本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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今回は史進さんのお誘いで新潟県へ。

とはいうものの新潟は広く、今回はそのなかでも近場のひとつである魚沼地域に。
今年の初め頃からボツボツと計画だけは立てて多少の資料を纏めはじめていた地域ではありますが、この地を訪れましたのは別用で訪れたのを含めても約20年ぶりとなります。
その前は多分30年以上前で、当たり前のことではありましたが、それより前は多分半世紀ほど前であることから、流石にその当時の土地勘はとうにきれいさっぱりと失われておりました (^^ゞ


樺沢城と屋敷群(南魚沼市、旧六日町) 午前9時30分から12時20分

始めに東麓の小泉屋敷、御屋敷などの伝承地名などからなる屋敷跡とされる石柱めぐりを行いました。
そののち上杉景勝生誕の地とされている龍澤寺を参拝し、「御館の乱」の石碑近くから城跡への山道を登って行きました。


  上杉景勝生誕地の石碑 


      追悼碑

石碑の右上付近に小さく城跡への案内標識が写り込んでおります ^^


  にぎやかに土塁と横堀

「土塁」の文字が記された解説が多すぎるようにも感じる堀底道を西へとすすみ「望楼」とされる個所に立寄りましたが、残念ながら木立の叢生などにより眺望は殆どありませんでした (^^ゞ
「大手道」と記されたルートを進むか、3の丸の九十九折を登るか迷いましたが、結果的には史進さんの跡を追いかけ九十九折の方から登りました。
比高差は90mとされているのですが、郭間が空堀などにより区画されているために多少のアップダウンもあることから、忽ち息切れが始まるという為体に茫然自失。
この日の最高気温は24度くらいのはずでしたが日当たりでは恐らく28度くらいの感触で、流れる汗は止まるところを知らず。


  本丸から東側の眺望

本丸にて一休みをしましたが、この時点で全身から汗が吹き出し早くもヘロヘロに (^^ゞ
本丸からは出丸(西ノ丸)方面を経由して元来たルートへと戻りました。
この城跡内では4組ほどの方に出会いましたが、山城で人に出会うのは随分と久しぶりであったように思います。
帰りがけに駐車場には当方以外に3台の車が駐車。
もっともすべて長岡ナンバーでした。
お一方を除き、城跡巡りというよりは恐らくは低山ハイクという出で立ちでありました。

 
  東麓の屋敷群のひとつ

久しぶりの山城であることから膝はガクガク、呼吸はハアハアでしたが、それでも徐々に体の方は慣れてきたようにも感じていました ^^

 
主水屋敷(湯沢町) 14時30分から14時40分

直江兼続の実家である樋口氏に樋口主水助(「御館の乱」の際に荒戸城の攻防で討死したとも伝わる)という人物がおり、この湯沢の地に所領を有していたとされているようです。
また当地には「主水屋敷」という地名が伝わっているとのことで、現在は「主水公園」と命名されたこの辺りが、その関係する屋敷跡など何らかの関わりのあったことが推測されるのかも知れません。
なお、この公園内には下記画像のように川端康成の小説である「雪国」の記念碑が設置されています。


 主水公園内の「雪国」の石碑

 
荒戸城(湯沢町) 15時から15時40分
 
 前項の主水屋敷から湯沢の中心街を抜けて国道17号線のヘアピンカーブをぐんぐんと登った芝原峠の南側に位置しています。
標高は790mで芝原峠付近に設置されている駐車場からの比高差は約80mほどになります。
近世の三国街道に面した城跡で、「御館の乱」の際に上杉景勝方により築城された防御拠点ですが、後北条方の攻勢に伴い二度落城したようですので合計4回の落城を記録しているということになります。
景勝与党の中核で上田長尾氏の本拠でもある坂戸城にも近く軍事的な要衝のひとつですが、やはり兵站、後方支援という点で景勝方に有利であったものと考えられます。
新潟県の史跡にも指定されており、落葉の季節前ではありましたが下草の具合などから見て程よく整備されているようで、この時期でも見学には支障はありませんでした。
とはいえ雪深いお国柄であることから、12月から4月頃までの探訪には向かないように思われました。
 

  荒戸城の登り口と駐車場

芝原峠付近には上記のように専用の駐車場(数台駐車可能)と案内板に加えてパンフレットも常備されており有難い限りでありました。


  二の丸と本丸の切岸ほか

芝原峠付近の駐車場から道なりに登ってゆくと、やがて2の丸と本丸の切岸が目前に現れてきます。画像手前の壁面は馬出部分で城跡の北東部になります。
この途中で山歩きの女性1名にあっさりと追い抜かれました。
曇天でもあり時刻は既に夕刻ではありましたが、装備から見る限りはかなり山慣れをしているという印象でした。


