本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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2日目は連日の猛暑のなか、やや遅めで宿を午前8時頃に出発。
途中にて朝食と経口補水液などを購入し会津若松市内から会津坂下町方面へと足を伸ばした。
しかし如何せん体重増加のため些か足回りが重たい。


横沼柵(会津若松市) 午前8時45分から
神指城の北北東約1.5キロメートルほどの地点に所在する市内神指横沼の集落北部に所在する。
神社境内が目印で境内の南西側に土塁状の地面の高まりと北西側に堀跡と思しき窪地などが認められるが、城館遺構との関わりについては推測の域を出ないものなのかもしれない。

 
   南西側土塁状の地形 
 
 
 
束原館(会津坂下町) 午前9時20分から
「中世城館調査報告書」によれば、複郭の方形館であるとの記述があるが、現状の地形からは集落をめぐる用水路の存在と小祠の所在する最高約2.5メートルほどの土塁状地形を確認するにとどまった。


  祠近くの土塁状の地形



細久名館(会津坂下町) 午前9時35分から
集落の南端で共同墓地のさらに南側約60メートルに所在する集落北部に土塁状の表面地形確認できるが、遺構としての規模は方50メートルほどくらいでさほど大きくはない。
おそらくは日蓮正宗妙福寺境内ではないかと推定されるが、このほかにも南端の道路沿いの民家前にて土塁に似た地形を見ることができる。

 



海老沢東館(会津坂下町) 午前10時00分から
 「東屋敷」との通称がのこされており、海老沢集落の東端に所在する数軒ほどの集落内に所在するものとされているが、多分このあたりであろうという推測の域を出でず。

 
   東屋敷付近の景観

 
 
海老沢西館(会津坂下町) 午前10時15分から
前者の西側の集落に所在すると考えられ「西屋敷」との通称名が残されている。

 
   西屋敷付近の景観




雲雀城(会津坂下町) 午前11時00分から
空堀、主郭、小口、土橋などが現存している只見川右岸の崖地に所在する城館跡。
堀幅数メートル、深さ最大6メートルほどの空堀一本により東側と北側を台地から隔絶した構造となっており、藪などのため確認しづらいが比較的シンプルなつくりとなっている。
城氏が構築した会津8館のひとつとされており、このほか城域には複数の古墳も所在する。
訪問ルートからは幾分外れた地域に所在し、入り口付近は大分夏草に覆われてはいたが、本当に訪れてみてよかった城館跡のひとつであった。


    東側空堀と小口


陣が峯城(会津坂下町) 午前11時50分から
古代末期から中世初期に起源を有するといわれている城氏の館跡。
耕作や40年ほど前の地域公民館建設などによりある程度郭内の様相が改変されている模様だが、台地端を利用し二重の空堀を廻らしてその地形的な独立性を図ったという意図が伝わる貴重な遺構。
季節が違えば藪に覆われ気味な空堀の印象もだいぶ異なるはず。


     二重の空堀




この時点でおりからの猛暑に加えて空模様が気がかりな様相も加わり、喜多方方面への進出を断念し会津坂下町から会津若松へとUターンすることとした。
この時期「ところにより雷雨」という天気予報はことに悩ましいものである。



生江館(会津坂下町) 午後12時25分から
集落内に居館、集落北西の古墳に砦跡が現存し、古代から栄えた地域であった経緯が窺えた。
現状では水田面との比高差は目測で約8メートルほどを測るのみだが、往時には亀ケ森古墳周囲の堀跡が機能して、より比高差を伴っていたであろうことが想定された。
稲荷神社と観音堂とが所在する前方後円墳の円墳部分が中世の砦跡で、方墳のほうは地元の墓地として大きく改変されていた。
なお飲用には向かない印象もあったが古墳麓の水場で首を冷やし人心地つく。
遅きに失してはいたが、帽子の下に濡れたハンカチを被り日射を防ぐ方策が熱中症の防止に有効であることを思い知ることとなった。
朧げながらこの日の暑さのピークはこの時点であったと記憶。


