本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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この日もいつも通りに早朝4時半過ぎに自宅を出発。
このところ三週連続で出かけている勘定になることから、頭の回転が始まる前にほぼ無意識に体が自然に動いているようにも思える始動。
こうなってくると、何処となく仕事の様な具合で、ルーチンワークのような趣も呈し始めてきている。
今回は疲労を考慮し、行先を絞り込んでできるだけ早めに切り上げる計画を考案。 
 
 

 
矢上城(神奈川県横浜市港北区日吉4丁目) 午前6時50分から7時15分

東急日吉駅で下車し、駅前の植栽を撮影したのち県道2号線を北上、途中で東へと道をとりそのまま慶応日吉キャンパスの外れへ余りに日吉台の台地に近づきすぎ、キャンパス内の部活施設近くに迷い込んだりしながらも東方の矢上城方面へと到達。

横浜市内では、やたらにあちこちに登場することの多い中田加賀守の居館とも伝わる。
鶴見川支流の矢上川が東から南へと大きく蛇行する地点で、慶応大学日吉キャンパスの外れに所在する小規模な単郭の城郭。
仮に現在遺されている単郭のままであったとするならば、ごく少人数により機能した物見砦のようなものを想定するのが妥当なのだろうか。
いずれにしても、台地続きである南側の旧情が不明であることから憶測の域を出ず。
事前の情報通りとはいうものの、残念ながら周囲はフェンスとコンクリート擁壁で囲われ、石碑をふくむ郭、堀切などを直接見ることは叶わず、麓から比高12メートルほどの小さな丘を見上げて探訪終了。


 新幹線が潜る矢上城の現況  中田加賀守との関わりを示す石柱

さて日吉といえば、だいぶ昔の半世紀以上前のこと、たまたま当時父親の勤めていた仕事先(記憶では慶応大学の学食)がこの日吉にあり、何かのついでに一緒についていった記憶が。
その当時は、草の生えた殺風景な台地に校舎が点在し、旧日本軍関係の防空壕やらのむき出しのコンクリートで構築された軍事施設跡が点々と所在していたという光景が記憶に。
とはいえ終戦から10年余りしか経っていない東京タワーが芝の岡に建設中の頃の話。
もうこの平成の時代にそうした形跡はないものと日吉台の北麓を城跡に向かい歩いている最中、切り立った崖線中腹部に何やら2か所ほどの古びたコンクリート施設が視界に。
出入り口はコンクリートにより塞がれているものの恐らくはそうした関連施設である気配が。
無論こちらもフェンスにより立入禁止。


 
桃井播磨守館関連地1高田天満宮(神奈川県横浜市港北区高田町) 
 午前8時10分から8時30分

日吉駅から横浜市営地下鉄グリーンライン高田駅下車。
今日一日はこの4両編成のカワイイ車両のお世話になる予定。

「城郭大系」および「古城址探訪」様よりご教示いただいた情報から、まずは北方に所在する高田小学校方面を目指して県道106号線を道なりに北上。
徒歩10分足らずで最初の目的地である高田天満宮に到着。
駅前からでも、それと分かるような比高差20m以上はあろうかという丘陵先端部に所在し、南方と東方は天然の要害に相応しい地形を呈す。
徒歩10分足らずでも、この傾斜のはなかなか登り甲斐が...終いには30段ほどの石段も。
神社境内は季節柄、至るところアジサイが満開状態に。
こんな次第で今回の撮影は概ね紫陽花尽くしの趣に。

神社社殿背後には恒例となる立派な神社の土塁も存在^^
南参道方面の十分な比高差と良好な眺望が印象的で、北西側の台地続きを除いて神社境内の丘陵自体も南方へ大きく突出した半島状地形を形成。
天満宮の手書きの由緒書きには、南北朝初期に領主であった桃井播磨守直常が当社を建立した旨が記されていた。
これは恐らく「新編武蔵風土記稿」に収められている都筑郡之五神奈川領、高田村の条を引用したものと解される伝承を記したものと解される。


    高田天満宮遠景       高田天満宮由緒書


   社殿裏側の「土塁」      神社境内の紫陽花


     神社境内          南側の崖線部


   削平されている地形       比高差は十分


  西側の住宅地からの社叢

 
未だ2か所目の端緒に過ぎないにも拘らず、すでに体力的にはこの辺から折からの蒸し暑さに加え、次第に足元の鈍痛がその厳しさを増加させ徐々に疲労が蔓延。
かりにこれが片道1時間ほどの目的地ならば、即刻帰還するかも知れずと思いつつ次の個所へと移動。



桃井播磨守館関連地2(神奈川県横浜市港北区高田町)
 午前8時40分から8時50分

塩谷寺が所在する一帯が台地と丘陵先端部により囲まれた地形を形成。
この地点に赴くには比高20mほどの急坂をハアハアいいながら往復しなくてはならないという苦行の宿命が。


   塩谷寺の山門と境内      同寺西側の丘陵

このあと高田(たかた)小学校付近を歩いて東西方向に伸びている台地地形を確認。
北側の比高差は南側に比べて、その半分ほどの10m前後と幾分不足気味であることも確認。



桃井播磨守館関連地3(神奈川県横浜市港北区高田町) 
 午前9時00分から9時15分

台地北東部先端の興禅寺境内付近。
同寺の寺伝では元応2年(1320)に桃井直常が再興したと伝わる。
「新編武蔵風土記稿」では所在地について明記は無く、「天神社より西の方に天神の原と云う所あり、此所桃井播磨守が館迹なりといひ傳ふ...」とのみ記載。

念のため付近の様子を拝見してみたところ、同寺北東の民家に僅かに土塁状の地形の一部が残存。
方角から見る限りでは風除けの土塁ではなさそうな印象。
だいぶ消失しかかっているが、崖線部を含めL字型形跡を確認。
しかし城館遺構との関連は不明。


    民家境の土塁        たぶん土塁かと


  消失間近な崖線と土塁       興禅寺の由来

 
   天台宗興禅寺山門



山田城山比定地1
(神奈川県横浜市都筑区山田町) 10時10分から10時30分

「新編武蔵風土記稿」巻之85都筑郡之5山田村の条によれば、小名堀ノ内、殿谷につづき「城山(じょうやま)東の方にあり、前の殿谷(とのやと)の丘を云、高さ三丈(約9メートル)餘(あまり)登りて一丁四反許(約1400平方メートルばかり)の處(ところ)なり、今城跡と唱ふるは北の方にあり、されど誰人の居城なることをつたへず、或は鎌田兵衛正清が居住せし處なりといへど覚束なし、...」と記されている。
この記事によれば、城山が殿谷の比高9mの丘で北の方角にあるとも、或いは比高9mほどの殿谷の丘とは別に、北の方角にある城山が所在しているようにも読めるように思われる。
伝承の曖昧な鎌田正清の居城の真偽はともかくとして、この古城址の存在について具体的にその所在は何処なのかということになる。

1番目の比定地は通称鎌田堂という地蔵尊が所在する南側背後の丘陵。
比高差は確かに10mほどであり、「新編武蔵風土記稿」にも「地蔵堂 村の東中原新道にあり、これを土人(地元民)鎌田堂と云、2間に3間なり、...此邊(このあたり)を土人呼て城山或は鎌田屋敷などと云」とも記されている。
これら「新編武蔵風土記稿」の記述を信頼すれば、有力な比定地のひとつには違いないのだが、現在では生憎とこの竹林への立ち入りが禁止されていることから付近から拝見するに止まった。


   住宅背後の丘陵           鎌田堂


   鎌田堂背後の竹林    鎌田正清館跡の文言を含む石碑


 立入禁止の竹林を手前から

 

山田城山比定地2(神奈川県横浜市都筑区山田町) 10時40分から11時10分

2番目の比定地は「城郭大系」が示していると推定される、現在URの集合住宅が所在するコンフォール城山の丘辺りで、西方には堀ノ内の地名も伝わる丘陵。
西側麓には城山交差点、城山バス停なども所在する土地柄。

中原街道を鎌田堂方面から歩いていくと、南西約250mほど先にひときわ大きくせり出す比高20mほどの丘陵先端部が視界に入る。
中原街道旧道に入り最初の十字路を右折し、北側の住宅内の細い坂道を息を切らしながら道なりに北上していくと、200mほどすすんだ辺りに東側へと入る竹林の山道がある。
これをさらに南東方向に道なりに100mほどすすむと高圧線の鉄塔が所在する個所に到達し、眼前には人工的な地形が展開している。


  ひときわ目立つ丘陵      竹林の中の道をすすむ


  堀跡に見えなくもないが    小口ではなさそうな

その現況については、一見小口のようにも見えなくもない地形や、堀跡のようにも見えてしまう地形も所在したりして全く飽きさせないものもあるが、多分に近年の重機などの工作跡のような印象も感じられる。



