とりあえずの目的地は岩手県の県南である一関市の旧花泉町方面。
途中2度の燃料補給や休憩のため、若柳金成インターに到着したのは約6時間半後の午前10時過ぎ。
当日仙台市近郊辺りまでの沿道はソメイヨシノが満開を迎えていましたが、岩手県境が近づくにつれて次第にヒガンザクラ系統の開花が目立ってきました。
それにしても今年は例年と比べて桜前線の北上スピードが早いことに驚きます。
このため人出の多い方面は駐車場所の確保などのため極力避けねばならなくなってしまいました。
と、まあこんな次第で全くと言って土地勘のない初の岩手城館探訪が開始されることとなりました。
凸猪岡館(岩手県一関市花泉町) 午前10時20分から11時10分
別名を泉沢館とも。
比高差約30メートルほどの山頂ではやや見ごろを過ぎたヤブツバキ数株が花をつけていました。
明確な城館遺構としては、やや括れたような南北方向に長い楕円形の主郭と南東方向に付随する複数からなる腰郭状の地形などを確認することができます。
しかし下段の方のものについては耕作などによるものと区別がつきかねました。
北側から延びる尾根筋の先端部に位置していますが、むしろ尾根筋自体も小さいので県道からは東西に所在する丘陵の方が目立っていました。
この場所は立派な標柱があるのですが、設置場所が県道から奥まっていることなどからやや分かりにくいのかも知れません。
といいますのも、近くには東西に2か所ほど相応しい地形の丘陵が存在しております。
このため地理不案内の管理人は初っ端は東側の方の丘陵だと思い込んだり、踏査した後になっても最後まで西側の方の丘陵だと勘違いしたりして矢鱈に時間を費やすこことなってしまいました。
しかし、よくよく冷静に県道186号線側から眺めると丘陵東麓に一関市による標柱の姿を認めることができます。
主郭へのアプローチ方法は、標柱の場所から腰郭風の畑沿いにすすみ途中から4メートル弱ほどの切岸をよじ登るか、北東麓に所在する民家の庭先でお声掛けして南へと向かう農道を登らせていただくしか方法が無いようでした。
凸西館(岩手県一関市花泉町) 午前11時40分から13時40分
別名を蝦島館とも。
標高59メートル、比高差は最大で約50メートルほどありますが、標柱が設置されている東側の峠部分からは20メートルほどの比高差があるのみです。
一関市では画像のような文化財標柱が設置されている個所が少なくなく初めて訪れたものには大変ありがたい存在なのでありました。
城館跡は民家北側の裏山となっていましたが、残念ながら山道は途中で行き止まりとなっていました。
複数の郭から構成されるとされていますが、笹薮のなかに切岸と思われるような地形を僅かに認めることができるものの、全体として視界が悪く全容を把握することは難しいように思われました。
また、北側方向からこの丘陵を眺めてみますと眼前にはひな壇状に区画された宅地の見事な法面ひろがり、ややもすると城館遺構との判別がつかなくなり始めるのでありました。
凸大塚館(岩手県一関市花泉町) 14時20分から15時10分
県道184号線の東、字杉則の北西部に所在する独立丘陵に所在します。
西側の水田面との比高差は低いところでは目測数メートルですが、北東部の高いところでは30メートル近くを測ります。
1980年代前半に行われた中世城館調査によれば、北東部の丘陵先端部あたりまで遺構が見られたことが記されていますが、現状では二の郭とされる北東部の半分近くまで耕作化が進行し耕作地の法面以外にその形跡を認めることができません。
また二つの郭の間に普請されていたと思われる堀切跡も同様に失われているように見受けられました。
同時に植林の施されている南西側主郭部分についても北西部に切岸状の地形と帯郭のようにも見えなくもない細長い削平地が存在する以外にこれといった地形上の特徴を見出すことができませんでした。
