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都内23区シリーズ第11弾はまたしても葛飾区(笑)
何時もの通り始発に乗車すべく早朝午前4時20分に自宅出発
夜明けの時刻が夏至の時に比べ少しずつ確実に遅くなってきている
夏至の頃には午前4時過ぎには東の空が白み始めていた
今回のルートは確実に座れそうな東上線―和光市乗換の地下鉄有楽町線―有楽町乗換の地下鉄日比谷線直通で、結果的に往路は全て座席に座れた
JR利用に比べ約20分所要時間が多いが、足への負担を極力軽減することに
前回の7月24日はあちこちに立寄り結果的に歩き過ぎとなりエネルギーが枯渇
このため今回の現地移動はできるだけ京成バスを有効利用
全体の歩行距離も極力抑制
凸小菅御殿、銭座(東京都葛飾区小菅)
午前6時50分から8時10分
小菅駅が所在するのは足立区で、小菅は足立区との境界に所在している
伊奈氏下屋敷、徳川家御殿跡、幕末期の銭座跡・・・そして現在は小菅拘置所
むろん関係者以外は立ち入り不可で撮影自体にも制限がある
関係者となるのは不本意でもある
正門脇の説明版と石灯籠を柵越しに眺め、すぐ近くの小さな親水公園内(小菅万葉園)に設置されたよく見えない2種類の説明版を見学
正門脇の説明版と石灯籠
よく見えない小菅御殿の説明版
◎小菅稲荷神社
拘置所南側の道路沿いに所在する神社
伊奈氏下屋敷時代には屋敷神のような存在であったのかも知れず
ただし現在の所在地は当時のものではなく社殿は移座しているらしい
小菅稲荷神社
◎西小菅小学校
この辺りに銭座が置かれていたと推定されている
東側校門前に設置されている銭座の説明版はしっかりと読むことができる
銭座の説明版
◎八幡宮
現在では綾瀬川沿いに所在する道端の小祠だが、かつては参詣者により賑いを見せていたという
かつての綾瀬川はこのような直線状の河川ではなく、古隅田川を含めてこの付近では特に大きく蛇行を繰り返していたことが明治初期の迅速図などからも把握できる
現在の綾瀬川
◎小菅神社
綾瀬川沿いの微高地に所在する神社で低丘陵の先端に所在しているがその由来は不詳
近世以降から現代にいたるまでの間における綾瀬川の河川改修、流路変更などの事情を考慮すると往時の地形を想定するには材料不足が否めず
綾瀬川東岸の小菅神社境内
◎古隅田川
地表部が公園化されている隅田川の旧流路を辿ってみた
恐らく現在の流路は流入する水量の減少などもあり埋め立てられ、その川幅も狭くなっているものと考えられる
古隅田川
このあと「登記所」バス停から京成タウンバスに乗車し「堀切中学校」バス停まで移動
この付近を散策していると必ずスカイツリーの姿が見えるので、まず方向を誤ることはなさそう
凸堀切(東京都葛飾区堀切)
午前9時00分から9時15分
「東京都の中世城館」によれば、「いぼとり地蔵」でも有名な真言宗極楽寺とその周辺を示唆していると思われるが、歴史的経緯はおろか、その存在の信憑性についても?となる城館跡
極楽寺南側の道路
凸立石(東京都葛飾区立石)
午前10時30分から10時40分
前々回すでに探訪済みの地域
しかし見落としたポイントに気づき再訪
古墳の石窟の一部とも
「立石」地名の語源となった石
中川沿いの道を歩くと何故か足取りが重くなる
今回はデジカメレンズを以前から使用していた18-300mmに戻したせいなのだろうか
あるいは幾分薄日が差しはじめて気温が上昇したことによるものなのだろうか