山田城山比定地3(神奈川県横浜市都筑区山田町) 11時20分から11時50分

前項の比定地2から中原街道旧道をそのまま何性方向にすすみ「のちめ不動」を過ぎ、百石橋西側交差点を渡り、そのまま120mほどすすんだところに幾分戻るような北側に曲がる細い道に入る。
そのまま距離にして約50mばかり進むと進行方向左手に南西方向に登ってゆく石段があり、これを少し登った個所に「堀之内稲荷」の小さな祠が所在している。
ここからそのままフェンス沿いに登ってゆくと、すぐに進行方向右手に土塁のようにも見えなくもない細い尾根筋が視界に入る。
さらに歩みを進めていくと山田神社境内の東側へと到達する。


     堀之内稲荷         途中の尾根筋


   山田神社東参道        境内の北側崖線部


 鎌田正清の名がある神社由緒     南側参道から


     南側参道         南側参道の途中


    南側表参道麓


山田神社境内は北側は切り立った崖線を形成しているものの、東側は先ほど登ってきた比較的緩やかな稜線であり、西側にはあまり比高差を感じることのできない住宅地が広がっている。
さらに南側には約300mに近い長大で緩やかな傾斜を有する参道が続いている。
南方の視界は良好であるものの、伝承性の色濃い中世初期の武士の館は別として、いわゆる要害地形としては些か不十分な印象が強い。

以上3か所の山田城山の推定地についても、「城郭大系」のほか、「古城址探訪」様よりのご教示によるものです。



殿山伝承地(神奈川県横浜市都筑区早淵) 12時50分から13時10分

山田城山からの道のりが、ほんの僅かとはいえ早渕川の段丘を超えるルートであり、かつ直線ではないこともあったりして、この日の蒸し暑さも加わり8割がた探訪断念寸前にまで疲労困憊。

あくまでも「殿山」の地名から訪れてみた場所であり、早渕公園の南側に隣接している比高5mほどの造成宅地西側斜面に丘陵としての名残を止めていた。


   伝・殿山付近           同  左

こちらも探訪のきっかけは「古城址探訪」様よりのご教示によるものです。


帰りがけに路線バスを当てにしていたものの、午後2時という時間帯は僅かに1本のみで、しかもバスは今しがたの13時6分に出たばかりという最悪の状況。
ここは英気を養うために遅めの昼食を摂るべく、左右の沿道を眺めつつ東山田駅方面へとよろよろと歩を進めるも、あるのはラーメン店が2軒に松屋にマックという按配。
足の痛み、肩の痛み、梅雨晴れの暑さの三重苦のなか目に入った和風レストランの「味の民芸」
このさい贅沢は言えないので何を食べようが、とりあえずエアコンにあたりたいという一心で入店。
頼んだのは「三元豚のつけうどん」と「ミニソースかつ」(かつ2切れ)を追加。
食事時間を含む都合1時間ほどの休憩により、どうにか残りの目的地へと赴く気力だけは復活。



茅ヶ崎城(神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東2丁目) 14時35分から15時20分
 
広い城址公園をこの時期訪れていた人は皆無で小机城同様に城跡を独占。
ところが事前に想像していたよりも夏草が元気に繁殖し郭一面を覆い尽くし、復元された主郭の小屋址の石も草に覆われ足でかき分け捜索するような始末。
堀底が舗装されていることから郭間を歩く分には問題がないものの、予想されていたこととはいえ、郭の形状、土塁の規模、配置、小口の様子を観察するには矢張り不向きな時期であった。
草刈りのお手伝いをしたいところなれども持病の腰痛が。


   茅ヶ崎城入り口        画像中央が主郭


      主 郭         主郭(左)と西郭

 
   主郭(左)と西郭         主 郭


     西 郭          西郭北側の土塁


    西郭の土塁           堀切か


   主郭(右)と西郭    主郭(左)と東郭の土橋・堀切


     主   郭       東郭の腰郭手前の堀切


   東郭からの眺望          東 郭


   主郭と北側土塁        主郭と南側土塁


      北 郭       北郭から見た主郭小口付近


このあと市立博物館に立ち寄り、休憩がてらに暫し資料関係を収集。


  「都筑まもる」くん      横浜市立博物館玄関

ここで携行していることを忘れていた副作用の常習性もある「痛み止め」2剤を服用。
薬の効果はその後帰宅した後まで継続。
しかし、2日後に重度の腰痛と肩痛が発生。
つまりは痛みを一時的に麻痺させていただけのことで、本質的に痛みの原因を取り去るものではないのであった。



大塚遺跡(神奈川県横浜市都筑区大棚西) 15時50分から16時30分

有史以前の環濠集落跡で、あくまでも帰りがけのルート沿いなのでついでに立ち寄る。


    復元環濠集落        復元竪穴式住居

この幅くらいの環濠の規模では仮に排水路などとして利用されることは想定できても、人間を含む外敵の侵入を防ぐという防御性を高めるうえで、果たしてどれほどの効果があったのかどうかについてはいささか疑問も残った。
また堀の外部に土塁と柵列があるが、内部からは見えづらく外敵が身を隠すことのできる不都合な配置となっていることも明白であり謎は深まる。
 
 
 
この日は〆て4万歩なので、前回に比べれば歩いた距離はたかだか31キロメートルほどに過ぎず。
また延比高差の方も先週よりもはるかに少なく、僅かに延べにしても約150メートルばかり。
数の上では10か所だが、あくまでも比定地などが多いことから実質は6か所ほどという成果に。

一方で今回試してみたスポーツサンダルは可もなく不可もなく。
確実なところでは、踵には優しいがやはり斜面には不向きという結論に。
また踵サポーターはその装着方法の工夫次第なので、ある程度は歩行に伴う痛みは軽減可能であることを再確認。

この日の暑さに伴うと疲労もかなりのものだったことから、今回は今までの状況に加えて右腰(足の痛みをカバーして歩く姿勢)と左肩(たぶんデジカメの携行によるもの)にダメージ発生。
携行した痛み止めは当座の対処としては効果覿面なのだが、翌々日から腰と肩の痛みを併発して、只今継続中(6月13日午後4時15分現在)で少なくとも一週間程度は身動き不可に。

以前から横浜方面は全く地理不案内。

公共交通機関での所要時間は地下鉄副都心線、東急直通があるというものの正味で約1時間半。
これが乗り継ぎの場合には2時間近くに。
自宅から最寄り駅までの所要時間をプラスするとだいたい片道2時間半。
これがいままで敬遠してきた最大の理由のひとつ。

三度目となる訪問で、ようやく東急東横線の南北方向に加え、菊名経由のJR横浜線、日吉からの市営地下鉄グリーンラインの路線図が何とか脳裏に浮かぶようになってきたことは大きな成果。
さて今後四度目の横浜探訪があるかどうかは、今後の梅雨の空模様と気力次第に。

拍手[1回]

途中撤退することとなった先月の借りを返すべく再び横浜方面へと赴きました。
この地域で遺構の残存状態では良好な部類に含まれ、かつ季節的に訪問可能な小机城、茅ヶ崎城、榎下城方面は遠望するまでにも至っておりません。
当面の城館探訪にあたり、喫緊の課題でもある長時間歩行に伴う両足踵の痛み対策などを新たに考案。
極力歩行距離を抑制し、比較的短い距離でもタイムロスのない限りはできるだけ電車、バスを活用する方針と合わせて現状でとりうることのできるプランを考案してみました。
果たしてその結果は...



獅子ヶ谷殿山(横浜市鶴見区獅子ヶ谷町) 午前7時00分から8時20分
 
 この日の手始めは獅子ヶ谷の殿山で、東急大倉山駅から徒歩にて向かう東急東横線東側の低丘陵地帯です。
この時ふっと脳裏に浮かんだ発想とまでにも至らないような漠然としたイメージが、後々の所要時間浪費の伏線を暗示していたとは思いもよらず。

 
1 師岡公園

途中で稜線上に所在する上記1の師岡公園を左に見ながら、比高差20mほどの丘陵を越えて丘陵に挟まれた谷底道のような細い市道にて殿山南麓に所在している横溝屋敷方面へと歩みを進めていていきました。
この一帯は南北を東西に延びる細長い丘陵に挟まれており、いろいろと魅力的な地形が各所に散見されますが、その多くは宅地開発により旧情を窺うことが難しくなっています。
すると、また今しがた越えてきたばかりの画像2の丘陵ラインがほんの少しだけ目視できるような緩やかな下り坂の地点へと到達。

 
  2 稜線は師岡公園の一部
 
上記の稜線が気にかかる地形のひとつでしたが、当面の目的地とは300メートルほど離れた地点でもあり、そのままスルーして目的地のひとつ手前の永昌寺に立ち寄り、念のため尾根筋からのルートが無さそうなのを確認してから「みその公園、横溝屋敷」へと向かいました。
南側から見上げる殿山の景観は画像3のように比高30メートルほどの低丘陵でありながらも、両脇に支尾根を抱えるなかなか堂々とした山容でありました。

