設置されていた。
頂上部の地形を確認したい気持ちもあったが、あろうことが僅か5メートルほどの斜面を這い上がっただけですでに体がいうことを聞いてくれないのであった(@@;)
下記の画像は谷津中心部から西側の丘陵を撮影している。
ひさしぶりに体を動かしてみて、心肺機能、筋力の低下を思い知らされることとなってしまった。
このような老体をご同道、ご案内いただいた史進殿に感謝。
※主な参考資料は下記の通り
「中井町誌」中村氏館関係
「千葉・神奈川の城郭」(城郭大系)鴨沢要害関係
「中井遊歩」(中井町作成のパンフレット)
たぶん2011年の春先以来なのかと記憶しております。
凸井上外記の陣屋(愛川町)午前8時30分から9時30分
しかし崖線に刻まれた古道を除いて明確な居館遺構は確認できません。
寺院境内は中津川西岸の河岸段丘中腹に所在していますので、近くに複数の渡し場跡が所在することから河川通行監視の役割も担ったのでしょうか。
麓からは比高20メートル程の台地ですが、崖線は現在でも湧水が豊富なので居館の条件としては条件が整っていたことが窺われます。
ここでは児童館近くの道端で貫禄のある地域ネコさんとご対面。
なお台地上部には北西から南東にかけて広大な平地が広がり、かつては「日本陸軍中津飛行場」が所在していました。
ここも比高差は約20メートルほどですが、南側の台地続きの部分を除いて接近が困難な崖線を形成する要害地形となっています。
なお主郭内は私有地の耕作地となっていることから、関係者の方がおいでの場合には必ずご挨拶を。
■三増古戦場 午前10時30分から10時35分
この場所は2度目ですが、本日は快晴で史跡めぐりにはまことに絶好の天候でした。
中学校校舎の北側には八幡社の祠が祀られ腰郭状の地形が確認されるが、城跡との関連は明確では無いようです。
この田代城からも「館山」方面の眺望が良好です。
いくぶん樹木に覆われてはいますが、延長20メートルほどの堀切状地形を確認できましたが写真撮影には不向きな現状となっていました。
そのあとは主郭南西部の土塁残欠遺構(宅地、墓地の隣接地)を拝見し、土塁の北西部先端には櫓台跡とも推定される場所が残され小祠が祀られています。
主郭南西部分は国道412号線の建設工事により、かつての堀切遺構は道路敷となってほぼ消滅している状況でした。
始めは国道南側の小学校跡?の台地付近を訪れて、ものすごく人なつこい2匹のネコさんと出会いました。
このあとは当初の予定通り、宮ヶ瀬ダムの愛川町資料館へと赴き関係資料の収集調査を実施。
このように五輪塔の捜索には些か時間を要しましたが、国道412号線北側の崖線中腹の御嶽神社と猿田彦大神の間に所在する個人墓地の中に所在していました。
水田地帯に張り出した低台地の先端部分を利用した江戸時代中期天明年間に築造されたと推定される近世陣屋跡です。
宅地化や道路建設などにより大きく地形が改変されているようですが、稲荷神社や井戸など往時の面影が残されていました。
台地先端の一部が城址公園として整備され、立派な石碑をはじめとして解説、案内板が設置されておりました。
午後からは北側から流れた雲が次第に大きく西側に広がりはじめ、この時刻には早くも日没を予感させるような天候となりましたので、本日の踏査作業はこれにて打ち止めに。
例によってこれを記述しているのは、実は2日後の19日(月)であります。
わずか2万歩足らずの 行程であるにもかかわらず、当日はそのまま爆睡してしまいました(@@;)
翌日は画像整理だけで作業終了。
3月下旬は福島県白河方面遠征。
5月上旬は群馬県ミニオフ参加。
9月中旬は山梨県ミニオフ参加。
11月には茨城県結城市へ。
ご同道いただいた皆様には、こころより感謝申しあげます。
かくてこの12月には3年ぶりとなる京都市内彷徨を敢行。
今年訪れた城館数は50個所弱くらいになりました。
そのなかで事実上の単独行は京都の一度のみ。
目眩に見舞われた2012年に比べれば探訪の頻度はいくぶん回復傾向に。
懸案だった新幹線乗車もなんとか可能になりました。
体力の衰えを切実に感じる昨今、来年はできるかぎり遠出をしてみようと思います。
出不精を克服して目標出陣回数は10日以上を目指します。
みなさま よいお年をお迎えくださいませ。
京都滞在3日目は前日の予報以上の快晴となった。
いささか北風が強かったものの最高の空模様に。
昨日は雨に煙っていた京都タワーもこのとおり。
しかし皮肉にも本日は午後3時の新幹線で帰らねばならないのでありました。
また家内と行動を共にする関係上から次の様な行程となった。
●大丸京都店にて「相棒展」(笑)
あくまでも時間調整のため。
■京都国立博物館
今年の9月に新館の平成知新館が開館したばかりなので3階から順に1階までくまなく国宝、重要文化財等の所蔵品を見学し、併設されているレストランにて昼食。
下記画像は明治28年建築の重要文化財指定となっている旧館。
とはいえ、そもそもこの地は秀吉ゆかりの旧方広寺の寺域でもあり、当時の石垣や著名な鐘楼も残存している。
この画像は平成知新館前に復元された往時の石塁跡のラインとのこと。
こちらは残存している方広寺の西側石塁の画像。
こちらは博物館北隣に所在している豊国神社の国宝に指定されている唐門で、伏見城より移築されたされたものと伝わるという。
こちらはかの有名な方広寺の鐘楼と釣鐘。
今回収集した城郭関係資料はあくまでも京都市内が中心となった。
とはいえ、寺構えをふくめて300個所近い城館資料を確保することとなった。
また少なくとも京都市内の公共的な交通事情もある程度理解することができた。
動ける年月も考慮に入れ、この際は春先の桜の季節前に再訪すべく探訪計画を練ってみようとも考えたのであった。