01 | 2025/02 | 03 |
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昨夜から明らかに風邪気味となり就寝したものの咳が止まらず。
このため翌日の探訪実施確率は五分五分とみて眠りについた。
そろそろ蒸し暑さが堪える季節。
従来の方針を変更し目覚ましは午前4時にセット。
身支度を整え午前5時前の始発に乗車すべく最寄駅へ。
本日の行動は熱中症へのリスクを考慮し午前中重視の方針。
凸滝野川城(東京都北区)
午前6時40分から7時25分
豊島氏一族滝野川氏の城跡とも、あるいは頼朝の布陣跡ともされているが詳細不明。
城跡とされている金剛寺境内の東西に石神井川の旧流路が現存しており、その流れが大きく変化していないとすれば城跡の東西の領域を推定する目安は存在していることになる。
むろん城館遺構は確認できない。
西側流路跡
「城郭大系」が指摘している「境内西側の堀跡」の存在はこの旧流路を指すのか、あるいは別途現在の公園との間に「空堀」のような窪みが存在していたのかについては不明。
凸飛鳥山城(東京都北区)
午前7時50分から8時40分
こちらは更によく分からない城跡のひとつ。
自分の生まれ育った場所から近く、断片的ながら60年以上前の様子が記憶に残っている。
地形的には南東の「平塚城」から続く台地の北西端所在しているが、当時は現在のような公園整備はされておらず、昭和30年頃には平塚神社の裏側から台地辺縁部に沿って延々と歩いてゆくことができたという微かな記憶がある。
台地北西端
台地の北西端部には石神井川が東流し比高15mの舌状台地は、たしかに城跡に相応しい地形を呈してはいるが、近世以降の形質変更が激しく城跡の名残を追い求めることの難しさを痛感する。
凸梶原堀之内(東京都北区)
午前9時25分から10時00分
梶原景時とは直接の関係はなさそうで、太田資正(三楽斎)の子である梶原政景が継いだ梶原氏に関わる城館跡と考えられているらしい。
むろん城館遺構は確認できず、また「梶原塚」の存在も不明。
城跡と推定されている福性寺には近世の堀江氏一族に関わる墓所が目立つ。
かじわら商店街の都電のアーチ
都電荒川線梶原駅前にて「都電最中」等を購入。
〇山吹の塚(東京都荒川区)
午前10時45分から10時50分
「山吹の里伝説に関わる塚」が所在しているが、現地での「具体的な説明」を表記したようなものは見当たらず。
「山吹の里」塚
〇平河源内墓(東京都台東区)
午前11時40分から11時45分
荒川区との境界近くに所在している有名人の墓所。
平河源内墓所
以前には事前に断りを入れるなどして入口の開閉が行われていたらしいが、現在では自分で門扉を開けて参詣ができるように変わっていた。
凸石浜城(東京都荒川区)
午前11時50分から12時05分
従来から伝承に近い城跡で詳細な所在地は不明だが、石浜神社を含む範囲が城跡と見做されているらしい。
周辺の市街地化の時期は早く、明治期末から大正期にかけて進行しており、現在周辺には「東京ガス」や「リサイクルセンター」の大型建造物が並び立ちっていることから、もはや周囲の地形などにそうした面影を見出すことは難しい。
なお2017年4月より神社南側の一角に石浜城址公園が供用開始されたようで、公園の名称に「石浜城」の文字が見えるが当該解説版は未設置であったが、「渡船場」に関する説明版は所在していた。
石浜城址公園
この石浜城探訪を終了後、この日7番目となる目的地への移動を始めた時点で懸念された俄雨に遭遇。
むろん本格的な降雨ではなく、「天気雨」「狐の嫁入り」ともいうような局所的で短時間の降雨。
早朝からの行動により次第に既に集中力、モチベーションともに限界まで低下。
「都電荒川線」と「都バス」による移動を多用するも、足回りを軸とした体力もそろそろ限界。
元々この日は城館跡は4か所止まりと考えていたことから、良い口実ができたと迷うことなく即座に撤収開始。
荒川区に所在する「道灌山」関連については、下調べを含めてある程度時間を要することとなりそうなので後日再挑戦予定(あくまでも希望)