    戦国時代の砦




青津柵(会津坂下町) 午後12時50分から
生江館東隣りの位置にあるらしいが城館としての経緯などは詳細不明。


   推定地付近の景観




金上館(会津坂下町) 午後13時25分から
館跡北西部の北辺と西辺を中心として大規模な土塁が現存しているが、葦名氏重臣金上氏の館跡にしては思いのほか控えめの方一町の規模なのであった。
館跡北側に所在する境内地の広い金上寺では折から法要の真っ最中。
南側の集落の道路からは城館跡であることがやや分かりにくいという印象が残った。


  北西付近の土塁と堀跡



ブックオフに立ち寄ったのち、となりのラーメン店で幾分遅めの昼食を摂取してほんの少しだけ元気回復モードに。


小 館(会津若松市) 午後15時18分から
伊達政宗暗殺未遂事件の現場と伝わり、当地にはその名も「小館稲荷神社」が鎮座している。
現地説明版あり。


    小館稲荷神社




この後は空模様と猛暑による体力の減衰を勘案し休養のため宿にて一時仮眠することとした。
2時間ほどの休息ではあったが、確実に気力だけは回復を果すことができていた。

その後は日没近い午後6時30分頃から活動再開。



直江兼続屋敷(会津若松市) 午後18時34分から
市街地の一角に上杉家会津移封後に足かけ3年ほどの間直江山城の屋敷があったとされる場所であわせて山鹿素行の所縁の地でもあった。


   直江山城守屋敷跡



会津鶴ヶ城(会津若松市) 午後18時51分から
黄昏時から日没後の外堀、内堀、天守、二の丸などを次々に訪問したが、人影は皆無に近くとりわけ石垣と土塁のシルエットが印象に残った。





夕刻からの市内散策の後、いくぶん遅めの夕食となった。
昨日に続き、同じ日本蕎麦屋さんで再度「とろろ蕎麦」をいただいた。
何故日本蕎麦が2日続いたのかといえば、自分としては10割蕎麦が美味かったことと猛暑のためほかの食物を胃が受け付けなかったことによるものでもあったのであろう。
就寝前に足回り保持のため携行してきた専用バンドエイドを装着。
って、昨日貼るのをすっかり忘れていただけなのではあるが。

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梅雨が明けて連日の猛暑が続くなか福島遠征のこの日を迎えた。
かねての予定通り午前6時拙宅集合。
今年に入って4月末の米沢、会津につづく2度目の東北遠征。
史進さんのご案内により郡山市を目指し一路東北道を北上。
米沢の時には往路で5時間半だったが、今回の郡山市まではわずか3時間半ほどで到達。
思えば郡山は2008年6月以来となる再訪。


水神館(郡山市) 午前9時30分から
東北道郡山インター南東丘陵の南東端に所在し、丘陵続きの北西部には県立郡山養護学校および福島県養護教育センターが隣接している。
また周辺は近年著しく宅地化が進行しており公園化されているとはいえ市街地の遺構を伴う城館跡として貴重な存在となっている。
比高約8メートルほどの丘陵の麓には水路が流れ地形としての優位性が伝わり、周辺には坦ノ腰、上ノ台などの地形、城館にかかわると思われる地名も残されている。
なおかつて文化庁が主導した「中世城館調査」などには含まれてはいない。
郭内は児童遊具が設置されてはいるが、折を伴う土塁跡も明確に残されており戦国期の砦跡にふさわしい遺構である。





向 館(郡山市) 午前10時00分から
現在ではおおむね宅地化されて地表に確認できるような遺構は殆ど存在していない。
然し当地にはいまでも「字向館」の地名が残されており、住宅内のカーブミラーなどにその地名を見ることができ、館跡の北部丘陵には当地を治めていたといわれている富田氏の墓地も所在していた。




富田山王館(郡山市) 午前10時40分から
 天正16年(1588)6月安積方面に侵攻してきた2万を超えると伝わる佐竹・蘆名勢に対して、伊達勢が寡兵(恐らく数千人規模か)を以て持ち堪えた「郡山合戦」(「窪田合戦」とも)が行われたという。
郡山駅近くの山王神社が伊達氏本陣ともされているが、こちらも同じ山王神社であり中世城館跡のひとつと考えられていることから立ち寄ることとさせていただいた。
北側が台地へと続く比高差8メートル足らずの丘陵先端部に山王神社境内が所在しているのみで明確な土塁などの遺構は確認できないが南側を向いた境内からは郡山市街方面が観望できる地理的環境にあった。



