本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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神流川沿いの戦国期中世城郭を巡る戦い。
この辺の歴史的経緯に関する基本的理解が全面的に不足していることを痛切に感じる昨今。
このため臆面もなく泥縄式俄勉強の真最中にございまする。
こうした無理解が、しばらく金鑽御嶽城を敬遠していた理由の一端でもありまする

そうしたなか関東管領上杉憲政失脚の契機となったとされる天文21年(1552)2月の金鑚御嶽城の攻防の話題。
通説(俗説の要素もあるような)では山内上杉氏支配下の安保全隆父子が数千の兵で立籠もり、これを後北条氏側が数千騎の大軍で攻め寄せて城兵数千人を討取ったとされています。

基本的な疑問として、まず挙げられるのは双方の兵力数。
とりわけ安保氏側の兵力の総数。
根小屋である麓の城下を含めたとしても、まず数千人が起居できる広さを有してはいないこと。
現実に狭小な尾根筋を利用した山城である御嶽城に籠れる兵力は、谷筋に展開する平場を利用したとして多くとも数百人程度が限度であると考えられます。
数千人が討死を遂げたとの部分については「太平記」のようなものと理解すれば片付けることもできますが、数千人という兵力については、半ば当時の上野国全体の動員兵力に相当する規模に符合するものと推定されます。

この通説の根拠の一つに、後に身延山第15世となる日蓮宗の僧侶日叙の「仁王経科註見聞私奥書」(身延文庫蔵)という史料が存在しています。
これによりますと、この写本の奥書に記された内容は上野に居住していたとはいえ、基本的には戦火を避けた「疎開先での伝聞」に基づくものであるという性格を有しているものと考えられます。

次に数の多いさまを表現する場合に、「数千」という比喩的な表現を多用しているという特徴が窺えます。
具体的には僅か六百字ほどの奥書の文中で、「北条氏康が数千騎を率いて攻め入った」、「数千人の城兵は一人残らず討死を遂げた」、「雑兵もまた数千人が水の手を切られて渇死した」、「戦火を避けて数千人が利根川の中州に避難した」などとの記述が頻出していることから、どうやら「数千」という数値が具体的数字を示す表現ではないものと考えて差し支えないように思われるのであります。

さらに「金讃山が戦火のため一宇もの残さず灰燼に帰した」という旨の記述があります。
この点については現在国の重要文化財に指定されている金讃神社多宝塔建立時期は天文三年(1534)とされていることから、些か歴史的事実とは齟齬をきたすと考えられる記述も含まれているようです。
何れにいたしましても、この史料を引用する場合には、こうした以上の諸点に留意する必要があるものと考えられます。

また後に武田信玄が西上州に侵攻し御嶽城をもその手中に収めた時に認めた、「甲斐・信濃の人数、千余りを城番として在城させた」という旨の太田資正宛の書状が存在しています。(「太田文書」)
しかし、「某町史」等では以上のような数値をそのまま引用するだけではなく、「甲斐・信濃の人、数千余り」と解釈しているとしか思えない旨の記述があり、泥縄俄勉強の身としてはこの結果的にますます頭が混乱してくるのでありました。

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