本日の歩行数は2万4800歩。
今回の内反小指対策(テープ4重巻)については概ね成功。
しかし左足に外反母趾状の痛みが発症。
「痛み」は最も痛い部位で感ずるようで、あちらが無事ならこちらが痛いとなり、こうなると「もぐら叩き」の様相に酷似。
今回は「トラムセット」+「ロキソニン」で対処。
「足底腱膜炎」(そくていけんまくえん、あるいは足底筋膜炎)ないし「踵骨棘」(しょうこっきょく、しょうこつきょく、手術困難)の方はガーゼ4枚重ねと中敷き使用で対処成功・・・・
と、メモしておかないと同じ誤りをしでかす昨今である。
なおこの足回りの整備に要する時間はこのところ拡大の一途。
少なくとも30分近くを要していることに気づき茫然。
朝から既に駅に着く前から汗がにじみ出るような蒸し暑さのなか、午前9時3分発の上り電車で出発。
途中武蔵野線に乗換え、武蔵浦和からは埼京線に乗車。
乗降客の少ない北赤羽で下車。
比較的新しい駅でもあり、たぶん記憶ではこの駅での乗降は初めてのはず。
本日は5か所を予定しているものの、その行先は相変わらず「伝承地」が多い。
これは都内23区の宿命のようなものと理解。
天候(気温、降雨、湿度)と足の具合次第で3か所くらいで切り上げる心積もり。
むろん途中での電車、バスを利用しての移動は織り込み済み。
この辺りも昨年までの状況とは明らかな変化を感じている。
途中でのわずか3kmほどの徒歩移動さえも敬遠するようになってきてしまった。
凸袋の殿山(東京都北区)
午前10時40分から10時35分
初めて下車した駅でもあることから、方角を定め進むべき道を把握するまで数分を要した。
先ずは道順に諏訪神社境内へ北側住宅地に設置されている石段からアプローチ。
境内北側の比高差は約10mの急崖を形成するも台地続きの西側には目立った地形上の特徴は確認できず。
境内南側の道は「鎌倉街道」とも伝わる。
諏訪神社
ちなみに「袋」は往時の「袋村」(近世の村名)からきているらしい。
次に東側の赤羽台団地とその東隣の病院へ歩を進めようと思ったが、なぜか南側の桐ヶ丘団地の方角に足が向きそこからの遠景観察で代用することとなってしまった。
医療センター
この日は曇りの予報が外れ次第に薄日が差し始め、湿度は高く汗はかけども全く乾かないという事態に次第に心身が疲弊していった。
凸稲付城(東京都北区)
午前11時15分から12時頃まで
この日に限っては最初で最後となる最もそれらしい中世城館跡。
23区内ということもあり、太田道灌との関わりがあるとも伝わる。
とはいえ明確な地表の遺構に対面できるという訳ではなく、あくまでも崖線や急坂などから当時の面影を辿るという按配。
途中で幾度か既視感のある風景に遭遇。
元北区民なので当たり前かもしれないが、何と言っても半世紀以上前のこと。
いまだ高度成長による宅地開発の波が押し寄せる以前。
既成市街地を除き周辺には未だに耕作地が広がるという田園風景も点在していた時代。
稲付城西側の台地
まずは手始めに同城の堀跡ともいわれる東西の台地に挟まれ、かつての低湿地に所在している「亀ヶ池」の弁天社の参詣から。
堀跡とも伝わる弁天社
その名に違わず十数匹の亀が甲羅干しの真っ最中。
親ガメと子ガメ
つぎにそのまま東の清勝寺へと向かい帯郭状の台地中腹の路地を散策し、同寺東側参道から境内へ。
台地西側麓付近
帯郭状の地形を呈する周回路地
境内と麓との最大比高差は約15mほど。
城址碑
因みに説明版は城址碑が所在する東側山門の内側と南側山門の外側にもあります。
南側の山門
現在でも台地を東西に横断する公道により南北に分断された地形を確認できるが、発掘調査により戦国期のものと思われる堀切跡などもこの道路の北側付近で確認されている。
南側台地との間の切通(画像左側)
このあと徒歩約1.2km先の地下鉄南北線赤羽岩淵駅へと向かい王子神谷駅へ。
途中価格の安い恰好の昼食場所が目に入るものの時間がないのでパス。
思えば今回を含めて都内では一度も昼食していないことにはなる。
「時間の節約か体力の温存か」の二者択一には何時も悩まされる。
凸豊島清光館(東京都北区)
