本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコなどの話題に終始しておりまする。なお2007年末から漸く群馬方面へと進出し、2008年6月には福島中通り方面、11月には栃木県南、12月には茨城県南、2009年2月には千葉県北部、5月には山形県村山地方と少しだけ領域を広げ始めております。              (2009/05/21 説明文更新)
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岩手県滞在5日目にして、漸く一関市から国道4号線沿いに北へと向かうことが叶いました。
といいますのも、岩手県内陸部の天候は南部と北部で大きく異なるらしく、仮に北部二戸地方で強風と降雪があっても、南部の一関ではおだやかに晴れ渡っているという日もあります。
藪にも悩まされる今回の城館探訪は、まさしくその日の風まかせのような按配となっておりました。

しかしこの日の一関市内は昨夜来の小雨が残り、またNHK岩手放送の天気予報も降水確率60パーセントを伝えておりました。
その反面で県中央部、花巻、盛岡方面の予報では曇りで降水確率は20パーセントとのこと。
元々雨の長期予報を聞いていたことから、雨天の時には一日図書館三昧という選択肢も想定しておりました。
けれども平泉以北の方が天候が良さそうということになれば、天候を見据えながらそのまま国道4号線を北上していく格好の機会ではなかろうかとの結論に達したのでした。



臥牛城(一関市山目) 午前8時20分から8時30分

城跡の標柱を撮影し忘れていたための再訪です。
麓のから車でも行けるのですが、通学時間帯と重なる可能性がありましたので麓の方に駐車して、校庭西側に設置されている標柱を撮影いたしました。
この時点で一関市内は分厚い雲が重く垂れこめてはいましたが、今すくには雨の降りだすような気配はありませんでしたが、週末のため観光客関係で混み合う恐れのありそうな平泉町は通過して奥州市南部の旧前沢町へと向かいました。
画像に写りこんで入る説明版のようなものは学校関係者の方の顕彰碑に関するもので、城跡についてはあくまでも標柱のみとなっておりました。


  山ノ目中学校校庭の標柱

白鳥舘(奥州市白鳥字白鳥館) 午前9時05分から10時50分

かなり著名で良好な城館遺構が遺されている城跡です。
別名を白鳥古舘とも。
前九年の役の安倍氏の時代から戦国時代前期頃まで使用されていたと考えられる城跡です。


   堀底道と主郭切岸       北上川に面した郭



      二の郭          主郭と二の郭



 主郭と2の郭を隔する空堀        主郭



      北上川            物見台


   ひな壇状の郭群



◎三沢氏居館跡(奥州市前沢区下小路) 午前11時20分頃

東側麓から前沢城へと登る途中で見かけましたので立ち寄って記念撮影。
同所の解説版によりますと、明治維新後に民間に払下げられていたものを移築・修復した屋敷の表門で、屋敷地は現在小学校校庭となっている場所から山腹にかけて存在していたということです。
伊達氏重臣である大内、成田、飯坂の各氏が入ったのち、三沢氏が3000石を領し約190年後の幕末までその支配が継続しました。
 

   復元された屋敷門



前沢城(奥州市前沢区陣場) 11時25分から11時55分

中世のはじめは三田氏の城とされましたが、天正年間に樫山氏、戦国時代末期に大内氏がそれぞれ入り江戸時代の初期に廃城となったとされております。
城跡としての名残は城跡北端部の土塁状地形と南部の先端部分の地形が目立ちますが、公園化により大きく景観が変わっていることが窺えます。



   城址の石碑と解説       城跡南部の先端部分


  城跡北端部の土塁状地形



◎字陣場(奥州市前沢区陣場) 11時55分から12時00分

前沢城北西部の字陣場地域の平坦地ですが、考古学的に発掘確認されたものは縄文期遺跡だけです。
関連しそうな人物や合戦などの伝承につきましてはそのうちに調べたいと考えております(^_^;)


 

 
上麻生城(奥州市前沢区白山字内館) 12時35分から12時45分

画像の水堀は推定されている城館跡の東側に所在していたものと考えられているようですので、樹木などが見える方の宅地側ではなく、画像左側の広々とした耕作地であるということになります。
城跡の標柱とともに丁寧な解説版も設置されておりました。
「仙台藩古城書上」によりますと、安倍頼時の家臣である麻生玄長(あそうはるなが)の居城と伝わっているとのことで、「陸奥話記」の「大麻生野柵」に擬せられてもいますが、戦国時代には葛西氏家臣の居城として利用された可能性も示唆していました。