 
鹿島館(郡山市) 午前11時00分から
あまり期待しないで立ち寄ったが、丘陵東側の鹿島神社側には土塁跡、複数の腰廓、城道と思しき形跡が確認でき望外の収穫となった。
郡山市立行健第二小学校南方の半独立丘陵に所在している。
東側に谷津田が深く入り込む地形で丘陵と南側市街地の比高差は最大15メートルほどを測り南方方面の眺望に優れた環境にあった。
一帯には鹿島舘という古地名も現存している。


 
 

尾無館(郡山市) 午前11時30分から
日和田古館西側の丘陵に所在する数軒ほどの人家からなる大原集落内に、土塁と堀跡状の地形が僅かばかり断片的に残されている。
むろん往時の遺構に関係するものであるかどうかは分からない。
ちなみに「まほろん」に掲載されている遺跡データベースでは日和田古館の位置に重複しているが所在地自体は大原とされている。
また集落の北側を流れる用水路の対岸に「尾無館」の地名も残されているが、その地点は「黒沢古館」の所在地に重なってしまう。





日和田古館(郡山市) 午前11時40分から
藤田川南岸河岸段丘上に所在している。
現状の地形からも約50メートル四方の比較的小規模な方形館が想定でき、南辺を除いて堀を確認できる。
安積郡の有力領主であった伊東氏一族の居館であったことが推定されているようである。
多分この時刻くらいから次第に暑さが堪えはじめてきたというおぼろげな記憶がある。
おりしも東側の堀跡には白花の蓮が満開を迎えあたかも極楽浄土の盛夏を髣髴とさせるような景観が眼前に広がっていた。




黒沢古館(郡山市) 午後12時05分から
平地に所在していた城館跡の宿命ではあるが、現地はおなじみの圃場整備により旧来の面影は皆目消失せり。
暑さはこの時がピークの一つだったような記憶が。
蓮池となった先の堀跡や小休止した近くのビオトープで開花していた白蓮の花が目に眩しく焼き付いていた。




日和田館(郡山市) 午後12時30分から
「郡山の城館」(垣内和孝著/歴史春秋社)によれば南側を中心にして方形館に伴う堀跡、土塁、土橋などの遺構が良好に残されていると記されている。
東北本線日和田駅の北西に位置する丘陵東端部に所在し明瞭な区画をなしていることが窺えるものの、この季節は入り込むのが困難なほどの藪になっていた。
捲土重来を期すとしたいところなれども、果たして再訪の機会が残されているのか些か心もとない年代となってきた。




日和田背戸館(郡山市) 午後13時00分から
日和田館の東北本線を挟んだ南東の最大比高差約20メートルほどの独立丘陵に所在する。
現況は八幡神社の境内となっており、一部に土塁跡、腰郭跡と見えなくもない地形的特徴を残している。
駅前に駐車したついでに、日和田駅前の郡山市図書館分館に立ち寄り資料収集。





高倉城(郡山市) 午後13時35分頃
比高差約120メートルの比較的コンパクトな山城。
車で行けるらしいが、季節がらここははじめから直接探訪するという予定はなく、当初の予定通りに西側の麓および北側から遠景のみを観望して終了。
探訪する季節を変えて再訪する計画を立てるという楽しみにつながったと記しておこう。




仁井田館(本宮市) 午後13時45分から
高倉城の北方約1.5キロメートル地点に所在する河岸段丘のような微高地に占地している。
城館名となる仁井田は城域として推定されている南西側の5軒ほどの小集落の名称である模様。
ここから北隣の本宮市内に入ったのだが、めぼしい遺構がないようなので端からササッと車で見て確認を終了した。
後から気が付いたのだが、仁井田集落を周回する地図上の道路の形態の方が気になってしまった。
 
   
 
 
瀬戸川城(本宮市) 午後14時05分から
昭和40年代まで瀬戸川北岸比高差12メートルほどの丘陵南面に所在していたというが、削平盛り土などにより台地そのものの地形が大きく改変されているようだった。
「本宮町史」などの資料と現地をを照合してみると、おそらくは開析谷などの位置から桝形地区住宅地東側児童公園に説明版がある場所あたりが遺構の北端部に相当するのかもしれない。
児童公園の一角には防火用水槽が設置されているが、もとより遺構とは無縁な存在であろう。
台地南面に比高差を有すする3段の郭が階段状に構築されていたとされているが、葦名氏の侵攻を意識した伊達氏による戦術的な砦跡であった可能性は大きいのかもしれない。