 
3 殿山(民家背後の正面あたり)4 横溝屋敷

横溝屋敷の古民家の風景を外部から撮影し、さていよいよ殿山へ登ろうとフェンスに近づいたところ、何と南京錠により施錠中というまさかの事態に直面し暫し茫然。
時刻は確かに未だ午前7時なので、施錠管理されていれば未開錠も道理といえば道理かとも。
しかし脇の方からも入れるような隙間もなく、やはり昨日までの予定通り先に大倉山方面に赴くべきであったなどと独白してもあとの祭りとなりました。
このあと、付近の地形を観察しルートを探し、少しだけ苦労して(⇒ホントはかなりの体力消耗)尾根筋の散歩コースへ到達し再度殿山方面へ。


5 この稜線は市民散歩コース 6 この先が殿山の山頂

あとから判明したことですが、横溝屋敷経由の入り口の開錠時刻は画像7のように午前9時30分でした。
それでも元々散歩コースとして管理整備されているため、それ以外に少なくとも4方向からアプローチできることを知りました。
また悔しいことに、先ほどの画像1の師岡公園からは、そのまままっすぐ尾根筋を辿ればこの殿山に到達できることも判明するというお粗末さ(笑)
周辺のアクセス環境を把握できたとはいえ、まさに徒労の一言に尽きました。
この時点で当所の予定時間を軽く1時間近くもオーバーするというおまけつきです。


7 横溝屋敷の開館時間    8 殿山山頂付近


9 横溝屋敷へと向かう痩せ尾根 10 殿山山頂付近


頂上部は公園整備が行われているので旧情は不明ですが、確実に削平地形が存在し低丘陵の割には明確なピークを形成していることは把握できます。
「城郭大系」では小田切氏との関連を示唆し、かつ「堀と土塁の存在」を示していますが、現状では削平地の周辺に確認はできません。
強いて言えば山頂部の斜面は切岸にも見えなくもないような気がしてきますが、たぶん気のせいなのかもしれません。


 
12 殿山山頂付近の斜面


帰路はそのまま尾根筋を南西へと向かい、想定通り師岡公園へと到達しました。
公園北東部には、一見すると土塁のようにも見えなくもない地面の盛り上がりも所在。
無論公園造成の際に大きく丘陵地形が改変されている可能性が想定されます。


13 尾根筋の削り残し    14 同  左


15殿山よりも城跡らしい景観

この程度の丘陵歩きですが、右往左往した結果比高差累計はすでに約80メートルに。
帰路、大倉山駅方面へと向かう道すがら、ここで早くも踵部分の違和感が発生。
未だ歩行数は9000歩と少しなので、今までの経験上からはあと1万歩くらいは大丈夫かと。
しかしそれでは大倉山方面で終わってしまうことになるというのは如何なものか...往復に伴う所要時間5時間の元を取るには少なくとも延べ5カ所程度は...などと愚にもつかないような皮算用をし始める愚かな管理人なのでありました。
管理人の思惑を嘲笑う様な連続し漸増する痛みとの激闘は、これがあくまでも序章に過ぎませんでした。




大曾根城(横浜市港北区大曽根町) 午前8時50分から10時50分

今度は獅子ヶ谷殿山しは反対側ととなる大倉山駅西方の高台です。
東急東横線の軌道により丘陵が大きく分断されていますが、本来はそのまま東側へと続いていた地形のようです。


1 丘陵を南北に通過する東急 2 この辺りでまだ三分の一


3 大倉山記念館       4 同    左


5              6 説明版もありました


7 この個所には味わいが   8 細長い郭状の地形です


9 確かに眺望は優れる    10 途中の尾根筋も公園化


11 龍松院境内

笠原氏関係の石碑が所在しているという龍松院は閉門しておりましたので、石碑は拝見しておりません。


12 この辺が最もそれらしく 13 これは新しい腰郭(笑)

上記左側の画像の個所が、下記の右下の画像の個所に繋がっています。


14 龍松院山門       15この右側辺りが気になります

上記画像の右側に通行止めのロープを渡した個所がありました。
だいぶ不確かな情報ですが、ことによると何らかの足跡が存在するのかも知れませんが道路沿いから拝見する限りは何とも言えません。

ここでもまた初っ端から比高差25メートルほどを2度ほど上り下りしたのて50メートルほどに。
これで登った高さは早くも延べ約130メートルほどになりました。

 
16 尾根筋が括れていた個所

太尾見晴らしの丘公園に赴くにあたり、牢尻緑地の南東側の市道を登り尾根筋沿いに移動開始して都合25メートルほどを登ってみました。
目指す地点は画像16の場所で、地形図などからも分かるようにこの地点は尾根筋が大きく括れていることから堀切などを置くには好都合な鞍部でした。


17 南西側のv字谷     18 北東側の谷

画像16から18に示したように、なかなか感じの良い尾根筋の括れを確認できましたが、残念ながら現在付近一帯は大々的に送電線関係の工事の真っ最中らしく、肝心の個所には建設資材運搬用のリフトが架設されておりました(苦笑)
もともと過剰な期待はしていませんでしたが、気持ちを新たにして北西の尾根続きにある「太尾見晴らしの丘公園」(画像19、20)へと移動しました。


19 太尾見晴らしの丘    20 同   左


21中腹からでも見通しは良好 22麓の印象よりも比高差がある


23 鶴見川と堤防      24鶴見川沿いの舟運の河岸跡碑


大倉山駅周辺の僅か2か所を探訪し終えたこの時点で時刻はすでに午前11時近くに。
当所の滞在予定を大幅に超えた時間消費となり、朝方涼しかった北風も、やがて南へと変わり体力・気力の方も相当に消耗していきました。
その一方で、もともと課題であった踵の違和感も徐々に拡大増加の一途。




小幡泰久館(横浜市港北区大豆戸町) 午前11時50分から12時05分

ここでの比高差は緩い坂道と寺院と神社の石段くらいのものなので、合計してもせいぜい15メートルほどなので、この際はのんびり休みがてらの歴史散歩のような訪問。


1 これくらいの比高差    2 本乗寺山門


3 八杉神社鳥居       4 石段は割合少ない


5 八杉神社社殿       6 雰囲気の良さそうな法面


「城郭大系」と現在の地形を見比べると、こじんまりとしたこの八杉神社境内辺りから南東の本乗寺のあたりの丘も伝わりますが詳細は不明のようです。



篠原城(横浜市港北区篠原町)13時00分から13時10分 先月に続く再訪

先月訪れた後でネットを調べたところでは城跡北側に説明版が設置されている由が掲載されておりましたので、完全に見落としていました。
こうした一連の画像撮影のため再訪しましたが、結果的には些か間の悪い再訪でもありました。
現地解説版などによりますと、金子出雲に関係する城跡であうとのことで、これは恐らく「城郭大系」が示すところの「金子出雲守の塁」に相当する模様です。
「城郭大系」が「横浜線菊名駅北の丘上」と誤った所在地を示したことから誤解が生じてきたというような経緯があるものと思われました。
また仮に「城郭大系」が示してる「菊名駅北の丘上」ですと、所在地の上では前記の「小幡泰久館」がこれに該当するものと思われます。

ここでも緩やかな市街地の坂を4度ほど上り下りしたので、一応比高差合計は30メートルほど。



1 新横浜南口駅前から    2 この細い道を道なりに進む


3 100mほどでここに出る 4 篠原城の解説版


5 篠原城の解説       6 詳細な縄張図も


7縄張図の腰郭と符合するあたり

解説版脇の掲示板には訪れた翌日の6月4日に現地見学会が行われる旨の告知が掲載されておりましたが、さすがに連日横浜まで往復5時間を要して赴くだけの気力は無く...(苦笑)



◎篠原八幡神社(横浜市港北区篠原町)13時30分から13時40分

単に立地条件が気にかかったので、先月篠原城の途中で立ち寄る計画でしたが、「乗車したバスが菊名駅行でしたのでパスした個所でした」って、ダジャレを言ってみても詮ないこと。
丘陵の頂上部に所在し北方の眺望が良好なのですが、独立した尾根筋という地形ではありませんでした。
横浜市内にはこうした低丘陵が多く存在するのですが、宅地造成の進行により地図上からは当該地形が判別できるようにはなっていないことをあらためて痛感。

遺構とはほぼ無縁の丘陵地帯でしたが、傾斜だけはきつく比高差約25メートルほど。
このため比高差は延べ約245メートルに。


1 八幡神社境内       2 同 左

 
3 関係は不明です      4 厄さえも無縁の年代
 
 

三会寺の土塁(横浜市港北区篠原町) 14時40分から14時55分

ここだけは、とても足に優しいほぼ市街地の平坦地でしたので一安心。
境内北側部分の本堂奥に土塁が現存しておりました。
高さは背丈ほどで、総延長は少なくとも30メートルほどでしょうか。
土塁地形の経緯は不詳ですが、近刊された「神奈川中世城郭図鑑」に僅か一行半ほど記載されていたことから訪れてみただけのことです。
篠原城を訪れた際にでも、時間に余裕があれば立ち寄ってみてもいいかもという印象でした。