なお、城跡南東側の比高差は約2メートルほどの切岸で耕作地と画されているだけでした。
凸高倉館(岩手県一関市花泉町) 15時20分から15時30分
別名を西永井館とも。
県道190号線の西、標高133メートルの高倉山のさらに東側に所在する標高100メートル程度の標高を有する南北方向に長い丘陵辺りが該当地とされている模様。
車を止められるような場所もなければ登っていけそうな道も無さそうなので集落から見上げただけに留まりました。
1980年代前半に行われた中世城館調査によりますと、高倉山との間に堀切を有した3つの郭からなる連郭式の山城とされています。
高倉山への林道が通行可能ですと、そこから東へ約400メートルほど尾根筋を確かめつつ移動すれば到達するはずなのですが、地理不案内のためあっさりと断念いたしました。
凸麻生沢館(岩手県一関市花泉町) 15時30分から15時35分
1980年代前半に行われた中世城館調査によりますと、高倉館の西側300メートルほどの標高80メートルほどの丘陵に占地しで二か所の平場から構成されているとされていますが、高倉館と同様に登り道不詳などのため遠景のみ撮影しました。
凸下館城(岩手県一関市花泉町) 16時15分から17時00分
別名を下紫城、東城とも。
ここまで5か所もまわってこれといった収穫もなく、いささか消化不良気味でした。
このため花泉地区40か所余りの候補地から、近くて帰りのルート沿いで日没前に確実な遺構を拝めそうな個所を選び直したのがこちら。
金流川右岸に張り出した比高差約50メートルほどの丘陵先端部に所在し、東側は登攀不可能に近い断崖となっていました。
現在は南側に新しい市道が建設されているが、本来は南北に連なる低丘陵の北端に位置していました。
城館の規模は東西方向で約80メートル、南北方向で約150メートルとかなり小規模ではあるが、市道沿いの城跡の標柱が所在する小口と思しき南側には三重構造の空堀が確認でき、また複数の腰郭を伴う城郭遺構であることも見て取ることができます。
ただし北側の本郭方面への踏査は笹薮などのために足元と視界が阻まれ困難な状況となっていたことが惜しまれました。
なお1980年代前半に行われた中世城館調査においても、南側の稜線を東西方向に分断するような堀切は確認されてはいないようです。
管理人自身がこの地域における縄張の特徴を全く掴めていないという問題もありましたが、日没に加えて蓄積された疲労と藪に阻まれ市道により分断された南側尾根続きの方面の踏査ができなかったことも悔やまれました。
なお近くには駐車スペースはほとんどないことから、農繁期前でもあり北側の幅員の広い農道沿いの路肩に駐車させていただきました。
探訪前には地理的に笹薮などの様子が気がかりではありましたが、遺構観察に限り本日最良の探訪という結果に満足することとなりました。
以上、岩手県南地方まで片道450キロメートルを走破した割には殆ど無名に近い箇所ばかりとなってしまいました。
当初の予定ではもう少し名の知れた箇所を訪れるつもりが、土地勘の乏しいこともあり約20キロを歩いたりして徒に時間を浪費するような結果に。
このため初日に廻れたのは僅かにこの6か所(意向確認という意味では実質は4か所)に。
なんとももどかしい限りの探訪なのですが、こうした傾向は最終日まで延々と続くこととなることを管理人は全くと言っていいほど見通してはいませんでした。
と、記述していることからも分かるように、帰宅後の疲労などにより当ブログは10日以上も経過してから記述しております。
この冬は単独での探訪計画倒れが続くさなかにあって実にありがたい限りでありました。
凸古河城(茨城県古河市) 午前9時40分から10時40分
この日は生憎と御所方面は観光イベントのため混雑していたため、古河歴史博物館と古河城から探訪を開始しました。