13時00分から13時20分
王子神谷駅からは徒歩僅か約800m足らず。
この時点で「蒸し暑さ」と「足の痛み」を現況を勘案し、既に脳裏にはジワジワと「撤退」の2文字が浮び始めた。
それでもどうにか未だ気力だけは残存。
豊島氏を開基とする寺院で豊島氏発祥の地とも。
現状の地形からその特徴を捉えることは困難。
ここでも東屋の日陰をお借りして休憩と水分補給を行いホッと一息。
このあと、「続行」と「撤退」の2文字を反芻しつつ最寄りのバス停まで約900mほど徒歩移動。
これは途中隅田川を渡り眺望は良好だが、かなり辛い行程のひとつだった。
「庚申通商店街」の現況を目にしたあとの「新田橋」の様子は、まさに「都市インフラの劣化」という現実を目の当たりにするものであった。
隅田川に架かる新田橋
どうにかバス停を視認できるあたりまで近づき、梅雨明け以降の酷暑に慣れるべく「修行」のつもりで「続行」を決断した。
この間も意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
環七新田(かんななしんでん)の都バス停留所でも束の間の休憩。
環七新田ではなく、寧ろ「艱難辛苦」の様相に。
ここでデクレッシェンドで満たされて萎む一方の気力と体力の回復に精励。
ここから先のバス停3か所分となるバス移動(約1.5km)は実に有難く身に染みた。
バスの待ち時間も都内ということもあり10分足らず ^^
凸宮城堀の内(東京都足立区)
14時00分から14時20分
その経緯はおろか、当該所在地自体も明確とはいえない城館跡。
隅田川の改修、荒川放水路(現荒川)の開削などにより周辺の地形は大きく変貌。
探訪に際して丸1日ほどを要して、戦後間もない米軍撮影の航空写真(東西約250m×南北約100mほどの屋敷林に囲まれた区画が気になる)と迅速図などの情報からあくまでも素人なりに所在地を推定。
※かつては屋敷林に囲まれた一角で、現在堀之内2丁目交差点付近にはコンビニが所在しているが、現在のような道路整備が行われたのは1970年代前半のこと。
河川の氾濫などを除き、この辺りの隅田川流路等に変化の生じたのは江戸時代初期の川越藩主松平信綱による当時の荒川からの導水工事による水量増加。
これに明治末期から大正期にかけての荒川放水路工事がある。
狙いを定めていた「堀之内2丁目交差点」付近は完璧に市街地ががすすみ、戦後間もない時期に撮影された航空写真から推定されるような田園地帯の面影は皆無。
辛うじて周辺の堀之内北公園、堀之内公園などに地名が継承されているのみ。
堀之内北公園
このあとの徒歩移動では、いよいよ明瞭に「熱中症」の一歩手前の容態を自覚し始め、さらに意識的にこまめに休憩と水分補給を繰り返す。
途中から荒川沿いに高速川口線の高架下を南に下るのだが、何故か日陰である東側を通らずにわざわざ日差しのある西側を通ってしまった。
さらにこの途中から久しぶりに「内反小指」に伴う痛みが発症。
港北橋を渡る際に目に入った可愛らしい4両編成の「舎人ライナー」がトコトコと荒川に架かる扇大橋わたっている様子を眺めた際には半分意識が朦朧としていたのかも知れず。
凸伝・宮城氏館(東京都足立区)
15時00分から15時10分
伝承では都市公園と隣接した氷川神社境内付近が同館跡ともいわれている。
境内拝殿脇に設置された石碑に刻まれた文言をあらためて拝読。
館跡の碑
その歴史的な真偽は別として、疲労の極致に達した心身にとっては正に一服の清涼剤。
この場所も荒川放水路築造と隅田川河川改修の影響を受けており、約450年前の旧情を想像することの困難性を痛感。
この日は最寄駅となる2km足らずの道程となる王子駅へのルートも予定通り都バス利用。
この選択からも昨年の同時期に比して気力と体力の低下は否めず (^^ゞ
という次第で、本日は5か所分の探訪を「無事?」に終えることができた。
もっとも冒頭からの「過剰発汗」と途中での「右足小指の内反小指の叛乱」は全くの予想外。
これに両膝サポーター装着失念が加わり、最寄駅からの帰途では幼児連れの母子に追い越されるような足取りになるような始末。