日輪寺(本宮市) 午後14時30分から
会津葦名氏との合戦時における伊達正宗の陣城跡といわれている丘陵に所在している寺院で周囲の眺望に優れていた。
木陰を求めつつ彷徨するなか、境内の駐車場に日陰が残されていたことにほっと安堵のため息が漏れた。




人取橋の合戦場(本宮市) 午後15時から
国道4号線西側の瀬戸川南岸に茂庭左月らの墓碑が建立されている。
著名な奥州の古戦場なのだが、国道からの入り口が狭隘で分かりにくい。
討ち死にを遂げた左月の姓がそのまま一帯の小字名として継承されている。

 
 
 
青田館(本宮市) 午後15時10分から
堀跡の用水路がが集落の周囲に残され、北西側には外部に堀跡を伴う高さ3メートルを超える土塁も現存している平地の城館跡である。
また集落そのものに小字名である「館」の地名が継承されている。




青田古館(本宮市) 午後15時30分から
青田館の北側約100メートルの地点に所在する館跡で青田館とは異なり低丘陵に占地している。
曹洞宗大泉寺のあたりに古館、腰蒔などの城館地名が継承されている。
ただしこの場所は疲労が確実に限界に近づいて遠望のみにとどまることとなった。





三本松館(本宮市) 午後15時40分頃
麓の水田面からは比高差約70メートルほどの独立丘陵南東端に所在している。
この個所も気力、体力が限界のため周辺の県道の周囲から観望したのみで通過した。




小平潟館(猪苗代町) 午後17時00分頃から
天神浜の湖水浴場近くの駐車場から徒歩で南へ300メートルほどの地点に所在する遺構らしい。
猪苗代湖に注ぐ西へと流れる水路沿いに幅数メートルほどの堀跡らしい窪地と土塁跡とも見えなくもない藪の中の盛り土のような地形を確認できた。
クマ出没注意の看板等が気がかりでそれ以上の探索には至らなかった。





今年4月遠征時の際の反省をもとに今回は熱中症対策に配意。
日よけ対策、経口補水液による水分補給も怠りなく遂行。
それでもへばる猛暑の最中の城館めぐり。
会津若松市内で食べた夕食の「とろろそば」(宮古そば処「分家吉兵衛」)が体を労わるように消化していった。

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今月の末に予定されている郡山・会津遠征の予行演習を兼ねて史進どののご案内で野田、春日部、松伏方面へ。
思えば隣県とはいえ千葉県方面へと足を延ばすのは何と6年ぶりのことであった。
おりしも関東地方の梅雨明けと重なりいきなりの猛暑を体感してしまうことに。
あたりの空気は吸い込むのさえも息苦しく、日差しは容赦なく降り注ぎ、やぶ蚊はこの時とばかりに大量活動中。
その持て余さざる暑さと雲行きのために大事を取り、早くも午後3時前には帰路に就くこととなった。

金野井城(千葉県野田市) 午前9時10分から
城跡としての所在地については現状の地形から推定することは容易であり、戦後に移転してきたという西福寺境内がこれに含まれることについては異論の余地のないところであろう。
しかし複廓の構造としてとらえた場合に西側の浄水場を城域として考慮すべきかどうか疑問が残り、むしろ寺の東側平地林内に現存する土塁、堀跡状地形の方にに興味をひかれる。
東側には南北に延びる水路が開削されているために、かなりの地形改変も考慮すべきだが城域としての一体感が感じられ実に悩ましい。
「中世城館調査報告書」のベースとなっていると思われる「埋蔵文化財調査概要1」(野田市郷土博物館)を直接閲覧してみるべく必要性が感じられた。




舟形城(千葉県野田市) 午前10時05分から
かつては土塁の一部が確認できたというが、その現状から往時の様子を窺い知ることは極めて難しいと言わざるを得ない。
東側に水田地帯が広がっていることから、当地が低台地上に位置していることだけは理解できた。