1 真言宗三会寺の山門    2 三会寺本堂


3 よく見れば土塁が     4 歴代住職の墓石群


5 六地蔵           6 墓石の説明版
 


鳥山館(横浜市港北区鳥山町) 15時05分から15時10分

三会寺からは緩い上り坂となり、神社境内の鳥居から社殿までの比高差が約10メートルほどありました。
「城郭大系」によりますと、佐々木高綱の居城とも伝わりますが、なにぶんにも12世紀末のことなのでいささか違和感を生じる伝承でもあります。
社殿は丘陵中腹に鎮座していますが、無論、地表上の遺構は確認できません。
この時点では最早裏側の住宅地へと続くであろう40段ほどの石段を登る気力と体力は皆無でした (^_^;)


1 八幡神社参道       2 八幡神社社殿



土井谷砦(横浜市港北区小机町) 15時45分から16時00分

丘陵中腹に所在する寺院でしたので、比高差は約15メートルほどに。
小机城を任されていた笠原氏の墓石が所在する雲松院の裏山(おそらくは南側か)が城跡と考えられているようですが、立入禁止のため詳しい様子を窺い知ることはできませんでした。
解説プレートや解説版などによりますと、同寺には旗本となったその後の笠原氏の墓石も存在しているということです。


1 曹洞宗雲松院       2 山門


3 本堂           4 城跡を含む解説プレート


5山門、本堂、笠原氏墓石の解説



小机城(横浜市港北区小机町) 16時15分から16時50分

本日最大の目的地ですが、ようやく訪れたものの時刻はすでに午後4時過ぎに。
それでもこの季節なので未だ日没までは2時間以上の余裕がありました。
第3京浜により、一部城跡が分断されてはいますが、日頃の下草刈りが行き届き程よく公園化され散策コースも整備が行き届き本当に有難い限りです。

歴史上で小机城が登場するのは戦国時代初期の長尾景春の乱で、文明10年(1478)景春に同調した在地領主たちが、この城を拠点として扇谷上杉氏に反乱を起こしましたが、太田道灌により鎮圧されたとされています。
無論現在遺されている遺構は後北条氏時代晩年のものですが、秀吉の関東侵攻時まで機能していたことが推定されています。
後北条氏一族の属城で笠原氏が城代を務めたことが通説とされています。

通称本丸、二の丸ともに、従前に思い描いていたほどの広さは無く、最大でも数百人程度が籠れるかどうかという印象の規模でした。
郭と空堀関係は実に良く遺されていますが、その反面土塁の残存状態は想像していたよりも耕作などによる削平が行われた模様です。



1 JR横浜線小机駅構内にて 2 小机城遠望


3 住宅街から城跡へ     4 お、切岸が


5 こころ和む城址標柱    6 とりあえず本丸から


7 本丸南側の空堀      8 本丸へ続く土橋


9 本丸南小口土塁      10 本丸北東部の堀底道


11 本丸北側の空堀     12 二の丸西側の堀底道

  
13 同 前         14 同 前


15 同 前         16 二の丸西側切岸


17 二の丸北西堀底道    18 北方の眺望


19 二の丸北側堀底道    20 二の丸北部


21 二の丸南西の櫓台    22 本丸方面


23 本丸東側小口付近    24 二の丸南側腰郭


25 城跡南部の馬出へ    26 本丸南側空堀


27 同 前         28 城跡南端の腰郭群


29 馬出東側城道      30 同 前


31 馬出方面の遠景


丘陵麓から本丸へ向かい堀底道に降りて二の丸へ向かうルートをとりましたが、それでも比高差は約30メートルほどになりましたので、この日の累計比高差が約300メートルほどとなり、ちょっとした山城並みの比高差となってしまいました。
それても総じて丘陵越えのルートは適度に道が管理整備されお陰様で快適に探訪できました。



★以上の8カ所の歴史的背景などについては、後日改めて記述を追加・改定したいと思います(⇒ただし時期は未定)ので、このブログはあくまでも当面の備忘録となります。



この日の歩行数は予定を遥かに超過して、延べ歩行時間7時間50分、歩行歩数4万6000歩近くになったので、もう少しでフルマラソン寸前に。
梅雨の走りにも遭わず、懸念していたやぶ蚊の襲来もなく、この足の状態で9か所を訪れることができたのは殆ど奇跡のようなものかとも思う次第にて。

そうはいっても、帰路、もはやエスカレータを駆け下りるような気力と体力は完全に消失。
東急菊名駅で直通急行川越市行に僅か10秒ほどの時間差で乗車できず、おまけに疲労と痛みで地団駄さえも踏めず、東上線直通は何と40分後という無情の時刻表を茫然としながら眺めておりました。


帰り際にのんびりと飲んでいた自販機のトマトジュースに八つ当たりしてみたものの、そのあとで幸いにして渋谷行始発各駅停車で座れたので小さな幸せを噛みしめる卑小な自分がおりました。
座席に腰かけていると踵の方もさることから、両膝と両足首がパンパンに腫れ上がっていたので、通勤逆コースの空いている車内にて片方ずつ足首を軽く左右に回転させ機能回復に邁進。

さて本日久しぶりに発症した強烈な肝心の踵の痛み。
原因は恐らく足裏の浮腫みであろうと推察。
装着していたソルボ製踵サポータの位置が、体重を含む荷重と長時間歩行が複合し足裏の浮腫みに繋がり、これにより1センチ近くもずれていたことが主な原因であると判明。
両足踵にはサポーターのエッジ付近が段差となって食い込んだことにより発症したものであることは間違いが無さそう。
このため予め貼っておいたバンドエイド大型傷パーワーパッドも殆ど役立ちませんでした。


装着していた踵サポーターは、現在のところ一昨年秋頃から何種類が試した中では機能もサイズも最も効果的であることは実証済み。
従っていわゆる足底腱膜炎の症状は抑止できたものの、足裏全体の浮腫みに伴うサポーターのずれが引き起こした痛みだとすれば、あらかじめ浮腫みを想定した装着位置を考えれば良いだけのことなのかと。

一方、日常履いている足底の柔らかなサンダルでは殆ど足裏への負担は無いことも事実。
斜面を上がり降りすることを考慮しなければ、限りなくこれに近い履物を選べば済むことなのかとも。
渋谷駅から乗車した副都心線東上線直通通勤急行川越市行きでの両踵に連続発生する激痛は、まさに想像を絶するものがありました。
これが急行なので渋谷、新宿、池袋、小竹向原と停車駅だけは少なく有難いものの、座席に座れるチャンスは東上線に入っても最後までめぐっては来ませんでした。
見かけはギリギリ優先席に座れるかどうかの瀬戸際の外見なので、あまり文句などをいうこともできません。

加えてこの折に吊り革を握っていた左手の指全体が強直し感覚を喪失。
たぶん過労と脱水症状による腱の痙攣と推察。
動く方の右手で揉み解してどうにか危機を脱出。
この時期には経口補水液2本を常時携行し、それ以外に必要に応じてコンビニや自販機などでさらに数本ほどを補給していても、状況によりこうなることは大分以前に体験済み。


なお、翌日出かけた「終活準備の斎場めぐり」では、愛用のサンダルで5000歩以上歩けているので、それなりの回復力が強まってきたことは微かな明るい材料なのかも知れません。
以前ならば、ほぼ一週間くらいは身動きがままならなかったことを思えば進歩なのかとも。

というような次第で、今回はようやくどうにか小机城までは廻ることができました。
とはいえ茅ヶ崎城と榎下城方面は梅雨入りも近いこともあり、その訪問が何時になるかは皆目不明です。
あと数年もたてば年齢的にさらに運動機能が低下していくのは必定なので、動けるうちに動いておこうと心に誓った一日なのでありました。


本日の金言。
「足は浮腫は恐るべし。これに優るは日頃の節制、正しい履物」

そうそう、忘れないうちにこれも記録しておこう。
「指の痙攣、脱水症状」

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 今回は何故か、ふと思い立って普段は殆ど赴くことのない神奈川県の市街地へ。
車でのアクセスが不向きな土地柄ゆえ、なかなか足が向かなかった地域ではあります。
午前4時30分に自宅を出てから、東武東上線-副都心線-東急東横線を乗り換えなしの直通通勤急行なので乗車は最短の時間1時間半弱。
座席にも座れ、かつ無事に通勤ラッシュも回避。

思えば便利にはなったもので、ひと昔前ならば池袋、品川での乗り換えが不可避で所要時間は2時間を優に超えるはず。
こうして横浜駅に到着した時にはラッシュ前の午前6時35分前。
鍵となるのは、雨と蒸し暑さなどが懸念されたこの日の空模様。

権現山城(神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷) 午前6時50分から7時40分

横浜駅に近い横浜市内なので、まず駐車できるような場所はありませんので電車利用が大前提。
従来の城跡推定地は「城郭大系」などでは「幸ケ谷公園」とされてきたようですが、最近刊行された「神奈川中世城郭図鑑」によりますと、もう少し東側の幼稚園や小学校の所在する辺りが権現山のピークではなかったのかという説が有力視されているようです。
15世紀初め頃の伊勢氏と扇ケ谷上杉氏による「権現山合戦」の舞台と伝わります。