梅雨時から秋口までは外出を避けるのが例年妥当な判断といえよう。
しかし、ここ数年は確実に体力の減衰を感じている。
いわゆる「健康寿命」も長くともあと数年前後となってきたことを痛感している。
「今年動かねば、もう来年はない」との決意で、とりあえずは行けるところまで来月も歩いてみよう。
港区、新宿区、中野区、渋谷区に続く都内23区シリーズ第5回。
本日は、またしても渋谷方面。
しかも僅か丸1日間をおいての再訪。
けっして渋谷方面に中世城館跡が数多所在しているというような背景には非ず。
また渋谷方面にとりわけ関心がある訳でもなし。
再訪の理由は至って単純明快。
実を申せば、渋谷区郷土館での忘れ物受領が主目的(笑)
こういう忘れ物をするなどということは少なくとも昨年まではなかったようにも。
もっとも、忘れ物をしたことを気づいていないだけということもありうるのが恐ろしくもある。
流石にそれだけでは余りに徒労に尽きることから、「北青山遺跡」(淀藩稲葉家下屋敷)と「佐倉藩堀田家」(現、聖心女子大キャンパスなど)を中心に探訪することを決意。
やはり気になる途中の氷川神社
◎佐倉藩堀田家下屋敷(渋谷区)
午前11時00分から12時10分
「堀田坂」の地名と「当時のものと推定される石垣」などの存在から、この日2番目以降に訪れた個所に比べればまだまだ探訪のし甲斐のある方。
事実、現地での史跡等に関する標柱、説明版などの掲示物がしっかりと所在しているのはこの場所のみ。
そのような次第で、推定屋敷跡の周囲を時計の針の方向に徒歩3kmほどの道をぐるりと一周。
「堀田坂」の由来を記した上下2本の標柱のほか、同坂上の広尾ガーデンヒルズの一角に所在する根回り、目通りがそれぞれ5m前後の銀杏の大木(渋谷区指定天然記念物)とその解説版、聖心女学院南門付近の石垣を見学。
北辺の大銀杏
同解説版
手元にあるいくつかの「江戸切絵図」の様子からは、切絵図の境に所在していることもあり、当該屋敷跡の正確な位置・形状に関する情報は一定せずやや曖昧な傾向が窺える。
しかしこの踏査(正しくは徘徊)により、朧ろげながらもおよその全体像が見えてきたようにも。
まず屋敷西側では「旧いもり川」(おそらく渋谷川、古川の支流のひとつか)の流路と想定される曲がりくねった細道の存在を確認しこの旧流路付近が同屋敷の西限であることを理解。
「いもり川跡」
またその西側の一部が出枡状に突出している個所は、強いて言えば概ねチェコ大使館が所在する辺りに相当するのかも知れず。
屋敷の北限はについては、おそらく「堀田坂」から続く現在の港区と渋谷区の境界にあたる公道付近と推察。
「堀田坂」の標柱(港区設置)
東限もおそらくはオマーン・スルタン大使館沿いの細い路地(外苑西通の西側)付近まで、南限は祥雲寺境内の辺りでその道路形状からは枡形を形成していた可能性も浮上。
南門付近の石垣
祥雲寺付近の様子
屋敷が所在する場所は比高差こそ少ないものの、その尾根伝いに相当する北西部を除きおおむね独立した丘陵(あるいは舌状台地先端とも)を形成している様子を確認。
途中の街路植込のランタナ
日赤医療センター前の植込
タニウツギまたはその園芸種か
◎西条藩松平家上屋敷(渋谷区)
12時25分から12時40分
佐倉藩下屋敷から旧常陸宮邸方面に戻り青山学院関係の塀などを横目で眺めつつ六本木通を渡り青山通を目指し、「アイビー通」に合流し南青山5丁目交差点に到着。
この間の移動距離は徒歩で約1.2km。
生垣のブーゲンビリア(園芸種)
青山学院キャンパス東側
紀州藩の分家で「御一門」とされる大名家上屋敷跡で、現在は青山学院大学関係のキャンパスとなっている。
むろんそうした経緯を物語るような史跡等に関する説明を付した掲示物は不在。
青山通沿いの正門の撮影を試みたものの学生を始めとする通行者数多。
このため写り込んでしまう方々ができるだけ識別できないようなシャッターチャンスはなかなか訪れず。
何とか撮影できた正門付近
凸北青山遺跡(淀藩稲葉家下屋敷)(渋谷区)
12時45分から13時15分
青山学院大学の向かい側の青山通沿いにある「国連大学」、「旧こどもの国」などが所在している。