城域の宅地化などにより分かりにくくはなっていましたが、資料などを参照しつつ丹念に確認しながら廻れば市内の各所に土塁などその痕跡を辿ることもできることが分かりました。
◎足利成氏の墓所ほか 11時00分から11時20分
墓所以外にも友好的なネコさんと遭遇し境内の桜も満開でした。
◎野木神社(栃木県野木町) 11時30分から11時50分
おりしも二輪草の群落が見ごろを迎えておりました。
画像は野木合戦の舞台ともいわれている野木神社の社殿。
なお、たまたま拝殿脇に佇んでいた際に震度2程度の地震に遭遇。
僅かに社殿のきしむ音が聞こえた以外には異常はありませんでした。
凸野木城(同上) 12時00分から12時25分
野木神社の北東直線で約200メートルの舌状台地に占地している城跡で、郭面は耕地化と一部宅地化により明確な遺構を確認することはできませんが、台地を形成する斜面の形状と自然の谷を生かした明瞭な堀跡を観察することができました。
凸逆川城(同上) 12時35分から12時50分
所在地は複数考えられている比定地のひとつでありますが地表観察からは城館遺構としての特徴を捉えることはできず、また別名を友沼城ともされていますその呼称の関連性や所在地そのものを含めて不明な部分が多いものと考えられます。
凸法音寺城(同上) 13時05分から13時25分
真言宗法音寺の境内北東側に隣接した城館遺構で、現在でも南西側を除いた方形状空堀跡の大半と土塁の一部を目にすることができました。
凸乙女の土塁(栃木県小山市) 13時30分から13時40分
国道4号線乙女交差点北西側、乙女幼稚園北東側に隣接した平地林内に土塁状の地形が残存しています。
土塁の長さは南西で約50メートル、南東で約80メートル、北東では幾分湾曲し約70メートル、北西で約60メートルほどの規模を形成しています。
小口などの形跡も見当たらず、一時的な陣城のようなものとも想定できますが、道路が区画整備された市街地の公道に沿接していることなどの立地条件の不自然さもあり、その経緯など詳細は不明のようです。
凸針谷屋敷(栃木県野木町上) 14時30分から14時50分
根渡神社へと続く参道の東側に所在する平地林の中に位置しています。
長大で直線的な印象のある規模の大きな堀跡遺構が確認できますが、当地の旧家との位置関係を含め普請された意図やその背景を窺い知ることが難しい遺構でした。
凸小堤城(茨城県古河市) 15時20分から15時50分
円満寺境内の北側と西側に水堀跡を伴う明確な土塁遺構が確認できます。
この個所を中心として形成される縄張が推定されますが、周辺の宅地化、耕地化などにより地表面からの観察ではその痕跡を確認することは難しいようです。
このようにして探訪するうちに早くも歩行距離は15000歩を超え始めて、いつものごとく己の足元には漠然とした疲労感と違和感が醸成されはじめました。
晴天化の3月の末日でもあり、太陽はまだまだ十分な高さにあってあと2か所ほどは廻れそうな時間帯でありましたが、先日高齢者の仲間入りを果たした管理人の足元は次第に覚束なくなって本日の探訪の幕引きと相成りました。
来月に予定している春の遠征計画を遂行するに当たり、だいたい一日につき20000歩の歩行を可能とするための対策を講じねば・・・と痛感する管理人でありました。
本日は史進さんのご案内で千葉県野田市と茨城県境町方面を探訪しました。
この日は一週間前の週間予報によると50パーセント以上の降水確率が。
やがてこの日が近づくに従い次第に降水確率は下降し、春霞がたなびくうららかな行楽日和と相成りました。
凸小作館(コサクヤカタ、千葉県野田市) 午前8時30分から9時15分
最大比高差2メートルほどの寺院境内西側に最大幅7メートルばかりの堀跡状地形が認められ、古墳のようにも見えなくもない細長い塚状地形も併存していますが、この西側部分を除いた方面には明確な地表状の特徴を認めることはできません。