 
  京急神奈川駅前の解説     権現山城のネコさん


  一応解説版がありました   かつての推定丘陵先端部付近


なお城跡と麓の神社にて割合と懐こいネコさん2匹と対面し記念撮影。
鳥を眺めているのか、中空を凝視しているのか不明な不思議なネコさんは「さくら耳」(去勢済み)でした。


  丘陵中腹の洲崎神社境内    鳥を眺めているネコさん


 
  仏公使館があった甚行寺      境内の紫陽花



青木城(神奈川県横浜市神奈川区高島台付近) 午前8時00分から8時10分

現在曹洞宗本覚寺の境内地となっている台地が遺されているだけで、地表上の遺構は確認できません。
旧来は権現山城と一体となっていた城跡であるという考え方が定説となっている模様です。
なお、幕末期には米国の領事館が置かれていた時期もあり、山門脇に史跡の標柱も設置されていました。
また、この石柱後方の緑豊かな台地が権現山城に当たります。
「権現山合戦」では上杉方の藤田氏によって、伊勢氏側に加担した上田蔵人の籠る要害が落城したとも伝わります。


  城跡の曹洞宗本覚寺      こちらは米国領事館跡


   タイサンボクの花       この辺りに堀切が



以上の僅か2か所(⇒実質1か所のようなもの)を訪れただけで、風はあるもののじっとりと湿った南風が吹き、体中から汗が止めなく吹き出すような湿度は予想以上。
早起きのせいなのか、歳のせいなのかは分からねども、この時点ですでに早くも疲労が顔をのぞかせはじめました。

それでも、本覚寺のすぐ南西側で東急反町駅へと向かう最短距離の専用通路を見出し欣喜雀躍。
・・・と、なってしまったことが全ての誤算の始まりでした。
前日の睡眠の直前までは、本来はこのあとでいったん京浜急行神奈川駅あたりに戻り、鶴見駅方面からバスまたは徒歩にて総持寺の北側を通過して諏訪坂方面へと向かい、ふたたび上手い具合にバスがあれば県道85号線を西へと向かうというような理想的ルートを描いておりました。


 
 セイヨウアジサイ(3枚共)    ついでに露草も

それが専用通路の標識を目にした途端にコロッと失念して、能天気に上の早咲きのアジサイを撮影し始めたりしており、このあとの相当に無駄な労苦を積み重ねることに繋がっていきました。
あとで測ってみたところでは無駄に歩いた距離は何と約10キロメートル弱に。



寺尾城(神奈川県横浜市鶴見区馬場3丁目一体) 9時20分から10時40分

後北条氏家臣諏訪氏の城と伝わりますが、基本的に駐車できる場所はありません。
東急の妙蓮寺駅から県道85号線を北東に向かいます。
このとき最寄りのバス停で確かめた時刻表ではこの時間帯のダイヤは1時間に2本。
ならば己の足を信じて歩くのみと判断したのが大間違い。
東急バスの方は通勤・通学時間以外の最も少ない時間帯でも1時間当たり6本もあったという事実に気づいたのは、このあとの諏訪館から戻る途中であったのてありました。

市街地化が著しく遺構に乏しい様子でしたが、事前に下調べしたところでは、だいたい次の3か所くらいは見ておきたいところでありました。
ところが思いのほかの比高差と元々地理不案内のために、比高差が少ないとはいえ丘陵地帯を二往復半するなどして、かなりの時間を費やすこととなりました。

 
 麓からの比高差は20mほど   この石段は結構つらい


◎城跡石碑 
丘陵の山頂近くに所在してるのですが、具体的には寺尾3丁目15番の住宅地南西角の道路沿いに所在しています。
この日は横浜市内ということもあるのか、同好の士の方と遭遇することがたびたび。
城跡石碑の前で軽く情報交換などを。



◎馬場稲荷 
ウェブ地図などには「馬場稲荷」の表記があります。
石碑の箇所よりも比高差で10メートルほど低位に所在しており、このためアプローチには北西側の道路からが便利です。



◎殿山公園

公園内の西側住宅よりに空堀(竪堀)とこれに平行する土塁を確認できますが、周辺の宅地開発が進行しているため、いささか今後の遺構保全が気がかりです。
 
徒歩などの場合には北側の県道から、まず「馬場稲荷」、次に「城跡石碑」の順番で訪れ、最後に城跡石碑脇の細い道をそのまま東側へと向かい行き止まりとなる手前南側(右側)に「殿山公園」入口の木柱がありますので、この順路で廻るのがアップダウンも少なくて比較的楽なルートだと気が付きました。
もちろん丘陵南東麓からも行けますが、疲れない最短ルートは上記のとおりです。
ちなみに管理人は「城跡石碑」探しでは山頂の住宅地を一周半し、「馬場稲荷」では2度あの石段を往復し、殿山公園を探すにあたっては東高校の方まで足を伸ばすという無駄骨を折っております。

 丘陵上からの殿山公園入口    左の画像近くの解説板


    竪堀と土塁       細長い公園の中ほどの解説版


以上の寺尾城での彷徨が終了したのち、何かとても大事なことを忘れていたことを思い出し、漸くそのことに気付いたものの時すでに遅く、すでに次の諏訪館へと向かっている途上なのでありました。



  水連(ヒツジグサ)とも       同 左

下記の個所に向かう途中で立ち寄った水天宮境内の池に咲いていた水連です。



諏訪午之丞館(神奈川県横浜市鶴見区諏訪坂) 11時55分から12時20分

比較的狭い道が多く無論駐車できるような場所はありません。
「城郭大系」などによりますと、前記の寺尾城の城主であった諏訪午之丞の居館があったと伝わる場所ですが、現状は丘陵に崖線が確認できるものの一面の住宅地となっております。。
県道85号線が大きくカーブしているので、地図上の最短距離を進もうとしたのがまたもや大きな誤算になつてしまいました。
そもそも県道が大きくカーブしているのは丘陵地形が多いがための回避措置であり、こうした地形の最短距離をすすむということは正に「丘を越えて」いくことに他ならず。
僅か比高差20メートルほどの丘陵でも、2か所越えれば40メートルという計算に。
いわゆるだらだら坂もきついのですが、登るのが嫌気をさす急坂も疲れます。
あとで調べてみたところでは、このようにしてこの日に登った比高差は都市部の丘陵地帯であるにもかかわらず、累計で160メートルは超えておりました。

 
  途中にあった熊野神社    解説版の後方は只今工事中


  道路左側が推定館跡      上記解説版部分拡大


上記の解説版と現在の道路が幾分異なっているため、その相違を理解するまで些か時間を要しましたが、本来は古墳などとともに東西約150メートル、南北約100メートルほどの規模で崖線先端部付近に所在していたものと思われました。
このあとは、いくぶん遅めの昼食を摂り彼我の情勢(肉体疲労と空模様)を分析したのち、東急バスにて終点の「菊名駅」へ。
駅に着いてから次へと向かうか、そのまま自宅へと戻るかを決めるつもりでしたが、まだあと少しくらいならば歩けそうな気配でしたので重たい足を引きづりながら篠原城方面へと向かいました。



篠原城(神奈川県横浜市港北区篠原町)15時00分から15時15分

近年に城郭研究者の方が確認して話題となった中世城郭で、所在地から推定すれば小机城の支城のような役割が想定されます。
新横浜駅南側の丘陵地帯に奇跡的に残存していた城郭遺構ですが、この一帯は最近の宅地造成などにより主郭部周辺を除いて宅地化の波に飲み込まれてしまいました。
比較的狭い道路が多く、無論駐車できるような場所はありません。

それにしても南側の丘陵方面からアプローチすると、城跡が所在する向こう側には新横浜駅周辺の高層ビルの上半分がが覗いていたりするという何とも不思議な光景を見ることができます。
最寄の菊名駅からは横浜線北側の市道を西にすすんで丘陵の麓へと到達するのが、平坦でもあり最も便利かもしれません。
自分の通った「錦が丘分譲地」方面経由ですと、最悪比高差20メートル近い丘陵を登って下るという無駄に等しい疲労の激しいコースになります(^_^;)


     郭跡かも         主郭東の横堀付近


さて肝心の遺構ですが、以前に発掘調査が行われた際の詳しい解説パネル類などは見当たらず、今回宅地化された個所以外にはそのまま立ち入り禁止のフェンスが巡らされておりました。
しかし現在でも主郭切岸の一部と主郭東側の横堀については、フェンス越しからも現存していることが明確に確認できます。
このほかには主郭南側の平場と、辛うじて新しい造成宅地にも郭群切岸の一部が遺されているようにも見受けられました。




この日の本来の目的地はこの時期でも行けそうな小机城と茅ヶ崎城がメイン。
時刻は未だ午後3時15分過ぎで、新横浜駅までは徒歩約1キロメートルほど。
しかも未だ5か所しか探訪していないという冷徹な現実に暫し茫然。