80年代の中頃から90年代にかけて子どもたちがお世話になっていた「こともの城」の建物自体はそのオブジェと共に現存している。
「旧こどもの国」 前のオブジェ
継続の声も虚しく「落城」の跡
国連大学
東京都職員共済組合の旧青山病院も同遺跡の範囲と考えられ、現在当地は「TBSハウジング」が主催する住宅展示場となっている。
いまも池跡の一部が確認できる
中世城館と近世大名屋敷の複合遺跡で遺構は検出されてはいるが、地表に確認できる遺構は皆無に等しく、住宅展示場の北東側の低地にフェンスを挟んで稲葉家庭園の一部と推定される池跡の窪みが認められる。
◎善光寺(港区)
13時30分から13時40分
青山通と表参道が交差する表参道交差点北側に所在する名刹で、江戸時代には信濃善光寺の尼上人が江戸滞在の際に宿泊した寺院とされている。
善光寺山門
◎百人町屋敷(港区)
13時40分から13時40分
たぶん幕府直属鉄砲同心の屋敷跡と思われる。
「江戸切絵図」には間口の狭い短冊形をした屋敷の区画が記されている。
たまたま善光寺の青山通を挟んだ向かい側に間口の狭い区画が散見されるが、むろんその直接の関連については不明。
「百人町」付近
◎松平近江守上屋敷(港区)
13時45分から13時50分
現時点では、この「松平近江守」が何藩の如何なる大名であるのかは不明なので、このあとゆっくりと調べる予定(笑)
おそらく下記の画像付近が屋敷跡の一部にかかっているものと推定される。
建替えに伴う移転予定の保育所
◎広島藩浅野家下屋敷(渋谷区)
14時00分から14時10分
著名な表参道ヒルズの辺りが当該屋敷跡の中心部らしいのだが、屋敷跡の詳しい範囲については余りの人混みのためによく分からなかった。
下記の歩道橋上からでは樹木に隠れて直接人混みは見えないが、その下の画像の位置からは緩やかな参道を往来する夥しい人々の行列の姿が隠されている。
表参道(歩道橋上から)
表参道ヒルズ東端
◎伝・長者ヶ丸(港区)
14時15分から14時40分
港区の「白金長者」の伝承と対を成すものらしい。
幕末期に人気のあった「江戸切絵図」に「此辺長者ヶ丸」との記載があったことから訪ねてみた。
通りの名称は遺されている
水田跡と考えられる細道
今でも「長者丸通」は丹羽左京太夫下屋敷跡付近に現存しているが、「切絵図」に記載された「長者丸」の位置はもう少し南側の当時は畑と記されている辺りで、その北側に細長い水田が描かれていることを考えると、おそらく緩い下り坂の細道となっている南側付近が想定されそうに思われる。
本日の歩行はおよそ2万5800歩ほどで、ちょうど「長者丸」の分だけ余分に歩いたことになる。
間1日ということもあり、予想通り所要の痛み対策などを講じてもやはり両踵の痛みは発生した。
尤も昨年のように激痛のため全く身動きが取れないというほどのものではなく、単に鈍痛で歩行速度が鈍化するという程度。
しかし就寝前になりボルタレンの効果も薄く次第にズキズキと痛みが増幅。
堪らず新たにテーピングを処置。
これが一時凌ぎの対処療法とはいえ思いのほかの効き目で熟睡に成功。
なおかつ翌日、初孫の検診送迎も支障なく遂行。
ということは予防テーピングも試行してみる価値ありということに。
港区、新宿区、中野区に続く都内23区シリーズ。
今回は渋谷区編。
23区内でも態々遺構に恵まれない場所ばかり訪れているような気も。
通勤ラッシュを避け午前9時17分発の副都心線直通元町行に乗車。
昨年の今頃は暑さとラッシュを避け主に始発を利用。
今年は遅く出かけて現地を午後3時前には撤収するスタイルに変更を。
つまり現地に滞在する時間は5時間足らずに。
こうでもしないとモチベーションの維持が困難。
上りの副都心線車内で目に入った首都圏各線の列車運行情報。
西武池袋線が乗客トラブル、西武拝島線は人身事故、京王井の頭線も人身事故、乗車している副都心線は車両点検といずれもダイヤが乱れているか、あるいは運転休止という按配に。
前回の帰宅時の人身事故による約2時間の運転休止が脳裏を過る。
その後乗車した副都心線通勤急行に関しては概ね定刻にて渋谷駅に無事到着。