帰路、京成立石へと向かう際に立石駅前商店街の和菓子屋で「どら焼き」など5品を購入
金750円也
この後は早々と京成立石―青戸―日暮里―池袋経由の東上線にて帰宅
青戸―日暮里間は特急運行でこの間の駅は通過するものの電車の速度は兎に角のんびり
恐らく東上線の急行(時速90km超)と比べ半分くらいの速度で運行していた
地図を参照してみると確かに急カーブが多いので納得
日暮里駅の山手線への乗換ではキャリーケースを引いた主にアジア系外国人観光客で大混雑
池袋駅の階段では視覚障害の方が、そうした雑踏の中を人の流れとは反対方向に白杖をついて階段を上がろうと試み、数人が危うく将棋倒し寸前に
このように今日はいろいろと考えさせられる日でもあった
超早目の撤収故、池袋からの東上線も血眼にならずに座席確保
ただし駅からのバスは本数も少なく予定のダイヤが合わずに徒歩となった
それでも今回は1万8400歩と最少
まだこの歩数程度ならば足への影響はほぼ無いことも確認
あと二三年くらいは動けそうにも思われた
この夏とうとう10回目となる都内23区の城館跡探訪
今回も前回に引き続き葛飾区方面の残り4か所
伝承地、推定地は数々あれども、前回の葛西城方面を除くとほぼ無名の存在が目白押し
しかも時候はといえば、吹き出る汗が止まることを知らぬ猛暑
加えて足元も気力も着実に減衰の一途
果たして何処まで辿り着けるのか皆目不明の彷徨のはじまり
凸会田氏館(東京都葛飾区南水元)
午前6時45分から7時30分
金町駅北口から京成バスで「神社入口」(富士神社入口)へ
徒歩でも差支えない僅か1.5kmほどの道程だか体力温存を優先
「角川日本地名大辞典」によれば、会田氏は信濃出身とされ始め関宿周辺に勢力を扶植し、永正年間に葛西に定住し後後北条氏に従属したともいわれている
富士神社(浅間神社)と富士塚
「東京都の中世城館」によれば、推定地はおよそ富士神社の南東、飯塚小学校の南西辺りを表示
一帯は中川東岸の低地の住宅地で起伏の目立たない平坦地
なお、神社社殿背後の「富士塚」は補修工事の真っ最中
富士神社、飯塚小学校、飯塚公園と廻り、中川水道橋付近から中川東岸堤防を経由し北上開始
中川水道橋
◎夕顔観音(東京都葛飾区西水元)
午前8時00分から8時20分
迅速図などによれば水元飯塚村北端と推定される約800m先の安福寺(西水元1丁目、別名を「夕顔観音」とも)へと移動し、旧来における飯塚村の南北に細長い集落の位置関係を確認
夕顔観音の石碑
なお「東京都遺跡地図情報」によれば途中に「水元飯塚遺跡」も所在
早朝の時間調整も兼ねて、西水元1丁目から水元、東水元を経て東金付近までを散策
移動距離にすれば僅かに3km少々のところ、これが思いのほか時間を要したのは下記の通り
◎水元公園(東京都葛飾区東水元)
午前9時00分から9時50分
遺憾ながら途中水元公園付近辺りでほぼ気力、体力ともに枯渇
暫くの間公園のベンチに坐し水分補給と休憩するも依然として発汗は止まらず
あくまでも南寄りの風は生暖かく涼風とは無縁で発汗中の全身に纏わりつく
しかも木陰となるベンチは付近には見当たらず(笑)
小合溜(古利根川)
しかし思いがけず「思案坂」の石碑に遭遇
14世紀新田義興に付従ったとされる細谷氏の故事に因むものとあった
確かに現在でも細谷姓のお宅が散見される地域ではある
◎香取神社(東京都葛飾区東水元)
午前10時15分から10時20分
元々は古利根川の流路に突き出した半島状の地形先端部に所在
香取神社
◎松浦の鐘(東京都葛飾区東水元)
午前10時35分から10時40分