「ふさの国文化財ナビゲーション」では中世城館跡として掲載されています。
凸古布内館(コフチヤカタ、千葉県野田市) 午前9時30分から9時45分
堀の内の字名が残る利根川右岸沿い堤防脇の十二天神社境内付近が中世の館跡と推定されているようです。
「ふさの国文化財ナビゲーション」では中世城館跡として掲載されています。
凸関宿城埋門(千葉県野田市) 午前10時00分から10時10分
関宿城の移築された城門が民家敷地に現存しておりました。
■実相寺(千葉県野田市) 10時15分から10時30分
鈴木貫太郎の墓所。
■宗英寺(千葉県野田市) 10時45分から10時55分
古河公方足利晴氏と徳川家康の血縁松平康元の墓所。
凸関宿城(千葉県野田市) 11時10分から12時05分
画像は本郭跡の一部とされている個所です。
凸長井戸城(茨城県境町) 12時30分から13時00分
土塁、空堀、郭など明確な遺構が残存している城跡。
凸田向城(茨城県境町) 13時05分から13時20分
台地西端の一部に空堀と土塁に囲まれた郭地形の一部が遺されています。
南側の部分は二重堀のような構造で、東側には土橋が付されていますがその先は耕地となり、郭部分の先端もかつての水田耕地整理により丘陵自体が削平されていることが窺えます。
すでに戦後間もないころの地形図には認められず、明治期に作成された迅速図にはその痕跡が窺われることから考えると、その間頃に地形が改変されたものと考えられます。
凸稲生城(茨城県境町) 13時30分から13時35分
台地南側部分は近年の土取りなどによりその地形は大きく損なわれているが、水田面との比高差は現在でも8メートルを超える高さを有しかつての要害の地であったことが窺えます。
また台地基部側に現在でも僅かにL型の土塁状地形が確認できます。
■長塁跡(茨城県境町) 14時00分から14時50分
茨城県遺跡地図などの情報によれば断片的ながら、おおむね南北方向に長さ約3キロメートルほどにわたり土塁状の人工地形が遺されていたことが記されています。
しかしその現況は宅地、耕地化などにより消滅しておりました。
それらしい跡のようなものも無くはないのですが完全消滅に近い状況でありました。
台地尾根筋を平行に築造されていたという経緯などを勘案いたしますと、おそらくは野牧の施設に類するものであったのではないかとも考えられます。
下記画像はあくまでも土塁地形そのものではなく、野馬土手跡付近に残存していた切通し状の地形です。
凸堀江候屋敷(茨城県境町) 15時05分から15時30分
現在でも民家敷地の北側方向に複数の盛り土状地形が認められ、それぞれ小祠などが建立されていましたが、それ以上のことが分かりませんでした。
すでに3月下旬に入り日没の時刻までには2時間以上もある季節になりましたが、帰路の渋滞など諸般の事情に鑑み本日はここまでとなりました。
本日は武蔵直登総勢5名でのミニオフの日で4名以上集まったのは2013年の師走以来のこと。
車2台に分乗して外環道経由で常磐道を北上し、当初の予想よりも早めに最初の目的地に到着した。
凸甲山城(茨城県土浦市大志戸、旧新治村) 午前9時35分から10時25分
小田城の東方約4.5キロメートルほどの丘陵に所在している。
南麓の大志戸集落との比高差は約60メートルほどだが、神社石段からの比高差は50メートルに満たないような尾根筋先端部のなだらかな丘陵上であり、城域の南部をめぐる丘陵南側市道の峠状の地点から三十番神社へと向かう石段を北へ登り直線で120メートルほど進むと間もなく同社の境内地へと到達する。
その北側に東西南北約100メートルほどを測る空堀と土塁で囲まれた主郭部が存在しているが、南および東側の土塁、空堀の構造・規模と比較すると、不整形をしたその主郭内部は些か削平感に乏しいという印象がある。