目吹城(千葉県野田市) 午前11時05分から
一般に城跡といわれている個所の東側に所在している熊野神社の舌状台地は南側の大地続きを除いた三方を比高差約8メートルほどの切り立った崖線に囲まれており当城跡との深い関連が窺われる。
なお以前には設置されていたという民家前の標柱は残念ながら見当たらず。




木野崎城(千葉県野田市) 午前11時40分から
水田地帯のなかに独立した低丘陵占地しており、わずかに台地辺縁部を流れている用水路の景観に水濠の名残を感じられた。




下河辺館(埼玉県松伏町) 午後12時30分から
赤岩集落の中心地であった小学校跡から東方の東陽寺あたりまでの自然堤防上の地域を推定地の一つとして見て回ったが、現状の地形からは過去におけるそうした形跡をイメージすることの難しさを味わえた。
これも中世城館探訪の楽しみの一つでもあると達観。




大河戸館(埼玉県松伏町) 午後13時20分から
春日部市との境界に近い大落古利根川沿いの北岸に所在する微高地を館跡として推定し彷徨。
水田との比高差が目立つあたりに大河戸中央自治会館という地元の集会所が所在している。




治郎兵衛屋敷(埼玉県春日部市) 午後13時45分から
大落古利根川右岸の自然堤防上に所在する多田源氏の末裔関根氏の屋敷跡。
碇神社の境内地はその一部であると推定されているらしい。




春日部氏館(埼玉県春日部市) 午後14時20分から
春日部氏の本拠で市内の八幡神社が鎮座する独立丘陵が館跡とされている。
丘陵北端に所在する浅間塚からの眺望は木々が茂り幾分視界が遮られるもののおおむね良好であった。

 


もっともこれを記述しているのは実を言えば遠征後の8月上旬であり、7月上旬から今月の猛暑へと続く文字通りの有意義なる予行演習となった一日なのであった。

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遠征最終日の3日目は帰宅時間等を勘案して、会津若松市内を起点に湯川村と旧塩川村(現・喜多方市)に所在する比高差の無い平地の城館跡を巡った。

神指城(会津若松市) 9時05分から10時15分
会津若松城の北西部に南西角部分を除く大規模な二の丸土塁跡の一部が残存している。
周囲の水田には外郭部の堀跡の名残も伺える。
現在では本丸部分は一部立ち入りが可能とはなっているが、いささか城跡としての景観は損なわれている印象が拭えなかった。
二の丸北側の一部では売却予定地の表示も設置されていたことから、今後の文化財としての景観保持が懸念された。


中ノ明館(会津若松市) 10時34分頃
国道49号線中ノ明交差点の南側付近が該当地とされているが、宅地化の進行によりその面影は確認できないもよう。
 かくして遠景のみの撮影に終わった。
このあと駐車していたショッピングモールにある市内大型書店2個所にて郷土資料を購入、というよりもこちらの方がメインであったようにも。
 


平沢館(会津若松市) 11時22分から11時24分
神指城から北東へ約800メートルほどの耕作地に所在しているという。
水田の中の微高地となっている神社境内が目印。


中地館(会津若松市) 11時31分から11時35分
平沢館から北西へ約700メートルほどの中地集落内に所在している。


下高野館(会津若松市) 11時46分から11時57分
中地館から北へ約800メートル地点に位置する下高野の集落内に所在している。
集落の宅地周辺に堀跡の名残と考えられる水路が確認できた。
ここから更に北へ向かい湯川村の浜崎城へと移動。 


浜崎城(湯川村) 12時14分から12時34分
主郭東側の土塁と堀跡が思いの外綺麗に残存しており感動を覚えた。
しかしこのあたりからいくぶん足取りが重たくなり、60代半ばにさしかかっている管理人は連日の暑さが徐々に体に堪え始めてきたのであった。
一昨日の轍を踏まぬようにこまめな水分補給に加えてタオルを頭に巻いて暑さを凌ぐこととなった。

 
 

柏木城(旧塩川町、現・喜多方市) 12時34分
浜崎城の北側のこの河川敷付近と推定されているようので対岸から遠景撮影して探訪終了した。
このため寧ろ川幅いっぱいに飾られた鯉のぼりの印象の方が強く残っることとなった。