思いのほかに足がすすまず己の体力の限界を思い知り愕然
近世に長崎奉行などを務めたとされる旗本松浦氏の鐘楼
残念ながら釣鐘自体は現在修理中、「天文と郷土の博物館」に保管中とのこと
◎水元さくら堤の由来の碑(東京都葛飾区東水元)
同上
1km以上離れたもう少し北西の方角に古碑があるらしい
なかなか見当たらずこの新しい石碑の画像にて代用
◎しばられ地蔵(東京都葛飾区東水元)
午前10時50分から11時00分
南蔵院
「大岡政談」にも登場する盗難除け、厄除けの名所のひとつ
この暑いのにお地蔵さんは荒縄でぐるぐる巻きに
因みにひと縄100円だそうな
「しばられ地蔵」
◎半田稲荷神社(東京都葛飾区東金町)
午前11時20分から11時25分
半田稲荷神社
◎金蓮院(東京都葛飾区東金町)
午前11時45分から11時55分
岩槻街道沿いの真言宗寺院
入口が分からず境内周辺をほぼ1周した
冷静に考えれば山門は一般に南向きが多いことを失念するくらい思考が混濁(苦笑)
金蓮院山門
ここで、さらに休憩を重ねた
しかし極度の疲労によりこの後の葛西神社での参詣は断念
ようやく金町駅北口へと辿りついた
かくて予定時刻から遅れること既に約2時間
◎一里塚(東京都葛飾区亀有4丁目)
12時40分から12時42分
金町駅より常磐線に乗車し西隣の亀有へ移動
途中港北橋通沿いに所在する一里塚の石碑と水戸黄門一行のオブジェに立寄る
一里塚石碑など
凸上千葉城(東京都葛飾区西亀有)
12時45分から14時00分
この城館跡もその所在地については明確ではない模様
「所領役帳」では遠山丹波守の所領とされている
お馴染みの「東京都の中世城館」では、西亀有2丁目に所在する西亀有小学校とその東側付近を推定
また、「東京都遺跡地図情報」によれば、西亀有1丁目の「中道公園」の東側住宅地を「中世遺跡」(古銭の出土、溝検出など)のひとつとして掲載
一方戦後間もない時期に在日米軍により撮影された国土地理院所管の航空写真によれば、これらの推定地とは別に幾つかの方形状区画をを認めることができるが、その当時には既に耕作地化がすすみ旧家の屋敷林区画の可能性が高いものと判断
推定地のひとつ
バスの本数も少ないことから往路は徒歩にてアプローチ
しかしこのラスト徒歩約2kmはかなり堪えた模様
帰路は何としても亀有駅行の京成バスに乗車せねば帰宅まで体が持たぬものと自覚
バス停の時刻表は往路で確認済み
とはいえ、バスの便は1時間に1本あるかないかという状況
このような事情から最後の香取神社は鳥居の付近から参拝し、14時13分発の京成バスに間に合わせるべく重い足取りを鼓舞し歩みを速めていった
というような次第で、今回は結果的に神社仏閣めぐりという趣に
当然西側の「小菅」(小菅御殿跡、現小菅拘置所)、南側の「堀切」方面までは遠く届かず
それでもこうした状況下でよく2か所目まで進めたとも思う
帰宅後の夕食中、まずは右手の指先が痙攣開始
次にそれをカバーしようとした左手も同調痙攣
さらに立ち上がろうとすると左太腿も痙攣して三重苦になり身動きならず
本日の歩行数は約3万3千歩に
やはり酷暑のもと、2万歩余りに抑えなくては身がもたぬことを痛感
「次回」はというと、ここはやはり「自戒」することとして、少なくとも2週間は空けよう
とはいうものの「遺構無」「ほぼ伝承地」「ほぼ無名」の事例数多な地域
このため盛り上がりに欠けることこの上なし
この時期は体力と気力の維持が第一義で、結果として空白地の漸減というおまけもあるというような心積もりが大事