◎道玄坂
午前10時20分から10時40分
渋谷駅西口の有名な道玄坂。
渋谷駅2番出口そのままから道玄坂を上り約250mほど先。
道玄坂交番前の交差点手前の少し手前、歩の道左側に設置されている道玄坂の由来碑などを見学。
道玄坂の由来碑など
史跡めぐりをされている複数名の年配者に遭遇。
そのまま渋谷駅方向に戻り、宮益坂方面へと移動。
たぶん渋谷での下車は4年ぶりくらい。
渋谷駅西口スクランブル
この近辺はいつ来ても人が多いので、人酔い状態となる。
凸伝河崎氏館
午前10時55分から11時05分
第一生命ビル、渋谷警察署の辺りが推定地とされている。
台地先端部というよりも寧ろ台地下に近い印象。
渋谷警察署付近
源義家郎党河崎庄司郎の館とも。(「東京都の中世城館」より)
元々伝承地としての色合いが強くその信憑性も不明。
第一生命ビルの脇から坂を上り渋谷八幡方面へ移動。
この坂自体の比高差は約8mほど。
現在の渋谷川
凸渋谷城
午前 11時10分から11時25分
渋谷八幡宮境内。
麓を走る明治通からの比高差は境内地自体もそれなりに高いことから10mを超えている。
ただし六本木通の方がやや高いので北側かにのびた台地先端という地形。
渋谷氏一族の城館跡ともいわれ、金王丸の伝承も遺されているが、あくまでもその詳細は不明。
渋谷八幡宮社殿
神社境内北側には天台宗東福寺が所在。
16世紀の初めに後北条氏により攻略されたとも。
展示されている「城跡の石垣」はあくまでも近世以降のものであるように思われる。
「石垣」
◎豊栄稲荷神社
午前11時30分から11時40分
境内に庚申塔群が所在し、建立者名に渋谷伝左衛門という名が刻まれていたという。
現在は碑文剥落により判読不可。
ほかに道標の役割を兼ねていたものもあり、こちらは今でも「めぐろ こんわう(金王)
道」の文字が判読。
「こんわう」の文字
◎東福寺
午前12時00分から12時10分
宝永元年(1704)銘の梵鐘に渋谷を「谷盛庄」と称されていた旨の記述が刻印されている。
天台宗東福寺
「谷盛庄」の文字がある梵鐘
なお境内の庭園に土塁と石垣が所在するが、その様子から考えるにおそらく造園工事によるものであろう。
このあとは国学院大学方向へと向かう学生に混じり氷川神社へ移動。
◎渋谷氷川神社
12時20分から12時35分
この社殿も台地辺縁部に所在している。
渋谷区最古の神社で江戸時代には下渋谷村、下豊沢村の総鎮守。
氷川神社社殿
国学院大学寄りの東側参道脇にL字型をした土塁状地形が認められる。
表参道沿いの地形同様、むろん神社造立に付随する可能性大。
些か規模が大きいように思われるがその経緯は不明。
土塁といえば土塁の様な
◎常盤の松
12時50分から13時00分
常盤松と呼ばれた常盤御前などとの伝承を記した幕末期嘉永年間に刻まれた石碑が所在。
当時の薩摩藩により設置され、天璋院(篤姫、13代将軍徳川家定正室)が一時滞在したという薩摩藩下屋敷との関連があるとの事らしい。
この辺の事情は「江戸切絵図」からは判然としない。
「常盤の松」石碑
なお、周囲には常盤松小学校など関連する建物名には事欠かない。
このあとは休憩を兼ねて渋谷区郷土館に立寄り資料収集。
◎黒田藩下屋敷
14時00分から14時20分
現在の渋谷図書館付近が下屋敷跡と推定されている模様。
渋谷図書館
「江戸切絵図」には松平美濃守の下屋敷として記載されている。
福岡黒田藩は2代目以降は松平姓が下賜され、第11代当主は美濃守名を拝領している。
終わりに渋谷図書館(地域館)にて「渋谷金王丸」関係の資料閲覧、収集。
このあとは撤退予定の午後2時半を回ったことから、残る「北青山遺跡」方面を先送りして帰路に就く。
本日の歩行歩数は1万7800歩ほど。
毎回懸案の足回りには所要の痛み対策に加えて今回はテーピングを追加。
ところが、すでに往路最寄駅階段から左膝に違和感発生。
先行きの懸念はあったが、痛みの増幅はなくどうにか持ち堪えられた。
今回も都内へですが、前回と同様に遺構には余り縁のなさそうな中野区です。
都内の移動手段の常道として、当然地下鉄と徒歩での移動。