また現状の地形から観察する限りでは、主郭西側には高さ3メートル強ほどの切岸のみで土塁の形跡が見られないために、東側と南側を意識した防御性を感ずることになり、北側尾根続きの防御意図もあまり明確ではないようにも感じられる。
なお、旧新治村北部には30基前後ばかりの中小の古墳が現存していることから、城跡南東部の土塁残欠のような地形についてもこれに類するものなのかもしれない。
三十番神社の小祠が所在している東西百メートルほどの半円形の削平地が城域に含まれるものであるかどうかは神社信仰に伴う普請との関わりが考えられることから判断に迷う。
「新治村史」によれば、小田氏の一族である小神野(おかの)氏の城とされ、戦国期に佐竹氏の侵攻により南西の小高城、南東の本郷館、東方の永井城などとともに落城したともいうが、「中世常総名家譜(上・下)」(1992/石川豊 著)や「小田軍記」「小田天庵記」などの軍記物にはその名が確認できない。
北側空堀と主郭切岸
凸本郷館(茨城県土浦市大志戸、旧新治村) 午前10時55分から11時05分
「新治村史」には、堀と土塁の一部が存在していると記されていたが、その現況はかつての堀跡とも思われる用水路に囲まれた比高差2メートルほどの桑畑跡の微高地であって一面にアズマザサなどが生い茂っていることから、表面地形の確認作業が極めて困難な状況であった。
東側の農道側からアプローチする方法もあったが時間等の事情で断念した。
同村史には、岩瀬弾正の館と伝わるとの記述があるが、佐竹氏関係の久慈西郡岩瀬氏や下総の同盟の一族とは地域的に別系統であるものと考えられ、手持ちの中世常総名家譜(上・下)」(1992/石川豊 著)や「小田軍記」「小田天庵記」にもその名が見られずその仔細は不明。
凸永井城(茨城県土浦市大志戸、旧新治村) 11時20分から12時15分
甲山城の東約2.5キロメートルの通称大日山の山頂部に所在し、周辺の永井集落との比高差は約40メートルほどを測るが、南側の墓地付近の入り口からは僅かに30メートルほどの比高差しかなく、城の北側は緩やかな尾根続きであり、東側も緩斜面を形成し地形上の優位性は少ないという印象がある。
北西方向に馬出し状の小郭を伴った単郭の縄張である。
甲山城よりもさらに木々が叢生していることから現在の眺望は良好とはいえない。
城跡西側の土塁上には寛永3年(1626 )の刻印のある宝篋印塔が造立されている。
城跡へのアプローチは丘陵南側、墓地西側の細道をそのまま道なりに150メートルほど北上する。
「新治村史」によれば、小田時知の時代に大掾氏と対峙するために築城され、戦国時代には前野修理が配されたと伝わるらしいが委細不明。
主郭と小郭の間
凸小坂城(茨城県牛久市) 14時00分から15時00分
南側の水田面からの比高差は約20メートルほどを測り、東西が自然の谷筋に挟まれた丘陵南端部に所在している。
以前は孟宗竹やアズマザザなどの草木がが叢生していたが、近年において公園整備が実施され適度な伐採と公園管理がなされていることから極めて見通しもよく土塁と空堀を中心とした城郭遺構を堪能できる素晴らしい城跡である。
国道408号線の工事に伴い主郭南西部が消失しているものの、コンパクトな縄張であることから各郭相互の関係性が一目稜線の状態にあるため見飽きることが無い。
また空堀跡もよく管理され堀底から眺める土塁の形態や質感を把握しやすい環境にある。
その縄張からは主郭部と2の郭が先行し後に3の郭などが馬出郭として拡張されたことが窺われる、戦国時代末期の岡見氏一族の城と考えられている。
管理を委託されているという地元小坂団地の皆様に感謝。
主郭土塁と小口
凸牛久城(茨城県牛久市) 午後3時20分から4時20分
2008年師走以来の再訪だが、主郭部分の孟宗竹が伐採されるなど全体としての見通しは良好となっていた。