 三の丸から見た本丸と竪堀

本丸の南西虎口から三の丸へと下った辺りで本丸側の防御の堅固さが窺われますが、城としての規模はけっして大きくは無く、防御側として収容できそうな人員は最大でも200人ほどでしょうか。
このため、芝原峠という軍事的な要衝であるにもかかわらず兵力などの格差により短期間に落城を繰り返すこととなったとも考えられます。


    本丸北東側虎口

 比較的コンパクトなのですが、築城主体や攻防の経緯も明確であり、遺構としての残存状況も良好な城跡でありました。
こういう感じの山城ばかりでしたら、古稀が近い爺でもまだまだ頑張れそうに思われました ^^


浅貝寄居(湯沢町) 16時25分から16時35分

 湯沢町の中心部で国道17号線の北側沿いに所在しており、かつての大規模開発の進捗により旧来の景観は一変していました。
「湯沢町誌」掲載の縄張図はネットなどにも引用されていますが、あくまでも大規模開発が開始される以前の1962年頃に作成されたものとされており、現在はそのうちの北側(居館跡と記されている個所)部分のみが辛うじて建築物の陰に隠れてるようにして残存しています。

城跡遺構としては削平地である郭およびこれを取り巻く北側と西側の土塁が現存し、郭内の中心部には「文化財標柱」も設置されてはいるのですが、宿泊施設の裏手(現在では北側の無道路地)に所在しているために所在地自体が大変分かりにくくなっていました。
「むさし」という宿泊施設の北側でダイヤパレス苗場へと向かう路地のやや緩い坂道を登った左手(西側)の「むさし」の建物に隠れた山林部分(北側緩斜面)が該当地となっておりました。

長尾景虎(後の上杉謙信)による関東侵攻である三国海道経由の越山ルートのベースキャンプのような役割を果たし、家臣である栗林次郎左衛門(政頼)と大石惣助(芳綱)に命じて築城されたとされています。
 

 土塁の残存している主郭部

この地域は半世紀前からの、素朴な温泉とスキー場であった頃の街並みの様子が今でも記憶に残っています。
その後の80年代頃からの急速な観光開発、リゾート開発が進んでいく様子も記憶しております。
こうして現在の国道沿いの街並みを含めて、20年前と比較してもかつての繁栄ぶりとは真逆の景観を目にして大変感慨深いものがありました。


曇天で然もすでに日没前の時刻に訪れたことから、辺りは薄暗くなってはおりましたが未だ雨の降りだすようなことも無くこの日の最終目標の探訪を無事に終了することができました。

帰路は国道17号線で三国トンネルを抜けて沼田方面へと向かい、途中道の「駅みつまた」で小休止、そのあとは沼田市内にて夕食を摂り、関越道の渋滞予測を考慮した上で「上武道路」経由で自宅へと帰着しました。
休息等の時間を除けば約4時間ほどでしたので、高速渋滞のストレスに比べれば高速料金の不要な分安上がりとなりました ^^
今回は今年の4月以来約5か月ぶりとなる城館探訪でしたが、史進さんのお誘いで再び復帰することができました。
やや遅まきながら今シーズンのスタートラインへの足場固めとなり、誠に感謝の限りであります。


注記 
このブログは10月9日に発生したブログサーバーのトラブル等の事情により、2日後の10月10日に更新しています。

拍手[4回]

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お疲れ様でした
お世話になりました
お陰様でいい気分展開ができました

北関東と東北の城館に行き詰まりを感じていたのでwwww

和平さんの家からは関越方面は便利ですね
継続して行かれてみてはいかがでしょう

休日を調整して行かれるようでしたらご一緒願いますmm
ししんみちのく 2018/10/10(Wed)21:28:18 編集
Re:お疲れ様でした
こちらこそ、企画、ナビ、資料収集等々いろいろとお世話になりました。
お蔭さまで旧六日町分は基礎資料が揃いましたので、益々興味が沸いて参りました。

ボチボチ古稀が近づいて参りました故か、体幹の劣化が顕著となってきたようですが、これに懲りずお付き合い願えれば有難いです (^^ゞ
また「休日」の方は如何様にもなりますので、お声掛け頂けれは幸いです <(_ _)>
【2018/10/10 22:04】