小机城での歩行距離は駅からの徒歩を含めてもせいぜい4キロメートルくらい。

しかし生来の欲をかく悪癖が頭をもたげ、これに頑固な性格が輪をかけて、この日ここまで歩いた距離は何と32キロメートルを超過しておりました。
10年近く前には50キロメートル以上を歩いた経験はあるものの、足回りの痛み対策を行っているとはいえ、加齢に加えて手荷物の加重(約6キログラム)と徒歩の場合には車のような間の休みがないことなどを失念してしまい、確実に踵へのダメージが蓄積されていきました。

さらにこれに追い打ちをかけるようにして、時々路面に落ちる小雨と相俟って遠雷の轟も心なしか激しくなり始め、空模様もかなり怪しげに変貌していきました。
かくしてせめて小机城の遠景くらいは拝みたいという微かな願いも叶わず撤退を余儀なくされました。


本日の教訓
「丘を越えて」行くのは辛い。
道路が曲がるのには必ず訳がある。

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この日は、みかづきぼりさんのお誘いで栃木県小山市へ。
先月、岩手県南への遠征時に比べますとごくごく短距離の遠征です。
また道筋も今年3月末の再訪ということもあり、近年物忘れが進行している年代とはいえまだまだ記憶に新しいルートでした。

連休明けの日曜日で、午前6時に拙宅スタートという好条件も加わったのかも知れませんが、極道16号線、県道3号線、国道125号線、国道4号線という経路にも殆ど渋滞が見られないという誠に幸先のよいスタートをきることができました。


野木神社(栃木県野木町) 午前7時40分から7時55分

国道4号線沿線に所在していることと小山市立博物館の開館時間との兼ね合いもあることから、ここを含めて野木町内の4か所を再訪してみました。


野木城(栃木県野木町) 午前8時00分から8時25分
再訪。
やはり今年3月末に比べますと、いささか野草の伸びが目立ち始めていることは否めず、城跡切岸の顕著さが減衰されておりました。


法音寺城(栃木県野木町) 午前8時30分から8時50分
再訪。
思川(おもいがわ)に向かう手前の市道沿いの山林内に遺されている櫓台を伴う城跡北東側土塁は、この時期であるにも関わらずまだ何とか目視できる状態でした。


乙女の土塁(栃木県野木町) 午前9時00分から9時10分
再訪。
隣接する北東部では太陽光発電施設の組立中でした。
土塁の一部にかかる北東側の樹木伐採は、この発電施設建設に伴う日照確保のためのものであったことが分かりました。
当該土塁状の地形については、近年の街区道路整備にそのままリンクしている地形であるという点が何とも悩ましいものがあります。

この直後に小山市博物館に立ち寄り、小一時間ほどを要して、開催中の「戦国時代の小山」企画展(料金200円)を見学。
遺跡発掘調査報告書の所管などが変更されたことや人員配置なども影響しているのかも知れませんが、企画展自体の内容もさることながら、3月末に訪れた時と比べてやや業務縮小されたような何とも漠然とした印象が残りました。

と、ここまではあくまでも記憶に新しい今年の3月末日に続く再訪であることから、城跡めぐりそのものについてはほぼ順調に推移して行きました。
つぎの小谷城からは、いよいよ小山市内となります。



小谷城(こやじょう、栃木県小山市上生井、下生井小谷) 午前10時30分から10時50分

明治期に編纂された「栃木県誌」(1904刊行)によれば、「小谷俊景が築城し、その後永享12年(1440)に網戸十郎村重が城主となったが、小山氏の支配下に置かれ、元亀2年(1571年)に小山弾正秀綱が再興して大橋右京亮を在城させたが天正年間に廃城となった」というような旨が記されています。

自分の勘違いにより、城跡石碑設置場所の所在地確認に少々難航しました。
城跡石碑(下生井に所在)は、生井集落を南北方向に縦断する県道174号線東側沿道、旧思川流路の北約80メートルほどの地点に所在する「水天宮」の小祠を祀る小さな境内に「現地解説版」とともにしっかりと所在しておりました。



当該遺構については、明治期にはまだ土塁と堀跡遺構などが明確に遺されていた模様ですが、「栃木県の中世城館調査報告書」などの記述によると、「直径250メートルほどの不正形円形の堀跡低地が囲み、西北部の一部にに高さ3メートル、幅10メートルほどの土塁が遺されていたが、圃場整備によって消失した。郭内は概ね田畑となっている。」との記述があります。

なお、上生井集落東部にも小さな「神明社」の境内がありますが、この東側約100メートルほどの地点には宅地に続く長さ10メートル余りの小さな土塁状地形や、城跡東側堀跡の一部とも考えられるような水田の低地を認めることもできますが全く確証はありません。



ただしこの土塁状地形については、旧思川の堤防の一部、あるいは水害除けの「水塚」などに関連するものである可能性の方が濃厚であるとも考えられます。



網戸城(あじとじょう、栃木県小山市網戸字追切) 午前11時10分から11時40分

「城跡の解説版」は網戸神社鳥居脇に所在しています。
「中世城館調査報告」などによれば、「思川西岸網戸集落にあり、かつては当地の網戸神社東の約3ヘクタールにわたり古城という本丸部分があったが、思川の堤防新設工事により分断された」というような経緯が記されています。

鎌倉時代初期には結城朝光の五男である網戸朝村(あじとともむら)の居城したとも伝わり、神社南側隣接してこれらに関係する五輪塔と宝篋印塔が祀られています。
参拝のあと、神社境内に駐車させていただいてから徒歩により暫時遺構の確認を。
神社西側の長慶寺の周囲には水田や水路などの水濠跡らしき地形を現在でも目にすることができました。


   水堀跡らしき水田      寒川尼と網戸朝村の墓石

なお、城跡の一部でもあった網戸小学校跡地では、現在太陽光パネルの小さな発電所が稼働していました。



◎浅間塚古墳(栃木県小山市) 11時35分から12時15分頃まで

通りすがりであったことから著名な古墳にも立ち寄ってみましたが、その物見台にも相応しい地形と南側の窪地に興味をそそられました。


  浅間塚古墳南側の凹地形


◎十二所館(栃木県小山市) 上記時刻の範囲にて
「小山氏の盛衰」(松本一夫著/2015年、戎光祥出版)に少しだけ掲載されていたのですが、これ以外には詳細な情報や関係資料を持ち合わせていなかったことから、その詳しい所在と歴史的な背景は不明なのですが、後日のメモ代わりとして記載しております。
ちなみに同書には「千駄塚古墳の南側では、十二所館と呼ばれる南北130メートル、東西91メートル以上の方形館の存在が確認され・・・」た旨が記されております。


◎薬研堀跡(栃木県小山市) 上記時刻の範囲にて
こちらも詳細な所在は不明、他はについては同上のとおりです。
よくよく考えてみますと、どうやらこの北方約500メートルほどの地点に存在している下記の「千駄塚浅間遺跡」に含まれる推定「館跡」に関連する薬研堀のことを指しているのかも知れません。



千駄塚浅間遺跡の館跡(栃木県小山市) 12時35分から13時20分頃まで

付近の道路建設に伴い2008年頃の埋文発掘調査によりその存在が推定された遺構ですが、記録後は埋め戻されて現状では地表上の遺構を確認することはできません。

「栃木県埋文センターだより2008年7月号」によれば、この台地東側で中世の薬研堀2条が検出され、そのうちの大規模なものは幅6メートル、深さ4メートルを計測したとされ1990年代の初めころに確認された中世城館との関連が示唆されています。

西側河岸段丘の崖線は比高差10メートル以上もある切り立った急崖地形でもあることから、おそらくは最盛期の小山氏による思川東岸の防御ライン一翼を担っていた可能性があるのかも知れません。


  東側方面から遠景を撮影


    北側の崖線部

なお余談になりますが、当該城館跡の存在が示唆されている台地の西側にもうひとつ小さな方形の台地が存在しているのですが、この台地の性格がいま一つ分かりません。
この二つの台地を挟む形でごく小さな川が流れてはいるのですが、それにしては崖線部の比高差が10メートルを遥かに超えるような深さを伴っています。
基本的には思川の流路がもたらした河岸段丘の一部なのかもしれませんが、少なくともその西側の思川沿いでは多分に後世の河川改修あるいは橋梁工事など伴う残土処理などを連想させる人工的な区画形質の変更が加えられている様子も窺えることから、東側の台地との関連性を含め果たして一体どこまでが自然地形であるのかその判断に苦しみます。



安房神社北側の二重土塁(栃木県小山市) 13時40分から13時45分

宮内の土塁に赴く途中でたまたまキョロキョロしていて気付いたのですが、安房神社境内の北側には土塁を伴った二重堀のようにも見える地形が遺さています。

北側からの神社参道により一部湮滅し幅の広い土橋状の地形となって分断されてはいますが、その総延長は60メートル以上を有しており、その最大幅も10メートルを超えるような規模があり、現在ではだいぶ埋もれているものの堀自体の深さも1メートルを優に超えている個所もありました。
中世からの古道に面しているという性格などからも、たぶんに城館遺構などとの関連を連想させる地形なのでありました。