  城館遺構の東側水堀跡      丁寧な現地解説版



◎青麻神社西側の土塁跡(奥州市前沢区古城字) 13時05分から13時10分

河ノ柵交差点から県道106号線に入り最初の交差点を左折。
そこから約1キロメートルばかり道なりに北進した市道の右端に所在しているもので、東側約50メートルには小高い塚の上に鎮座する青麻神社の社殿が目印となっています。
高さは空堀側で1メートル弱ほどですがL字型を形成し長辺部分は10メートル以上の長さを確認でき、北西方向であることから近年まで屋敷の風除けとして利用され遺されていたというような経緯があるようにも思われました。
なお長辺の東西方向の土塁に平行してもう一本の地面の高まりも見ることができることから元来は二重構造の土塁であった可能性も考えられそうにも見えます。
なお、同市の遺跡データベースなどにも掲載は無く、当然ながらその築造の歴史的経緯については今のところ全く不明です。


   二重土塁の様にも       土塁の主要部分

◎大儀寺跡(奥州市前沢区古城字前沖か?) 13時15分から13時20分

中畑城の所在地を少しばかり勘違いしていたことから偶々見つけた廃寺院の土塁です。
現在の曹洞宗大儀寺はここから約3キロメートルほど南の九郎館近くの台地東麓に移転しておりました。
太陽光の反射などで見づらいのですが、碑文には、概ね「大永3年(1523)より宝永5年(1708)まで186年間こ寺場の地にあった」というような住職と思われる方による文言が旨が刻まれておりました。
この碑文が、光線の具合と石材の色合いなどとの関係で読みづらく、このブログの部分を記すに当たり約1時間ほどを費やしております(笑)


 立派な土塁ではありますが  光線の加減で読みづらい石碑



中畑城(奥州市前沢区古城字水上西) 13時25分から13時55分

どうやら予め事前に下調べをしていた地点を間違えていたようです。
探訪に当たってはかなり大雑把な位置しか示していない中世城館報告書を基にしているのですが、後世の耕作などの影響を考慮したとしても、何処か城館跡の地形には相応しくないような印象がありました。
周囲は頗る見通しのよい広々とした平地が続いていることから、こうなれば周囲の地形をじっくりと観察してみることにいたしました。
そうすると運が良いことに約200メートルほど南東にある耕作地の方向に明らかに人工的な地面の盛り上がりらしい光景を見つかりました。
ことによると一瞬産廃関連かもしれないとの疑念を抱きましたが、関東方面とは異なりこの地域では余りそうした光景を目にしたことがありません。
近づいて観察すべく300ミリ望遠を双眼鏡代わりに操作したところ、紛れもなく土塁の姿をファインダー越しに捉えることができました。
水田面との比高差は余りありませんが、城の形状もよく把握でき標柱に加えて石碑までも建立されておりました。
たまたま耕作地の枯草などを手入れをなさるご年配のご城主さんとお会いできました。
土塁の麓には古い墓石が所在していますが、そう古い墓石ではなく年代の読めるもので近世中期頃までしか遡れませんでした。


1 なんかオカシイぞ 右端に  2 ん、たぶんあれかな


  3 やっぱりこれだ!     4 おおっ、標柱も!


   5 何と石碑まで       6 逆光で質感を


丑ノ子の土塁状地形(奥州市前沢区古城字丑ノ子) 14時05分から14時10分

断続的に遺されていますが、明らかに宅地内の地表よりも高く築造されたものです。
無論後世における北上川の水害対策の意味合いもあるのかも知れませんが、宅地全体が造成されてはいませんので構造的には土塁ということになろうかと思います。
このようなことからどう見ても確かに土塁なのでけれども、肝心なその築造等に関する来歴については全く不詳です。
小規模な環濠屋敷の事例も少なくない地域ですので、そうした可能性も考えられます。





◎字要害(奥州市前沢区古城字要害) 14時15分頃

この後は昼過ぎ頃からは初夏のような日差しが照りつけていたので、古城の公民館前の自販機によりトマトジュースを水分補給。
近年に廃校となってしまった古城小学校の一角に建てられた公民館のとても広い駐車場で小休止をさせていただきました。
一関市内を含めて、字名で「要害」の地名が伝わっている事例が数多く見受けられます。
後日調べてみたところでは、奥州市市内だけでも少なくとも6か所以上を確認できました。
この集落もいちおう文化財発掘調査報告書などでも中世城館跡として把握されているようです。
こちらも同様に小規模な環濠屋敷の事例も少なくない地域ですので、そうした可能性が考えられます。


    要害集落の遠景




九郎館(奥州市前沢区古城字南上野) 14時40分から15時10分

城跡は段丘東端部に所在しており、現在では郭の大部分が耕作地となっていますが、より確実な残存遺構として東側崖線沿いに遺されている腰郭が確認できます。


    城跡の標柱         主郭東側の腰郭


   東側麓からの遠望       念のための画像




宗角館(奥州市前沢区古城字南上野) 15時15分頃

今回は関係資料がなかったことから公民館駐車場より遠景のみを撮影して終了しましたが、掲載するような適当な画像が見つかりませんでした(^_^;)