経路は東上線―副都心線―千代田線―浅草線(京成押上線乗入)と乗り継ぎ、京成四ツ木駅へと移動
実はこの間、新宿3丁目と馬喰横山での地下鉄乗換の際にすでに足に違和感発生
その都度痛みの部位が異なる事態に困惑することしきり
それでもテーピング、サポター装着、内反小指対策、骨棘対策、足底腱膜炎対策等々ひととおりの足回り対策を講じると約1時間を要する
今回は右膝+両足踵(たぶん骨棘と推定)
思えば昨年の今頃は横浜市内を中心に彷徨
バスには極力乗らずにひたすら歩きまわり1日で40km近く歩けた日々が今では懐かしい
いまでは1日20km程度が限界となってきている
しかも天候は前日から当日早朝まで「蒸し暑く不安定」という予報
まさしく東の空は「朝焼け」で降雨の予兆あり
天候は持っても午前中頃までと判断
もっともこの蒸し暑さの中を夕刻まで彷徨するだけの気力と体力は皆無なのだが
凸伝葛西清重館(東京都葛飾区)
午前7時00分から7時10分
午前7時25分から7時30分
天台宗西光寺を中心とした一帯とも伝わるという
近代以降の市街地化が早く戦後間もない時期に撮影された航空写真はともかくとしても、明治初期の迅速図にさえも城館跡に関連するような痕跡の確認は困難
山門未開錠のため開門後に再訪しあらためて参詣
山門脇の説明版
国道6号線歩道から見える約3km先のスカイツリーの姿
すでにこの時点ですでに薄靄がかかりはじめ正しく雲隠れ
東京スカイツリー
◎伝葛西清重墓所(東京都葛飾区)
午前7時10分から7時15分
四ツ木一丁目西町町会会館の建物南側に所在
ブロックとフェンスに囲まれた私有地の雰囲気の漂う一角に所在
墓石自体の由来経緯については伝承性が濃厚の模様
伝葛西清重墓所
◎若宮八幡神社(東京都葛飾区)
午前7時25分から7時30分
幕末期の「江戸切絵図」等にはひときわ大きな境内が記載
現状は住宅地の一角に目立たぬように鎮座
「切絵図のデフォルメ」の可能性もあるが、合祀などによる移転若しくは境内地転用などの背景があったのだろうか
凸渋江陣屋(東京都葛飾区)
午前8時20分から9時00分
西光寺境内から徒歩にて東へ約600m移動
住宅街の路地を抜け京成押上線の踏切を横断し「日本城郭大系」が城館跡として推定している「白髭神社」へ
戦国期里見氏の陣城説、後北条氏家臣山中氏との関連などが想定
境内地をとりまく曲折した道路形状に城館跡特有の要素を感じるものの、仮に陣城となると関連性不明に
白髭神社
なお、ここで地元の参詣者と暫くの間歓談
一方「東京都の中世城館」によれば、白鬚神社北方約200m地点に所在する「葛飾郵便局」付近を想定
葛西郵便局
凸立石堀の内(東京都葛飾区)
午前9時35分から10時00分
葛飾郵便局から本奥戸橋の手前(立石駅前通りバス停)まで京成バス移動し徒歩約400m
中川の流路が大きく蛇行する沿岸で往昔には流路の変遷に左右される一帯
所在地は「東京都の中世城館」所収の「城館分布図」を参照
本奥戸橋付近から
「堀之内」の地名からその存在が窺われるという比較的曖昧な推定地の模様
念のため付近の「葛飾税務署」「真言宗南蔵院」「熊野神社」などを訪問
熊野神社
むろん地表上からは遺構の存在を窺わせるような地形的特徴を見出すことは困難
凸葛西城(東京都葛飾区)
10時35分から11時40分
この城跡の資料を集めていたのはもう10年以上も前の出来事
今回ようやく真剣に目を通したような次第
大石氏、千葉氏、後北条氏と変遷
葛西城址説明版