  土塁と堀跡に見える地形   古道から眺めた安房神社社叢


宮内の土塁(栃木県小山市) 13時50分から14時00分
既に南側隣接地では分譲地の販売が実施されていましたが、これに伴って樹木が伐採されていたおかげで、この時だけは明確に土塁を拝見することができました。
従前の状況のままですとなかなか土塁まで接近することが難しそうな藪が広がっていた可能性が考えられます。
小山市の埋蔵文化財情報では約50メートルほどの範囲が記されていましたが、現状の土塁は長さ20メートル弱で、幅が6メートル、高さが1.2メートルほどを確認するのみでした。



土塁はこの南側60メートル付近にも一回り小さなものがもう1か所あるらしいのですが、その奥の藪などの様子を目の当たりにして断念しました。
 
このあとは、少し遅めとなってしまった昼食を摂取しつつ小休止をしました。



鷲城(栃木県小山市) 14時45分から15時30分頃まで

祇園城と並ぶ小山氏一族の中核的な城郭です。
現在遺されている広大な郭跡は、一部の土塁の残存状況などから勘案すると、東西方向に大きく3か所ほどに分かれていたものと思われます。
西側の搦め手下方に存在する土塁は、その南端部で南側からの崖線地形と組み合わさって巧妙な縄張が形成されていた模様です。

鷲神社も所在している広大な郭の西側には崖線部に沿って半円形の土塁が遺されているようなのですが、残念ながら現在では樹木が叢生してその全容を目にすることが極めて難しくなっておりました。
なお、この土塁はそのまま崖線の切岸につながり深さ10メートル以上の深い谷を形成していることから、湧水を伴う沢が流れているために、先ほどの西側の搦め手下方に存在する土塁の東側は足元の緩い湿地となっておりました。


  西搦め手下方の土塁        土塁と崖線


    土塁の遠景       藪の中でひっそりと佇む土塁



長福城
(栃木県小山市) 15時40分から15時50分

思川東岸の河岸段丘に所在しており、現在でも八幡町1丁目にある「やはた公園」の反対側(北東側)に明確な塁遺構を見出すことができます。
西側の土塁は総延長が約60メートルほどで、高さは目測で最大3メートルほどで緩やかなS字カーブを描いでおります。
野球場に面している東側のものは、目測で延長は約30メートルから40メートルほど、高さは2メートルから3メートルをほどを確認できますが、残念ながら南側の一部が重機により破壊されております。
「城郭大系」などを参考にしますと、元々は一体の土塁であったことが窺われますが、現在ではそれぞれ別々の遺構のように見えてしまうほどに、刻々とその旧状は失われているように思われました。
なお以前は空堀を伴ったものであったようですが、現在ではその存在確認が難しくなっておりました。


    城館跡の石柱         西側の残存土塁


  東から見た西側土塁        東側の土塁



小山御所
(栃木県小山市) 16時15分から16時25分

駐車場所探しに苦労するのを避けるべく小山市役所に駐車させていただき、そこから徒歩にて小山城(祇園城)とともに探訪しました。
探訪してから気づいたことですが、近年は城跡北東の空き地となった個所に少なくとも数十台ほどは収容できそうな専用の駐車場が整備されておりました^^

徳川将軍家の日光参拝のための宿所とされておりますが、西側の堀跡などの旧状は確認することができません。


  小山御殿と祇園城の幟旗     小山御殿東側崖線部


    現地解説版         小山御殿西側崖線部


祇園城(栃木県小山市) 16時30分から17時00分

小山一族の本拠地であり、現在でも土塁に囲まれた郭や遊歩道になった巨大な堀跡なども確認はできますが、城址公園化の際に少なからず地形の改変を受けている様子も窺えました。


   城址公園南側から       南郭西側の土塁



   南郭の東側土塁      帰りがけに遭遇したネコさん


◎小山評定の石碑(栃木県小山市) 17時05分頃

市役所の駐車場から出ようとしたところで何気なく北側方向を眺めたところ、ふとこの有名な事象の石碑と石柱が目に入りましたので、あらためて駐車し直してから記念撮影を敢行しました。


 有名な「小山評定」の石碑等


石塚館(栃木県小山市下石塚) 17時30分から17時40分

粟宮氏の一族である石塚氏の居館とも伝わります。
この場所は神社の社叢が目印なのですが、水田の中に集落からも外れてぽつんと建っていることもあり、やや分かりにくいかも知れません。
星宮神社境内が城館跡そのものではありますが、滋養館跡の石柱以外には際立った印象ものはなく、辛うじて石鳥居の両側近くに堀跡のようにも見えなくもない窪地を確認できますが堀跡などとの関連性は不明です。


    城館跡の石柱       堀跡だったら嬉しい窪地

ここの終了時点ですでに時刻は午後5時を過ぎていました。
画像のようにだいぶ日差しも西へと傾いてきていましたが、上手くいけばあと2か所くらいは何とかなるかも知れないなどと念じつつ次の目的地へと移動を開始。



御城(みじょう、栃木県小山市) 18時00分から18時10分
 
前述の「栃木県誌」などによりますと、梶原景時の流れをくむ鎌倉府の奉公衆である梶原氏の居館と伝わっているようですが天正18年の後北条氏滅亡により廃城となった模様です。
事前にウェブ地図などで確認したところでは適当な駐車場所が無さそうでした。
しかし実際には神社境内に駐車可能なスペースが確保されていることに気づくという己の不始末にあきれる始末でした。

明確な遺構はありませんが、城址碑とともに参道から2番目の石鳥居脇には水堀跡(現在は水路)と推定される窪んだ地形も確認できます。


  暮れなずむ城址碑      南側石鳥居近くに堀跡の名残

ここで活動時間は12時間を経過し午後6時をまわり、長くなったとはいうものの初夏の日差しもとうとう山際近くに傾き始めました。


  大平山方面に沈む夕日



史跡曲輪跡(栃木県小山市) 18時40分から18時50分頃まで

時刻もだいぶ経過し、ほぼ日没直前から日没後にかけての探訪です。
少しだけ迷いつつも何とか東北新幹線高架東側の城跡石碑に到着。
裏側は月ぎめの貸駐車場になっていることもあるのか、ゴミの不法投棄が目立つ土塁遺構なのでありました。
なお、この場所は道路幅員も約4.5メートルほどと狭く車を止める場所に難渋します。
訪れる際には比較的車の通行量の少ない日中などの時間帯がよろしいようです。
なお仮に城址碑脇の僅かなスペースに駐車しますと、結果的にマイカーの記念撮影となってしまうのであります。


      城址碑


そのあとは下記の当該解説版が設置されている高架西側の地点に車で移動。
こちらの方はごく短い時間ならば解説版南側の道路脇の部分に多少のスペースが確保できるので、城跡石碑の探訪に比べますといくぶん安心です。


   遺跡の解説版

画像では未だ明るくも見えますが、実際には日没時刻を優に過ぎ太陽はとうに地平線に沈んでおりました。


以上てんこ盛りに盛って20か所、実質では15カ所ほどを探訪。
このような事前学習不備な年寄をお誘い、ご案内いただいた、みかづきぼりさんのご労苦に心より深謝申し上げます。

と、ブログを記述してはおりますが、毎度のこととはいえ画像編集整理やその後の作業中の地震などのために実際に書き起こしていますのは探訪翌々日の2日後なのであります^^。

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岩手県遠征もとうとう最終日を迎えました。
この日も天候次第で一関市内の川崎、藤沢方面か、或いは昨日に引き続き奥州市以北を国道4号線で北上するのか迷いましたが、ここは確実に遺構と対面できそうな可能性のある平地の城館跡が多い後者の方を選択することにしました。
 
 
栗林遺跡(奥州市水沢区真城字八反町) 午前9時05分から9時10分

下姉体城へと向かう道すがら、たまたま参考までに遠景を撮影させていただいたものです。
およそ100メートルほど離れた県道197号線沿いからでもとても目立つ、ひときわ構えの大きなお屋敷を含む数軒ほどの集落でした。



後日少し調べてみますところでは、どうやら中近世の屋敷跡との関わりがあるようです。
帰宅後に奈良文化財研究時所の遺跡調査報告書データベースを幾つか調べてみましたところ、当該遺跡と直接関係するものは登録掲載されてはいませんでした。
しかしいくつかの報告書には「周辺遺跡」のひとつとして収録されており、やはり中近世の屋敷跡であることが判明しましたので1か所加算してみました(笑)

この一帯の胆沢扇状地にはその起源が中世にまで遡るとみられる環濠屋敷形態の旧家が少なくなく、こちらもそうした経緯があるようにも思われるような景観でした。


 
下姉体城(奥州市水沢区姉体) 9時30分から9時55分

別名を内館ともいって、下姉体城の本丸とも伝わる遺構です。
たぶん新山神社が地図上の目印と考えも先ずは神社境内前に駐車させていただき、恒例となっている参拝ののちはそのまま境内から北側にのびた農道経由で隣接する西側の集落へ。
すると行く手の左側には城跡の石柱と解説版の姿が目に入り、加えてその背後の屋敷北側には堂々とした屋敷をとりまく土塁遺構がその姿を現しました。
北側土塁の高さは最大で3メートル弱、長さは60メートルほどでそのまま西側方向に続いています。
南側の土塁はほぼ消失しているように見受けられますが、これに付随する約5メートルほどの幅を有していたとされる堀跡は現在の集落内の通路となっている様子も窺われます。