東日本の震災の影響が懸念されたが大きな斜面の崩落等は発生しなかったらしい。
郭内から見た3の郭小口
凸牛久陣屋(茨城県牛久市) おおむね午後4時30分頃
山口氏の近世陣屋跡の再訪であり、日没間近となった牛久沼の湖面に沈む夕日が眩しかった。
茨城方面は2013年末以来の訪問であったが、冬ばれのもと午後4時半頃の日没前から日没後の午後5時頃まで南南西方向に向かっていたため、久しぶりに遥か富士山のシルエットがフロントガラス越しに眺めることができた。
相も変わらず幹線道路網が分かりにくかったが、目吹橋から利根川を渡過し春日部で夕食を摂り国道16号線経由にて帰宅した。
昨日の4日目は郡山市の図書館に滞在して中休み。
最終日となる本日の行動予定は有終の美を飾るべく日没までといきたいところなれども、還暦と古稀の中間点に達するに至り明らかに気力・体力の均衡が崩れてきたという現状は否めず。
こうした事情もあることからこの際は無理をせずにゆったりとした行動計画を採用した。
「★」印は明確な城館遺構が現存していた個所
1.城館名、位置情報などは、主に福島県文化財データベース「まほろん」の情報に依拠している。
2.このほかに「郡山市史」、「三春町史」、地名関係は「危ない地名」三一書房、「コンサイス日本地名辞典」三省堂、「日本地名辞典」新人物往来社、「角川地名大辞典 福島県」角川書店、「中世城館調査報告書」福島県などを参照している。
3.なお「積達館基考」「積達古館弁」「相生集」などの近世地誌類については、このブログ記載時点では未照合である。
・白幡神社(郡山市日和田町梅沢字白幡) 午前9時から9時10分
梅沢館に赴くはずがそのまま行き過ぎてしまい、阿武隈川の支流となる小河川の谷底にあたる西側から眺めた棚田の景観が実に素晴らしかった。
やむなく阿武隈川に架かる鬼生田橋の対岸から戻る際に、前方正面に見事な独立丘陵が存在していることに気づき立ち寄った場所がこの白幡神社の境内であった。
また同社は梅沢村の鎮守でもあるのだが、付属の建物には未だに震災時の被害の跡と思われる痕跡が残されていた。
麓からの比高差は約10メートルほどを測り2段の削平地から構成される丘陵頂上部からは東へ北へ西へそして北東へと複雑に蛇行する阿武隈川とその対岸の鬼生田方面の眺望に優れていた。
神社としての土木工事が含まれているために中世城館跡としての痕跡を求めることは難しいが、西方400メートル地点に所在している梅沢館よりもはるかに見通しに優れかつ防御性の高い独立丘陵であった。
神社名ともなっている白幡の字名は源氏の一族を祀ったことに由来する場合、あるいは朝鮮半島からの新羅系渡来人であるハタノミヤツコに由来する場合などが考えられるともいわれている。
凸梅沢館(郡山市日和田町梅沢字古舘、または古屋敷、上台) 午前9時20分から10時10分
梅沢の地は阿武隈川に西岸に所在する小規模な丘陵地帯であり、地名の由来は梅の木が多い土地、梅の木が生えていた沢を開拓したことに由来するともいわれている。(「相生集」より)
10月末のこの時期梅の木は目立たなかったが阿武隈川の支流に沿った高さ10メートルほどを測る崖線の存在が中世城館の存在を窺わせる景観を呈示していた。
梅沢の地は「蒲生領高目録」によると、321石余りの石高が記されているものの、さほど大きな集落ではなく小規模な在地領主階層の居館が存在していた可能性を示唆するものといえるのかもしれない。
戦国時代末期には下記の阿武隈川東岸の田村氏勢力の前線である鬼生田館地域と対峙していた時期が存在していた事情が窺え、渡しの存在も想定される両館の距離は阿武隈川を挟んで約1キロメートルという指呼の間において軍事的緊張関係が続いた時期が存在していたことは想像に難くないものと考える。