今回は乗り入れしている副都心線で新宿3丁目駅で乗り換え、地下鉄丸の内で中野坂上駅を目指しました。
当所は有楽町線から大江戸線に乗り換えるか、JR経由で大江戸線に乗り換えるか思案していましたが、むしろこのルートの方が移動時間も乗車から1時間足らずでしかも電車賃も格安であることが分かりました。
有楽町線、副都心線、丸の内線あたりは普段でもよく利用しますが、先月は三田線、今月は南北線に初めて乗車し、大分前にも大江戸線にも乗車したことから、満66歳にしてたぶん都内地下鉄13路線制覇(但し一区間乗車を含む)なのかも知れません。
凸中野長者屋敷(東京都中野区)
午前10時20分から午前10時45分
中野長者とも呼ばれたともいう鈴木九郎を開基とする成願寺境内付近がその屋敷跡と伝わります。
神田川北側の緩斜面に所在していますが、地表上からは城館遺構に繋がるような地形的特徴を確認することはできませんが、開基である中野長者に関する石柱、墓石などが所在しています。
成願寺
南麓の神田川に架かる橋の名称は「長者橋」とされ、中野長者の言い伝えが継承されています。
また、付属墓地には蓮池藩鍋家(鍋島藩の分家、禄高5万石)の墓所もありました。
◎象小屋跡
「朝日が丘公園」の辺りが、江戸時代に輸入献上された「アジア象」(たぶん)の飼育場が所在していたとされている場所です。
たまたま案内板が設置されている場所に、公園管理の作業車が駐車していたため案内板の撮影はできませんでした。
「朝日が丘公園」
このあとは、少なくとも明治初期頃までには遡及できると考えられる「下町」沿いの旧道に沿って宝仙寺方面まで移動。
◎中野町役場跡
真言宗豊山派明王山宝仙寺の境内にかつて中野町の役場が置かれていたようです。
通りがかりにたまたま立ち寄ってみました。
旧中野町役場跡
◎たぶん宅地造成にともなう「築山」
「中野住宅」という集合住宅の敷地内です。
今回もまた目ぼしい遺構が見当たらないことから、このように人工的な地面の盛り上がりが目に入るとついつい条件反射のように撮影する習性が出てしまいます。
◎ヤマサ醤油倉庫跡
宝仙寺近くの沿道に古い煉瓦製の外壁が一部残されておりました。
これもたまたまです。
◎堀越高校
かの有名な「堀越高校」です。
これもたまたまです。
かつては河岸段丘であったと思われる地形の一部に小さな都市公園があったので地形確認のため立ち寄りました。
河岸段丘
するとその帰りがけに学校の校庭があったので、何気なく俯瞰した画像を撮影しておりました。
堀越学園方面
◎桃園川跡
次項の「城山」の南麓を東流しこの一帯を潤していた神田川支流である小河川跡(桃園川緑道)です。
桃園川緑道
凸城山(東京都中野区)
午前11時40分から12時10分
象小屋からあちこち道草をしながら約1.2kmほどの道のりを約1時間ほど費やして「谷戸運動公園」に到着しました。
城山の案内板
明治期に作成された迅速図などを参照しますと、戦後間もないころまではこの場所の南側を中心として土塁跡が確認できた模様です。
むろん、現在ではそうした痕跡は殆ど見出すことはできませんでした。
戦国時代末期に後北条氏の小代官を務めたとされる堀江氏一族の城館であったと考えられているようです。
付近の城山通り標識など
◎城山公園(旧農事試験場跡)
12時15分から12時20分
現在の「もみじ山文化センター」(なかのZERO、中央図書館)が所在する丘陵麓に所在し、南側の「城山」からは直線距離で約100m前後という至近距離になります。
もみじ山公園へ向かう坂道
旧農事試験場跡にもなります。
◎なかのZERO(中野区立中央図書館)
12時30分から13時30分
城山公園との比高差は数メートルを測る高台に所在しています。
展示されているC11型SL
宅地開発が進む以前の戦後間もない時期までは現在の中野駅方面から東側に伸びた丘陵の先端部分に相当する見晴らしの良い地形であったことが偲ばれます。
現在でも南側に隣接した「もみじ山公園」付近に、公園化によるある程度の地形改変などは想定されるものの往時の様子を偲ぶ景観が残されているように感じられます。
もみじ山公園