新井田館(旧塩川町、現・喜多方市) 12時47分から12時53分
別名を田辺館ともいうらしい。
屋敷の周囲を中心にして堀跡と土塁の一部が確認できる。


鏡ヶ城(旧塩川町、現・喜多方市) 12時58分から13時17分
鑑ヶ城とも。
大字源太屋敷に所在し、集落の北側を中心にして予想以上に大規模な土塁が遺されている。

新井田谷地館(旧塩川町、現・喜多方市) 13時26分13時37分
姥堂駅西側の新井田谷集落内に所在する。
土塁にもみえる盛り上がりが道路際に残る。


上江館(旧塩川町、現・喜多方市) 13時50分から13時52分
新編会津風土記によれば、天正年間に栗村弾正清政が居住したという。


上窪館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時06分から14時10分
上窪公民館と古峰神社の所在する北側の民家が該当地とのこと(史進さんよりご教示)
西側の水路沿いを中心に延長50メートル以上の屋敷を取り巻く明瞭な土塁の一部が遺されていた。
このあたりから管理人は次第に遺構名と現実の遺構との間における認識の乖離が始まりかけていたようである。

 

深沢館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時18分から14時26分
字深沢の集落内に石塁を伴う堀跡と土塁が遺されている。
宅地周辺の樹木が伐採されており館跡の形状を把握しやすい状態であった。


金川館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時33分から14時50分
字館ノ内の民家にて土塁のほかに石塁、小口跡も確認できた。
画像は北側から撮影した土塁跡である。




このあとは磐梯河東インターから磐越道経由で帰路につき、途中休憩を含め6時間ほどで帰宅した。

2泊3日の全走行距離は予想通り約750キロメートルであった。

拍手[1回]

 遠征2日目はまず前日に廻りきれなかった米沢市東部の木和田地区に所在する山麓の城館を目指した。木和田は西方の最上川支流である天王川沿いを除き残りの三方を標高300メートル
から400メートルほどの低山に囲まれた集落であり、奈良時代の古代に遡及する須恵器窯跡が所在し、豊富な湧水をもち古くから水田開発された地域であり集落を囲むように少なくとも中世城館跡4個所の存在が確認されている。
目的地は狭い農道が多くターンがしづらいことから、木和田集落内の集会所兼消防団小屋近くに駐車させていただき全て徒歩にて探訪した。
  
木和田館 (山形県米沢市) 8時40分から9時05分
木和田集落南側に所在する通称「横山」北麓の杉林の谷間に占地した緩斜面の単郭方形館であり、東西方向に長く、現状では郭内中央部分に南側丘陵を水源とした湧水が流れていることが確認できる。
一丁四方に満たない小規模な館跡ではあるが、現在でも画像のごとく明確な土塁遺構と堀跡、小口跡がしっかりと残存している。
比較的人家も近く南側裏山の反対側には米沢市の大規模な八幡原工業団地が立地しているが、クマの出没には十分な注意が必要である。


馬越ノ道館 (山形県米沢市) 9時25分から9時30分
木和田館から東へ約500メートルほどの地点の山裾に位置する「への字型」の土塁跡であり南側には小さな沼が所在している。
土塁の長さは約50メートルほどで高さは1.5メートルほどを測るが、その全体構造については不明である。




木和田月ノ原館 (山形県米沢市) 9時50分から10時00分
上記「馬越ノ道館」から北北東に400メートルほど向かった古館山の稜線南麓に所在している。「中世城館調査報告書」によればかつての圃場整備により土塁や堀跡が破壊されていることが記されている。しかし、実際には北側の山側を除いた三方に長さ40メートル程度の土塁が辛くも現存しており、これに付随する幅4メートル程度の堀跡も東側を除いて今でも確認できる状態にある。


木和田田中屋敷 (山形県米沢市) 10時00分から10時05分
上記「木和田月ノ原館」からみて150メートルほど西側の山麓に所在し、両者の間には一軒の民家と「木和田古墳」「木和田窯跡」が所在している。
館名は小字である中屋敷から呼称されている。
他の3個所の遺構に比較して、薮の状態が今ひとつであるために遺構の目視に難があるが東西約70メートル、南北25メートルほどの範囲内に屋敷遺構が確認できる。
このあと小休止後には県道2号線で県境に位置する吾妻山系の白布峠を越え、明治期に発生した磐梯山の大噴火により形成された檜原湖のある福島県北塩原村方面へと移動した。