なお、「中世城館調査報告書」では「高倉近江守臣国分玄蕃」の名を記し、「日本城郭大系」では「国分内匠」の居館としているが、これは上記の事態よりも少しのちの状態を表しているものと考えられる。
凸鬼生田館(おにうだたて、郡山市日和田町鬼生田字町) 午前10時20分から11時00分
★郭、土塁
「まほろん」などによれば、おおむね鬼生田の町集落東部に形成された河岸段丘付近が推定されている。
より具体的には鬼町公民館鬼生田分館東側の竹林付近が想定され、当地には複数の段郭の存在が竹林越しに目視できるとともに、その北側の諏訪神社付近にも神社の造立に伴う普請とは明らかに異なる印象の土塁の存在が認められ、かつその尾根続きは切通し状の道により遮断されていた。
また、周辺部の発掘調査によれば小規模な中世の町構えが形成されていた可能性も指摘されている。
「中世城館報告書」「郡山の城館」などによれば、田村氏一族である鬼生田弾正忠(おにうだ だんじょうのじょう、あるいはだんじょうのちゅう)の居館と伝わるという。
「田村家臣録」(片倉文書)によれば、「一門一家東西南北御一字被下衆 鬼生田惣右衛門 西方与力25騎 鬼生田城主」と記されており、このことから戦国時代末期には阿武隈川対岸の安積伊東氏に対する田村氏勢力西端の最前線地域であったことが窺えよう。
また「田母神家旧記」(仙道田村荘史)においても、「西方要害 鬼生田居館 鬼生田惣左衛門 豫洲宇和島に住す」と記され、天正15年(1587年)の時点で田村氏の勢力下に置かれたことが記されている。
なお、「鬼」のつく地名には「隠れる」(オン)、「尾根」(オネ)からの転訛の可能性もあるとされ、また「生田」は美田、良好な水田を意味するともいわれている。
このためか現在でも、鬼生田地域は阿武隈川の支流となる白岩川などの幾つかの小河川沿いにその豊かな水源を利用した水田が存在している。
もっとも、「角川日本地名大辞典7福島県」では「田村郡郷土史」から引用した「鬼の生まれた場所である鬼石とよばれる石があり鬼生田とよばれるようになった」とも記載されている。
この記述はおそらく「天正日記」の天正15年3月3日の条に「始めに鬼生田と申す所へ大越備前罷り出で候由、申し候間、田村より検使御座候」と記されていることによるものではないかと考える。
時代はやや下るが、文禄3年(1594年)に作成されたとされる「蒲生領高目録」によれば「中 鬼生田 1910石」と記され、相応の生産力を伴っていた土地柄であったことが裏付けられている。
しかしいずれにしても、ともにその真偽のほどは定かではないようである。
下記の画像は諏訪神社付近の土塁跡である。
以上この日の城館2か所+神社1か所をの訪問を以て、今回の延べ5日間におよぶ郡山市探訪は終了し、神社境内を含め累計で40か所ほどの探訪となった。
次回訪問するとすればおそらくは市内片平地区を中心とし、関係資料を整理したうえで本宮市方面を探るつもりではあるが、果たしていつのことになるのかは自分でもわからないのである。
福島第一原発事故による影響は放射能ブルームの拡散によって、中通りである当地にも及んでおり、市内の公園や公共施設などの各所には観測機器が設置されているとともに、現在でも日常的に除染作業が実施されていることをこの目で確認し、改めて事故の深刻さを痛感した次第である。
念のため携行した簡易型の空間線量計の値は、最高で0.88μ㏜/hを記録することもあった。
埼玉県南部では高くとも0.12から0.17くらいの数値を示していることに比べるとその数値の高さに驚くばかりであった。
公共施設や住宅地などでは確かに空缶線量は低下が認められるものの、除染廃棄物である仮置き場のフレコンバックの山を間近に目撃するとその事故の深刻さ、重大さにあらためて衝撃を受けた。
まさに一個の人間として何を為すべきかが問われている現状がそこにあるという事実を再確認することともなった。