   新山神社の参道         北側の土塁



   北側土塁を西側から       土塁の上部

平地に占地しているにもかかわらず、下調べ不十分で訪れたこともあり、意外性のある城館遺構との対面に余りの感激を来たし、帰宅後に気づいたことではありますが、迂闊にも関連する複郭などの周辺遺構を確認することを失念しておりました。
「安永風土記」によれば、葛西家重臣である大内氏の居城と伝わっています。



上姉体城(奥州市水沢区姉体) 10時10分から10時30分

市街地の外れとはいっても地図情報などからは周辺の宅地化がすすんでいることが窺え、けっして溢れるような期待感を持って訪れた訳ではありませんでした。
しかし国道343号線を左折して一般市道に入った途端に眼前に切岸により頑強に防御された遺構が現れました。
城館周辺部をとりまいていたであろう堀跡は北側と西側部分を除いてほぼ埋め立てられているのですが、北側から見上げる最大4メートルを超える郭切岸の威容には感動を覚えます。


    北西側から           東側から


   南側の標柱と解説版      西側の土塁と堀跡


    北西側から


後から知ったことですが、こちらも旧水沢市内では保存状態良好な城館遺構として著名のようで、だいぶ以前に刊行された市史においても縄張図付で掲載されておりました。
この上下二つの姉体城については、近年の平地化が進行する平地に所在しているという厳しい環境下にあってなおも奇跡的に残存している良好な城館遺構であるといえましょう。

なおこの主郭が所在する元々の台地地形については、恐らくは胆沢扇状地の形成過程のなかで長い年月を経て支流である胆沢川の北進とその本流である北上川の流れにより、形成されていた扇状台地の一部が次第に浸食されて形成されたもののように思われます。

18世紀後半に編纂された仙台藩の地誌「安永風土記」によれば、天正年間に柏山家家臣の千田豊後が居住していたと記されています。



築館(奥州市水沢区佐倉河) 12時20分から12時55分

一部のサイトなどではすでに消滅したともいわれております。
管理人も始めは、南側の坂下から胆沢川が形成した河岸段丘の地形が眼前に広がり、その先には宅地化された台地が続くという景観を眺めそうしたような印象を抱きました。
それでもこの時点ではまたまだ気力体力も多少残っていたこともあり、直接の関連は無いものと思いつつも、まずは念のために遠く東側に見えた崖線上に所在する神社の祠を目指してみました。


 少し東側に外れすぎている   この円弧状地形の正体は

始めは活断層による断層帯の影響なのかとも思いましたが、このあまりにも美しい造形を描いている緩やかなカーブを伴う崖線が合致しませんので、その真相がとても気にかかりました。
自宅に戻った後にいろいろ調べてみますと、この地形については、学術的には「胆沢川」の流路の変遷による河岸段丘形成活動であると考えられているようでした。
北上川西岸に所在する広大な胆沢扇状地は胆沢川の流路の変遷がもたらしたものと考えられますが、長い年月を経て胆沢川自体も大きく流路を変遷させ次第に北上していったとされているようです。



 この地形は確実に電子国土に   市道に戻り目を転じれば


    南側の堀跡       北側堀跡に降りてみました


  西側の堀跡は埋戻しが


しかし上記の画像からも分かるように、よくよく現地を踏査してみれば、実際には近年において新たに建設された南北に走る市道西側に現在でも所在しており、郭北側の堀跡も明確に遺されておりました。
前日に降った水たまりが残された北側堀跡は少しばかり足元が沈みそうでした。

市道の西側道路沿いに立ちますと、今もなおつての堀跡である湿地を確実に俯瞰することができます。
ただし東側の堀跡はこの道路建設により完全に消失していることも判明します。
南側も現在は水田として耕作されていますが、はっきりと上記画像のような堀跡の形跡を遺しています。
なお西側堀跡は耕地化などによる一部埋戻しなどにより、幾分分かりにくくなっておりました。



佐野館(奥州市水沢区佐倉河) 12時20分から12時30分

別名をタテツバタケとも。
水沢インターチェンジの北側約300メートルほどの地点ある宿集落内に所在しています。
有名な胆沢城から見た場合には西南西約1キロメートルの方角になります。

こちらは予め城館跡というような知識が無ければほぼ見落としてしまうような目立ちにくい耕作地内の微高地ですが、よくよくじっくりと踏査してみれば周辺の水田面との比高差は1メートル前後を測ることを確認できます。


    東側切岸付近        西側の切岸付近


   西側の農道から       周辺の案内図にも掲載

後世の耕作等によりその形状がある程度変わっているという可能性も考えられますが、本来は方形の複数の郭群から構成された縄張を有していたものなのかも知れません。
この場所からは少し離れた沿道に設置されていた宇佐地区内の案内板にも「佐野館遺跡(城館跡)」との所在が表記されていました。

この案内板を含めてざっと周囲を見渡した限りでは、現地には城館跡に関する標柱や解説版の類は見当たらず、南西角付近に3基の太陽光パネルとともに戊辰戦争当時の新旧の鎮魂碑が設置されているだけでした。



胆沢城(奥州市水沢区佐倉河)  13時25分から14時30分

市の埋蔵文化財センターに立ち寄り関係資料の収集。

ここで13時30分からの「アテルイ」関係のビデオ上映(約30分)に唯一の観客として貢献を。

9世紀のはじめ頃に坂上田村麻呂が築き、その完成後には多賀城の鎮守府が当地に移されて、10世紀の後半頃まで機能したとされる有名な古代城柵。



   県道沿いの案内板     奥州市埋蔵文化財センター


      石碑            復元遺構


  北側から政庁方面を撮影     台地の北側辺縁部


 こちらの方が気になります   これもよく見る撮影ポイント



北館(奥州市水沢区佐倉河) 14時40分から14時50分

葛西一族柏山氏の家臣菊池氏の館とも伝わる。
別名を館屋敷とも。


  北館と記された指導標         北館




上館(奥州市水沢区佐倉河) 15時00分から15時10分

文化財センターでいただいた資料のおかげで、所在地そのものは明確に確認できたのですが、現地は湧水などのため些か足元が思わしくなく、藪もそこそこあったことから踏査は断念いたしました。
現地で収集した資料からは、三つの郭とこれに伴う堀跡などが遺されているということのようです。
別名を川端館とも。


  三代清水といわれる湧水   この湧水の東側台地先端に



鳥海柵(金ヶ崎町西根縦街道南、原添下、鳥海、二ノ宮後) 15時50分から16時20分

「陸奥話記」に記された安倍一族鳥海三郎宗任の柵跡と伝えられ、国史跡指定をうけている著名な遺構です。
発掘調査などからは蝦夷の時代から奥州藤原氏の治世まで利用されていた痕跡が窺えるようです。


 パンフレットの表紙のような   たまたま桜が満開に・・


  駐車場の現地解説版     サイトはこの辺の画像が多い


    谷筋の開口部         反対方向から

  
   大きな標柱と郭跡      水仙も咲いていたので

 
  コントラストを強めに    少し堀跡に降りてみました




金ヶ崎城(金ヶ崎町)  16時40分頃

この時点では関係資料不足のため詳しいルートが分らず、結果的に県道沿いからスルーして手抜きをすることとなりました。






舟形館(金ヶ崎町) たぶん17時過ぎ頃

夕刻につき、手抜きついでにもう一カ所。






この間九州熊本地方では大きな地震に見舞われ、日付が変わったばかりのこの日の深夜にもさらに規模の大きな地震が発生いたしました。
迅速な人命の救助並びに被災された方々の一日も早い復興をお祈りするばかりです。
途中休憩で立ち寄った国見サービスエリアで、災害支援派遣されている秋田の陸自の方々が小休止されておいでになりましたので、先行する陸自車列の皆様を叩頭して見送らせていただきました。
このあとは延々と高速を走り続けて久喜からは圏央道、関越経由でそのままノンストップ走行。
その後埼玉の自宅に帰宅したのは17日の午前1時30分前後に。


お陰様でこうした渦中にあっても管理人は岩手県遠征の7日間が無事に終了いたしましたが、顕在化する加齢現象に加えて、こうした近年の頻発する地震など自然災害の発生頻度などを考慮いたしますと、今後の再訪があるのかどうかは全く先が読めないでおります。
それでもどうにかして岩手県南部までは辿りつき、7日間で約1100キロメートルを運転し、延べ120キロメートル以上を歩き続けることができたことだけは確かな事実でもあることから、もうあと何年かは頑張れそうな気持ちもしてきた「みちのく遠征」となりました。

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