主郭は南北に貫通する環状7号線により東西に分断され、主に西側部分に石碑、説明版が配置されている
また下記画像の中央部付近で斬首されたと推定される1体の頭蓋骨(推定女性、年齢35歳±10歳)も検出されているという
後北条時代の主郭堀跡北東部付近ということなので、現状に当て嵌めればおそらく大型トラックが写り込んでいる近辺らしい
葛西城主郭は環七で分断
わずかに堀跡の形跡を留めるとされる道路が残されてはいる
発掘による堀跡検出部分と堀跡想定部分とを概ね彷徨
葛西城主郭西側の堀跡付近
凸御殿山(東京都葛飾区)
10時35分から11時40分
徳川氏による近世の「御茶屋御殿」のひとつで中世の葛西城主郭付近に重なるらしい
御殿山公園案内板
※今回の基礎資料(メモ追加分)
「平成19年度特別展図録 関東戦乱」(2007/葛飾区郷土と天文の博物館)
「東京下町に眠る戦国の城 葛西城」(2009/新泉社)
本年6月以降は毎回全て蒸し暑さの中の探訪
そのなかでもこの日の暑さは格別
時刻は正午前とはいえ足回りはほぼ限界
このあと約1.2kmほど西へと徒歩移動し、博物館で発掘された遺物を見学するという選択肢も
しかしこの時点で気力、体力ともに急降下
正午を前に両踵の痛みにより行動不能となる以前に敢然と撤退
暑さのため痛みどめの服用さえも失念(笑)
下車したバス停から再び京成バスに乗車し環七を北上し亀有駅へと向かった
亀有駅南口でバスを下車
ふと既視感を感じたが、おそらくは半世紀以前に訪れている可能性あり
ここで「こち亀」でお馴染みのモニュメントに対面
そういえば当地は「こち亀の故地」でもあった
その後千代田線直通常磐線に乗車し山手線―東上線経由で帰宅
まもなくこの日訪れた各所でゲリラ豪雨発生
足への負担を減ずるべく中間での移動手段に京成バスを多用するもこの日の歩行数は2万3800歩を記録
毎回のこまめの水分補給と「塩飴」摂取の効果はそれなり
本来ならばもう少し間を空けておきたい所、生憎と今週の火曜日から金曜日までは雑用つづき。
このため中3日という足回りの回復も万全とは程遠い状態での探訪に。
前回に引き続いて武蔵野線経由、起点となるのは荒川区日暮里周辺。
先日の石浜城(荒川区)の折もかなりの酷暑。
然しこの日はさらに輪をかけた酷暑となりそうな蒸し暑さ。
早朝にもかかわらず既に最寄駅まで向かう際は汗が吹き出し続けていた。
◎道灌山遺跡(東京都荒川区)
午前6時15分から6時30分
道灌山通はあくまでも後世(明治初期以前、おそらく近世)の切通しで、本来は南側の道灌山公園と道灌山遺跡は連続した丘陵で南方の上野台方面から赤羽まで連続した崖地である。
開成学園前の「ひぐらし坂」「道灌山遺跡」などの説明版などを確認、あらためて北側崖線部地形をしげしげと観察。
この一連の崖線地形はすでに60年以上前から目にしていたお馴染みの地形、しかし数年前までは海蝕台地の一種としてとして理解していたことは無いというお粗末。
また、鉄道軌道の拡張により崖線部は約30mほどの幅で切土されているとも。
それもそのはずで山手線、京浜東北線、東北線、宇都宮線、東北・上越新幹線などの上下線が並行して走行している。
このため一度に走行する数本の列車を撮影することが可能でもある。
道灌山遺跡付近から
最近やっと絞り優先設定でのISO自動補正範囲の上限制御を使いこなせるようになってきているが、既に後継機種はもう2世代後まで流通している。
◎向陵稲荷神社(東京都荒川区)
午前6時30分から6時50分
秋田藩主佐竹氏の抱屋敷跡でもある(下屋敷との説も)
