本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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一昨日の法事の際に本家の墓所に墓参。
元え、正しくは先祖の確認作業を(汗)
既に過去帳は戦後間もない菩提寺の火災により焼失。
さすれば、唯一の頼りは古い墓石のみ。

現在の墓石は、一見古そうに見えるが大正7年の建立と明記。
その左に側に位置する仏像が彫り込まれた舟形の先祖供養塔には元禄14年の刻印も。
墓所の改修自体は土葬時代より未着手のはず。
河川氾濫にともなう水害などにより墓石の流失が無いとすれば、どうにか18世紀初頭までは遡及可能。

同様の供養塔が他に2基ばかり存在。
しかし経年劣化が激しく、何れも肉眼での判読は不可能。
字名が「××新田」なので、集落の発生はどれほど古くとも17世紀初頭以降のはず。
日枝神社庚申塔には寛文12年(1672)紀年銘。
新田開発に伴う戸数規模から推定するに、恐らくは17世紀中葉頃と推定を。
今度来るときには一眼デジカメを持参し墓碑の解析をしてみることに。

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お礼遅れ、申し訳ありません。
こんばんは。
ゼブリナ画像及びご指南ありがとうございました。
当方、管理人様には到底及ばずの若輩者ですが、私もハイドロでの栽培にチャレンジしてみようと思います。
また、お礼遅れてしまい申し訳ございませんです。
勤務先が火を吹き始め、後処理に翻弄されておりました..

私の実家の過去帳も、寺への放火による焼失のため、ご先祖辿りが難しくなってしまっています。根拠が"?"の伝説やらが混在し、おとぎ話と化してしまい苦笑しております。

ホームセンターが建つ前の某研究所には暫し努めていたことがあります。仕事帰りに鳥頭坂近辺に生えていた白花タンポポをみて癒された記憶が懐かしいです。

まずは御礼まで。



弓兵 2010/06/06(Sun)19:31:53 編集
Re:お礼遅れ、申し訳ありません。
こちらこそ、返信が遅れお詫びいたします。
「ゼブリナ」のファイル更新の恰好の契機とさせていただきました。

当地には東京五輪の年以来、45年以上継続して居住しております。
なおその当時は周辺には鬱蒼とした広大な平地林(薪炭林)も残存しておりました。

ご多用になか、態々のご返信有難うございました。
ハイドロカルチャーの仕立て方の頁も、折を見て作成する心積もりでおります。
【2010/06/07 23:32】
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