八郎館(奥州市前沢区古城字南上野) 15時20分頃

今回は所在地が分らず関係資料も全くなかったことから、大雑把な見当をつけて国道4号線の歩道橋上から遠景のみを撮影して終了しました。


 画像右端の丘陵地帯の方角


◎真城字土手付近の民家宅地の盛り土(奥州市水沢区真城字土手付近か) 15時55分頃

ついものの弾みで目にした地表の凸凹を何でも観察記録していますが、これは明らかに後世の宅地造成によるもののような気がします。
北側を流れる用水路の流路が大きく変えられていることなどが窺え、恐らくはこれらと合わせて水害対策の一環として近代以降に造成されたもののような気がいたします。
この近くでの北上川の中州の標高が約25メートルに対して、この辺りの標高は30メートル前後となっておりました。

 
 水除けの嵩上げのようです
 
 
 
中野館(奥州市水沢区真城字舘) 16時00分から16時15分

以前は一部が複郭のように遺されていた遺構のうち、宅地整備などにより北側の空堀がほぼ消滅している様子が窺えます。
これに伴い土塁の一部は民家宅地の嵩上げのような構造で遺されているようにも見受けられました。

またその南にある単郭となる郭と土塁はどうにか往時を偲ぶことができるぎりぎりの原型を留めてはいますが、郭内は耕作地化され北辺部の土塁は事実上なくなりつつあるという印象でした。


    東側の土塁          北側の土塁跡


それでも西辺の方は幅も高さもあることから、外部からでも実になかなか見ごたえのある土塁遺構を拝むことができます。


   主郭西側の土塁       宅地嵩上げとの区別が



六日城(奥州市水沢区真城字古舘) 16時20分から17時00分

現地解説版の説明によりますと、ここも上麻生城どほぼ同じように、「仙台藩古城書上」では安倍頼時家臣の麻生玄長(あそうはるなが)の居城と伝わっています。その後の
戦国時代には葛西氏家臣の居城として利用された可能性を示唆していました。
城郭遺構は疎その後の宅地化や耕作などにも拘らず、本当によく遺されているものと感心をいたします。

ただし西側の平行する土塁の形状等から考えますと、本来の城郭遺構として捉えるには土塁の直線的なことや間の堀が土塁の規模に比して小さいなど些か違和感を感じます。


      土塁          標柱と解説版


     主郭と土塁          西側の土塁


    堀跡と土塁           堀跡と土塁


◎古城八丁遺跡(奥州市水沢区真城字舘八反町ほか) 17時10分頃

一関市内に帰る途中の車窓から、お馴染みとなった感のある文化財標柱と解説版がふと目に留まりました。

標柱などが設置されているのは字中島辺りなのかと思いますが、当該解説版などによりますと、この市道西側には北八反町、舘八反町(たてはったんちょう)、南八反町、四反田(したんだ)、丑の子、宿の前、水尻(みずしり)、高殿(こうでん)などの字名が遺されて凡そ方八丁(約800メートル四方)の区画を形成しているとのことでした。
9世紀初頭の坂上田村麻呂により胆沢城に移された4000人ほどの柵戸がその築城後幾つかに分けられて古代律令国家の郷村として編成されなおしたとされ、この古城八丁もそのひとつであろうと推定されているとのことです。

当時における郷村は農耕開拓を任務とする一方で、軍事(現地兵力の動員)、交通運輸(中世における伝馬制につながるものか)の機能も併置されていた防衛的集落とされています。
以上については概ね「現地解説版」および同地の「古城方八丁遺跡発掘調査報告書」(2011年/財團法人 岩手県文化振興事業団ほか)を引用させていただいております。






このまま国道4号線沿の平地に所在する城館跡を辿りつつ、いったい果たして何処まで行けるのかという相当な不透明さを伴った探訪ではありましたが、やはり平地に所在している城館跡はほぼ確実にアプローチできるというメリットがあったようです。
とはいうものの些か無名に近いような個所を欲張ってしまったことから、結局は花巻市どころか隣接した奥州市止まりとなってしまいました。
それでも岩手県5日目にして、漸く再訪を含めて中身の濃い中世城館跡の探訪が叶い他に数か所ほどの関係個所をめぐり、盛りに盛って17カ所という昨日までにはなかった充実した一日となりました。
このような次第で、この日の夕食は何と贅沢にも4320円の前沢牛フィレステーキセットをいただくこととなりました。
食事には殆ど無頓着なこともあり、自分ひとりでは1食4000円以上の食事をしたことが未だかつて無いようにも記憶しております。
100グラムと小さめの肉でしたが、口の中でとろけるように柔らかな食感を忘れることができません。
しかし、この14日の夜に熊本地方が大地震に見舞われるとは想像だにできませんでした。


  前沢牛フィレステーキ


このようにして歩行距離はこの日も軽く20キロメートルを超えましたが、5日間で歩行距離の累計は100キロメールを突破しており、はさすがに少しは体を休ませねば帰路の運転が辛いことになると思われました。
土曜日までは何とか天気が持ちそうなので、明日金曜日は休養日もかねて予定通りに一日中一関市の新しい図書館で調べものを行うこととしました。
  

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