何度か移転している稲荷神社は元は同屋敷内の稲荷社。
向陵稲荷神社と坂
本日は足回りの準備に時間を要し朝食抜きのため、このまま探訪を続けるとかなりの確率でエネルギー切れとなることが予見された。
このため道灌山通沿いのファミマでハムサンドを購入。
しかし、道灌山通の南側に「サンドイッチ専門」の店を発見し落胆。
気を摂り直し、その後休憩の都度、水分補給と合わせ小出しに3度に分けて摂取 (笑)
凸道灌山城(東京都荒川区)
午前7時10分から7時20分
道灌山通に架かる歩道橋を渡り道灌山の公園へ移動。
「道灌山」に関する解説版は所在するものの、「道灌山城」に関する記述はない。
太田道灌、関道閑(江戸重長の舅とも)との関わりが指摘されているが経緯不詳。
西日暮里公園(道灌山公園)
凸諏訪神社(東京都荒川区)
午前7時20分から7時35分
「日本城郭全集」の記述に道灌山城に関連する「道灌山の付近の諏訪神社の地にも城があったという」記述が拠りどころ(笑)
おそらくは地元郷土史、伝承などからの引用なのであろうか。
道灌山公園に接した新堀、谷中の総鎮守で、鎌倉期に豊島左衛門尉経泰により創建と伝わる、江戸時代には眺望に優れた景勝地でぁったという。
諏訪神社社殿
そろそろ夏祭りの季節でその準備作業が始まりかけていた。
◎浄光寺(東京都荒川区)
午前7時40分から8時00分
真言宗豊山派元諏訪神社別当、別名雪見寺とも。
「将軍腰掛けの石」が所在するらしいが見当たらず(^^ゞ
西側の「富士見坂」(比高差約8m)を下り丘陵下へ移動。
◎青雲寺(東京都荒川区)
午前8時10分から8時15分
道灌山の公園からは崖線地形の関係上直接青雲寺方面にはアクセスできず、やや迂回して富士見坂を下り青雲寺へ。
別名花見寺、滝沢馬琴の筆塚などが所在。
滝沢馬琴の筆塚
◎経王寺(東京都荒川区)
午前8時25分から8時30分
有名な「谷中銀座商店街」(台東区)入口を素通りし、「夕焼けだんだん」を登り「上野戦争」当時の弾痕が残るという経王寺山門へ。
「夕焼けだんだん」
弾痕らしい形跡は少なくとも数か所は確認できる。
経王寺山門
◎本行寺(東京都荒川区)
午前8時35分から8時40分
別名「月見寺」とも、太田道灌丘碑とその標柱が所在。
太田道灌丘碑
◎太田道灌像(東京都荒川区)
せっかくなので日暮里駅北口のロータリーに所在しているというモニュメントも撮影。
太田道灌像と舎人ライナー
日暮里からは「舎人ライナー」に乗車、「扇大橋駅」へと移動。
5両編成のコンパクトな車両は乗員不在の自動運転方式。
幼児に戻り最前列に移動し車窓風景を愉しむ。
予想よりもカーブと坂が多い
凸荘司のかみ城(東京都足立区)
午前9時40分から10時00分頃まで
「東京都の中世城館」によれば、当該推定地は現荒川(旧荒川放水路)の堰堤と河川敷なので、遺構も面影も皆無な地点。
「本木排水場」が所在する南側付近が推定地らしい。
「平和橋通」からわざわざ往復600mほどを回り道して、15m前後の堰堤の階段を上り改めて巨大な堰堤と中央環状線の構造物を眺めてみたが日差しが強く気が遠くなってきた。
しかし、午前中とはいえこうした天候の下でも「ジョギング」をしている頑健な女性の方が複数おいでになることに驚かされた。
都内23区は遺構も寂しいが、やたらに伝承地も多く「石碑」「標柱」「説明版」などの類も見当たらない箇所が多く、探訪の意気があがらないことこの上なし。
たぶんこの辺り