 


桧原城 (福島県北塩原村) 12時30分から12時45分頃まで
別名を小谷山城ともよばれ芦名氏方の岩山城攻略後に伊達政宗が築城したとされる山城であり、その南麓の平地には長大な外郭土塁と枡形小口等の遺構が存在している。
しかしクマ出没のシーズンにさしかかり要注意との情報が。
このため遠景と麓付近の散策との解説板などを撮影したのみにとどまった。


(伝)苧畑山砦 (福島県北塩原村) 12時50分頃
「うばたけやまとりで」と伝わる戸山城北東標高1128.8メートルの高所に位置する砦跡と伝わるが、戸山城との関連が不明でその所在自体も「中世城館調査報告書」と「まほろん」(福島県遺跡データベース)では異なっており、戸山城の一部をさすものなのかどうかも不明。


戸山城 (福島県北塩原村) 13時00分頃
芦名氏家臣である穴沢氏が伊達氏の侵攻に備えて築城した山城とされている。


巌山城 (福島県北塩原村) 13時05分頃
岩山城あるいは岩ノ山城ともいうらしい。
芦名氏重臣である穴沢氏が尾根続きの防御に劣るとされた戸山城より移り築城したが、伊達氏の策略と攻勢を支えきれずに落城したとされている。


 

清野六郎屋敷 (福島県北塩原村) 14時00分頃
大塩村郷土史によれば清野六郎の居館と伝わるというが、現状は柏木城来訪者のための駐車場にもなっていた。




柏木城 (福島県北塩原村) 14時30分から16時40分
芦名氏が檜原城を拠点にした伊達氏の侵攻に備え会津街道沿いに築城した大規模な山城で大がかりな石垣の普請を見ることができる。
大手口方面の石垣は大きく人為的な破城の跡が確認できたが、その分現況からは主郭中心部へのルートが判然としない状況となっていた。
訪れた折は幸いにして発掘直後の状態であり、城址の案内板などが整備されたばかりであった。
なお主郭東側の郭付近にてカモシカ一頭に出会った。


赤城館山 (福島県北塩原村) 16時45分頃
柏木城から国道459号線を西に約1キロメートルほど進んだ大塩川右岸の岩山上に所在するという。現地標柱によれば綱取城(要害山)に対して「向エノ要害山」ともいうようである。
国道沿いに北塩原村郷土史会が設置された標柱があるが、東側の大谷川方面から迂回する北側からのルート(比高差約60メートル)があるのかも知れないが、国道からの比高差は120メートルのとりつく島も無い完全な絶壁であった。
このあとの行動予定を考慮し遠景のみの撮影となった。


 

綱取城 (福島県北塩原村) 17時00分頃
別名を要害山ともいう芦名氏重臣である松本勘解由の居城とされているが、平時の居館は別途小学校近くの国道反対側に下記のように綱取居館跡という標柱が設置されていた。
日没までの時間の制約から、ここも説明版などの撮影のみとなった。


綱取城居館 (福島県北塩原村) 17時05分頃


上ノ台館 (福島県北塩原村) 17時07分頃
国道のすぐ東側に所在している上記の綱取居館跡との違いなどの詳細は不明。


赤館 (福島県北塩原村) 17時10分から17時15分頃
「新編会津風土記」によれば、綱取城主松本勘解由の家臣である中ノ目阿賀が居住したとされている。
山林の中何らかの遺構があるような無いような。


新井館 (福島県北塩原村) 17時25分から17時30分頃
「新編会津風土記」によれば、松本勘解由の家臣である新井氏が居住していたと伝わる。
地元の農協倉庫の先の方にある畑が該当地であるらしく、道路脇にお馴染みの郷土史研究会による標柱が遺されていた。
休耕中のビニールハウス内にヒメオドリコソウの陰に隠れて可愛いネコさんが耳だけを出して隠れていた。


一盃館 (福島県北塩原村) 17時45分頃
「新編会津風土記」によれば、松本勘解由の家臣である一盃大輔が居住したとされている。
大分以前に地元郷土史研究会が設置した幾分傾きかけた標柱が耕地整理された畑の脇に遺されていたが、初めて訪れるものにとっては誠にありがたい存在なのであった。

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