複合施設でもある中央図書館に立寄り関連資料の閲覧/複写をしつつ休憩を摂りましたが、このことが後に明暗を分けたことになります。
城山方面から徒歩にてそのまま東へ移動し大江戸線東中野駅を目指しました。
この道は「城山本通り」と名付けられた東中野駅までの最短ルートなのですが、その割には住宅内の路地に近く一方通行の個所もあり道路幅員も狭隘でした。
徒歩の場合には車での移動と異なり、たしかに移動の所要時間や足の疲労などに対する考慮から赴くことのできる件数は減少しますが、その一方では地表の凹凸や坂の有無などの微妙な地形の変化が肌で感じられることから市街地での城館跡探訪には相応しい移動手段です。
この時も城山の東約150m付近には元々は南側から北側にかけて谷津が入り込んでいた地形が存在していたことが理解できました。
現在の大久保通に沿った丘陵緩斜面の麓に所在している「城山」という存在も、西側の「もみじ山公園」付近に残されている崖線地形とあわせて、自然の湧水を占有できるという有利な立地条件であったことなどが少しだけですが分かったような気がします。
凸和田山(東京都中野区)
14時30分から15時05分
和田義盛の館跡とも伝わりますがあまりあてにはならないようです。
一般には「哲学堂公園」としての名称が有名です。
哲学堂公園の石碑
井上円了氏は母校の創始者ですが、この地を訪れたのは今回が初めてでした。
南麓を流れる神田川支流の妙正寺川北側の丘陵で麓との比高差は約10mほどを測ります。
南側崖線地形
むろん哲学堂の設置にともなう地形改変も加わっていることが予想され、南側の崖線地形以外にはこれといったものは見当たりません。
南麓の公園
今回訪れた中野区はほぼ新宿区に近い東部であり、いつの間にか知らないうちに新宿区内に入っていたことを後から気が付いたような有様でした。
帰路は再び落合南長崎駅に戻り、元々は地下鉄大江戸線で練馬春日町まで行き、そこから環八通りをあるいて有楽町線平和台へと向かうというような予定でした。
しかし、大江戸線の車内で路線図をしげしげと眺めていたところ、「練馬駅」から乗換で「小竹向原」経由で有楽町線に接続していることに気が付きました。
元をただせばいちおうは都民でしたが、何分にもそれは半世紀以上前のことなので、都電には大層お世話になっていたものの、当時は地下鉄といえば「丸の内線」ぐらいしか知らないという埼玉県民の悲しさでもあります。
こうすれば、約2kmの道を歩かずに済むので、右手の拳をそっと握り軽くガッツボースを。
記憶ではたぶん初めての練馬駅のでの慣れない乗換えに、案内表示を確認しつつキョロキョロしながら先を急いでいると、やにわに目に飛び込んできた「電光案内板」(今でもこう云うのだろうか?)の「東上線人身事故発生による地下鉄有楽町線直通運転中止のお知らせ」の文字。
この時点では、事故と東上線運転状況や運転回復見込みなどの詳細は全く不明。
したがって代替案としては、とりあえず「池袋へ戻り本川越駅あるいは所沢駅まで行く」、「武蔵野線に乗れれば川越駅まで行く」ことがなど考えられました。
しかし、いずれにしても事故と運転状況の詳細が分からないことには致し方がないことから、小竹向原から和光市止まりの有楽町線に乗車し和光市駅へ移動し、ようやく事故の詳細と運転状況が判明(あ、年寄なのでスマホ無いです)
今回は、たぶん今月3度目くらいの人身事故により、結果的に東上線が2時間以上運行停止。
志木駅で満員の乗客を乗せたまま運転待機していた下り線の運行が再開されたのは、再開予定時刻を40分ほど経過した午後5時10分過ぎでした。
この間、地下鉄有楽町線と接続している和光市駅やその先の折返し運転をしている志木駅では午後3時から4時という時刻であるにも拘らず、ホームには乗客が溢れかえるという混雑ぶりで皆さん先行きの見えないことからくる焦りと疲労が蔓延していました。
なお、事故の発生した踏切は昔からよく知っている踏切で、「魔の踏切」ともいうべき人身事故の多発地点なのでありました。
なお、この日歩いた歩数は約2万1600歩ほどに過ぎませんでしたが、疲労感は確実に倍加されておりました。