「舎人ライナー扇大橋駅」からは一度扇大橋北詰交差点まで南下し、中央環状線と並行する荒川の堰堤北側の平和橋通を東へと向かい、この間の距離は約1.2km。
たかだか徒歩20分弱とはいえ、炎天下での体力の消耗を考慮すると最早苦行のようにも思えた。
現地に赴いて運行本数の少ない東武バス以外に初めて知ったのが、「足立区コミュニティバス」の存在。
運行本数は1時間あたり1本から2本程度だが、少なくとも「扇大橋駅」から「本木南町」間は「はるかぜ6号、11号」が連絡していたのであった。
凸中曽根城(東京都足立区)
午前10時10分から11時30分頃まで
歴史的経緯はあまり明確とはいえないものがあるように思われるが、中曽根神社境内とその周辺には「城址碑2基」を含む4基の石碑が所在しており、この日一番の収穫であった。
中曽根城主郭付近(推定)
往路の時点でも疲労が蓄積していたが、気力を振り絞って「地中レーダー探査により推定された堀跡」付近を反時計回りに概ね半周したこともあり、扇大橋駅までの復路ではさらにその足取りは重さを増幅させていた。
ついでなので西隣の「小屋の内出」との地名が残されている辺りに立寄り、城跡南西部の御嶽神社脇の道を南下しようやく帰途へとついた。
「小屋の内出」付近の路地
凸舎人屋敷(東京都足立区)
12時10分から12時20分頃まで
「東京都の中世城館」に示されていた推定地付近を念のためぐるっと一周する心づもりが、すでに中曽根城での往復にエネルギーが大方消耗していたらしい。
「舎人ライナー」の舎人駅で下車した時点から、その足取りはずしりと重たくまるで鉛の重りを装着したようになっていた。
むろん地表部の遺構はなく、所在地も曖昧で歴史的経緯も定かではない極めて伝承性の濃い城館跡である。
照りつける灼熱の下、赤山街道に出た辺りでとうとう僅かに残されていた気力が急速に萎えはじめてきた。
西側の路地をすすみ社名不詳の小祠が目に入った時点で、頭の中で何ブチッと何かが弾けたように感じたのは気のせいではないのかも知れない。
そろそろMRIの記念撮影もしておかねば(苦笑)
「赤山街道」
かくして推定地一周を断念、重い足を引きずり元来た道をよろよろと舎人駅へと戻ることとなった。
※東京23区内探訪の基礎資料(メモ)
「日本城郭全集第4巻」(1967/人物往来社)
「日本城郭大系第5巻」(1979/新人物往来社)
「東京都の中世城館」(2013/戎光祥出版)
「城巡礼東京48か所めぐり」(2008/東京地図出版)
「武蔵野城跡ウォーキング」(2007/東京新聞社)
「ぶらり東京近郊の名城・古城」(2008/PHP研究所)
「東京都の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「図説太田道灌」(2009/戎光祥出版)
「大江戸古地図大全」(2016/宝島社)
「江戸の大名屋敷を歩く」(2011-/祥伝社)
「江戸の川東京の川」(1989/井上書院)
「川の地図辞典」(2007/之潮)
「川跡からたどる江戸・東京案内」(2011/洋泉社)
「江戸の崖東京の崖」(2012/講談社)
「江戸東京地形の謎」(二見書房)
「古地図で歩く江戸東京」(2016/三栄書房)
「明治大正凸凹地図東京散歩」(2015/実業之日本社)
「近郊散策江戸名所図会を歩く」(1997/東京堂出版)
この日の歩数は2万8200歩。
とくに扇大橋駅から中曽根城までの往復がかなり堪え、あらためて体力が欠乏していることを思い知った。
暑さに体が順応するまで、いま暫くは外出を自重すべきかどうか逡巡するような陽気であった。